MyStoryを書き綴っています。

これまでのStoryを見逃した方はぜひこちらも♡
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MyStory①粘り強さとチャレンジ精神を生んだ幼少期「噛みつかれないか否か」基準が形成された時
MyStory②「楽しみは自分で作る」が親のポリシーだと知った中学時代。受け継がれた自由軸の精神
MyStory③「魅力」と「美的」という言葉への恐怖からの闇。低迷高校時代からくすぶっていた憧れ
MyStory④マイケル・ジャクソンの優しさは本物だと知った夏。一期一会だからこそ一期永遠
MyStory⑤凄腕起業家ビジネスマンが運営するハイブリッドNGOで学んだ多角的視点と価値の創造
MyStory⑥政治と経済とコミュニティの駆け引きで世界が動く:国際エイズ会議で見た世界の縮図
MyStory⑦新規顧客開拓の営業愛。自作アタックリストで湾岸4か国での開拓劇。準備9割本番1割

MyStory⑧星に手が届く世界の天井で生きることは祈ること。物のない街で煩悩を解こうとする人々

鉄鋼の営業で燃え、そして役割を終えたと思って辞めることを決めた、
という真面目な話をしましたので、
今回はちょっと余談音譜

鉄鋼会社に勤める前のNGOで働いていた頃、
一度ネパールに行ってみた。

実は青年海外協力隊でネパールでの隊員として合格していた。
そちらに行くべきかを考えていた。
そしてNGOの創設者で代表のミーチャイさんに相談したら
「行ってみなさい。今行って自分が何かできるか見てきなさい」
と言われ、なるほど、と行ってみた。

当時、ネパールでは反政府勢力のマオイストが活発になっていて、
なんと私が飛行機から空港に降り立った日、
マオイストが反乱を起こして道路が燃え、
空港で足止めとなった。
それから戒厳令が発出され、
数時間後、飛行機に乗っていたみんなが、
小さいバンに乗せられて市内のホテルに連れていかれた。

戒厳令の間は、道路の5メートルごとに軍隊が立っていて
外に出られるのは朝夕の1時間ずつ。

夕方外に出られる時間までホテルで待つ。

その時、私は知り合いのご縁で知り合った
ネパール人の女性ニルマラ先生の家にホームステイする予定だったので、
ホテルでひたすら時が経つのを待ち、
時間が来てやっと外に出た時の安心感と赤い夕焼けが美しかったことを覚えている。

 

人間には自由が大切である。

ほんの一瞬だけどすごく実感した。

そこからどうにかニルマラ先生の家に行った。
2週間の滞在期間、ほとんど戒厳令。
マオイストたちは山間部を占領していたので、
旅行には行けない。


ニルマラ先生の家には3家族が住んでいて(シェアハウス?!)、
ネパールに留学に来ている日本人も出入りしていたので
戒厳令の中でもネパール語が全くわからなくても

とても安心な環境だった。


ただ、できることがないあせる
仕方がないので、カトマンズ市内の日本語学校で

日本語を教えるボランティアをすることにした!!

朝動ける時間に動き、時間まで日本語学校にいれば夕方帰れる。
山間部で家を追われたネパール人たちが
次の職を得るために、また何もできない時間を活かすために
たくさん学校に来ていた。
そこで教えていた生徒の中には、

今難民認定を受け、英国に渡って自分の事業を大成功させている人もいる。

(本当に勤勉で優秀)


人生はいつ何が起こるかわからないが、
その時できることで最善を尽くす。
これしかない。


そして、学校のない日は朝どこに行くかを決め、
たとえばじゅうたん屋さんに行けば一日そこでチャイを飲んで
片足で何秒立っていられるかの競争をしたり、ニヤニヤ
腕立て伏せを何回できるかをしてみたり笑い泣き
家で料理を作る女性のスパイスボックスを見せてもらってワクワクしたり目
それはそれは今思うと贅沢ではあるが

いわゆる何もない時間が過ぎる日もあった。
ニルマラ先生が営んでいるニルマラ・バティカ小学校にはなかなか訪問できずだったが、
その後訪問した時に、バンコクの日本人の皆様から寄付を預かり絵本をみんなにプレゼントした。

ニルマラ先生の家に住んでいた別の家族のパパが

日本料理屋さん『ももたろう』を営んでいたのでそこにもよく通っていた。
(正式には、日本語学校から『ももたろう』に行って、連れて帰ってもらっていた)
記憶が薄れているが、時が経つにつれて戒厳令も緩やかになっていった気がする。

ただ、一つ明確だったのは、
今の私がたとえ青年海外協力隊の訓練を受けて

語学ができるようになって戻ってきても、
ネパールで役に立つことはできない、
ということだった。

とても乱暴なマオイストが田舎の学校などを占拠して、

家々に住む人を追いやっていて、

とうとう都会でも暴れているのだから。

私は青年海外協力隊を辞退することにした。

ネパールを離れる直前のある日、『ももたろう』に明るいおじさんがやってきた。
「I am Nepali Comedian」と顔を横に振りながら楽しそうに手を差し出してきたので、
もちろん私も
「I am Japani Comedian」と言いながら手を出し握手をした。

そしたら「そりゃあいい」ということになり、
コメディドラマの撮影があるからおいで、ということになったチュー

『ロックラハリ』という当時のネパールチャンネル1で

放送されていたコメディドラマのハリさんだったようで、

撮影に参加することになった(笑)



堂々の2話連続登場キラキラ笑い泣き

ネパール語のわからない旅人役
と、
えらそうに政治について語る外国人役


実は放送はネパールを離れた後だったので自分で放映を確認せずに終わってしまったが、
緊張下にあるネパールの人たちに少しでも笑いを届けるお手伝いができていれば、
それは私がネパールでできる精一杯を果たせた気がする。
大変な状況なのに、だからこそ政治を扱う高度なコメディアンのハリさん。
笑いの力と尊さを思い知った。



人生は本当に何が起こるかわからない。
みんなに助けられて生きている。


家が占領されても外国語を学びに来る人たち。

戒厳令が明けたらすぐさま笑いに変えてみんなを元気づけるコメディアン。
起こった状況に悲観せず
やれることをやって笑っているネパールの人たちの強さに
たくさんたくさん学んだ。

 

 

 

笑って進もうねラブラブ

家はまだある音譜

道路は燃えてないアップ

「アイ アム ジャパニ コメディアン」なんて言ってみたっていいのよ。

まだ履歴書に書いたことはないけどねw