MyStoryを書き綴っています。

これまでのStoryを見逃した方はぜひこちらも♡
↓ ↓ ↓

MyStory①粘り強さとチャレンジ精神を生んだ幼少期「噛みつかれないか否か」基準が形成された時
MyStory②「楽しみは自分で作る」が親のポリシーだと知った中学時代。受け継がれた自由軸の精神
MyStory③「魅力」と「美的」という言葉への恐怖からの闇。低迷高校時代からくすぶっていた憧れ
MyStory④マイケル・ジャクソンの優しさは本物だと知った夏。一期一会だからこそ一期永遠
MyStory⑤凄腕起業家ビジネスマンが運営するハイブリッドNGOで学んだ多角的視点と価値の創造


バンコクで滞在中に開催されると知り、
事務局で働かせてもらうことになった
第15回国際エイズ会議は、
まさに世界の縮図を見る体験となった。

大きく分けると

① 世界の政治的リーダーたちが話すリーダーシップ委員会
② 製薬会社や科学者が話すサイエンティフィック委員会
③ HIV感染者や社会活動をする人が話すコミュニティ委員会


の3つに分かれており、
私がインターンをさせてもらっていたNGOの創設者であり会長のミーチャイさんは

③のコミュニティ委員会の共同議長で、
もう一人の共同議長はフランス人のドン(Donald de Gagne)、
事務局長はイギリス人のタムシンさん。
環境が一気に国際的になった。



ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領や
国連事務総長のコフィ・アナン氏(当時)を始め、
世界的なリーダーが集まる。


タイのタクシン首相(当時)の開会あいさつの原稿確認や、
各国VIPが問題なく入国できるような手配、
リーダー委員会ではないものの、
確認に回ってくる資料や参加者名簿には
国際会議の大きさを感じずにはいられない名前がそろっていて
コピーでさえ扱うのにドキドキした。



製薬会社が集まるところ、
そして政治のリーダーが集まるところでは、
いろんなお金の合意や交渉も繰り広げられる。


某国から国際会議への出資やHIV予防活動への寄付は
政治上公にはできない、
某国におけるドラッグユーザーは
そもそも薬物の使用が認められていないから公にはできない、
など、
政治と科学と社会がこんなに入り組んでいて、
交渉と取引が緊迫していることを始めて知った。




HIV感染をした当事者を招へいしているが、

ビザがおりない、飛行機に乗せてもらえない、

など簡単なステップさえ困難だらけだった。


当時は、まだHIVがわからない恐怖であり、
AIDSは不治の病と認識されていたので、
世界にその当事者の声を届けることすら難しかった。


でも、それをしなければ世界的な会議の意味はない、
と私たちコミュニティ委員会はチームで燃えていた。
まるで文化祭に向かって一致団結する学生の頃のように情熱的な日々だったメラメラ


事務局の一番下っ端だったので、事務局受付に張り付いていて

会議当日のカンファレンスにはあまり参加しなかったが、

マンデラ元大統領の閉会スピーチはホールの隅で見させてもらって泣いた。


タイ国内にも、性産業やドラッグユーザーがたくさんいた。
ただ、公的には認められていない、
ということで、当事者たちを会場に呼ぶことや、
発表を行うことは政府とことごとく対立した。



少なくとも性産業は観光業の一部を支えている側面もあり、
首都バンコクにもたくさんのサービスを提供している店があるのは
一目瞭然なので、
「無」なわけがないが、
公の場にあると、「ある」「ない」の境目を
あからさまに変えようとする力があることを知った。



ミーチャイさんが、どれだけの大きな勢力と闘いながら、
日々たくさんの人の存在を認めて
状況をそのまま受け止めてせめて少しでもよくなることを実際にやろう、
と言い続けているのかを思い知った。
彼は、逆の立場にも行ける家柄と力を持っていたけれど、
そうじゃない立場を選びつつ、
激しく対立しないようにいつも緩和させて

合意点を見つけて事を進めていた。


共同議長のドン(Donald de Gagne)は、
日本から来たてのまだ社会経験の少ない私を
ものすごく気にかけてくれて、
とても仲良くしてくれた。
彼はHIVポジティブだったが、
握手やハグをしても感染しないし、
一緒にプールで泳いでも感染しないよ、
と教えてくれた。
そして、HIVポジティブで生きていくには、
どのぐらいたくさんの薬を定期的に飲むのかということを教えてくれたり、
いろんな国のHIVやAIDSに対する社会の形や人間の受け止め方を教えてくれた。
時には恋愛の悩みを聞いたり、すごく優しくて楽しい上司だった。





もう一つ、私の価値観を広げた環境がある。

コミュニティ委員会には
社会活動をしている人たちや、
社会問題に関心のある人が多かったのだと思うが、

 


Donを含め、事務所の男性うち

1人を除く多数がゲイだった。


私の上長デゥ兄さん(※)も英語の流暢な会計に強いタイ人でゲイ。
まだタイに渡って数か月の私は、
職場以外に友達もあまりおらず、
デゥ兄さんによく遊びに連れて行ってもらっていた。

(※タイ語ではよく年上にお兄さん、お姉さん、とつける)


毎週末の行先はもちろんゲイクラブ音譜


デゥ兄さんの友達もやさしく、
私に対して性的な興味を持ってくる人もいなくて、
とても心地が良かった。

ゲイバーやクラブでは女性はほとんど見なかったが、
身なりにものすごく気を配っていていわゆる男前な男性たちが驚くほどたくさんチュー
バーテンダーは珍しい女性客にサービスしてくれるが、
客のみんなは女性客には見向きもせず
本当に自分を表現して楽しそうだったし、
そんな風景を見て私も楽しかった。



バーやクラブに行かない人たちも優しかった。
それは、もしかしたら

人一倍悩んだ時期があったからかもしれない。
デゥ兄さんも、自分がゲイであることをまだお母さんには言えないんだ、とひそひそと教えてくれた。
彼らは、私がどんな失敗や問題に直面しても、ものすごく大きな心で受け止めてくれた印象がある。


そんな経験から、
人間の性別や性に関する価値観が変わった。
変わった、というより広がった。
男性が女性を好きとは限らず、
女性が男性を好きとは限らず、
でも、どんな形であれ
人が人を愛するということで人の心は豊かになり、
苦しみや痛みを持つから優しさが生まれる、と
なんとなく知った。




ちなみに、タイでは当時から
トランスジェンダーもたくさんいて、
彼女たちも夜のドラァグクイーンとしてだけでなく、
レストランのウエイトレスとして、
幼稚園の保母さんとして、
百貨店の化粧品販売員として、
普通にありのまま社会に受け入れられて仕事をしていた。



田舎に行っても、幼児や小学生の頃から、
男性に生まれたけれども女性っぽい子は女性っぽい子として

学校や村でありのまま受け入れられていた。



あまりにもみんなが当たり前としてありのままを受け入れているので、
日本に帰ってきた時に、

ゲイやレズビアンやトランスジェンダーの人を見かけなくて

逆に違和感を感じたのを覚えている。


タイで暮らした1年目で、タイの北・東・南・西の隅々まで見て回り、
その貧富の差や素朴な暮らしぶりを見て、
さらに経済成長のさなかにあったバンコクで開催される
国際会議の運営に携わり
世界というのがこんな風に動いているのだなという一つの面をみられたことは
とても貴重な経験になっている。



物事は見えている部分だけとは限らない。
日本の常識は世界の常識とは限らない。



世界を良くしようと

たくさんの強い人や強い会社が話し合っているのも事実。

ただ、その「良さ」は全員のベクトルが同じではないというのが世界。

そして、コミュニティとして存在する弱くて小さな私たちも、

力はゼロではない。



20代の前半で、まだ私の価値観が固まっていない時に経験できてよかったのかもしれない。

 

 

次は世界で営業をして新規開拓をしまくったお話です★お楽しみに~

 

 


 

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MyStory①粘り強さとチャレンジ精神を生んだ幼少期「噛みつかれないか否か」基準が形成された時
MyStory②「楽しみは自分で作る」が親のポリシーだと知った中学時代。受け継がれた自由軸の精神
MyStory③「魅力」と「美的」という言葉への恐怖からの闇。低迷高校時代からくすぶっていた憧れ
MyStory④マイケル・ジャクソンの優しさは本物だと知った夏。一期一会だからこそ一期永遠



大学で国際協力の道に憧れたが、

高学歴の人しか就けないという事前知識を得てぐらついた。

(弱い私あせる

今思い返すと

「これ」といって深堀りたいテーマがなかった

といった方が正しいと思う。

 


現場で活躍する姿は思い描けるけれども、

専攻した国際政治もものすごく興味を持てたわけでもないまま過ぎてしまっていて、

大学院に行ってまでこれを深めたいと思えなかった。

 

専攻を変えるといっても、

勉強不足で、じゃあ他にどんな分野に興味があるか、というのを考えていなかった。

周りが始めるからという理由で就職活動も始まった。
いわゆる就職氷河期

リクルートスーツを着て手あたり次第説明会に行って、

試験を受けたり面接を受ける。
いろんな話を聞いたり会社を見て回ったが、

要領の悪い私にはどんな企業に勤めたいという気持ちも薄く、

志望動機書を書くときも集団面接でも

相手が何が知りたいのかがあまりわからなかった。

自分の進路が開拓できない大学生ほぼ失格状態汗



国際協力の道に進むには修士号、

就職するなら集団面接を突破して

数少ない座席を獲得しなければならない。


結局、自分の実力と経済力で行けそうだ、

という何とも安易な理由でニュージーランドの大学院を選び、

大学卒業式前に現地に行くも

そのあまりにも平和な環境で過ごした準備期間に

「このままでは本当にダメ人間になってしまう」

と危機感が募って入学を辞めてしまったビックリマークニヤニヤ

 

(ダメダメやないの・・・そう、思考の方向が全部ちょっとネガティブだった)


完全なる言い訳を書くと、そこには現場感がなかった。

ものすごく美しい自然の中で

図書館で、

世界のドロドロしたことを勉強できるタイプではない

と自分で判断して辞めてしまった。

 

いや、本当は強い目的があれば

その時の「環境」というのは

学校の学習内容や講師陣を指すだろう。

だけど、私は妥協して決めて来たために、

心があまりにも乗らなかった。


なんとなくニュージーランドに来ているのに

入学前に辞めてしまったものだから

やることがなくどうしようか

とあてもなく考えている時に、

 


同じくタイから留学に来ていた子が声をかけてくれた。

 


「洋子は国際協力の分野に興味があるんでしょ。

でも今やることないんでしょ。

だったら、ぼくの父親がタイでNPOで働いてるから行ってみなよ」
!!


やることない!!!

でも、タイ?!



「一回自分で見た方がいいよ」

 

 

そう、私は世界の貧しい状況や苦しむ人たちをテレビで知っている程度だった。

自分で目で見て耳で聞いて肌で感じていなかった。

 


タイには大学生時代に友だちとツアーで行ったことはあったが、

特に強い印象もなく「まぁまぁ」な印象。

 


だけど、将来を思い描くときに「現場」にいる自分を思い描いていた私は、

 

「行かせてください!」と友達にお願いをした。



そして一度日本に帰り、

神戸にある世界保健機関(WHO)のインターンに応募しつつ、

タイに数週間Population & Community Development Association(PDA)というタイのNGO

見学させてもらいに行った。

 

PDAは

タイで俳優をしたりビジネスでも成功し、

仏教国であるタイでお坊さんたちと一緒にキャンペーンをしてコンドームを広め

保健省の元副大臣をも務めた!!

ミーチャイ・ヴィラバイダヤさんの創った

タイ人のためのタイのNGOで、

 

創設初期は人口爆発が起こっていたタイで家族計画を広め、

私がタイに行った2003年ごろは

世界的にHIVの感染が広まりAIDSも対処が限られていた時だったので、

夜の街や田舎でHIV予防を行っていた。

 

それに付随してマイクロファイナンス事業や

中絶を行える病院を運営(敬虔な仏教国タイでは正当な理由がない限り公には中絶はNG)していた。

博士号を持ち
王室ともつながりがあり

運営するレストランやリゾートホテルも大盛況で

いつも画期的な発想力で物事を解決していくミーチャイさんアップ

 

 

ハーバード大学でも教鞭をとり、

いつもダボス会議にも参加して世界を見ていたキラキラ

 

 

そんな世界的な活躍をし、タイの国内でもヒーロー的な方なのに、

外国からふらりと来た私や他の国からのインターン生に、

よくディナーに誘ってくれて

たくさんの話をしてくれた。

(若者たちに知識や考えを惜しまず出すという姿勢は、本当に成功者というのはケチじゃないなと思うし尊敬する)

 

ミーチャイさんにご興味ある方は、英語ですがこちら↓

 

 

 


NGOの運営は通常寄付や助成金が大半を占める。

PDAもたくさんの団体寄付や助成金を得ていたが、

自分たちでリゾートホテルやレストランを経営し、

その収益や世界からのお客様からの寄付で自活もしていた。

 

 

 

この自分でビジネスをして稼いでそれらを社会事業に充てるという考え方が、

当時の私には目からうろこだった。

 


自分たちのビジネスでの収益を活動費にするので、

単年度の寄付や助成金に頼るより

ずーっと長い先を見据えた長期計画を立てられるのだ、

とミーチャイさんは力を込めて説明してくれていた



当時のタイ。
性産業がない、わけではない。
ドラッグユーザーがいない、わけではない。




それらを「ダメ」と言ってしまうのではなく、
「コンドームを正しく使いましょうね」
「針を回しちゃだめですよ」
と伝える。

 

 

・ダメというのは簡単。

・でもどうやってみんな生活していく?

・どうして彼らがいなくならないか、それは利用する人がいるってこと。

 

 

たくさんの視点を学んだ。

言うは易しだった。

 

 

NGOにはよく警察が調査に入ってきていた。

特に、中絶のできる病院には突撃調査が隊列を組んでよく入ってきた。

 

 

でも、ミーチャイさんの姿勢はいつも同じ。

子どもを産むことで苦しむ人たちがいる。

望まない妊娠の場合は、中絶できる権利があるはずだ。

自分で中絶しようとすると、母体の命も危なくなる。

正当な理由であれば中絶できるのだから。

体も心もケアが大切なのに、

他でそのケアができないなら私たちがやる。

 

 

中絶を待つ女性たちの待合場所は、

夜には美しいレストランとなる

キャベツ&コンドームレストランの中庭だった。

バンコクの騒音を忘れさせてくれるような

木々が茂った中庭は、

昼は貧しい人たちに癒しを与え、

夜は世界中のセレブたちに美味しい料理を驚きを与えていた。

 

 

1つの場所が2つ以上の価値を生む。

1つの活動が2つ以上の意味を持つ。

 

 

ミーチャイさんの頭はいつもしなやかで豊かだった。

 


私はバンコクの店やパタヤの店でのコンドーム配布イベントに参加した。

(キャベツ&コンドームレストランでコンドームを膨らませてコンドームの配布準備をする私たち)

ミーチャイさんは、保健以外にも

明らかに貧しいタイ東北の田舎に世界の教育を受けられる学校を、

と毎秒莫大な資金を稼ぐことのできる欧米IT起業家と一緒に建て

田舎の人々に教育の機会を増やしたり、
マイクロクレジットを実施して、

田舎の人たちが鶏を飼うなどのスモールビジネスを始められるようにしたり、
田舎に世界的なメーカーの工場を誘致して建てて仕事の機会を増やしたりしていた。



現状を受け入れ、問題点を直視し、
できることをできる範囲で実施し、

その可能性をどんどん広げていた。



数週間の見学を終えたが、

どうしてももっと学びたいと思ったので、
「長期インターンをさせてください!」とお願いし、

いったん帰国して
WHOでのインターンを3か月、

アフリカ1人バックパッカー旅行を経て再びタイに戻った。

(これらの経験も短文で書いてますが、めちゃくちゃ濃かった!またいつか書く機会がありましたら☆)


優秀なタイの人たちが、

自分の頭脳と時間を惜しまず本気でタイが良くなることを願って働いてた。
南部クラビー県に駐在して周辺地域で活動している

自分の母親より少し若いぐらいの女性の家に泊めてもらって、

マイクロクレジットの活動の手伝いをした。

 

現地の銀行と連携しながら、

住民たちがスモールビジネスをして自活できるように励ましたり

知識を共有したり、

時には村のお祭りで一緒にムエタイを観戦しながら

地域の人たちの笑顔を作っていた。

 


寝る間も惜しんであっちこっちへ出向いたり調整しては、

夜にレポートを書いて

また次の日四駆に乗り込んで田舎の村々に向かう彼女がとてもまぶしくて憧れた。


バンコクに戻ると、

ちょうど第15回国際エイズ会議が約9か月後に開催されるというので、

NGOの一角に事務局が開設されていた。

そして、WHOでもHIVに関する社会状況を調べることに携わっていた関係で、

HIV/AIDSに関する動向に非常に関心の高かった私は

その事務局に所属させてもらった。


この国際エイズ会議の事務局での経験もまた、

私の価値観を大きく広げる経験となった。


続きはまた次回☆おたのしみに~☆

 

 

 

 

日本から飛び出し、

いろんな価値観がある意味で壊れて拡大した私ですが、

だからこそ、

今この堅苦しい日本のいろんなことに違和感を持つことができ、

価値観を広げることの大切さを痛感しています。

 

 

息苦しさを感じていたり、どうやって人生を開拓しようかと悩んでいたり、

もっと自分の可能性を広げたい!と思う方は、

ぜひ一緒にエネルギーを高めていきましょう音譜

 

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MyStoryを書き綴っています。

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小学5年生で初めて手を挙げてパッと明るくなり、

中学生の時は親の影響で世界が広がってひらひらしていたけど、

高校に入って劣等感で暗くなった私。

 

ただ、高校時代の暗さは私のココロの中だけで、

好奇心旺盛で自由で元気なクラスメイトたちには本当に救われた。


あまり人の目を気にするという子が少なかったので、

授業中もわからないことは「わかりません!」と大声で言うクラス。

グループもなんとなくしかなくてみんな自由気まま。

人の目を気にしたり比べて落ち込んでた私のココロも

少しずつ軽くなっていった。

受験勉強はそれはそれは短期集中型w
 

最後の最後の冬に
「やっぱり現役合格したい!」と馬力を出しだして


”脳みそは11時から2時までに作られる”
というのを心底信じて
11時から2時半まで寝て他は受験勉強をする、

という今考えたら信じられない集中力で過去問を解きまくった。

そんな短期集中型でうまくいくほど甘くないのが日本の大学受験あせる
センター試験もうっかりミス多発。
滑り止めを含めて何校も落ちる中、


ヨーロッパ調の建物と校庭の美しさに惚れ、親に受験から帰ってすぐに
「ごめん、今日受験しに行った大学にめちゃくちゃ行きたくなったから浪人するビックリマーク
って謎の浪人宣言した関学に、奇跡的に2科とも合格アップ

ここぞという時に出る馬力以外の何物でもない執念。
(建物が原動力になるなら、もっと早く見学にいっときゃいいのに、まぁギリギリ💦)


漠然と

世界を良くしたいビックリマーク

国連で働きたいビックリマーク

という夢があった私は、

 

政治学科と総合政策学科で悩んだけれど、

結局家から近い政治学科を選び、

遠くのキャンパスにあった総合政策学科の授業を週1回受講するっていう策を取った。
(この頃から、1つを選ばずに両方得るのはどうしたらいいかなって考えるタイプだったんやね・・・ニヤニヤ

ダンスサークルで年に1回の公演会に情熱を燃やしたり(公演前1週間は舞台づくりに必死)、

バイトを楽しんだり、普通の大学生活を送りつつ、
国連セミナーという大学の有志のゼミに入って

2001年9月に国連で働いていた先生と生徒たちでニューヨークに行った。


それはそれは楽しくて音譜


道を歩く人たちみんなが自信にあふれていて、

活気があって、

何でもが大きくて、

うるさくて。

 

先生たちも一緒に行ったので完全な自由ではなかったものの、

自由で違いを尊重する空気を感じた。



そこで私はこれまでで

一番最高の出会いと一番後悔している出来事

に出会う。


ニューヨークのマンハッタンの中央あたりにあるホテルで、

ちょうどみんなとの集合場所に行きかけた時に忘れ物を思い出して取りに帰った時、
ホテルのエレベーターで

 

 

なんと

 

 

マイケル・ジャクソンに会った!


そう、世界のマイケル・ジャクソン。


目の前に来たエレベーターの角の3か所に、

それぞれ女性(たぶんスタッフ)、

カメラを持った人、

そしてマイケル・ジャクソンがいて、

 

ただならぬ空気に

 

え・・・・ニヤニヤあせる 

 

と立ちすくんでいた私に

 

「どうぞ」

 

ってとても美しく変わった衣装を着た人が優しく手招きしてくれたので

 

 

恐る恐るそのエレベーターに乗った。


透き通るような肌に驚くほど繊細な細さの鼻。
華奢な体つき。



(・・・え、私乗ってよかったエレベーター?・・・え、わたし・・・・)


どこを見ていいのかわからず挙動不審だったと思う。
でも美しすぎるマイケルから目が離せなくって、たぶんじーっと見てた。



4階あたりで「ピン」と音が鳴り
3人さんがエレベーターを降りたので、


(こ、これは何か言わねばビックリマーク

と思って私も飛び出し


「あ、あの、マ、マイケルさんですか?」

と全力の勇気を振り絞って聞くと



本当に本当に優しい声で

「Yes」

と言って振り返ってくれたんです。


もう一度ありったけの勇気を振り絞って


「握手してくださいチュー

というと、
なんと手を差し伸べてくれたんですロケット

そして

 

なんと

 


「今夜、コンサートがあるからいらっしゃいますか?」


と!!!

 

 

え~~~どうしよどうしよ、みんなが待ってる、どうしよどうしよ、忘れ物を取りに来ただけだ


真面目な私は

「あの、スクールトリップで来ているので先生に聞かないといけません」


・・・・と!!!


答えてしまったのです。

 

 

(おい!今でもつっこむ。おい!なんでやねん!)


「OK! Have a good trip!」


とても優しく、本当に優しく手を振ってくれて行ってしまった。






後で調べたら、マディソン・スクエア・ガーデンでソロデビュー30周年記念コンサートがあった。


何であの時私は

「行きます!」って言わなかったのかゲッソリ



ずーっとずーっと後悔している。


もちろん先生や友達とのツアーも楽しかった。


だけどもう旅の終盤だったし、数時間ぐらい何とでもなったはず!!




そして、その国連セミナーの旅から帰宅したのは2001年9月11日
そう、日本の家についてホッとしてニュースステーションを見ていた時、
アメリカ同時多発テロで飛行機がツインタワーにぶつかり、
昨日までいたニューヨークの景色が崩れた。
世界の空気が変わった。



\チャンスは一度しか来ない/

 

そして、来たチャンスを掴む勇気は、

その人の器の大きさ分しか出せない

 

とその時に思い知った。



思い知ったのに、今でも逃すことがある。



それだからこそ、私は人との出会いを大切にしていたい。


すごく近い距離で親密に付き合うのは得意ではない。

 

でも、細く長く付き合っていたい。

 



一期一会。だけど、一期永遠。

会うのは奇跡でもう会えないかもしれない。

だけど、一度会った人とは、たとえ何年開いても

また会えた日があったら全力で喜びを分かち合いたい。



そして、一度会う時は全力で優しくありたいラブラブ


マイケル・ジャクソンは一瞬の出会いだったけど、
おろおろとエレベーターを待つ外国人の私を

「どうぞ」とエレベーターに招いてくれて、
コンサートのリハーサルで忙しいだろうに、
明らかに緊張している私の呼びかけに

「大丈夫ですよ」応じて握手をしてくれて、
「急だけどよかったら」とコンサートにまで呼ぼうとしてくれた。



「大丈夫だよ」



その優しさが今も心に残っている。

 

 

次はタイでの生活の始まり★お楽しみに!

 

 

いつでも全力で心を燃やしていたいよね!

目の前にチャンスが来たら、一番大きな勇気を出せる自分でいたいよねドキドキ

 

いつでもチャンスを見つけたら、全力で取り組める自分になりましょう音譜

 

はじめましてのご挨拶に変えて

MyStoryを書き綴っています。

これまでのStoryを見逃した方はぜひこちらも♡
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MyStory②「楽しみは自分で作る」が親のポリシーだと知った中学時代。受け継がれた自由軸の精神





高校時代は、今もつながる

ステキな友だちに出会えた場だったけど、
当時、実は私の中ではちょっと辛い時期だった。



「国際教養科」というワクワクする名前の専門コースに入り、
行ってみると9割が女子!!
60人中男子は6人ビックリマーク(←当時女子たちには「V6」と呼ばれていましたチュー

まさにキラキラ”ほぼ”女子高ライフが始まった。



私は、その環境に適応するのがとても難しかった。

 

 

みんなすごくいい子たちだし優しいし、

「国際教養科」なんていう

変わった専門コースに入ってくるぐらいだから

本当に好奇心旺盛。

 

いろんなことに前向きで興味津々の子たちが集まっていた。


髪の毛の色も規定がないし

私服登校OKで自由な校風だったから、

いろんなセンスが露わになっていて、

もちろん、近所にあった小学校や中学校では出会わないような

オシャレな子やかわいい子がたくさんキラキラ
同じ中学だった子たちもすぐにぐっとオシャレになった。
 

 

私はひどく自信がなくなった。



自信がなくなっていて

男女がバランスよくいる「普通科」が同じ校舎にあるというのに

友だち開拓もしなかった。



当時はわからなかったけど、

実は私にはみんながまぶしすぎた。


 

そう、私は当時はわからなかった。
 

 

自信がなくなり、楽しみ切れなかった。



まぁまぁ面白いことを言ったり、強気でいたから友だちはいた。


だけど、小5で初めて授業中に手を挙げた時のように

やりたいことを「ハイやりたい!」

と言う勇気がなく、

なんとなく中学からの友だちにも置いて行かれたような気分になって

一人で滅入っていた。



実は、この「キラキラとまぶしい子たちへの憧れ」っていうのは、

ずーっとずーっと自分で気づいていなくて、

というより、たぶん

フタをして、

ないことにしていた。


私のキャラじゃない。
私は気にしてない。




だけど、自分が納得できるほどのオシャレになったり

自分の容姿に

すごく自信のある状態にならないのに、

やっぱりキラキラとオシャレを楽しみ

美しくしている子たちがまぶしくて、

心の奥底で

実は憧れがあったってことに、

 

 

 

 

アラフォーである今、

年末年始のノート活動で初めて気が付いたニヤニヤ



これまで、

自分の価値観を表す言葉を選ぶ価値観ワークでも、

「魅力(身体的な魅力を保つ」とか

「美的(身のまわりの美しいものを味わう)」という言葉を

選んだことはなかった。

 

 


これまで選んできた言葉たちが偽りではなく、

それらも大切だけど、

「魅力」や「美的」という言葉を大切にしたいという気持ちがあるのに、

それらを選ぶのは自分はふさわしくない、

と勝手にラベリングしていた。



「正直」

 

 

これも私が大切にしている価値観。

なのに、知らず知らずに

自分の気持ちにはフタをして

正直に慣れていなかった。



一生これだけが大事というわけじゃない。

 


だけど、高校生のころから大切にしたかったのに

私にはふさわしくないとフタをして、

自信までも無くしていたから、

 

 

楽しそうにキャーキャーと盛り上がる

女性の集団が苦手だったことに気が付いた。

 

 


高校時代を振り返って、

思わぬ発見をした。

 

 

 

今年は

「魅力」と「美的」という、私にはとても勇気のいる言葉たちを

自分の大切にする価値観に入れてみようと思う。

 

 

 

思わぬ方向に進んだ高校時代の振り返り。

 

ぜひみなさんも、暗黒だったな~っていう時代のことを掘り下げてみてくださいね!

新しい自分の価値観に出会えるかもキラキラ

 

 

次回は夢のニューヨークでのビックリ体験!お楽しみに~★

 

はじめましてのご挨拶に変えて、
昨日からMyStoryを書き綴っています。



第1話を見逃した方はぜひご確認ください♪
↓ ↓ ↓

MyStory①粘り強さとチャレンジ精神を生んだ幼少期「噛みつかれないか否か」基準が形成された時



小学校高学年ごろから中学時代は家族での旅行が楽しかった。


中でも一番印象的だったのは

家族で行ったアメリカ西海岸カリフォルニアの旅。

ツアーでなく手作りで手探りの旅。

普通のサラリーマンの父が一生懸命お金を貯めて

初めての家族海外旅行で

すごく覚えている。

 

 

親が自分たちで航空券を取り
レンタカーを借りて

サンフランシスコからロサンジェルスまで車で気の向くままに旅をした。


サンフランシスコでおしゃれなケーブルカーの向きを変えるためにおじさんたちが手動で電車を回している姿を見た後は、


ゴルフをする父の夢のペブルビーチに行ってコースを周り
海岸沿いにやってくるラッコを見たり
カートに乗ってワイワイしたり
近くのホテルで忘れられないほどおいしいオレンジジュースを飲んだ。


カリフォルニア水族館では、
これまでに見たこともないぐらい大きなワカメがゆらゆらした水槽に圧倒されたり。
(小学生の記憶って・・・アメリカまで行ったのにワカメニヤニヤ



車で見渡す限りに広がる平原を走っては、

牛のふんの臭いがしてギャーギャー騒いだり、

映画でしか見たことのないような大きなトラックが大量のジャガイモを運んでいたり。



途中で立ち寄った田舎のダイナーでは
夢のように大きなハンバーガーと

得意げにコーヒーカップを宙に回しながら投げてソーサーで受け取る

ピエロみたいなおじさんが迎えてくれ、

外では本物の馬が回るメリーゴーランドが少し寂し気に回っていた。
(私はこのメリーゴーランドに「乗りたい」と言わなかったことを今でも悔やんでいる)


実際のアメリカは、めちゃくちゃ大きくて日本で考えていた距離感とも違い

予定していた場所に入場時間までに辿り着かず見学できなかったりしたけれど

それも含めて楽しすぎた音譜笑い泣き



私は、その後30か国以上に行ったが、

ツアーより断然自分で行く旅が好きドキドキ


五感をフルに稼働させ、第六感に救われて、

世界って面白い、

人間って優しい、

自然って偉大だ、

と今も感じている。



今思うと、こうあるべきという枠が他と違った我が家。
テレビを見る時間の制限とか門限とかは厳しかったけれども、
「自分の楽しみは自分で作る」ということに

徹底的に力を注ぐ家族だった。



私は枠があると、レールがあると力を発揮できない。
まっさらな状態で何かをしようとすると、失敗はつきもの。
カリフォルニアで泊まったホテルも、大当たりもあればハズレもあった。
たぶんツアーで回った方がハイライトすべきスポットを確実に回れた。



だけど、親は

牛のフンの臭いの中をギャーギャー言いながらドライブすることも楽しいよ、と
誰も来ない田舎のダイナーでおじさんが久しぶりのお客さん相手に

コーヒーカップをグルグル回してくれるのを見るのも楽しいよ、と

教えてくれた。



私のキャリアはぐにゃぐにゃしている。
それでも自分で次の一歩を出す方向を作って進められている。
それは、もしかしたら

この旅から学んでいて、

美しいレールを走ることでは見られないような景色を見て人生を楽しんでいるのかもしれない。



今は会社に属さない生き方をしている。
それで得られる子どもとの時間や収入はかけがえのないもの。
そして、会社から出たからと言って企業との付き合いがなくなるわけではない。
むしろ、関係が良好になっている。

私に適切な距離感で。



そう、レールから外れたらおしまいじゃない。
何も道がない、案内もないのは怖いかもしれない。
だけど、可能性は無限大アップ



いきなり枠を外さなくてもいい。
徐々に枠を広げていこう音譜



次回は、順風満帆にはいかなかった高校時代。おたのしみに!