MyStoryを書き綴っています。
これまでのStoryを見逃した方はぜひこちらも♡
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MyStory①粘り強さとチャレンジ精神を生んだ幼少期「噛みつかれないか否か」基準が形成された時
MyStory②「楽しみは自分で作る」が親のポリシーだと知った中学時代。受け継がれた自由軸の精神
MyStory③「魅力」と「美的」という言葉への恐怖からの闇。低迷高校時代からくすぶっていた憧れ
MyStory④マイケル・ジャクソンの優しさは本物だと知った夏。一期一会だからこそ一期永遠
MyStory⑤凄腕起業家ビジネスマンが運営するハイブリッドNGOで学んだ多角的視点と価値の創造
バンコクで滞在中に開催されると知り、
事務局で働かせてもらうことになった
第15回国際エイズ会議は、
まさに世界の縮図を見る体験となった。
大きく分けると
① 世界の政治的リーダーたちが話すリーダーシップ委員会
② 製薬会社や科学者が話すサイエンティフィック委員会
③ HIV感染者や社会活動をする人が話すコミュニティ委員会
の3つに分かれており、
私がインターンをさせてもらっていたNGOの創設者であり会長のミーチャイさんは
③のコミュニティ委員会の共同議長で、
もう一人の共同議長はフランス人のドン(Donald de Gagne)、
事務局長はイギリス人のタムシンさん。
環境が一気に国際的になった。
ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領や
国連事務総長のコフィ・アナン氏(当時)を始め、
世界的なリーダーが集まる。
タイのタクシン首相(当時)の開会あいさつの原稿確認や、
各国VIPが問題なく入国できるような手配、
リーダー委員会ではないものの、
確認に回ってくる資料や参加者名簿には
国際会議の大きさを感じずにはいられない名前がそろっていて
コピーでさえ扱うのにドキドキした。
製薬会社が集まるところ、
そして政治のリーダーが集まるところでは、
いろんなお金の合意や交渉も繰り広げられる。
某国から国際会議への出資やHIV予防活動への寄付は
政治上公にはできない、
某国におけるドラッグユーザーは
そもそも薬物の使用が認められていないから公にはできない、
など、
政治と科学と社会がこんなに入り組んでいて、
交渉と取引が緊迫していることを始めて知った。
HIV感染をした当事者を招へいしているが、
ビザがおりない、飛行機に乗せてもらえない、
など簡単なステップさえ困難だらけだった。
当時は、まだHIVがわからない恐怖であり、
AIDSは不治の病と認識されていたので、
世界にその当事者の声を届けることすら難しかった。
でも、それをしなければ世界的な会議の意味はない、
と私たちコミュニティ委員会はチームで燃えていた。
まるで文化祭に向かって一致団結する学生の頃のように情熱的な日々だった![]()
事務局の一番下っ端だったので、事務局受付に張り付いていて
会議当日のカンファレンスにはあまり参加しなかったが、
マンデラ元大統領の閉会スピーチはホールの隅で見させてもらって泣いた。
タイ国内にも、性産業やドラッグユーザーがたくさんいた。
ただ、公的には認められていない、
ということで、当事者たちを会場に呼ぶことや、
発表を行うことは政府とことごとく対立した。
少なくとも性産業は観光業の一部を支えている側面もあり、
首都バンコクにもたくさんのサービスを提供している店があるのは
一目瞭然なので、
「無」なわけがないが、
公の場にあると、「ある」「ない」の境目を
あからさまに変えようとする力があることを知った。
ミーチャイさんが、どれだけの大きな勢力と闘いながら、
日々たくさんの人の存在を認めて
状況をそのまま受け止めてせめて少しでもよくなることを実際にやろう、
と言い続けているのかを思い知った。
彼は、逆の立場にも行ける家柄と力を持っていたけれど、
そうじゃない立場を選びつつ、
激しく対立しないようにいつも緩和させて
合意点を見つけて事を進めていた。
共同議長のドン(Donald de Gagne)は、
日本から来たてのまだ社会経験の少ない私を
ものすごく気にかけてくれて、
とても仲良くしてくれた。
彼はHIVポジティブだったが、
握手やハグをしても感染しないし、
一緒にプールで泳いでも感染しないよ、
と教えてくれた。
そして、HIVポジティブで生きていくには、
どのぐらいたくさんの薬を定期的に飲むのかということを教えてくれたり、
いろんな国のHIVやAIDSに対する社会の形や人間の受け止め方を教えてくれた。
時には恋愛の悩みを聞いたり、すごく優しくて楽しい上司だった。
もう一つ、私の価値観を広げた環境がある。
コミュニティ委員会には
社会活動をしている人たちや、
社会問題に関心のある人が多かったのだと思うが、
Donを含め、事務所の男性うち
1人を除く多数がゲイだった。
私の上長デゥ兄さん(※)も英語の流暢な会計に強いタイ人でゲイ。
まだタイに渡って数か月の私は、
職場以外に友達もあまりおらず、
デゥ兄さんによく遊びに連れて行ってもらっていた。
(※タイ語ではよく年上にお兄さん、お姉さん、とつける)
毎週末の行先はもちろんゲイクラブ![]()
デゥ兄さんの友達もやさしく、
私に対して性的な興味を持ってくる人もいなくて、
とても心地が良かった。
ゲイバーやクラブでは女性はほとんど見なかったが、
身なりにものすごく気を配っていていわゆる男前な男性たちが驚くほどたくさん![]()
バーテンダーは珍しい女性客にサービスしてくれるが、
客のみんなは女性客には見向きもせず
本当に自分を表現して楽しそうだったし、
そんな風景を見て私も楽しかった。
バーやクラブに行かない人たちも優しかった。
それは、もしかしたら
人一倍悩んだ時期があったからかもしれない。
デゥ兄さんも、自分がゲイであることをまだお母さんには言えないんだ、とひそひそと教えてくれた。
彼らは、私がどんな失敗や問題に直面しても、ものすごく大きな心で受け止めてくれた印象がある。
そんな経験から、
人間の性別や性に関する価値観が変わった。
変わった、というより広がった。
男性が女性を好きとは限らず、
女性が男性を好きとは限らず、
でも、どんな形であれ
人が人を愛するということで人の心は豊かになり、
苦しみや痛みを持つから優しさが生まれる、と
なんとなく知った。
ちなみに、タイでは当時から
トランスジェンダーもたくさんいて、
彼女たちも夜のドラァグクイーンとしてだけでなく、
レストランのウエイトレスとして、
幼稚園の保母さんとして、
百貨店の化粧品販売員として、
普通にありのまま社会に受け入れられて仕事をしていた。
田舎に行っても、幼児や小学生の頃から、
男性に生まれたけれども女性っぽい子は女性っぽい子として
学校や村でありのまま受け入れられていた。
あまりにもみんなが当たり前としてありのままを受け入れているので、
日本に帰ってきた時に、
ゲイやレズビアンやトランスジェンダーの人を見かけなくて
逆に違和感を感じたのを覚えている。
タイで暮らした1年目で、タイの北・東・南・西の隅々まで見て回り、
その貧富の差や素朴な暮らしぶりを見て、
さらに経済成長のさなかにあったバンコクで開催される
国際会議の運営に携わり
世界というのがこんな風に動いているのだなという一つの面をみられたことは
とても貴重な経験になっている。
物事は見えている部分だけとは限らない。
日本の常識は世界の常識とは限らない。
世界を良くしようと
たくさんの強い人や強い会社が話し合っているのも事実。
ただ、その「良さ」は全員のベクトルが同じではないというのが世界。
そして、コミュニティとして存在する弱くて小さな私たちも、
力はゼロではない。
20代の前半で、まだ私の価値観が固まっていない時に経験できてよかったのかもしれない。
次は世界で営業をして新規開拓をしまくったお話です★お楽しみに~