呉晗 著
佐々間重男、小林文男 訳
勁草書房1965

 

呉晗ウーハンの名前は、日本では殆ど知られていないが、中国では高校を出た人なら皆一度は聞いたことがあるはずだ。なぜなら、歴史教科書の文化大革命に関する記述に、かならず次の出来事が登場するからだ。

 

1965年11月10日、上海の『文匯報』が姚文元の記事「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を発表し、この劇が「毒草」であると指弾した。記事は『人民日報』に転載され、毛沢東にも称賛された。このことが、文化大革命の序幕となった。

 

この『海瑞罷官』の作者こそ、本書の著者呉晗である。海瑞は明代の清廉潔白で名声を博した官僚であり、大岡越前ばりの名裁判エピソードが多数残っている。『海瑞罷官』は、平民の無実の罪を晴らし、悪徳官僚を懲らしめた海瑞が、陰謀によって罷免・投獄されることになり、罷免の直前に悪徳官僚を処刑した話となっている。そんな典型的な勧善懲悪ストーリーがなぜ「毒草」として批判されたのかは最後に述べるとして、まず本書を見ていこう。

 

本書は訳者の二人が呉晗の既刊著書から数編を選び、再構成した本だ。明代の歴史を専門とする呉晗は、戦前に緻密な歴史研究を行い、かの胡適にも称賛されたほどだが、生真面目な学術論文はこの本に一本も収録されていない。というのも、新中国発足後の呉晗は官僚政治家に転身し、以来10年間研究をしておらず、本書刊行の時点では北京市副市長の要職にあった。そんな彼が大躍進運動に刺激されて、「自分の限られた歴史知識でもって、いささか歴史知識の普及とその仕事をしようとした」と、数年の間に三冊もの文集を出した。本書に収録された文章は、すべてこの三冊から選ばれている。つまり、はじめから濃厚な政治色を帯びた文章たちである。

 

 

気をつけるべきは政治色だけではない。本書のタイトルは呉晗の手によるものではなく、訳者たちが「日本の皆さん、新中国はこんな人間観を持っているんですよ」と伝えようとした親切心から付けられたものだが、読了した人間として言わせてもらえば、どうしてもミスリードの意図が見え隠れする。実はぼくもこのタイトルに騙されてしまった。荘子、李卓吾と読んできて、さて毛色の違う中国人の人間論はないかと探し、この本に出会ったわけだが、いざ読んでみると、人間そのものがどうなのかを正面から論じるのではなく、サブタイトルの「歴史人物を中心として」が示すように、歴史人物をいかに評価するのかを思考した本である。

 

 

 

 

しかし、騙されはしたが、決して読むのが無駄ということにはならない。濃厚な政治色、歴史人物を通して理想の人間像を打ち立てようとしたところに、あの時代のーー今もそうだがーー中国の特徴がよく現れ、さらに呉晗の運命も相まって、大変興味深く読めたからだ。昨年の中国共産党の「歴史決議」が注目されたように、中国は古代より、前に進むために必ず歴史を総括し、その評価について少なくとも見かけ上の合意を形成し、諸々の出来事と人物の価値の優劣をつけることが必要であった。どのような人物が立派で、その判断基準がどこにあるのかを明らかにすることで、この時代に求められる人間像を浮かび上がらせる。その過程において重責を担うのは往々にして歴史家であり、彼らは歴史を編纂・記述・論評することによって、自身の、あるいは政権の倫理観・価値観を世の中に伝えていく。そんなプロセスが数千年続いた中国にあって、呉晗が本書に収録された文章を執筆したのは、大躍進運動に突き動かされたからというより、そうするのが中国では当たり前だったからである。そして、訳者が注釈した次の言葉が示すとおり、彼以外にも多くの人が、この当たり前の事業に加わった。

 

1959年以来、中国の歴史学界では、歴史人物の評価の基準を何に置くべきかという点から、曹操の評価をめぐって大論争が展開され、関係論文が千篇近くも発表されている。

 

本書が刊行されたのが1965年だから、わずか6年間で曹操に1000篇である。どう考えても中身が伴っていない文章が大半だと思われるが、それにしても、曹操のなにがそんなに面白いのだろうか。三国志ファンならご存知だが、曹操の中国でのイメージは日本ほどよくない。新時代を切り開いたのは確かだが、どちらかといえば「姦雄」ーー大事業を成し遂げたけど人間的によろしくないーーというのが、彼につきまとう枕詞だ。しかし、どうやら呉晗の時代では、再評価の流れが起きたようである。呉晗は次のように言う。

 

曹操をいかに評価するかは、多方面から検討しなければならないのである。曹操には光明の一面もあれば暗黒の一面もあり、保守的な一面もあれば進歩的な一面もあり、良い面もあれば悪い面もあった。だが総じて、彼が当時の人民、当時の歴史の発展に果たした役割、さらにその後の歴史で彼が果たした役割から考えて、曹操は肯定されるべきであり、歴史上その地位を保たるべきであることは疑いのないところである。

 

つまり、曹操という個人には数々の問題があれど、「当時の人民、当時の歴史の発展」には有益であったから、高く評価されるべきだというのだ。同じ理屈で、呉晗は則天武后をも立派な人物だと評する。さらに明代に北方のオイラートの侵攻に徹底抗戦した于謙、中国でも無名と言っていい地方官の談遷をも取り上げ、「記憶されるべき人物」だと持ち上げた。

 

ここで、当然の疑問として、「なにが発展なのか」「どうして有益だと言えるのか」と考えるだろう。そもそも、歴史人物の評価は常に揺れ動くものであり、時代によって評価が180度逆転することもありうる。呉晗もそのことをよく理解していた。再び曹操を例に見てみよう。

 

歴史研究者にはまだ為すべき仕事があると考える。それは、曹操にたいする当時の支配階級の側からの見方と当時の人民の側からの見方とをさらに区別すること、また魏・呉・蜀・晋の歴史家の彼に対するそれぞれ異なった見方と評価を区別すること、三国時代以降の歴史家、政治家の彼に対する見方を区別すること、等である。
(中略)
このように、種々の理由によって、曹操という人物の歴史的地位は、時代の変遷にしたがって、その評価が変えられてきたのである。したがって、歴史の研究には、やはり歴史全体の発展過程から研究をすすめるべきであり、そうでなければ、一人の歴史人物の真実の姿を捉えることはきわめて困難になり、単なる一つの仮象に過ぎなくなってしまう。これは非常に危険なことである。

 

なるほど、一見すると、正しい主張のように見える。とくに「歴史の研究には、やはり歴史全体の発展過程から研究をすすめるべき」というのは、マルクス主義歴史学の見方であると同時に、ランケを代表とする19世紀の歴史学の重要な方法論であり、マルクス主義では包みきれない広さを持つ考え方だ。この主張に基づき、呉晗はさらに歴史を研究する上での注意点を複数提起した、なかには、「出身階級は歴史人物を評価する唯一の条件ではない」、「人物を論じる場合、その政治的言動と役割から評価すべきであって、個人の生活からはじめるべきではない」、「今日の我々のイデオロギーを古人に押し付けてはならない」といったものもあり、すべてにおいて共産党の政治判断を優先する1960年代では、貴重且つ大胆な主張とさえ言える。この点から言えば、さすが呉晗は戦前の清華大学を出ただけのことはあり、官僚になっても歴史家の本懐を持ち続けていたと言えよう。

 

だが、残念なことに、上記の貴重且つ大胆な主張は、すべて一つの前提条件に従属していた。その条件とは、「歴史人物を評価するには、当時の人民の利益から出発しなくてはならない」ということである。この一言によって、本来生き生きとしていた歴史人物が、すべて無味乾燥なプロパガンダの材料に成り下がった。どういうことか。

 

 

前々回の記事で扱った荘子は、「自由な人間」になることに最上の価値をおいた。後天的に付与された足枷である貴賤、賢愚、栄辱などの価値付けが絶対的なものではないことを知り、自己の存在はこれらの一面的な価値を超えた根源的な理に支えられていることを知ることを繰り返し説いた。前回扱った荘子から1800年下った明末の李卓吾は、生まれたまま「童心」を保ち、いかなる後天的な規範をも退け、童心から自然に流れ出た感情を表現することを何よりも大事にした。そして数ヶ月読んできた魯迅も、最後の小説『起死』において、一切の歴史的筋書きと権威から押し付けられた規範を排除し、ただそこに生きている一人の人間を描いた。彼らの立場に賛同するのなら、自ずと次の結論に至るはずだ。

 

人間は一人ひとり異なるものであり、全く同じ人間が存在するはずがない。

 

となれば、「人民」という概念が歴史を評価する上で、いかに危険なのかにも気がつくだろう。人民とは「people」である。複数である。本来は一人ひとりで存在し、決して複数としてひと括りできないはずの数億もの人間が、国家という大怪獣によって、一つの「人民」に仕立て上げられたのである。その人民がマルクス主義に基づいているのか、あるいは別のなにかに基づいているのかは、この際もはや問題にならない。十人十色を捨て去り、画一的な評価基準を立てた時点で、すでに崩壊への序曲が始まっているのだ。

 

しかし、呉晗が上記ことに考えが及ばなかったとは考えにくい。明史を専門とする彼なら、王陽明も李卓吾も当然熟読していたはずだ。にもかかわらず、彼はそれに与せず、むしろ朱元璋のような帝王を持ち上げる道を選んだ。そこには同じく朱元璋を好む毛沢東への媚びへつらいがあったと考えることもできよう。しかし、それ以上にぼくが気になるのは、中国史、とりわけ思想史を通して眺めた場合、荘子・李卓吾・魯迅のように人間の自由を高らかに歌い上げる人々が、一度も政治の中心になれなかったということだ。中心にはいつだって儒学のお偉い先生たちがいた。彼らの学問ももちろん素晴らしい、しかし、やはり彼らの思想はどこか人間に枷をはめてしまう。呉晗もその伝統を汲む一人に過ぎなかったのである。

 

ここにきて、ようやく最初に掲げておいた疑問に答えるタイミングが来た。呉晗が書いた『海瑞罷官』は、何故「毒草」と批判されたのか。実は、『海瑞罷官』も本書の諸論文と同様、はじめから高度な政治的動機によって執筆されたものだった。1959年、大躍進政策の修正を求めた国防部長の彭徳懐を失脚させた毛沢東は、党内の動揺を抑えるため、「本物の海瑞と偽物の海瑞を分けなければならない」と述べ、彭徳懐の直言は海瑞の精神を受け継いだものではなく、右派の偽物の海瑞に過ぎないとほのめかした。これを受けて呉晗は彭徳懐批判に同意する論文を執筆し、さらに1960年に『海瑞罷官』を書いたのである。すでに1950年代の反右派闘争の時期から、政治の風向きを読み、自分の同僚を告発し失脚させた呉晗からすれば、上意を忖度することはお手の物だったに違いない。

 

ところが、政治の風向きはいつだって急に変わる。1965年11月、上述の姚文元によって書かれた批判では、『海瑞罷官』に書かれた冤罪取り消しと土地の民衆への返還が、反革命分子らの冤罪取り消しと集団化された土地の農民への再分配を主張するものとして指弾され、暗に呉晗は彭徳懐一派の郎党だと断じるものであった。毛沢東の真意は、呉晗の上司である北京市市長の彭真を追い落とし、さらに彭真を支えていた劉少奇を失脚させることにあるとされている。なにはともあれ、今度は呉晗がつるし上げに遭う番となったのだ。まもなく北京市副市長を解任された彼には、なおも容赦のない批判が浴びせられ、文化大革命が最も激化していた1968年についに逮捕され、政治犯・思想犯を収容する刑務所に収監される。そして1969年3月、妻が迫害されて死亡。同年10月、呉晗が獄中で死亡。さらに1976年9月、呉晗夫婦の養女も、精神病院で自殺した。名声、地位、生命、呉晗はすべてを失い、家族も道連れにされ、そして今なお、彼は骨のない文人の一人と目されている。

 

 

呉晗の内心はおそらく複雑だ。それをうかがい知ることはもう不可能であろう。だが、彼がかつて持ち出した「人民」というキーワードが、度々曲解され、彼自身への批判に用いられ、さらに彼とその他大勢の身に降り掛かった惨劇を正当化させるのに使われたことは、疑いようがない。だからぼくは、呉晗の内心を知ることできないぼくは、「人民」という大上段の概念に正面から抵抗するだけの勇気のないぼくは、今のところ「人民」の正反対に立つ「個人」に拠ることしかできないのだ。

 

 

劉岸偉 著
中央公論社1994

 

本書を読むまで知らなかったのだが、著者の劉岸偉氏は、ぼくと同じく北京外国語大学日本語科の出身だ。しかも、東京大学に留学した点でも同じ軌跡をたどっている。といっても、この大先輩のお目にかかったことは一度もない。彼が北京外大を卒業した1981年は、ぼくがまだこの世に生まれてきていなかった。ぼくが北京外大に通う頃には、彼はとっくに博士号を取得し、日本の大学で教授をしていた。会う可能性があるとすれば、日本在住の北京外大OBが集まる同窓会くらいなのだが、あいにくそのような場を好まないぼくはできるだけ出席しないようにしている。そして、本書を読む限り、劉岸偉氏も同じ人種に思えた。

 

それでも、読みながら勝手に劉先輩の声を想像できるほど、ぼくは彼の書く文章に親近感を覚えた。北京外大を出た以上、彼もぼくも日本語はほぼ完璧だが、さすがに論文を書くとなると一から学びなおすところも多い。しかし、東大の先生は留学生に日本語の論文の書き方を教えてくれるほど親切ではない。すべては自分で読んで読んで読みまくって、体で覚えるしかないのだ。だからぼくたちが書く日本語は、必然的に自分が傾倒し繰り返し読んだ学者の影響を受けることになる。劉岸偉を例にいえば、溝口雄三の文体の影響が随所に見て取れ、それに気づく度に、ぼくは思わず頬が緩む。ぼくの父親とほぼ同い歳の彼が、ときにはボロアパートの小さなデスクで背中を丸め、或いは東大文学部図書室の資料の探しにくさに閉口し、さらに総合図書館のカビ臭さ漂う地下書庫に半日も潜り酸欠になりながら、日本の先達が書いた書物に没頭した様子が、目の前に浮かんできて、そのことにどうしようもなくノスタルジーを覚えるのだ。

 

こうして、学問の世界から逃げたぼくは、失礼にも今現在東京工業大学で活躍されている劉氏に自分の姿を重ねた。しかも、そうした経歴だけではない。外国語を勉強し、その国へ行き、そしておそらく二度と祖国に定住することがないであろうぼくたちは、劉氏がまえがきに書いたように、帰国する度に「この国の体温と呼吸にじかに触れたような気がする。この生身の感触は新鮮で、また懐かしいものでもあった」という感慨に浸る。そして、これまた同じように、中国を外から眺める言いたい放題の人々に違和感を覚えるのである。劉氏によると、1993年の時点では、チャイナウォッチャーたちが「官民を問わずこの社会の隅々にはびこる腐敗と物欲に溺れる拝金熱に目を見張っている。十数年前の人民中国を知っている人々はなおさら歴史と現実のギャップに戸惑う」のだという。他方、「中国から脱出した人々は、このギャップを埋め合わせる形で、いままで外部に知られていなかった毛沢東の中国の恐ろしい実態を暴き、世界を震撼させた」。こうして、1990年代前半において、恐るべき独裁国家としての中国のイメージが固まり、同時に中国人の強欲さも世界に広まっていった。

 

それらの主張に一片の真実があることは否めないとしても、論者たちが2022年現在のチャイナウォッチャーと同様に思い込みで物を言い、中国を脱出した人たちに至っては、いつの間にかスティーブ・バノンのような陰謀論者と歩調を合わせてしまった。肝心な中国そのもの、中国人そのものを見ようとする人たちは、1993年も2022年も同様に少ない。だから劉先輩の次の言葉は、まさしくぼくの思いをも代弁している。

 

かつて信仰に燃えていた人間が、いつの間にか金の亡者と化すのはなぜだろうか。それを単に人間の無節操や大勢順応と解釈するのは、あまりにもありふれた見方ではなかろうか。(中略)革命中国は一度もユートピアたりえたこともなければ、歴史の中国や現実の中国から切り離された「異常時空」でもなかった。そこには虚妄な生もあれば、真摯な死もある。崇高もあれば、卑劣もある。情愛、信義、中傷、裏切り……庶民日常の悲歓が昨日演じられたごとく今日も行われ、明日も繰り返されていくであろう。多少の例外はさておき、平均的な庶民にしてみれば、信仰を追い求める昨日と金銭を追い求める今日とは、感覚的にはそうかけ離れたものではないはずだ。それを「豹変」と見なし、不可解に思うのは、まさにこの「感覚」を解しないからである。

 

こうした「感覚」はどうすれば身につくのだろうか。ぼくはいまだにこの感覚を忘れがちだが、劉氏は完璧に身に着けたようだ。そして彼は、「李卓吾を読むことによって獲得した」という。この話はにわかに理解し難い。李卓吾は明末の人だ、そんな彼が、いかにして劉氏の現代中国に対する視線を変えたのか。

 

その答えを知るために、まず李卓吾の生涯を簡単に振り返ってみたい。1527年生まれの彼は、明末を生きた思想家だ。名は贄で、卓吾は号である。科挙に合格した後に官吏となり、54歳で辞職し著述に専念した。一応儒家とみなされることの多い彼だが、明末の三教合一のトレンドを反映し、道、仏の諸学にも通じており、加えて母方がムスリムの家系だったため、彼は多種多様な思想の影響を大きく受けたと言われている。その影響あってか、65歳の頃の主著『焚書』は儒教の規範から大きく外れた倫理観を提唱して世間を驚かせ、73歳のときに書かれた歴史批評『蔵書』でも、正統な史観に異を唱えた。しかし、これらの大胆な言論が中央の保守的知識人の逆鱗に触れ、老齢にも関われず李卓吾は投獄されてしまい、最後は獄中で自殺した。亡くなったのは1602年、江戸幕府が開かれる前年のことだった。

 

言論が弾圧されたことには嘆息するしかないのだが、それだけ李卓吾の言論が当時影響力を持っていたということである。中央政権が掲げる価値観との正面衝突があったものの、彼の思想や言論は、実は明末の知識人の恰好な代表だったといえる。明末とは何かを一言で説明するのは難しいが、本書の記述を引用するのなら、以下のようになる。

 

李卓吾が生活していた十六世紀後半の明末は、既成の世界像が崩れ落ちかけて、混沌と不安のなかに、新しい世界像が模索されていた時代であった。

 

既成の世界像が崩れ」たとは、どういうことであろうか。多くの日本人や一般書は、王朝時代の中国を「儒教の価値観が支配する世界」と表現する。ぼくに言わせれば、その言葉が完全に間違っているとは言えないまでも、因果関係をかなりの程度で誤解している言うべきである。たしかに、男尊女卑、親族のつながりの重要視、厳しい上下関係など、いわゆる儒教的と目される価値観が中国にはあり、今も根強く残る。しかし、それらは儒教が提唱したから広まったのではなく、すでに世の中にあったものを知識人が拾い上げ、体系化したのである。体系化の過程において、庶民が持つ素朴な価値観が、「道」「理」「気」など、彼らの生活からかけ離れた哲学的概念と関係づけられ、人間関係から宇宙全体の成り立ちまでを包括する膨大な哲学的世界観が完成した。その完成がおおよそ12世紀の宋代に起き、以降少なくとも王朝のイデオロギーとしての儒教が安定して奉られようになり、明末まで脈々と続いてきた。

 

当然ながら、その間、庶民の生活が大きく様変わりした。宋代にも『清明上河図』に描かれたような都市部の繁栄があったが、明代のそれは遥かに範囲が広く、より庶民に浸透したものであった。江戸時代の町人文化をイメージしてもらうとわかりやすいのだが、『金瓶梅』などが描写した猥雑な市井生活に混じって、人々の匂い立つような欲望が渦巻いていた。その状態でなおも儒教イデオロギーを掲げる中央政権、庶民との落差が広がるのも無理のないことであり、まさしく今の中国と瓜二つだ。それを目にした知識人は、これまでと同じ様に庶民の倫理をなんとか儒教の教説に組み込もうと奮闘し、結果王陽明がそれに成功し、燦然と輝く巨星となったが、だからといって庶民の生活が進展しなくなるわけではない。同時代のヨーロッパでは世俗化の動きがあり、その背景のなかで啓蒙思想が起きたが、中国でも同様なことが起きたと言えるだろう。異なるのは、ヨーロッパが宗教から自由になろうとしたのに対し、中国での抵抗の対象が儒教イデオロギーだったということだ。だから李卓吾のように、「今まで信じてきた規範のほうがおかしいのでは?」と感じる人が出てくるのは極めて自然な流れであり、そうした人物も一人や二人ではない。彼らの頭脳と筆から、儒教イデオロギーそのものを揺り動かす思想が生み出されたのである。

 

 

 

 

 

李卓吾の場合、その思想とは、「童心」の一言に尽きる。字のごとく、「幼子の心」「赤ん坊の心」の意味だ。劉氏によると

 

(童心は)文化・教養の「礼」の枠には納まらぬ素朴、粗野が抜けていないからこそ、「礼」の作為の色に染まらない純真さが保てる。それこそ人間存立の根拠であり、自らの生と死の意味を問う哲学の原点である。

 

だが童心は、人間がこの世界で生きるにつれ、少しずつ失われてしまう。悪いものに接したからではない。長じるにつれ様々なことを見聞きし、道理を知り、書物を読むことで、後天的の学習を通して身につけたこれらを根本的なものと勘違いしてしまうからである。人間の根本はあくまで生まれたままにして備わる童心なのに、それが外から来た規範に覆い隠されてしまう。たとえ童心を死ぬまで保ち続けたとみなされる孔子・孟子のような聖人でも、その著作を聖典のように奉じてはならない。大事なのは彼らの文章を通して流れ出た童心であり、文章それ自体ではないーーと、李卓吾は主張したのである。

 

同じく心を重要視した王陽明は、修行や学習を重ねることによって自然の心を取り戻せると考え、学ぶことの重要性を否定していない。仏教の禅宗も何より自分の内面を準拠し、仏をも殺せとうそぶくが、それでも座禅のような修行が必要であった。それに対し、李卓吾はすべてを一旦棚上げにする。とにかく童心を保つこと、生まれたまま童心を保ち、いかなる外物の影響をも退け、童心から自然に流れ出た感情を表現すること、これらを何よりも大事にしたのである。

 

規範を否定・拒絶することは、特に若者には魅力的に映る。だから李卓吾の思想が、明末において異端として否定されたにも関わらず、五四運動のときに再発見され、儒教の伝統を排撃するのに盛んに利用された。だが、プラスの側面だけではない。文化大革命に際しても、理性を喪失した狂乱に根拠を与える言説として、李卓吾は担ぎ出されたのである。確かに人の心は大事である、しかしそこに何らかの枷をはめておかないと暴走してしまうのも人間の心である。そのように考えれば、やはり王陽明のほうが一枚上手だったと言わざるを得ない。

 

だが、そう言われたところで、李卓吾は痛くも痒くもないだろう。彼はあくまで誠実に明末という時代に向き合い、人々のためらいなく欲望をさらけ出す社会に向き合い、先入観を排して人間を思考したまでである。劉氏の言葉を借りれば、「崇高もあれば、卑劣もある。情愛、信義、中傷、裏切り……庶民日常の悲歓が昨日演じられたごとく今日も行われ、明日も繰り返されていく」のを眺め、その繰り返しに潜む根本的な何かを見つけ出そうとしたのである。その結果として形成された「童心」は、彼一人の才気の賜物ではなく、明代という大木が結んだ危険な香りを放つ果実だと言うべきであろう。

 

その果実をかじった者はどうなるのか。文化大革命のときに利用されたと書いたが、実は劉岸偉氏も文化大革命中に初めて李卓吾を読んだ。しかし彼は理性を喪失せず、むしろ李卓吾の真意を汲み取り、現代中国を「童心」の視点から眺め直すことができたのである。共産主義か資本主義か、全体主義か民主主義か、左か右かなど、既成の規範に囚われた視点ではなく、そこに暮らす人々の生を、誠実に眺めようとしたのである。劉氏は本書のサブタイトルに「中国にとって思想とは何か」をつけた。結局本文中でこの質問の回答が示されることがなかったが、李卓吾の姿から自ずと答えが浮かび上がってくるだろう。

 

中国にとって思想とは、社会にはびこるしがらみに楔を打ち込み、それを打ち壊す可能性を秘めた、危うくも魅力的な力だったのである。

 

 

 

福永光司
中央公論社1964

 

数ヶ月の間、魯迅に掛かりっきりだったぼくは、そこからどのテーマに飛ぼうかと構想を練っていた。限りない可能性を持つ魯迅のことゆえ、候補がいくらでもあった。同時代のほかの作家か、日本人作家が観察した魯迅または近代中国か、ぼくが魯迅を通して読んだ「人間そのもの」を思考する別の作品か。どれも面白く、多分いずれ扱うことになるが、ふとこれまでこのブログで取り上げた本を振り返ると、どうも近代以降のものばかりだということに気がついた。しかし、中国を理解する場合、近代以降しか読まないというのは、非常に危険な判断だ。膨大な量の思想、文学、史学の古典を持つ中国において、後世の人は常に古典の祖述によって自身の思いを表現してきた。朱熹のエッセンスが彼が書いた四書の注釈にこそあり、王陽明の核心が先秦から宋代の儒者が使った用語への批評に表れるように。そして、古典を祖述した言説や著書もいつの間にか古典となり、さらなる後世の祖述を待つことになる。たとえば古典になりつつある魯迅は、すでに中国共産党を含む各勢力によって祖述される側となった。後世の人が常に正しく理解できているわけではない。故意にまたは思いが強すぎて古典を歪曲してしまうことがままあるのだ。だからこそ、古典の意味を正しくつかみ、後世の人がどこで間違えたのか、なぜ間違いを犯したのかを思考することが重要だ。そうした特徴を持つ中国に言説に対し、「古典によって掣肘されている」と攻撃することもできよう。しかし、そうした現実がすでに出来上がっている以上、中国の古代を知らなければ近現代を真に知ることができないのも事実である。それに、ぼくが大学院で出席したゼミの半分以上は古典を読んでいた。そろそろ慣れ親しんだものに戻ってみたいと思うのも、自然であった。

 

と、だいたいこんな考えで、魯迅から繋がりそうな古典を探していたら、今回の本に出会った。日本の道教研究の第一人者だった福永光司なら、読んでおいて損はないはず。それに「実存主義」という副題も今の関心事とぴったりだ。さて、どんなことが書いてあるのか。ぼくは逸る気持ちを抑えながら、最初のページを開き、そして驚いた。

 

人間は誰でも自由でありたいと願う。人間が誰でも自由でありたいと願うのは、人間が現実に不自由だからである。

 

この警句から始まる序説は、荘子の生涯を振り返るのではなく、人間学に注力してきた中国思想の特徴にも触れない。実存主義とされる西洋の哲学者の名前が数人出てくるが、その学説を解説してもいない。ただ延々と、冗長なほどに人間の不自由さと不条理さを喝破し、荘子を含む哲学者たちがその不自由さに気づいたために思考を続けてきたと指摘する。福永が問題にする「実存主義」は、荘子と西洋哲学の論点を比較し、類似性を指摘し「ほら中国古代にもこんなのがあった」と満足する程度の低いものではない(残念ながら中国の大半の学者はこの程度で満足してしまっている)。学術研究の対象として以上に、人生を思考する手立てとして荘子と実存主義を読んでいることを、福永は強調するのである。たとえば彼はこう言っている。

 

人間が古代専制社会においても近代市民社会においてもひとしく「ただひとり死んでゆく」存在であったように、人間の精神がまたあらゆる時間的空間的限定を超えてなお何らかの共通した構造もつものであるとするならば、初めから神を持たない人間の自由を追究した荘子の哲学は、これからの人類の生き方に関しても多くのものを示唆しうるであろう。

 

このような論の進め方は、ぼくからすれば意外だった。京大人文研の所長を勤めたこともある学界の重鎮である福永光司なら、日本の学者がおしなべてそうしているように、「史料」「原典」「先行研究」を踏まえた緻密な議論を展開するものだと思いこんでいたからだ。荘子を研究する著作なら、荘子という巨大な恒星を中心に、数多ある注釈者と研究者を惑星の如く登場させ、福永自身も惑星の一つとして、自分が観測した恒星の一斑を読者に伝える。それがぼくの熟知したやり方だった。しかし、この本はどうだ、荘子と福永光司しか登場しない。いや、それどころか、ときに福永は自分を莊子と同化させるのだ。たとえば第二章の冒頭部はこうだ。

 

よく晴れた日の蒙沢は木々の緑も美しく、梢にさえずる鳥の声も賑やかである。青く澄んだ空に流れる白雲は、木の間がくれの沼の水面に明るい影を落とし、灌木の間を縫って沼に注ぐ小川のうねりには、ところどころ、せせらぎが微かな音を立てている。
荘子は時おり、その小川にそってそぞろ歩きを楽しみながら、水に戯れる鯈魚ゆうぎょのすばやい姿に足を止め、川底を濁す泥鰌のひょうきんな動きに目をみはる。小川の流れは彼の歩みを蒙沢の林の繁みに導き、繁みを出はずれたところに沼の水畔があった。荘子はその畔の苔むした石に腰を下ろして、梢にさえずる鳥の声に耳を傾け、空に流れる白雲を仰ぎ見る。

 

荘子が魚を眺める話は、書物の『荘子』に確かに出てくる。しかし前後の風景描写と荘子の歩く姿などは、明らかに福永の想像の産物だ。それでも、妄想だと排撃されるのを憚ることなく、福永はすべての章や節で同じような手法を駆使し、読者を執拗に自分が想像した荘子の世界へといざなう。さらに大胆なことに、福永はときに歴史書を紐解き、血で血を洗う権力闘争を冷徹に叙述した後、荘子がこうした出来事を聞いて落胆し、人間の卑屈と卑劣さに悲嘆する姿を描く。荘子が悲嘆したという根拠がどこにもないにもかかわらず、だ。だから福永が書いたのは、史料調査を通して得られた事実ではなく、彼自身が荘子と命がけの対話を繰り返した結果、ついて自分自身のなかに荘子を取り込み、荘子の目を獲得した後に眺め直した自分を取り巻く世界の姿である。

 

ぼくは「命がけの対話」と書いた。事情を知らなければ、言い過ぎと思われるかもしれない。しかし福永光司は間違いなく命をかけ、幾度も死を覚悟したはずだ。彼は言う。

 

その小心な私が、祖国の名によって与えられた「死」を目前にして、恐れ怯みとまどう青年時代を過ごすことになったのも、まことに皮肉なめぐり合わせであった。自分の体にカーキ色の軍服を見いだしたときから、私は好むと好まざるとにかかわらず、この世から消えゆく心づもりをしなければならなかった。大陸の戦場での恐怖と戦慄に青ざめた数年間の生活がそれに引き続いた。『荘子』はこの時期の私にとって最も身近な存在であった。私の『荘子』に対する理解は、このような精神状況の中で培われたのである。

 

福永光司は、召集された際に『荘子』を行嚢に突っ込ませ、戦闘の休息時にそれを読んでいた。読書していないときは、荘子の末裔を殺し、または戦友が荘子の末裔に殺される日々を凝視する。人間の生がかくももろく、無価値になる極限状態。文字通り存在そのものを消される戦場。それを経験した福永は、自身の実存をかけて、荘子と対話を繰り返した。その結果、彼は荘子をなによりも中国の戦国時代に生き、自分と同じ様に日々死と混乱を眺めた人物として内面に取り込んだ。だから第一章のタイトルは、まさしく福永のこの世に対するダイレクトな感想を代弁しているーー「痛ましいかな現実」。

 

その現実は、天から降ってきた災厄ではない。他ならぬ人間が現実を一手に作り出し、自分自身を苦しめ続けるのである。だから福永は第二章、第三章で続けて断言する、「危うい人間」「惑える人々」と。これらの章で彼は『荘子』のエピソードを引用し、人間の愚かさと危うさを荘子が凝視していたこと、人間社会の軋みと歪みを荘子が鋭く醒覚したこと、そして人間の歴史の悲劇と虚無に荘子がしめやかな諦念を持っていたことを伝えようとする。ここまでは、この世の現状に心痛む良識ある人なら、誰もが一度はたどる思索の道筋だ。そしてほとんどの人はここでさらに思索することを諦め、現実を心ならずも受け入れるか、物的または精神的な自己麻痺をして一生を過ごすことなる。しかし、荘子はそうではないと、福永光司は考えた。

 

荘子は何をしたのか。第四章のタイトル、「真実在の世界」に、すなわち「道」の世界に荘子はたどり着いたと福永は言う。

 

「道は在らざるところなし」ーー真実在の世界は至るところに顕現しているから、一切万物はそれぞれに「理」ーー真理性をやどしている。人間は人間としての理を、鳥獣は鳥獣としての理を、草木は草木としての理を。ただ人間の人間としてのあり方と鳥獣草木のそれとが異なっているだけである。

 

福永が序説で述べたように、荘子は初めから神を構想していない。だから万物に宿る「理」は、現世を超えたところにあるなにかによって与えられたのではなく、万物がそれぞれ自分自身の内部に予め持つものである。その理に沿って万物は「自生自化」してゆくのみであり、人間もまた同様である。そのことに目覚めたとき、人間は己の存在の限りなき小ささと知力のこの上なき狭さを自覚すると福永は言う。

 

人間はこのような至大の世界の中で、おのずからにして生じ、おのずからにして化する万物の一つとして己の限られた人生を生きてゆく。彼は理由も知らされず、もしくは、理由を知ることも出来ずに、この世界に投げ出される。彼は己の生きていることを唯一の理由として、自らの人生を受け取り、かつ生きてゆく。生きてゆくことだけが彼の決意であり、生きてゆくことだけに彼は責任を持てばよい。

 

このような境地に至った人間は、第五章のタイトルが示すように、「自由なる人間」となる。「生きてゆくことだけ」とは、責任を放棄し日々物欲に浸るだけを意味するのではない。そうではなく、後天的に付与された、したがって自分の足枷となっている貴賤、賢愚、栄辱などの価値付けが必ずしも絶対的なものではなく、自己の存在はこれらの一面的な価値を超えたいっそう根源的な理に支えられていることを知ることである。それはまた、付与された価値をただ黙々と受け入れ、他人に好きなように色付けされる主体のない人間でもない。むしろその逆で、外物への執着がないがゆえに、あるがままに振る舞わうことができるのだ。

 

あるがままに振る舞うことのできる人間だけが、動揺し崩れることのない自己の主体性を持つ。

 

このような流れで、福永は悲惨な現実から出発し、『荘子』の原文をたどりながら、ついに現実から逃避するのではなく、逆に現実に強靭な主体性で立ち向かう荘子の姿を浮かび上がらせた。それはまた荘子を読む福永自身の姿であり、この数ヶ月読んできた魯迅の姿であろう。荘子、魯迅、福永光司を読んでいる今のぼくだって、彼らが到達した地平を目指したい、しかし、これらの偉大なる先哲が到達した姿は、我ら凡人の手が届くものなのだろうか。神がなく、外物によって付与される規範もない。あるのは「投げ出された」存在としての自分だけ。その状態で、外物に執着せずに主体性を持てというのである。そんな境地を支える精神とは、一体どのようなものか、ぼくにはとても想像できないのである。むしろ執着を排除するのではなく、執着そのものをも人間存在の根本的な「理」の一つとして考えなければ、大衆に手の届く議論を打ち立てることができないのではないだろうか。

 

ということで、福永光司の荘子はこのあたりにして、一気に1800年飛び越して、明末に行くことにしよう。

 

(本文は以上、以下補足)

 

学術的な観点から言えば、本書には指摘すべき点がいくつもある。まず、福永の引用は完全に『荘子』の構成を無視しており、原作者が同様な流れで議論を展開したわけでは全くない。また、引用文の選択が恣意的であり、『荘子』が帝王学の側面を持つことが読者に伝わらない。たとえば、漢代の歴史書『漢書』には「芸文志」という図書記録の一章があり、そこでは『荘子』のことを「君主が統治する術を説く」と位置づける。そして、おそらく最も批判されるのが、書物『荘子』の信憑性を全く問題にしなかったことであろう。福永はそのことを十分自覚しており、あとがきで次のように説明する。

 

これらの内容のうち、どれだけが荘周[荘子の名]の直接書いたことであり、どの部分が荘周本来の思想を忠実に伝えているかという問題になると、その判定をめぐって学者の議論はなかなかにかまびすしい。
(中略)
たとい後次的加筆であり竄入であろうとも、そしてまた、それらの叙述の間にたとえ思想としての本末軽重があろうとも、『荘子』全篇の内容は『荘子』全篇の内容として一つのまとまった思考を表現し、共通した性格を持つ。それらは万物斉同の哲学の思想的な底辺をなし、荘子的思考を培う精神的な風土を形成しているのである。

 

この説明で十分だとは思わない。だが、本書の価値は『荘子』をどう読むべきかよりも、「福永光司が荘子とどう対話し、どんな結論に至ったか」にある。その意味で言えば、間違いなく名著であり、ぼくをこの本に導いてくれた魯迅と、日本の優れた公共図書館システムに感謝する。