熱く散って逝ったもののふ列伝

熱く散って逝ったもののふ列伝

各地で撮った写真とともに、我ら祖先のもののふ達の、熱き生きざまを書いています。

▲越前 一乗谷朝倉館唐門
























































































































































郡上八幡城(岐阜県)へ。

ああ、無念、今日は曇天なり。

 

以前の晴天の時の写真、といっても10年以上も前。

 

今回は、ゆっくり野面積みの石垣を見よう。

 

こんな高いところによく組んだなぁ。

 

 

天守閣へ登る。

眼下の郡上八幡市街を望む。

 

 

 

幕末の悲劇、凌霜隊の碑を懐かしく読む。

 

「道ハ一筋ナリ」 か…。

 

凌霜隊隊長・朝比奈茂吉以下35人の名が刻まれている。

 

―――時は幕末、郡上八幡藩もまた、「勤王か、佐幕か」で揺れに揺れた。

郡上藩は迷った末、国元は勤王、江戸表は幕府方にという二股膏薬の選択を。

 

隊長の朝比奈茂吉は17才の少年。

郡上藩江戸詰家老、朝比奈藤兵衛の長男だった。

 

隊は江戸藩邸の藩士たちで組織、会津の鶴ケ城へ。

会津では凌霜隊は白虎隊に編入され、最後まで城内で戦い抜いた。

 

敗北・降伏後、生き残った凌霜隊は郡上へ

藩は新政府の目を気にして隊士たちを牢に入れ、一時は処刑と決まったが寺の住職たちの嘆願でなんとか中止。

だが隊士への風あたりがしだいに強くなり、郡上から離散したというから切ない。

 

この慰霊碑は当時、官軍・新政府側となった藩士の子孫たちが私財を集めて建立したという。


「なんとかならなかったのだろうか、申し訳ないことを…」

その気持ちが郡上八幡城下にいまだ残っているのだろう。

 

 

郡上藩のために出陣したのに、戻ってきたら反逆者扱い…か。

 

会津・飯盛山に凌霜隊の碑を見つけたときは感慨深かった。

初めて郡上八幡城へ来た時も、飯盛山へ行ったときも、まったく凌霜隊のことなど知らず、ぶらぶら帰ってきたわ。

それにしても白虎隊も、二本松少年隊も、凌霜隊も……。

 

ふもとから天空の城を見上げる。

 

高いなぁ。比高は100メートル以上という。

 

青空に映える。

 

風情ある街中の石畳。

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今朝の地元紙「市民タイムス」開いて、びっくり!

 

 

かつて地元のタウン紙(タウン情報・現MGプレス)に、「信州往来もののふ列伝」を連載していたころ、もののふのイメージ画を載せた。

 

松本第一高校には、普通科内に異色の美術工芸コースがあり、在籍する有志に、武将のイメージ画を描いてもらった。

 

その中で、きゃめろんさんこと、小林メルべ陽子さんには、
連載106回・106人の武将・もののふのうち、もっとも多くの人物を描いてもらっていた。
 
さっそくTELしてお祝いの言葉を送った。久々の会話が軽やかだった。
「あれから10年か…、よく地道にやり続けていたな」と、感心感激。
 
私もなかなかイメージがわかない武将たちの姿表情を、彼女はよく粘り、特に見本も無い中、頑張って描き上げてくれた。
締め切り直前に持ってきたことも何度か。
 
昔を思い浮かべながら、懐かしい話に花が咲いた。
メルべさん、おっと、これからはキャメロンさん、彼女が当時描いてくれたいくつかの武将絵を紹介しましょう。
メルべさんの今後の活躍が楽しみ、おおいに期待したい!
 
●信ちゃん(と、彼女がそういった)こと、織田信忠
 
●源義経(牛若丸)
 
●謙信重臣、甘粕近江守
 
●信玄重臣、山県昌景
 
●げんちゃんこと、久坂玄瑞
                      
                       ●山岡鉄舟 こえぇ~!

山岡鉄舟像飛騨・高山の街中に立っているとは知らなかった。

 

拙著「負けても負けぬ三十二将星列伝」で鉄舟さんを取り上げていたのに。

安曇野市からは、山一つ向こうのすぐ、向こう側に銅像があったとは。

 

ハハハ、剛毅な剣豪・山岡鉄舟もマスクか。

高下駄というのがなつかしい。

 

父が飛騨郡代に赴き、鉄太郎はこの地で少年時代を過ごしたという。

 

鉄舟像といえば、静岡市清水・鉄舟寺座像の風貌がいい。

 

そして、西郷が初対面の熱血漢鉄舟に惚れ込んだという「西郷・山岡会見」地(静岡市葵区)に立つこのレリーフ像の表情も。

 

山内一豊・ちよ夫妻像

同じく飛彈国、郡上八幡城の公園に。

妻室ちよが飛騨出身(城主の娘だったとも?)ということで、大河ドラマ関連で像がたてられたようだ。

馬の名は何だったけ?

 

ふたりとも、馬さんも、いい顔している。

この日は曇天にて残念。

 

 

因みに、一豊は後に土佐高知城主として大禄の大名に出世するが、出身は尾張。

岩倉市神明生田神社境内に、「山内一豊誕生地」の大きな石碑が立てられている。

 

越前あわら市吉崎へ。

一向宗中興の祖・蓮如の里、門徒の牙城だった吉崎山は、小雨だった。

記念館の座像も、吉崎山の立像も温和な表情。

さもありなん、像は大楠公や西郷像をつくったあの名人・高村光雲作というではないか。

吉崎の丘に立つ像は、台座も含めて高さ7メートルという。

 

浄土真宗(一向宗)開祖・親鸞以後、蓮如はここ吉崎で宗勢を大きく発展させ、加賀一向一揆の「加賀を百姓の持ちたる国」にまでした

 

能登・七尾へ。

一番の目的は七尾城なれど、まずは駅前の長谷川等伯像に拝謁。

遠い空を見つめていた。

「いざ、京へ!」と旅立つ意気込みを感じさせられる姿。

 

港の公園にも等伯像があるという。

青い空と青い海をバックに等伯像。

 

残念だったのは、七尾市ゆるキャラの「とうはくん」の写真が撮れず。

 

改札口からすぐの駅構内に、とうはくんの後ろ姿があるのに。

「ダメ、だめです」

「撮るだけだから、たのみますよ」

「ダメ!」

「ちょっとなのに…」

「ダメ、入場券を」

「ケチ~!」

 

これは七尾市のHPから、頂いたとうはくん。

528-5

等伯の描いた「松林図屏風」は、「空気を描いた絵!」として、今や日本で最も人気のある水墨画という。

 

かつて京都・智積院でのんきに、「楓桜図」などを眺めていたころ、等伯が七尾の出身とは知らなかった。

七尾市内・本延寺に、等伯が着彩したという日蓮上人があると聞き、見せてもらった。写真OKだった。

 

七尾市内の小丸山城跡の公園に、前田利家・まつ夫妻像。

大河ドラマ後に出来たらしい。

信長より能登を与えられた利家は、山城の七尾城を居城とせず、平地の海に近い小丸山に築城した。

後に、小丸山城は、代々前田一族が能登を治める城となった。

 

石川県から県境越えて、富山県氷見の朝日山公園へ。

ここに、あの幕末三剣豪の一人・斎藤弥九郎像が立っている。

「あの」といってもまず、斎藤弥九郎なんて剣豪は…。

 

幕末の剣豪といえば、近藤勇、土方歳三、沖田総司、千葉周作、人斬り半次郎、人斬り以蔵…。

そんな中、人々は当時、千葉周作、斎藤弥九郎、桃井春蔵を「三剣豪」と称えたという。

 

弥九郎の剣豪としての華々しい話は知らないが、練兵館の道場には門下生なんと三千人も! 長州藩士も多く、特に桂小五郎(木戸孝允)は弥九郎がかわいがった門人だったという。

 

弥九郎は剣の達人だったが、学問にも造詣が深く、後に明治新政府に出仕している。

弥九郎は裸一貫で氷見の村から江戸へ、学問・剣道に励む姿が多くの人に認められ、みごと世に出た。

 

小学生の頃、「日本剣豪物語」を読み、強く印象に残っていた剣豪だった。

10年ほど前、氷見に銅像があると聞き、ここに来たときは懐かしい?感じすらした。

 

弥九郎の三男・斎藤勧之助は、「突きの鬼勧」と呼ばれるほど、突きの名人として恐れられた剣豪だったという。

 

いやはやあまり知られていない斎藤弥九郎像が最後では失礼?のような。

というわけで、シメとしてかっこいい騎馬像を!

倶利伽羅峠古戦場の越中国側、小矢部市の埴生八幡宮の境内に立つ巨大な騎馬像。

皇居前の楠木正成像より大きいという、我が信州の英雄・旭将軍義仲像

ここまでお付き合い、読んでいただきありがとうございました。

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ここんとこ「大谷、打ったか?」で始まる朝。

 

王も長島も、張本も落合も、そして金田も成しえなかったホームランを量産して、ピッチャーで勝利して、大谷ってすげぇ!

こんなすごい野球人が出現するとは! しかも日本人! 

驚喜の一語!

 

というわけで本日の銅像トップは、武人でなくオータニのライバル?のこの人。

まさか投手もやっていたとは知らなんだ。

静岡・草薙球場、バッターとしてかまえるベーブ・ルース像。

投げるは「オータニ」でなく、沢村栄治像

1934年、ルースを1安打3三振に抑えた日米野球試合が行われた記念球場に立つ両雄。

投げる沢村。

 

打つは、野球の神様ベーブ・ルース。

 

左端と右端の像、わかるでしょうか、写真下手でスミマセン!

大谷さんにはがんばってほしいですね。

 

では本題

まず、主役は武将像でなく、馬の像。

馬の名は「磨墨(するすみ)、騎乗するは梶原源太景季

 

頼朝秘蔵の真っ黒な名馬を景季は切願して拝領、上洛軍に参陣した。

 

景季は、あの宇治川の合戦にて白馬・池月(生食・いけづき=これまた頼朝秘蔵の名馬)に騎乗する佐々木四郎高綱と渡河の先陣争いをした。

宇治川古戦場の名場面。

 

岐阜県国道472号線沿い、道の駅・「磨墨の里」に立つ見ごたえのある像は初見参。

ここは名馬・磨墨を産んだ地ということで立てられたという。

 

宇治川の先陣争いは池月騎乗の高綱が僅差で勝利。

因みに、佐々木高綱は我が信州・松本に「高綱中学校」の名を残し、墓所も学校近くにある(拙著CM「信州往来もののふ列伝」をぜひご覧あれ)。

 

さらに因みに、景季は後に父・景時とともに幕府軍に敗れ討死、ルースと沢村の、あの草薙球場のすぐ近くにて…。

 

 

源義平・おみつ像。

国道158号線沿いの道の駅「九頭龍」近く、笛の館庭園。

源義平とは源義朝の嫡男、通称「悪源太義平」

あまりに勇猛な武将にて、人々は「悪=強い」と付けて畏怖した。

しかし、平治の乱で源氏方は敗れて四散、義平は越前山中のこの地に逃れ村人に匿われていた。

 

その後、父・義朝の討死を知り、仇討ちを決意して都へ。

恋仲だった村の娘おみつにかたみとして青葉の笛を残したという伝説の像。

義平像の顔、いい顔だけどちょっと老け顔だなぁ、二十歳なのに。

 

道の駅「九頭竜」には、こんなすげぇ、恐~い親子の恐竜が!

しかもこれが動く、吠える! こえぇー!

これじゃ、義平さんとこまでは見にいかないわなぁ。

 

因みに、義平は京にて平家方に捕まり、憐れ斬首。享年二十。

 

後に義平の妻は、義平の死を知ると都に上り、その首級を密かに持ち帰り上野国・清泉寺(群馬県太田市)↓に埋葬、自らは尼となり夫の菩提を弔ったという。

 

墓塔(右)は、かなり磨滅しているが、悪源太義平と刻まれている。

 

 

 

九頭竜の里から福井の城下町へ。

ちょうど休日にて福井城内の県庁には人影少なく、天守台などをのんびり見物。

 

初代城主、松平秀康騎馬像

 

本丸のお堀端を散策周回。

それにしても福井城石垣の切り込みはぎ・打ち込みはぎは美しい。

ちょっとやそっとでは崩れそうにない。頑丈そう、堀も深そう。

 

お堀端散策ではまず、この二人の像に会わなければ。

「小楠先生、故郷の熊本にお帰りとか。拙者光岡八郎(由利公正)をぜひお供させてください」

 

「お、八郎君と同道できるとは嬉しいね、長崎での商談、うまくまとめましょうぞ」

とかなんとかと、笑顔で言葉を交わしているのだろうか。

右・横井小楠、左・福井藩士・光岡八郎(後の由利公正)。

私の超お気に入りの像、お会いするのはもう何度目か。

 

小楠は熊本藩出身の開明学者、藩主・松平春嶽が特に招いた。

後に明治新政府の参与となるも暗殺される。

 

八郎は、小楠門下の福井藩士。春嶽の側用人を務めた。

後に明治政府に出仕、あの五箇条御誓文の起草にかかわる。

 

市内幸橋畔に立つ由利公正像

竜馬曰く「天下の人物といえば、西郷と由利公正」

 

カメラを構えた地近くに、公正の生家跡碑が立っている。

お堀端へ戻って。

城の北側の御廊下橋、山里口御門。

左手が天守台。

 

お堀端の福井神社境内に、松平春嶽像が。

 

ここから北へしばらく行くと、橋本左内宅跡あり。

さて次は左内町の左内公園へ行かねば。

由利公正像から近いところ。

左内さんは、公園の中央、青空の中に高くたっていました。

若々しくきりっとしたいい顔。

江戸で斬首処刑された時、あぁ、弱冠25歳。

明治の時代に生きていたら、どんな活躍を…。

 

 

福井の偉人をもう一人。

福井城北側の公園広場におわしました。

岡倉天心像。

会いに来たよの銅像たち、まだ続きます。

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一揆全盛の15世紀。

一向一揆の「聖地」、いや「壮絶な最期の地」ともいわれる鳥越城を、石川県白山市に訪ねた。

 

1415年正長の土一揆、「日本開闢以来、土民蜂起、これ初めなり」と。

1428年山城の国一揆、「戦国時代の国民会議、ここに始まる」と。

そして1488年、加賀の一向一揆、「百姓の持ちたる加賀の国」と。

 

なんと加賀国は、蓮如が指導する一向宗門徒が守護・富樫政親を倒し、百姓門徒が国政を担うという一大勢力を天下に示した。

戦国大名を圧倒する一揆の勢いだった。

 

▼蓮如上人像

 

しかしそんな全盛の一向一揆も、しだいに織田信長に圧倒され、ついに背水の陣へと追い込まれたのが、鳥越城の戦いだった。

 

手取川近くの丘陵地に構えた平山城の城砦は、土塁と空堀を巧み配し、本丸周囲に二の丸・三の丸を巡らせていた。

 

のんきに城郭巡りをするにはちょうどよく、城を望む地の道の駅の常設展で予習をして、いざ登城。

 

 

三の丸あたりの駐車場から登城。

雑草などもよく刈られて整備され、城門や板壁も復元されていた。

 

石垣に守られた枡形門が、いかにも一揆の城らしく迎えてくれた。

 

そして本丸門。これまた往時風。

 

本丸跡は建物の跡もよく残されていた。

 

周囲に急崖と深い土塁、空堀をめぐらせ、なかなか攻めるに難しそうな城。

 

建物や板塀などもよく復元されている。

 

たやすく本丸まで登れ、眺望がすばらしい。

 

眼下に、さっきの一向一揆館が。

 

一揆館から城を望む。

 

眺望すばらしいが、この日は天気が…。

 

二の丸や三の丸跡などを散策。

 

 

だが、このレリーフ像がのんきな城巡りを現実に戻してくれ、深いため息を誘う。

 

「一揆敗れて山河あり」と刻まれている。

母親が死にかけた児を抱き、戦死者が倒れる。

 

壮絶な合戦模様を地元の小学生が描いていた。

 

蓮如率いる一大勢力を誇った加賀一向宗徒はいっとき20万にも及んだ。

信長支配下の柴田勝家、その先鋒の「鬼玄蕃」こと佐久間盛政と、何度も激戦を繰り返した。

鳥越城において、一揆門徒は最後の抵抗を示した。

一度奪われ、また取り返し…。

 

だが天正10年3月、城将・鈴木出羽守中心の最後の奮闘も力尽き、生け捕えられた300人ほどの一揆方は、すべて手取川の河原で磔刑に処された。

以後、一帯には百姓農民の姿は消え果てたと。

 

それから400年、なんとものんびりした優雅なお城散策を楽しんでしまった…。

加賀一向一揆の栄光と挫折を最後まで示した鳥越城…。

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北条時行を主人公にしたマンガ「逃げ上手の若君」(少年ジャンプ・松井優征さん作)が評判らしい。

北条時行”検索する人続出 ジャンプ新連載の主人公で史実描き話題 作者 ...

 

地元紙でも、信州と関連のある北条時行ということで最近また話題としている。

 

今年初め、ジャンプで連載が始まると、私の時行関連のブログ記事へのアクセスが急上昇、なぜか?全く分からなかったが、マンガ連載開始が理由とわかった。

 

ところがまた最近、武田義信と競う?がごとく、再び時行関連記事へのアクセスが急上昇、義信さんをしのぐ勢い。

 

7月74だったのが、8月は243、9月は4日間で52も!

 

マンガの人気がさらに上昇したのか?

義信さんもそうなのだが、これまた残念ながら、「いいね」も「コメント」もまったくなく、拙著もまったく売れてない(泣)。

 

ともあれ、「これは、一度マンガ見なければ」、と、初めてマンガをのぞいてみた。

 

マンガのキャッチコピーは、

「駆け出す! 史上最も逃げ上手の英雄!!」

「史実スペクタクル逃亡譚!」

「歴史の狭間、まだ誰にも物語られたことのない逃げる英雄がいた!」 

 

北条時行は、拙著「信州往来もののふ列伝」(しなのき書房)に載せた。

 

私の人物イメージは、得宗執権・北条高時の子にして、実にあきらめない、徹底して「反足利」を貫いた執念のもののふと思えた。

 

当初は信濃の有力者・諏訪頼重に支えられ、井手の沢の戦い(町田市)では、足利勢を撃破、一時は鎌倉を奪還(中先代の乱)

 

しかしその後勢いを増した足利に敗れ、逃亡。

各地を転々とするも、終始鎌倉奪還を模索する執念を持ち続けた。

 

なんと「反足利」「足利打倒」のためには、鎌倉を滅ぼしたいわば「仇」である南朝方とも、新田方とも手を組んでいる。

 

私は「逃げ上手」というより、「打倒足利」に徹した強固な意志を貫いた悲劇的な生涯と思えた。

 

残念ながら北条時行を直接感じさせられる史跡をほとんどなく、井手の沢の古戦場碑は、唯一の時行の金字塔といえる。

 

時行は、足利尊氏に捕縛され、龍口寺↓(藤沢市)で処刑されたというが、墓所は不明という。時行享年27か。

 

時行を支え続けた諏訪頼重の墓所が、諏訪大社上社前宮(茅野市)の境内にひっそりとあるが、これも知らなければ見落としてしまう。

マンガ「逃げ上手の若君」で、松井さんは、時行を明るく前向きに生きていく少年・青年武者のごとく描いていきそうで嬉しい。

 

私の時行のイメージを一変してほしい。

 

武田義信もそうだが、今までほとんど注目されることのなかった歴史的人物の北条時行に関心が集まっていくことが実に嬉しい。

時行さんを書いてよかった。

 

これは10年前に地元タウン紙に連載した際の「北条時行」伝。

読みにくくすみません。

当時描いてもらった時行さんの表情はちょっと恐いか。

参考にするものがなく、苦戦させてしまった。

 

少しは私の本も売れるといいのだが、ま、それは仕方ないか(笑泣)。

 

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数日前から、武田義信関連の拙ブログアクセスが、突然急上昇。

「いいね」欄もコメントも何もないのが残念だが、今日8月30日までの10日ほどで300近くのアクセスが。

 

その記事は4年前に書いた「義信伝」

理由はともあれ、ふだんあまり見向きされない武田義信に耳目が集まり、拙ブログ記事を読んでいただけるとは嬉しい。

 

今年は「信玄生誕五百年」、甲斐山梨県はかなり盛り上がっているとのこと、その余波で信玄嫡子・義信に注目が集まったのかも。

ふだんは信玄・二十四将ばかりがもてはやされ、義信さんにはあまり関心が及ばないだけに実に喜ばしい限り。

 

義信の強烈な印象は、大河ドラマ「武田信玄」において。

堤真一さんが演じた太郎義信は熱演だった。

中井貴一さん演ずる父・信玄との鬼気迫る対立抗争場面は実に迫力満点、すごかった。

大河ドラマ『武田信玄』 | NHK放送史(動画・記事)

 

さらに、義信母・三条夫人(紺野美沙子)、そして義信妻・嶺松院(古村比呂)、の義信を深く愛する姿も痛ましく心を揺さぶられた。

 

「義信を閉じ込めよ!」と叫ぶ信玄!

「義信っ!」「義信様~!」と、必死に助命を切願する三条夫人、嶺松院。

そんな場面を思い起こす…。

こんな機会にぜひ、義信伝をご一読いただければ!

 

 

武田義信は、自らの武将としての「意思」をつらぬき、父・信玄と対決したというべきか。

いや、周囲の「反信玄」の家臣にまつりあげられ、謀反に失敗したというべきか。

30歳にして散った武田義信の自決事件は不明なことが多い。

 

 

◆武田義信(たけだよしのぶ 1538~1567) 

戦国時代の武将。武田信玄の嫡男。通称太郎義信。

正室は今川義元娘。

13歳の時、義の一字を将軍・足利義輝から授かる。

永禄4(1561)年の第4次川中島合戦では謙信と直接干戈を交えたとも伝え

られ勇猛ぶりを発揮、信玄の跡継ぎとして期待された。

しかしその後父と対立を深め、永禄8(1565)年信玄暗殺を企てたとして幽

閉され2年後死去。

享年30。

 

大河ドラマで高視聴率を挙げた番組として今も話題にのぼる「武田信玄」(1988年放映・原作新田次郎)では、信玄・義信父子の対立確執はきわめて生々しく描かれ息を飲む緊迫したシーンが連続した。

しかしこの事件の詳しい経緯はいまだはっきりしていない。

 

義信は将来を嘱望された有能な跡継ぎであった。

母は公家息女・三条夫人、正室は義元娘・峯松院、甲府の躑躅ケ崎館に義信のための広大な西曲輪が備えられ居館が築造された。

 

▼躑躅ケ崎館の南側から西曲輪へ橋がかけられ、本丸だった武田神社の東曲輪とは空堀を隔て土橋で結ばれている

 

また将軍から「義」の字を授かるなど、将来信玄が義信をともない中原に覇を唱える着実な布石が出来上がっていた。

 

17歳での初陣も傅役(もりやく)飯富虎昌を従え小諸城を攻め落とすなどの功を挙げた。

 

24歳で出陣した第4次川中島合戦では旗本として陣を構え、前半の武田軍劣勢の中、義信隊は攻勢に出て義信は身に数カ所傷を負う程の戦いぶりだったという。

 

上杉方の古書によれば、義信は八百の兵を伏兵にして率い不意に謙信本陣を急襲、謙信方は度肝を抜かれ大混乱に陥ったという。

 

▼当初謙信本陣の置かれた妻女山から川中島古戦場を望む。

千曲川に架かる赤坂橋の向こうの横長の緑の森が、信玄本陣の置かれた八幡原

 

しかし突出して攻勢に出た義信を救うため武田信繁(信玄弟)や重臣・初鹿野源五郎が討ち死にしたとも伝えられ、信玄は義信の戦功より軍律違反を厳しく咎め激怒したという。

 

◆事件の勃発

 

事件はその4年後、永禄8(1565)年に起こった。

 

義信と飯富虎昌、御側衆の長坂源五郎・曽根周防守の灯籠見物と称した深更に及ぶ密談を探った探索方から、「御陣においての、逆心と聞こえ候て(甲陽軍鑑)」、すなわち「戦場においての謀叛と思われる」と信玄に直訴されてきたのである。

 

身の危険を感じた信玄は、ただちに厠や風呂場、居間などを改築して身辺の警護を強めたという。

 

これほどまでの父子の対立の要因は奈辺にあったのか。

桶狭間での義元討死以降、今川をないがしろにするようになった信玄と、逆に今川との同盟を強め織田と相対するべきという義信の間に確執が生じたからとも。

 

「父上、今川とともに織田と対峙すべし!」

と、父に詰め寄る義信。

「痴れ者め! 今川を滅ぼし、駿河を手に入れる好機は今じゃぞ!」

と一喝する信玄…。

こんなやり取りがあったのだろうか…。

 

また義信を支える古参の家臣衆と、信玄が登用した新参の家臣団との根深い対立が背景に生じていたともいわれる。

 

この間、何人かの高僧によって父子の間の和の回復は図られたが結局不調に終わった。

 

永禄8(1565)年、信玄は飯富虎昌を謀叛企ての首謀者として処刑、長坂・曽根も処断。

さらに「太郎義信公の衆、八十騎余御成敗」、また義信は東光寺↓幽閉と沙汰された。

 

将来は盤石の武田家当主の座を約束されていたにもかかわらず、義信の心を突き動かしたのは何だったのか…。

 

義信は東光寺に2年間幽閉され、後に自決した。

 

▼東光寺の義信墓所。両脇の墓塔は誰なのか不明という

 

義信死去後、正室・嶺松院は駿河に返され、今川と武田は手切れ状態に。

そして次期武田家当主・勝頼の妻室に信長の養女が迎えられた。

かくして信玄の駿河侵攻は一気に本格化した。

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元我が松本第一高校出身の牧秀悟内野手が、なんと新人で史上初のサイクルヒットを記録!

 

▼信濃毎日新聞1面の大見出し。

スポーツ欄は巨大な見出し

 

そして、地元の市民タイムス紙。

 

「うち(当時本郷高校)には野球部ないんですよ」

さみしそうに当時の校長がポツリ言ったことをよく覚えている。

野球の出来るグラウンドもなかった。

あれからおよそ半世紀。

 

その後、野球部が創部され、専用の野球場も完成した。

だがまだ甲子園出場はなく、準優勝が2度。

今年は3回戦で優勝校の松商学園に敗れた。

 

残念ながら私は牧選手をまったく知らないが、かつて、こんなすごい野球選手が松本第一から出るなんて想像だにしなかった。

 

時同じうして、海の向こうの大リーグでは、大谷選手が41号を打ち、ホームラン王の呼び声高く、しかも投手として8勝!

 

これまた、こんなずば抜けた野球選手の出現に出会うとは!

いやはや驚喜の限り!

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現存最古の天守閣ともいわれる丸岡城(福井県坂井市)。

この日は残念なり、曇天。

 

初めて来たときは、御覧じろ! 我、この勢い?で天守閣へ登城! 

三脚をセットして、石段を駆け上がったところをパシャ(ナツカシイ)、いやはやかなりのおっさんスタイルじゃわ。

 

あれからン十年、今日は、お城の周囲をゆっくり歩き、天守を眺めよう。

 

かつては五角形の水堀が守護する城だったというが、今は堀がまったくなく、なんとも残念。

 

小学校の塀が城下町の雰囲気を醸し出す。

 

街中を歩きながら、天守を望む。

 

屋根瓦は珍しい石瓦という。

 

現在の天守は、江戸時代になって、本多成重が4万3千石として封ぜられころに築城したという。

本多成重とは、家康の家臣で「鬼作左」と呼ばれた本多作左衛門重次の嫡子。

 

有名な日本一短い手紙文といわれる、

「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」

と、妻に宛てた作左、その「お仙」が成重。

こんな父子の人形が。

やさしい表情の鬼作左。

天守遠景。

 

天守閣前に、手紙文を刻んだ石碑が立つ。

 

坂井市は短い手紙コンテストを主催、またかくのごとく武士館風な「日本一短い手紙館」が設置され、町づくりに力を入れている。

 

かつて天守までへの石段通路にズラリと展示されていた「短い手紙文コンテスト」の入賞作で、私がもっとも気に入った秀作はこれ。

 

「お母さんへ 『死にたければいっしょにに死ぬよ』 この一言が私の生きる支えです」

 

うーん、いいねぇ、母って偉大、偉大だわ。

 

 

「‎丸岡城の魅力は?」‎ 

私は、天守閣に登って行くまっすぐな‎直線の長い石段‎かな。 ‎
‎そう、つい走りたくなるような。 ‎

‎なんか登城するというより、大きな家に帰っていくような、‎‎そんな感じのアプローチ。‎

 

ほほっ、翌日は晴天、天守閣に登城す。

城内の‎‎急階段に設けられているロープ‎‎。 ‎


‎昔は無かったろうから、‎これは助かるし、楽しいが。 

上から見下ろすと、腰を引く。

‎城内の角柱。

石瓦屋根。


望楼天守からの眺望。

 

かつては‎‎五角形の堀が‎囲んでいたという‎‎丸岡城。

だが最近、もう一度堀を復活する計画があるという。

水堀復活は、国宝への道ではないだろうか。

 ‎
‎野面積みの石垣もよく残されている。

 

 

 

 

‎天守は、寛永年間(1624~1644)に建造されたが、昭和23年の福井大震災により天守が倒壊した。

現在の丸岡城は、当時の建材等を使って昭和30年に再建された。‎

 

‎丸岡城の外堀は現在用排水路となって、昔とほぼ同じところを流れている。

水路の‎神明橋のたもとの神木・タブの木は、今も大きな枝葉を茂らせていた。

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北陸・越前へ来たならば、必ず寄りたい、いや寄らねばならぬような新田義貞の西念寺墓所(坂井市)。

 

唐破風造の墓所門前に、萩の花が迎えてくれた。

 

初めて来たのは、もう20年も前、あの時からずっと変わらない静かな境内が魅力。

 

こんな立派な顕彰碑。

 

本堂ご開帳時には、義貞像を拝顔した。

 

また、大河光秀の年には、浪々中の光秀夫妻が寺近くに居住していたということで、ボランティアガイドの方が門前に待機していて、光秀や義貞のことを説明していた。

 

境内には、光秀妻室の内助の功を詠った芭蕉句碑も。

 

だがその時も、その前の時も、さらにその前の時も、「新田塚は新田塚駅近く…」、と教えてもらっただけで、足を運ばず帰ってしまった。

 

だが今回は、ついにやっと念願?の新田塚・新田義貞が落命した地へ。

カーナビではなかなかわかりにくく、新田塚駅近くの地元の方に場所を教えていただいた。

 

「来た! やっと来たよ! 義貞さん」

 

「史蹟燈明寺畷新田義貞戦没伝説地」と刻まれた石柱の立つ新田塚。

門扉に新田紋。

一帯は新田塚公園、かわいい獅子クン親子が守護?していた。

拝殿内には、「新田義貞戦死此所」の石碑。

 

1338年夏、新田義貞はここ燈明寺畷の合戦で討死した。享年38。

藤島城援軍に向かう途中、北朝軍に遭遇、矢の乱射を眉間に受け、一代の英傑、新田義貞はあえなく落命した。

 

鎌倉幕府にかわる新しい武家の世を目指した足利尊氏

対して、朝廷中心の公家の時代を復活しようとする後醍醐天皇に、生涯忠誠を貫いた楠木正成

 

で、新田義貞は…?

鎌倉の街を攻め、幕府を倒した大功労者の義貞。

 

だがその後の去就ははっきりせず…、優柔不断、勝ったり負けたり、攻めたり逃げたり…。

 

不甲斐ない中、懸命に生きるも、勾当内侍におぼれ、湊川の合戦に遅れ? なんとウジウジしたもののふなれど、勝つときは強いものの、迷い、惑い…。

そんな義貞さんに惹かれ同情し、ずっとあちこちその史跡足跡を。

 

去年は京都・滝口寺の首塚へ行ったなぁ。

おととしは、義貞誕生地…。

義貞落命の地・新田塚はそのしめくくりの史跡のような。

 

ふる里に近い群馬県太田市駅前に立つ義貞さんの銅像は、なにか私の義貞のイメージに近い。

右は弟の脇屋義助像。

 

 

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