「三年勤め学ばんよりは三年師を選ぶべし」
中国語を学んだ動機の一つに、武術を極めたいというのがありました。
武術・武道における師匠は絶対的な存在で、弟子より圧倒的な力を持っていて、弟子を導くことができる存在。
この「師匠」と語学の「講師」、学校の「教師」など人にものを教える存在をいつも重ね合わせていました。
還暦を過ぎ、今後の余生を思う今、学ぶこと、教えることについて考えることの多い毎日ですが、独学で学ぶより時間をかけてでも良き師を選ぶことの方が大切だと教えてくれるこの言葉のことを思い出し、正確な表現をネットで探しました。
最初に見つけたのはある寄稿でしたが、この言葉の意味を確認したのはこのサイトです。
最初に見つけたのは次の寄稿です。
寄稿された方は「屋敷建夫」師、ネットで調べるとお医者様でした。
それもご高齢のお医者様。
この寄稿には、「学ぶ」ということについて深く考察されています。
私にとって大きな学びとなったのは:
清水安三氏は、「学而事人」(まなんでひとにつかえる)を座右の銘として、学問のために学問するのでもなければ、教養のために学問するのでもありません。人に奉仕するために学問すべきである。学問に限らず、すべては自分の利益に行うのでなく、人に奉仕するために努力すべきとした。
私が中国語を学んでいるのは「人に奉仕するため」だったのだと今更ながら思います、そして、「教える立場」としては:
一方、師となる指導者にとって最も大事なことは、「最高の熱意である」と松下幸之助氏は言う。
「熱意こそ、ものごとをなしとげる一番の要諦」
「なんとなくやりたくない、という程度では事は、なるものではない。なんとしてもこれをやりとげようという熱意があってはじめて知恵も湧き、工夫も生まれてくるのである」
「熱意に関しては誰にも負けないものを持たなければならない。知識なり、才能なりにおいては人に劣ってもよいが、熱意については最高でなければならない。指導者に、ぜひともこれをやりたいという強い熱意があれば、それは必ず人を動かすだろう。そしてその熱意に感じて、知恵のある人は知恵を、才能ある人は才能をといったように、それぞれの人が自分の持てるものを提供してくれるだろう。指導者は才能なきことを憂うる必要はないが、熱意なき事を恐れなくてはならない」
そして、そのような師は「いちばん謙虚で、だれよりも感謝の心が強いように思われる」と松下幸之助氏はのべている。
還暦を過ぎ、来年定年を迎える私ですが、大いに反省しました。
私は中国語を学び、中国語を使って人の役に立つように生きてきたつもりでしたが、今、「熱意」をなくしていました。
指導者とまで言えなくても「教える立場」にとって大切なのは「熱意」。
今の私にとって「師」は笈川幸司先生です。
「学ぶ立場」として、今、ネットには情報は多く、その気になれば大いに学ぶことができるでしょう。
でも、多くある情報の中から学ぶべき情報を取捨選択することが難しくなっているとも思います。
中国語を学び、学び続けている皆さん。
どうか、中国語を学ぶ意義について考え、ご自分の目的に合った「教える人」を探して欲しいと思います。