こんにちは!岸 洋子です ^ ^

自分のたどってきた道を振り返りがすでに9回にも及んでしまって、
未だ20代💦
スミマセン・・・30代はまた間を空けて書きます。

Storyを見逃した方はぜひこちらも♡
↓ ↓ ↓

MyStory①粘り強さとチャレンジ精神を生んだ幼少期「噛みつかれないか否か」基準が形成された時
MyStory②「楽しみは自分で作る」が親のポリシーだと知った中学時代。受け継がれた自由軸の精神
MyStory③「魅力」と「美的」という言葉への恐怖からの闇。低迷高校時代からくすぶっていた憧れ
MyStory④マイケル・ジャクソンの優しさは本物だと知った夏。一期一会だからこそ一期永遠
MyStory⑤凄腕起業家ビジネスマンが運営するハイブリッドNGOで学んだ多角的視点と価値の創造
MyStory⑥政治と経済とコミュニティの駆け引きで世界が動く:国際エイズ会議で見た世界の縮図
MyStory⑦新規顧客開拓の営業愛。自作アタックリストで湾岸4か国での開拓劇。準備9割本番1割

MyStory⑧星に手が届く世界の天井で生きることは祈ること。物のない街で煩悩を解こうとする人々

MyStory⑨(余談)戒厳令の中のネパールでコメディアンになった日。進んでりゃ何かにぶつかる

 

日本を出て手探りだったけど
本当に濃厚な20代を過ごしたのだなぁと思った。


語りきれないこともたくさんあるけれど、
今思い返すとあの時の恩人たちが伝えようとしていたのは
こういう事だったのかなと10年以上経ってやっとわかってきた。



当時はありがたいことだということに
気づいていないことが多い。



ただ、振り返ると本当にたくさんの人に
助けられて生かされているということがわかる。



もし、最近何もうまくいかないな、とか
これからどうしよう、とか
何したいか分からない、という
去年の私のような状態の方がいたら、
ぜひこの人生振り返りをオススメしたいラブラブ

人生の中で自分がどんな経験に対して
どんな風に感情が動いたのか。


それは全然「すごい」経験である必要はない。
ただ、「すごい」経験の方が記憶に深く刻まれていて
感情が大きく動いている可能性は高い。

そう、

「すごい」って人と比べて優れているっていう意味ではなくて、
自分の感情が大きく動いて
「私こんな経験に出会って乗り越えて、自分けっこうすげー」
っていう程度の「すごい」で充分。



それより、そこに至るまでに関わった人たちがどんな想いだったか、
そこで自分が何を学んで何に違和感を感じたのか、
そういうことが大切なんだと気が付いた。


残りの人生でやりたい事のヒントや
得たい感情のヒントが隠れている気がする。



もっともっとつぶさに見ていきたいとさえ思う。


というのは、もう他の人生は歩めないのよね。
親や自分が選んだ道で見たこと、聞いたこと、やったことが積みあがって今がある。
たとえ辛い道だったかもしれないけど、
当時は辛すぎたかもしれないけど、
今そこから何を得るかはあなたの自由。

ありがたいな~と思いながら見てみると、不思議なほど納得がいくようになる。

あとは、これ最近使えてないな~っていうもったいない能力の使い方にも気が付くことがある。




前田裕二さんの『メモの魔力』では、事実→抽象→転用というのを
これまでの過去を振り返ってやってみましょうっていう1000問のエクササイズがあるけれど、
まさにそれだなと思う。

事実というのは変わらない。
だけど、そこから得られることは無限大でそれを抽象化して他にでも当てはまるような言葉にしていく。

 




全然簡単ではない作業だけれど、
私たちも究極的に抽象化すると「人間」だったり「生き物」だったりするわけで、
その自分で経験したことを活かして人の役に立つためには、
ビジネスを興したりどこかで働いたり地域で活動していくためには、
何かしら「転用」しているんだなぁと

それが得意になればなるほど

たくさんの人に幸せを届けられるんじゃないかなぁ

と、最近気が付きました。



ぜひみんなも振り返って見てねドキドキ
恐る恐るかもしれない。
何もないって思ってるその道のりをわざわざ振り返る。
見てみると案外そんなに何もなくもないし恐ろしくもないから。

 

 

 

 

 

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MyStoryを書き綴っています。

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MyStory⑧星に手が届く世界の天井で生きることは祈ること。物のない街で煩悩を解こうとする人々

鉄鋼の営業で燃え、そして役割を終えたと思って辞めることを決めた、
という真面目な話をしましたので、
今回はちょっと余談音譜

鉄鋼会社に勤める前のNGOで働いていた頃、
一度ネパールに行ってみた。

実は青年海外協力隊でネパールでの隊員として合格していた。
そちらに行くべきかを考えていた。
そしてNGOの創設者で代表のミーチャイさんに相談したら
「行ってみなさい。今行って自分が何かできるか見てきなさい」
と言われ、なるほど、と行ってみた。

当時、ネパールでは反政府勢力のマオイストが活発になっていて、
なんと私が飛行機から空港に降り立った日、
マオイストが反乱を起こして道路が燃え、
空港で足止めとなった。
それから戒厳令が発出され、
数時間後、飛行機に乗っていたみんなが、
小さいバンに乗せられて市内のホテルに連れていかれた。

戒厳令の間は、道路の5メートルごとに軍隊が立っていて
外に出られるのは朝夕の1時間ずつ。

夕方外に出られる時間までホテルで待つ。

その時、私は知り合いのご縁で知り合った
ネパール人の女性ニルマラ先生の家にホームステイする予定だったので、
ホテルでひたすら時が経つのを待ち、
時間が来てやっと外に出た時の安心感と赤い夕焼けが美しかったことを覚えている。

 

人間には自由が大切である。

ほんの一瞬だけどすごく実感した。

そこからどうにかニルマラ先生の家に行った。
2週間の滞在期間、ほとんど戒厳令。
マオイストたちは山間部を占領していたので、
旅行には行けない。


ニルマラ先生の家には3家族が住んでいて(シェアハウス?!)、
ネパールに留学に来ている日本人も出入りしていたので
戒厳令の中でもネパール語が全くわからなくても

とても安心な環境だった。


ただ、できることがないあせる
仕方がないので、カトマンズ市内の日本語学校で

日本語を教えるボランティアをすることにした!!

朝動ける時間に動き、時間まで日本語学校にいれば夕方帰れる。
山間部で家を追われたネパール人たちが
次の職を得るために、また何もできない時間を活かすために
たくさん学校に来ていた。
そこで教えていた生徒の中には、

今難民認定を受け、英国に渡って自分の事業を大成功させている人もいる。

(本当に勤勉で優秀)


人生はいつ何が起こるかわからないが、
その時できることで最善を尽くす。
これしかない。


そして、学校のない日は朝どこに行くかを決め、
たとえばじゅうたん屋さんに行けば一日そこでチャイを飲んで
片足で何秒立っていられるかの競争をしたり、ニヤニヤ
腕立て伏せを何回できるかをしてみたり笑い泣き
家で料理を作る女性のスパイスボックスを見せてもらってワクワクしたり目
それはそれは今思うと贅沢ではあるが

いわゆる何もない時間が過ぎる日もあった。
ニルマラ先生が営んでいるニルマラ・バティカ小学校にはなかなか訪問できずだったが、
その後訪問した時に、バンコクの日本人の皆様から寄付を預かり絵本をみんなにプレゼントした。

ニルマラ先生の家に住んでいた別の家族のパパが

日本料理屋さん『ももたろう』を営んでいたのでそこにもよく通っていた。
(正式には、日本語学校から『ももたろう』に行って、連れて帰ってもらっていた)
記憶が薄れているが、時が経つにつれて戒厳令も緩やかになっていった気がする。

ただ、一つ明確だったのは、
今の私がたとえ青年海外協力隊の訓練を受けて

語学ができるようになって戻ってきても、
ネパールで役に立つことはできない、
ということだった。

とても乱暴なマオイストが田舎の学校などを占拠して、

家々に住む人を追いやっていて、

とうとう都会でも暴れているのだから。

私は青年海外協力隊を辞退することにした。

ネパールを離れる直前のある日、『ももたろう』に明るいおじさんがやってきた。
「I am Nepali Comedian」と顔を横に振りながら楽しそうに手を差し出してきたので、
もちろん私も
「I am Japani Comedian」と言いながら手を出し握手をした。

そしたら「そりゃあいい」ということになり、
コメディドラマの撮影があるからおいで、ということになったチュー

『ロックラハリ』という当時のネパールチャンネル1で

放送されていたコメディドラマのハリさんだったようで、

撮影に参加することになった(笑)



堂々の2話連続登場キラキラ笑い泣き

ネパール語のわからない旅人役
と、
えらそうに政治について語る外国人役


実は放送はネパールを離れた後だったので自分で放映を確認せずに終わってしまったが、
緊張下にあるネパールの人たちに少しでも笑いを届けるお手伝いができていれば、
それは私がネパールでできる精一杯を果たせた気がする。
大変な状況なのに、だからこそ政治を扱う高度なコメディアンのハリさん。
笑いの力と尊さを思い知った。



人生は本当に何が起こるかわからない。
みんなに助けられて生きている。


家が占領されても外国語を学びに来る人たち。

戒厳令が明けたらすぐさま笑いに変えてみんなを元気づけるコメディアン。
起こった状況に悲観せず
やれることをやって笑っているネパールの人たちの強さに
たくさんたくさん学んだ。

 

 

 

笑って進もうねラブラブ

家はまだある音譜

道路は燃えてないアップ

「アイ アム ジャパニ コメディアン」なんて言ってみたっていいのよ。

まだ履歴書に書いたことはないけどねw

 

 

 

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MyStory⑦新規顧客開拓の営業愛。自作アタックリストで湾岸4か国での開拓劇。準備9割本番1割



鉄鋼メーカーで石油用鉄パイプの継ぎ手(曲目)という
1か国1~2社ぐらいしか適したお客様がいない
とてもニッチで地味な
まだ当時は男性がほとんどだった業界と地域で、
生まれたての営業部で新規開拓営業を経験したのは
本当に貴重な経験だった。


鉄鋼でも偽物が出始め
同じロゴのものが建設など絶対に売らない場所に売られていると噂を聞いた。
もし石油用のプロジェクトに偽物が入ってきて割れたりしたら大変だ。
偽物の調査をしに工業地帯に行っては、

写真を撮り、ドバイの弁護士に相談に行った。
「顔のわかる格好でそんなことを見て回ったら、すぐに殺されるよ」
と怒られたりしたゲッソリ


そんな経験も、すごく貴重だ。



ただ、工場のキャパに達したら、
もちろんだが新規開拓は終わる。
誰でもかれでも買える商品でも金額でもない。


そして、いわゆるルート営業という
自分の獲得したお客様に何度も会って
こちらが欲しい量の注文を出してもらえるように
お願いして回ることと
部の売上が会社が欲しい額を上回ることを
維持する事が仕事となった。


自分の開拓したお客様たちだから
それなりに楽しかった。
が、心のどこかで


「私じゃなくてもできる」


と、ふと思ってしまった。

そう、ふと。


そうなると、以前の心の炎がとても小さくなった。
たぶん、私の資質と適正から

工場に最大の貢献ができる役割が終わった、

と自分で悟った。

そして、正しいキャリアモデルがいなかった
というのもとても大きかった。


当時、「営業部長」という役割をもらっていた。
そして入力作業をしてくれるスタッフが営業部に増えた。
新しい営業プレイヤーの採用面接をしたりもしていた。



でも、私は「部長」というのは何をする役割の人なのか、

というのがわからないまま、
自分の大切なお客さんに注文をお願いして
ジムにもお願いして
売上をそろえて報告していた。

電話ひとつで注文がとれるジムは
別に私の憧れの仕事人ではなく
営業プレイヤーの時と実質何も変わらなかった。
ただ少し余分な仕事が増えただけに感じた。

 


今思えば、

いつも提案をしに行ったり給料を上げてほしいとお願いしたり
ギャバクラに一緒に連れて行ってもらったりする会長に
「部長に求めている役割は何ですか?」
と単純に聞けば違ったかもしれない。



さらにトドメとなったのが、
中東でお世話になっていた専門商社の社長から
iPodを「プレゼント」ともらったことだった。


しょうもないかもしれないが、
この時に私のココロがなぜかポキッと折れた

以前冗談で
「iPodくださいよ~」と言ったことがあった。
それをお覚えていてくれて
プレゼントしてくれた。



だけど、私の心は喜びでない感じを感じた。
自分の力を正しくない方向に使った

と思ってしまった。


「欲しい」と言ったら
人が動いて用意してくれた。


もし私が「金塊がほしい」と言ったら
金塊を準備されたのだろうか。



今考えるとただのプレゼントだったと思う。
それまでに接待もされている。



しかし、
支配されたと感じたのか
支配したと感じたのかわからないが、
これを続けたくないと思ってしまった。



その頃、会長から慰労のために
「どこか好きなところに行ってこい、旅費を出してやる」
と言ってもらい、


ではチベットに行きます!!!
と言って、


本当に行くことにしたキラキラ



砂漠は見た。
海は見た。

世界の天井を見てみたい!


私の脳みそはいつでも単純。

一番高い街って、どんなの?



「え?チベット?!ほんとに?!」

会長は大笑いしていたが、
真面目にお休みをもらった。



確か年末だった。



成都に飛び、普通のパン屋さんにも普通の道にも人だかり。
中国の人の多さに圧倒されながら


(成都のパン屋さん。人多くない?!これが普通・・・

 


(成都のお寺の庭。お茶飲んでる人多くない?!!

耳かきおじさんが回ってくる面白い商売の町


経済とは人口だと理解しながら数日歩き、
ゲストハウスでチベットへの行き方を調べ、
チベットに行った。

 


うろ覚えだが、
冬だったので特別な許可を取らなくても行くことができた。



チベットの首都ラサは標高4000メートルに近く、
南国のタイで想像するよりはるかに寒くて
最初の日の日没後に道ですれ違った日本人のご夫婦に、
服装を心配されてマフラーをいただいたのを覚えている。



成都で聞いたチベットでの公安(警察)の外国人への取り締まりは
大変厳しいと聞いていたが、
これも冬だったからか
公安(警察)の人自体あまり見ることはなかった。


目に入るみんながとても素朴な暮らしぶりで、
時々ヤク(大きな牛?!)がいたり、
民族衣装を着た子どもたちが遊んでいたり、
昼間からお寺でお酒を飲んで
陽気に楽しんでるおじさんたちがたくさんいた。


マニと呼ばれる道具を手に持って回すと
お経を1回読んだことになるらしく、
みんな手にマニを持ちグルグルと回していた。
そして、五体投地で這うように
寺の周りをまわっている人たちがいた。



あまりにも素朴なその場所では
「生きる」ということに飾りがなく
人はなんで生まれて死ぬのかということを
悩まないのかなと思ってしまうほどだった。




お経をたくさん唱えることが
本当にこの人たちの幸せなんだな、と
少し驚きながら
では、私の幸せはなんだろう、と考えを巡らせた。



調子に乗ってお寺のおじさんたちにお酒をもらってワイワイしていたら、
翌日は高山病に。
脳みそが膨らんだような気持になり
熊にでもなったように部屋の中を行ったり来たりしたが、
現地の旅行業をしている四駆の運転手さんに
「頭痛止めを飲めば治るよ」
と言われて飲んだら、あっという間に良くなった。


高山病ではなかったのかもなチュー



観光ローシーズンだったので、
ツアーはあまり盛んでなく
四駆の運転手さんにいろんな場所に連れて行ってもらった。



チベットで自然の中に行くと
とにかく静か。
山には草も木も生えていない。
鳥もほとんど飛んでいない。
湖も水面が動かない。
初めて体験する静けさだった。



そして大晦日だったかお正月だったかの夜。
ラサのお寺に行ってみた。
夜も人がいっぱいいて
たくさんのお香が焚かれ
祈るように五体投地をしていた。


上を見ると
手の届きそうなところで
満点の星が輝いていた。




みんなは何を祈っているのだろう。
世界のどんなことを知っていて
どんなことを知らないのだろう。


そして、なぜ地面に身を這わせてまで
お経を読み続けるのだろう。



私は、このまま鉄を売り続けるのはやめよう、と思った。



その決意をするだけで精一杯なぐらい
酸素は薄くて
星が近くて
人が何かにすがるように
次の人生はもっと良くなるように
と願っているような
何とも言えないエネルギーと

人々の現世への「諦め」という心を感じていた。

 

 

 



(私個人が抱いた感想です。みんなすごく幸せだったのかもしれない.

いや、幸せそうだった。)

 

 

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MyStoryはちょっとブレイク音譜

2021年1月16日は一粒万倍日天赦日甲子の日と聞きまして。


なんかどうやら良い日。
ということで、3歳次男と
神田明神に行ってみました!



一粒万倍日と天赦日は、
なんとなく宝くじを買ったらいい日とかなんとか
聞いたことがあったのですが、




「甲子の日」って初めて聞いた!!!


調べてみました。


・長く続けたい物事はこの日にはじめるとよい

・この日から始めたことはよい流れを持ち長く続く

・この日に行動を起こすと運が良い流れになる




あせる気づいたらもう一日が終わってる。
(もっと早く疑問に思って調べよう!)


 

さて、私は何をやったかな。



(縁起の良い日は神田明神もたくさんの参拝客が!すごくステキな神社でした)


ものすごく大きなスタートはしなかったけど、

新しい服を着て
初めて神田明神に行って
いつもより奮発してお賽銭を出し
いろんなことに感謝をして決意をした
メラメラ


他には

・ワーママワーパパコミュニティで初めてイベントを企画申請した

・その企画は、自分の構想中のビジネスプランのプレゼン

・別のプロジェクトでチームになってる仲間のデザイナーさんに、

もっと営業にまわろうかと思ってると勝手にプチ宣言

・1日8000歩以上と日記を習慣化にすると決めて実行2日目成功!


かな。

全部ベビーステップチュー
これ、ほんまに始めたって言えるの?って感じのものも。

だけど、すごくワクワクすることを考えてる1日だったキラキラ




特に、自分のビジネスプランをプレゼンするイベントを企画したことについては、

未完成なビジネスプランだし何か学びを与えられるような講座ではなく、

構想中のものを出すことにしたので、自分の中ではものすごい挑戦だった。

 

 


ただ、最後の最後に思ったのは、



何でも娯楽になればええか!

ってこと。
(え、、、、、そんなんでええんですか?って声、聞こえてます!でもいいの!)


もちろん何か役立つことを伝えられたら一番良い。
だけど、成功するか失敗するかわからないものにぶつかっていく姿も

見てもらって、未熟な構想で突っ込んでもらう、

大失敗したら大いに笑ってもらう、

そんな状態のものを出してもええんじゃないかって思った。




だって、MyStoryで振り返ってる私のこれまでの道のり、
だいたいすでにネタの塊ニヤニヤ

今さら全部成功なんて、あり得るわけないやん!

(なぜか力説w 力を入れる場所が若干ズレてるw)


って、そんな風に思った一粒万倍日・天赦日・甲子の日でしたドキドキ

 

 

ありのままを受け入れる

 

TY(とにかくやってみる)!

 

2021年も、ワクワクしていこう!

 

 

 

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タイに渡った1年目に、人間世界の広さと多様さとアンバランスさを体感した私は、

第15回国際エイズ会議が閉幕し、事務処理が終わったころに、

事務局の仕事もNGOのインターンも、キャベツ&コンドームレストランでの受付バイト!!幕を閉じた。
(実はバイトしてましたチュー 1日たしか150バーツ=450円ぐらいだった記憶!バイト仲間とワイワイするのが楽しくて♪)



そのままタイにいることを決め、
求人を見て、「あ!これだ!」と思ったのが鉄鋼会社。
最初は国際会議の事務局でアドミニやってたから秘書募集でピンと来て面接に行った。

運よく受かったが、
よくしゃべる、いちいち提案してくる、繊細さがない、秘書っぽくない
という理由で、当時できたての営業部に即異動となったニヤニヤ

今思うと、よくもまぁ採用されたな、という感じだけど!
いちいち会長の部屋まで行っていろいろと提案していたのがハズカシイ。



(NGOの仕事が終わり、一回帰国を考えたがやめた経緯はこちら→★)

以前の自己紹介でも書いたが、
当時営業部にはイギリス人の鉄鋼の道40年のおじいさんジムと私の2人ビックリマーク
今までは下請け工場だったその会社が親会社と分かれて独立したので新しくできた営業部は、
ジムがイギリスの鉄鋼会社にいた時の人脈で獲得したお客さんだけがお客さんだった。


つまり、私に期待された役割は



\新規顧客の獲得/



しかも、市場は(タイとアメリカを除く)世界中ロケット



もちろんジムは既存顧客といつも電話で話すのが仕事。

しかもおじいさんなので道が舗装されている国々担当。



おのずと私の担当は暑くて道があまりきれいじゃない場所に。




少しの情報と少しの既存顧客を頼りに、東南アジアと中東で営業を始めた。
扱っている鉄パイプの製品は石油かガスのプロジェクトに使われるものなので、

産油国かガスが出る国がターゲット。



とにかく湾岸諸国の石油関係の問屋インターネットで検索して

エクセルで連絡先と調べてほしいことを書いたリストを作った。



後からリクルートに入って知ったが、
まさに「アタックリスト」だった。


その「アタックリスト」をUAEにある専門商社に渡して

 


「手あたり次第アタックしてください!」

 

 

とお願いし、
タイに戻っても毎日ここがどうだった、あそこがどうだったと進捗を確認しては、
そのインド人の商社マンと一喜一憂していた。
もう新規顧客を獲得することに夢中だったメラメラ



世界最大の石油会社サウジアラムコのあるサウジアラビアの会社は
条件ピッタリですぐにでも会いに行きたかったが、


独身だという理由で私が入国ビザが取れない!
また、社名からアルカイダに関係する組織ではないかという疑いで銀行の審査が下りない!


など困難を極めたが、UAEの砂漠から国境を眺めて念力を送ったり、
何度も商社の人に会いに行ってもらい、
アルカイダの関連組織でないことも証明され、
無事注文をもらえたアップ



その後も、同じようにそれまでお客のいなかった
バーレーンカタールで新しいお客さんと取引を始めた。
カタールのお客さんの倉庫は空港のような広さで、
それはそれは驚いた。



カタールはまだアジア大会が開催される前だったので
当時全身アバヤと呼ばれる黒い服を着ている人がほとんどであったが、
何度か訪問しているうちに、
全身黒いアバヤなのに野球帽をかぶってジョギングしている人に出会ったり、
ダイソーが空港前にできたりと、
どんどん開けていく空気を感じていた。



クウェートにはすでに既存顧客がいたが、
一度ジムも一緒にご自宅の応接室にご招待してもらったら、
なんと

国連の会議ができるのではないか!
というほどに広く美しいお部屋で円形に何重にもソファーが並んでいて、
さらに地下に行くと大きな大きな食堂があり、
執事の方がたくさん!!!



外の砂漠の世界と家の中の豪華さのギャップが
今も忘れられない。


そんな豪華な家だったが、
ある部屋の壁にはイラクとの戦争当時の様子が描かれていて、
それはそれは悲しい歴史だったから語り継がなければならないと言っていた。



中東では砂漠でのキャンプが娯楽だった。
四駆2台以上で砂漠の周りに誰もいないようなところまで行って
キャンプファイヤーをしながら日が落ちるのを待ち、
180度星空の下でぼそぼそと語る。

時々らくだがそばを通る中、
火の暖かさと真っ暗な中の圧倒的な星空が贅沢だった。




タイの工場では、
毎日午後2時に出荷担当のオーさんと工場を見て回った。
営業の私には工場でほとんどやることがないが、
それでも毎日見ていたかった。
鉄のまっすぐなパイプが熱されて曲げられ
冷やされてペンキでコーティングされていく様子。
できたての規律正しく並んだ鉄パイプの継ぎ手は美しい。
そして、いつもその鉄パイプ製品を美しく作ってくれている工場の人たちはとてもやさしい。


絶対みんなを食わせてやるメラメラ


勝手に使命感に燃えて、また営業活動に戻るのだった。



ほぼメンバーのいない営業活動では、
9割が準備と調査と入力作業だった。
それでも、残り1割の交渉のために、日々燃えていた。



どんな仕事も同じ。
準備9割、本番1割。
そして当たるしかない。
数当たれば条件の合うお客さんに出会えることがある。


テクニックなどは知らなかった。
ビジネス書なども読んでいなかった。

きっと効率は悪かった。
それでも、
人間何もない中で課題が現れると、
どうにかこうにかやり方を試行錯誤してなんとか打開するものだ。


値決めや競合の情報収集も
なんだかいつもワクワクしながら
ジムとあーてもないこーでもないと大声で話し合っていた。



本当に良い学びだったのは、
取引は「お互いの」条件が合わないと
成立しないってこと。

それは、

自分の提案が悪いとか
商品が悪いとか
そういうことでない場合が多く、
本当に条件やタイミングが合わないと取引というのは成立しないんだ
と最初の仕事で学べたことはとても大きな糧となっている。



そういえば、
最近クウェートのお客さんからメールが来た。
2008年に退職した時に来たメールに気づかず、
2014年にHelloと私が返信し、
2020年にHelloと応答が来た
照れ

実に短い挨拶を、何年も何年も熟成して送り合っているw


次はいつ返事を返そうかな。