新聞小説「また会う日まで」(17)終章 池澤夏樹 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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朝日 新聞小説「また会う日まで」(17)11/1(502)~1/31(531) 
作:池澤夏樹 画:影山徹

感想
水路部長への道も閉ざされ、失意のうちに蔵書を切り売りして糊口を凌ぐ利雄だが、Mの死に直面した事で心のバランスが崩れた。
息子光雄と野球観戦に行った時、雨に打たれて弱った末に腸閉塞。
その後の肺炎悪化をペニシリンで切り抜けたものの次第に弱り、火が消える様に亡くなった。
その後語り手は洋子に引き継がれ家族や周辺のその後が語られ、次いで水路部の部下だった内山修治が思い出を語る。
そして最後に作者登場。今さら三人称で何を語るかと思えば、彼が天測暦を完成させた功績で海山に名を残したという。
詳細はこちら(「承認された海底地形名称」→「秋吉平頂海山」)

以上が本章の超あらすじだが、中盤(9)で作者が【読者のみなさまへ】というお詫びを割り込ませた。「国宝」でも「読者のみなさま」という呼びかけの場面はあったが、これはストーリー上の箸休めみたいなもの。

こっちは「お詫び」だから。
要するに初章「終わりの思い」で書いた本作のあらすじでは三月に野球観戦で雨に打たれ、それから半月ほどで亡くなったのが、季節が違って実は秋の話だったと言うのだ。

季節というより死ぬまでの期間が半年延びたという事。

膨大な資料を元に書き始めた筈が、何という失態か。

それから、ここまで一年半続けて来た一人称をドタン場で打ち捨てるという変調。毎月章が変わるという点にこだわったのに、本人を「殺す」時期が早まったのには辻褄合わせに走るのか。

その辺りを割り引いたとしても

「秋吉利雄の業績は世界地理に名を残すほどのものだったのです」
というのが〆の言葉とはなんとも情けない。

連載前の言葉
敬虔なキリスト教徒。次に海軍軍人。そして天文学者。これらがいかに彼の中で混じりあっていたか、あるいは戦いあっていたか
こう言っていたのが結局 「天文学者として凄い人でした」 だけ。
これがこの小説のエッセンスだという印象を与えるのが作家として悲しくないのか?

それから度々言っている「一人称」の弊害。この人物を客観的に捉えると人格高潔な人だという印象を受ける。事実長命だった妻ヨ子がずっと尊敬していたという事からも推察できる。
だがここで作家「池澤夏樹」が描く「わたし」がどうしても矮小になる。「それって利雄がホントに思ったのか?」と思う場面が多々あった。
加来止男のことがいい例。球場で雨に打たれた時の理由付けにするだけでは飽き足らず、内山の列車に乗っている時の敵機襲来で、加来の操縦する艦載機が撃ってくれたらと夢想したり。

加来の遺族も迷惑だろう。

そもそもこの作家が身内の秋吉利雄を取り上げたのが、彼に光を当てたいという思いもあったのだろう。
だがこの連載が始まって一年半経ってもウィキペディアで「秋吉利雄」単独での項目が出てこないのはどうしてか。
これだけの功績がある者にしては何か不自然な気もする。
一方「加来止男」は「飛龍」艦長として詳細な記述がされ、本作でも紹介されている「自作の短歌」まで載っている。
穿った見方かも知れないが、アメリカに情報を引き渡した行為が国益を損なったとして、軍歴含め功績を周知しないバイアスが働いているのかも。

もう少し整理して全体あらすじと共にまとめようと思う。
類を見ないほどつまんない小説だから、やらないかも。

次の小説がもう始まってるし・・・・


あらすじ
主よ、みもとに(1~30)

五月より極東国際軍事裁判が開催された。私も軍人だが拘束はされず起訴もされない。傍系の水路部でもあり国際法廷に立つことはないだろう。だが主の法廷には立たされる。
旧約の神は戦いを好んだが新約の神は否まれた。

武人として迷い続けての日々。
帯広に戻っていた武彦が残務整理で上京した。

澄子、十か月の夏樹とも元気だという。

帯広中学校で英語教師になったと聞き、羨ましくもあった。

武彦の話すここ三週間ほどの日々。帯広への切符を売ってくれた男。
実家では澄子が開拓農民だった母の下で苦労。

友人が家と職探しに奔走してくれたが決まらず。用事で不在の父が戻る前に決めたいと焦る澄子。父はマッチ工場の工場長。

そんな時に、借りられそうな家が火事になった。不運の極み。

だがその事情を聞いた牧師の木末さんが家族の住まいを割いて牧師館の三畳を貸してくれる事になった。
主の話の善きサマリア人を思い出す私だが、武彦は聖マルタンを思った。凍えた男にマントを半分割いて与えた。
半分なのは帝国の所有物だったから。自身の立場を思う私。

その牧師を主の導きと思わないか?との問いには、努めてキリストの意思を重ねない様にして来たと言う武彦。

人間愛に主の媒介を持ち込みたくない。反論しなかった。
パトリック・ビーハン中佐からの書簡が来た。
水路部の長の職は見込みがない。GHQの中のGS(民政局)が反対。旧軍人の社会復帰を拒否。また日本政府の中にも海図を米国に渡した行為を問題視する動きあり。世が世なら抗命罪。

新生日本の水路部を率いる望みは消え万策尽きた思い。
だが日々の暮らしの金が要る。蔵書を売ることにしてMに相談し、キヌタ文庫を紹介された。オート三輪で受け取りに。
精算を終え本と共に去って行く車を
「バタバタっていうんだよ」と言う光雄。
プロ野球のラジオ実況に夢中の光雄が今日の試合の結果を話す。
大阪タイガース対パシフィックで大阪の勝ち。

数日後キヌタ文庫店主から、Mの家が焼け彼が死んだとの速達。
急ぎ電車で成城学園前に行き店を訪れ、店主と共にMの家へ。
すっかり焼け落ちた家。一人で住んでいたM。
沢山の蔵書と戦争についての資料が全て焼けた。あの鞄も。

警察署で状況を聞く。担当刑事はこちらが元海軍少将と聞いて態度を変えた。Mは遺体で見つかり側頭部を銃で撃たれて即死、ガソリンで放火されたという。

心当りを聞かれ戦史の専門家、資産は本しかなかったろうと答える。使われたのは十四年式 陸軍制式拳銃とのこと。貴重な種類の焼尽。Mに歴史を書かせたくない者の存在。

店主と別れ電車に乗りながら考えた。Mは歴史家だった。歴の本義は「年表」。資料の精読によりそれが意味するものを抽出、精錬し時代の流れを綴る。だがそれを喜ばない者がいた。開戦から、見込みのない戦いの継続、そして敗戦。それらを闇に葬りたい。
だがそのために人を殺すか?これは焚書であり坑儒

九月のある日、光雄にせがまれ後楽園球場に行った。
蒸し暑く雲は厚い。チーム名の記憶もない。仮に甲と乙。
甲が初回に3点獲得。だが2回には4点取られ逆転。その後乙は確実に点を重ねるが、甲は反撃できず。実力が違いすぎる。
これでは一年半前に終わった日本とアメリカの戦争と同じ。
歴史に重ねて暗鬱な思いに。敗軍の将の思い。

それを思わせる雲の広がり。やがて雨。
【読者のみなさまへ 今回と次回は連載初期の記述と異なる(季節が違う)。史実との齟齬を生じた。ご海容願いたい】
10
激しい雨で試合は中断された。

観客も帰り始め、光雄に促されたが立てなかった。
加来止男、あいつが身に負った水の量に比べればなにほどのものか。艦と共に水没。
それについ二か月前に死んだMの事も。この戦争の総括をするつもりで誰かに殺された。この激しい雨が自分の罪を洗い流してくれないか。この雨が浄化の雨に思えた。

11
洋子
光雄と後楽園へ野球を見に行った父がズブ濡れで帰って来ました。
その晩から発熱。高熱が続き往診で入院の勧め。
聖路加病院満床のため目黒の国立東京第二病院へ。
母は仕事のため私が付き添うことに。教科書も持ち込む。
父の恢復を主に祈ります。
12
入院翌日父が腹痛を訴えました。診立ては腸閉塞。

雨に打たれ内臓全体が弱ったとの事で緊急手術になりました。
手術は無事に済み私は休学して炊事の支度。病院での基本は家族の自炊。今までは女中の和さん。笠岡の時も同行してくれました。
父が和さんの肩を揉んだ事もあります。茶目っ気がありました。
13
父の容体は一進一退。食が細く、お粥を銀のスプーンで少しづつ食べさせます。貴重な銀器の一本。

元気な日には銀のスプーンをくわえて生まれるという事の軽口も。
十一月、病室で父に日本国憲法公布の新聞記事を聞かせました。
末尾に天皇の言葉・・・自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。
「そういう時代になったのか。Mなら何というかな」とため息の父。
14
冬が近づき父は肺炎に。特効薬のペニシリンは入手が困難だとの事。
母がHQの伝を頼り入手。

闇で三千円とも言われるその薬を使って父は恢復しました。

父は後にその話を聞き元が青カビの碧素(ヘキソ)だと言いました。
顕微鏡写真で見ると日食のコロナの様だと。病床でも父は天文学者。
15
年が明けた昭和二十二年。私はひどい風邪-流行性感冒に罹り父の看護に苦労しました。父は私のことを天からの使いだと言ってヘブル書の十三章の言葉を教えてくれました。
「旅人の接待を怠るな、或人これに由り知らずして御使を宿したり」
文彦兄さんが芝居にしたいと言っていたトルストイの民話-堕天使の話を思い出します。
16
私が恢復した頃母が病室に来て新しい職場に移ると父に話しました。千葉の民生局での仕事。子供たちも連れて引っ越し、九品仏の家は人に貸すといいます。そして家族は稲毛に引っ越しました。
父はますます食が細くなり、日中もうろうとする様になりました。
ある日浅岡済子さんからの葉書が来たと伝えると、すっと頭が冴えたよう。立教高等女学校を水路部の分室にするに際して使者となってくれた人。今は運輸技官とのこと。

塚本先生は今は編暦課長で、時間をかけて養生するようにとの伝言。
17
父はいよいよ覚醒している時が少なくなりました。
ある時聖歌の「主よ、みもとに」を歌って欲しいと頼まれました。
タイタニック号が氷山に衝突して沈んだ時、楽団が最後に演奏したのがこの曲だとの事。
主よ、みもとに近づかん 登る道は十字架に
ありともなど悲しむべき 主よ、みもとに近づかん

歌う途中で私は泣いてしまい、父の枕に涙が落ちました。
18
回診のお医者様からご家族をお呼びに、の言葉。
電話局で オトウサマキトク」ヨウコ
病院に戻ると父の息は途切れとぎれ。風の中の蝋燭の炎のよう。

父は私たちにとって眩しい炎でした。その火が消えようとしています。

「内山はいるか?」の言葉。心は水路部に戻っています。
内山修治さん、腹心の部下。牧師さまが最後の塗油の儀式を施してくれました。稲毛の家族が到着。そして火は消えました。

19
父の葬儀が三光教会で行われました。たくさんの方々の見送り。
 神ともにいまして     ゆく道をまもり
 天の御糧もて         力を与えませ
 また会う日まで       また会う日まで
 神の守り              汝が身を離れざれ

この歌は別離の歌だが再会を約す歌でもある、と言っていた父。

父がローソップ島の日食観測時、この歌で見送られたとの話。

多分父の生涯で最良の日。
主を信じその教えを守る者、天文学者であること、そして海軍軍人であること。この三つが一人の中にありました。

父にとって軍人であることは重荷だったようです。
モーセの第六戒「汝殺すなかれ」 それでも人は人を殺す。
人は言い抜けを考えると父は言っていました。
計画的に準備すれば謀殺。怒りの激情なら故殺。

軍艦で敵の軍艦に砲弾を撃つのは謀殺ではないのか。
「でも、お互いさまです」
「そうなのだ。主の教えでは人間は救えない」
20
父が亡くなった後は稲毛でぼんやり。母は毎朝元気に出勤、弟妹らは学校に出掛けます。光雄 十歳、直子 九歳、輝雄 七歳、紀子 五歳。

子沢山は父の力添えと言う母。
私は大学に退学届を出した後水路部に行きました。

父が信頼していた内山さんに面会。ここへの就職のお願い。
嘱託で水路部の編暦課で働くことに。給料が家に入れられます。
21
私が水路部に通う様になった後、仕事が変わる事になった母が九品仏に帰ろうと提案。皆が賛成。元の学校に戻りたい。
新しい仕事は日本中の学校にPTAを作ること。
学童の親と教師の会。勉強より働く方がいいと言う光雄を叱る私。
輝雄の言う教室の標語「心を正しく 体を丈夫に まじめに勉強

の言葉を苦笑して肯定する母。
22
ある日栄おばさまから手紙。見合いの勧め。
相手はおばさまの従弟の岡達夫さん。十歳上。
軍歴の最後は陸軍の船舶部門中隊長。今は建設会社勤め。
温厚な顔を思い出します。
1948年五月二十三日、父の死後一年二ケ月後に私は達夫さんと結婚しました。栄おばさまは秋吉家と縁の深い牛島家の出。

牛島惣太郎師と奥様胡蝶さんの娘が栄さん。
主が見ていて下さる、という父の声。
23
父が亡くなった後の家族の歩みです。
私が結婚で家を離れ、一人一人巣立ちました。
母は1949年に進駐軍を離れYMCAに戻って精力的に働きました。
光雄は元外交官 福島慎太郎さんの仲介でホテルオークラに就職し、その後同ホテルのニューヨーク支店に。

やがて念願だった牧師への道に。アメリカの神学校で資格を得た後日米間を往復して聖務に励みました。六十二歳で主に召されました。

24
母がした思い出話。庭のトマトの手入れをしていた父が縁側で団扇を使う母に「あたしゃー養子じゃありまっしぇんとばい」

母は慌てて麦茶を運んだとか。笑い話の一つ。
私は結婚してすぐに昭子、淳一郎を産み淳一郎は薬学者に。
直子は中学を出てアメリカに。育てきれないためという理由。
家事と子の世話で苦労し、その後何とか大学を出て看護婦資格を得たものの、看取る辛さが合わず。
のちに日系二世のサムと結婚して三人の子を生しました。
25
輝雄は兄の光雄と同じ立教大学に進み比較宗教学を専攻。佳公子と結婚した後イスラエルに留学。のちに「新共同訳聖書」事業に参加。 

光雄、直子、輝雄、紀子、そして息子の淳一郎も異国の楽しい話を聞かせてくれました。子は授かるものではなく主から預かるもの。
弟妹、息子もよく育て、世に返せました。
26
一番下の妹紀子もアメリカで勉強。聾(ろう)者の教育の専門家に。
輝雄がイスラエル在住時に戦争となり、その安否を知るため頼った縁で、紀子は中学の同級生でもあった外務省の藤井くんと結婚。
イスラエルからの帰国で輝雄が妻佳公子に買って来た絵本についた文章が旧約の「雅歌」
聖書に似つかわしくない奔放な恋の歌。
人生の最後に輝雄が自分の言葉で訳しました。
わたしの鳩 岩の割れ目、崖の陰から 出てきて姿を見せておくれ
声をきかせておくれ きみの声は耳に心地よく きみの顔は愛らしい

27
内山修治

昭和五十五年九月廿三日。
水路部で最も恩のある秋吉利雄さんの墓まいり。
西武是政線多摩墓地駅から墓地へ。茶店で誰かの句を思い出す。
今日彼岸 菩提の種をまく日哉 
事務所で聞いた墓番号を頼りに行き着いた。

墓誌を見るが長年月日のため摩滅して良く読み取れない。

香煙の中で沈思黙禱。秋吉さんの顔が浮かび涙。
28
私の郷里は佐世保。日露戦争勃発以来戦線第一基地。私の一家も佐世保に居を構えた。当時私が八歳の頃、戦争ゴッコでいくらか年長の少年が味方してくれた。その後一家は移転。彼は秋吉といった。
それをいつか秋吉さんに話そうと思ったが叶わず。
水路部生活中最も嬉しかったのは出張。単調な計算作業を察して秋吉さんが九州地方へ出してくれた。

母と逢う機会を与えられたことに感謝。少佐級の人への紹介状を携えて行くと「秋吉君は元気か」との言葉をもらい親密さがうかがえた。
29
戦時中、秋吉さんと共に汽車に乗っていた時、二機の敵機襲来に遭った。乗客が逃げ出す中、秋吉さんは動かない。促してようやく一緒に逃げた。もしあの時爆撃されていたら濃尾平野の土になっていた。
人間の運命は紙一重。
(秋吉利雄の声)
なぜ列車から逃げ出さなかったかを内山に話さなかった。
加来止男の事を考えていた。
空母「飛龍」の艦長としてミッドウェーの海に沈んだ。
彼の千分の一でも危険を共有したかった。そして加来の操縦する艦載機があの二機を撃墜してくれたらと夢想した。
その一年半ほど後、私は後楽園球場で雨に打たれながら海没した加来を思った。
30
秋吉利雄が亡くなってまもなく七十五年、長女の洋子が他界して八年。この先を報告するのは作者の僕しかいなくなった。
輝雄は2011年に他界。直子、紀子は健在。
2018年、国際機関「海底地形名小委員会(SCUFN)」が太平洋の海底の山を「秋吉平頂海山」と命名。

我が国独自の天測暦を完成させた功績によるもの。

海山とは海底から千メートル以上の高さがあるもの。
ハワイから北に延びる海山列はプレートの動きによるもの。
こういう事を科学者である利雄さんと話したかった。
さて平頂海山。火山島だったものが海の侵食で平らになり沈下した。
北緯20度、東経156度あたりにあり、山頂は水面下1579メートル(ご近所においでの節はお立ち寄りください)
秋吉利雄の業績は世界地理に名を残すほどのものだったのです。