シェ・ジャニーの賄い
シェ・ジャニーの賄い 1980年頃の渋谷神南の「シェ・ジャニー」道路わきの看板とメニュー。 ここを上がって、ツヅレ折の坂を登れば入り口。「今晩7時頃、夕食にいらっしゃい」とのジャニーの誘いを受けて、ペンション「ウィングライトでひと休みしている間、渋谷時代を思い出していた。」 調理人を目指していた友人のH君が、『女の部屋・№3』(1970年・ひまわり社)の「フランス帰りの若夫婦が、自宅を改装してレストランを始めた」という記事を見せて「この店で修業したいと思う」との願望を聞いた。『女の部屋』は画家、ファッションデザイナー、編集者、イラストレーターとてマルチな才能を発揮していた中原 淳一(1913年 - 1983年)が「賢く美しい女性になってほしい」との理想に燃え創刊した雑誌で『それいゆ』の姉妹誌。 次なる時代の到来を想定していた。 念願かなったH君はシェ・ジャニー初代の弟子となった。 その後、店の人気が広まるにつれ、お弟子さんが増え、従業員は10人以上となった。店も広げられて収容人数も増えたが、連日満席の状態だった。ホールも満席だが、厨房の裏も賑わった。営業終了の時間頃(夜の12時前後)になると、厨房に通じる廊下辺りに部外者が数名いることがある。僕もその中の一人と云うこともあった。《洗い物や、片付けを手伝う》という名目だが、作業の段階で洗いも片づけも順次済ませて進行しているから,さほどすることはない。 要は、賄いにあり付き、話に加わりたい、と云う訳。料理界の人ばかりでなく、広い範囲の人達が集まってくる。 「賄い」と云っても、通常の賄料理とは異なり、店で出す料理と同等或いはそれ以上の料理が並ぶ。ジャニー自らがメニューを考え、調理する。 中華やベトナム料理などを始め、薬膳料理などあったと記憶する。美味しいもの、珍しい物への拘りだ。先ずは「菊正」の樽酒で乾杯、倉庫には薦被りの樽が常備されていた。野菜の糠漬けが必ず付く。これまた一年中欠かさない。漬け物と酒の後に、ジャニー作のその日のメインとなる。会話をしながら約1時間位の食事の後は、一斉に片付けで解散する。時によっては、仕込や試作もあるから、なんやかんやで、早朝になることも稀ではなかった。安比に移転前、フランス料理全盛の時代。1985年、家族とスーシェフのハモさんを伴って安比に移住。 趣味に生き、料理は家族と友人の為につくる毎日。移転して間もない1987年8月、2階のゲストルームに泊めて頂いた。その後も、何度か止めて頂く機会があった。2011年の時より、ご苦労を思ひ、近所のペンションに。 2人の子供さんアリスさんとリオンさんが小学生の頃。 庭にドラム缶を半分に切ったバーベキュウ―用の炉で、子豚の丸焼きをした。渋谷時代のスーシェフだった通称ハモさんが、家族や友人達の賄の為に同居していた。お抱えの助手といえるが、子供さんも小さかったし、何かと人手が必要だった。レストラン営業はしていなかったが、雑誌の取材などが毎月入っていた。 98年10月、山もりの大きい餃子。 2003年7月のラーメン。 どれも当時の写真を複写して鮮明でないから分かりづらいが、酒とつまみが必ずと、中華料理も本格的に作る。単なる「賄い」の領域を越えている。全ての食事に妥協はなく、常に全力投球だ。しかも、己に厳しい。 2014年6月30日、今宵は春田さんご夫妻と僕の3人での食事。 最近お気に入りの三重の酒「八兵衛」を浄法寺塗の片口に移して。 この夜のメインは、焼きソバ。3人前なのに6玉の麺を蒸かし、改めて具材と共に大きい中華鍋で炒める。焦げ目も付いて香りもたつ。 直径40センチくらいの大皿にドーンと。美味しいものを少し、ではなく腹いっぱい、という考えだ。食後、午前1時頃までよもやま話。ご馳走様でした、リンクしている「シェ・ジャニー」のブログを検索すると、美味しい料理や賄い料理の作り方まで含め、美しい写真で見られます。