きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

亡き妻の故郷、そして義父母の眠る横須賀市浦賀の乗誓寺

の住職は、かの曽我兄弟のご子孫という。

知らなかった、境内に兄弟像が。

意外、こんなところで曽我の兄弟に会えるとは。懐かしかった。

 

・曽我兄弟(曽我祐成・時致)の富士の裾野の仇討

・荒木又右衛門の伊賀鍵屋の辻の仇討

・赤穂義士「忠臣蔵」の仇討

 

これぞ日本三大仇討事件。

それぞれ拙ブログでも幾度となくふれている。

がしかし昨今「曽我兄弟って知ってる?」なんて「死語」か、もはやもう…。

かつて師走の「忠臣蔵」ドラマは必ずあたると…最近はもう…(寂)(泣)。

 

しかし我列伝は往くのです!

まずは小田原近郊、曽我の里、曽我兄弟及び兄弟の義父母の眠る城前寺の墓前へ

叔父の僧侶が二人の遺骸を富士麓から持たらしたという。

 

そして箱根の元箱根国道一号沿い、兄弟と兄祐成の妻室虎御前の墓塔へ。

右端が虎御前という。

墓塔前のバス停。

「曽我兄弟って誰や?」「知らんな」ゥゥゥううう。

 

……時は建久4年(1193)春、将軍頼朝がその勢威を誇示する一大イベント富士の裾野の大巻狩りが挙行された。参加御家人三万騎とも。

大巻狩り最終日、土砂降りの深夜。

曽我兄弟はにっくき父の仇・工藤祐経の陣屋に推参、これを討ち果たす!

その現場だったと伝えられる現在の富士宮市上井出の杉の深い林に守られた地に、曽我兄弟のみの墓所が営まれている。

荘厳な雰囲気が漂う。

いつもよく整備されていて、関ケ原の大谷吉継墓所を思い起こす。

 

墓所への参道前には、曽我八幡宮が祀られている。

 

しかし工藤祐経を討ち果たしたが兄・祐成は乱闘の末、仁田忠常に討たれ落命。

弟・時致は捕縛され、翌日斬首。

上井出の墓地から南へ20㌔ほど、時致が斬首された地に近い現在の富士市久沢曽我寺

 

ここにも兄弟の墓塔。

 

そして工藤祐経の陣屋に推参せんとする二人の像。

 

全国に曽我兄弟の墓は十数か所もあるという。

曽我兄弟の物語は、正月の歌舞伎出し物というが、いまもそうなのだろうか。

虎御前は事件後、弔いの全国行脚して兄弟の話を世に広めたという。

我が信州・善光寺にも虎御前が庵を営んだという地に「虎が石」として史跡となっている。

が、しかし…、

事件から800余年、曽我兄弟の仇討話はもう遥か彼方の話になってしまうのだろうか。

なんともなぁ…。

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亡き妻の実家で懐かしく義弟夫婦らと談笑して、名残惜しく浦賀の地を後にする。

今日の宿は娘夫婦孫の待つ鎌倉へ。

コロナの影響で、この間浦賀にも鎌倉にもなかなか来れなかった。

以前は、娘のママチャリで鎌倉市街をあちこち巡ったのだが。

娘夫婦宅にもどっさり安曇野米を献上?して、よく談笑よく痛飲して。

 

稲村ケ崎から江の島を望むこの景色は歩いてすぐ。

この岬は、なんといっても新田義貞の史上有名な「海に剣を投じた」という伝説の地。

義貞が剣を投ずると見る見る潮がひき、その浅瀬を渡って新田軍はいっきに鎌倉市街へ乱入、ついに鎌倉幕府を滅ぼした。

残念ながらその義貞姿像はここにはなく、挙兵した生品神社(群馬県太田市)に。

その「義貞首塚」が鎌倉からすぐ先の小田原にあるというではないか、知らなかった。

義貞を惜しむ人が当時から多かったのか、義貞の首塚は各地に点在する。

真田信繁の墓と同じように慕う人惜しむ人は多い。

 

数年前、京都・滝口寺の義貞首塚へ。

越前で戦死した義貞の首級は京で晒され、それを妻室の勾当内侍が受け、この地に埋納した。

そして後に勾当内侍もここに埋葬された。

▼義貞首塚

▼勾当内侍供養塔

 

小田原市、東町

閑静な住宅街に囲まれた小さな公園と墓所。

「新田義貞公首塚」と刻まれた石碑。

 

「一引両」の新田家紋所が。

義貞家臣の宇都宮泰藤が、京から首級を義貞のふる里へ持ち帰る途中、ここで命を落とし、主の首級を埋納したという伝承が残るという。

主にも、家臣にも憐憫の情がにじむ。

 

南北朝時代の騒乱で登場した三人のもののふ…。

力を合わせ、鎌倉幕府を倒したものの、次の対立が。

尊氏は武家の世を!

正成は天皇の御世を!

では、義貞は……、尊氏と正成の間で惑い、苦悶の姿がなんともありのままというか、なんというか。

義貞の揺れ惑う心情(ほんとはどうだったか知らないが)を、誰かよき小説に、そして良きドラマ・映画に! を願いたいもの。

 

さらに戦場では二刀流を駆使して闘ったという伝説の英雄、義貞。

福井県坂井市・称念寺の義貞墓所を思い浮かべる。

萩の花は…。

そして義貞落命の地の新田塚も

新田義貞はもっと注目されていい歴史上の人物のような…。

いささか我が思いに力が入ってしまった。

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館山市の館山城へ。

山の上の模擬天守は高さ70㍍ほど。

海が! 相模湾が一望!

天守は小田原城がモデルという。

天守からの海。

山城の天守から大海原が望める景色が城めぐりの最高の極みのような。

天気が勝負か。

房総の雄、里見氏の居城だった館山城、しかし…。

里見氏の隠然たる勢力を警戒した江戸幕府は、小田原・大久保忠隣処罰の際、連座にて里見氏を遠く山陰に転封した。

 

本多忠勝の大多喜城への配置といい、幕府はよほど里見氏を警戒したのだろう。

そんな里見氏の話を背景に『南総里見八犬伝』という滝沢馬琴の名作が誕生したという。

幼いころ読んだ見た絵本がよみがえる里見八犬士!

犬飼現八、犬山道節、犬坂毛野、犬江親兵衛、犬村大角、犬田小文吾……うーん、あと二人…出てこない。

このあたりまでしか思い出せない、名前の漢字があってるかどうか…。

そんな昔を思い出させてくれた館山城を後にして、東京湾フェリーの金谷港へ。

 

波も穏やか、久里浜までのいい東京湾横断の船旅が出来るかも。

彼方に対岸の三浦半島が。

巨大なタンカーが。

 

懐かしい、三浦半島、久里浜…。

久里浜でフェリーを降り、浦賀へ向かう。

 

浦賀は亡き妻のふる里、義弟と久々の邂逅の前に、懐かしい「浦賀ポンポン船」に乗る。

おお、浦賀の渡しは健在なり!

東渡船場から、浦賀湾を横切って西渡船場へ。

今も朝夕はかなりの人らしい。

5~6人乗りの優雅な渡し舟。

かつては蒸気船?(よくは覚えていない)で、動くと蒸気の音が「ポンポンポン」と海面に響くので「ポンポン船」と呼んだらしい。

今もみな老いも若きもポンポン船と言うそうな。

往復乗って戻って来た。

乗客は我一人のみだった、乗ったのは何十年ぶりだろう…。

浦賀港ではかつて造船所もあり、タンカーの進水式が盛大に行われたという。

よく覚えている浦賀の有名な史跡、東渡船の乗り場近くの舟宿「徳田屋」跡。

 

…………嘉永6(1853)年、黒船4隻が浦賀へ来航した時、

吉田松陰24歳は、ただちに江戸から浦賀へ急行した。
おそらく佐久間象山もいっしょだったか。
二人は黒船の巨大さに感動、かつ恐怖したに違いない。
「あれが異国の船か!」
「攘夷などといってはおられぬ…!」
「象山先生、私は異国へ行ってみたい!」

松陰と象山
は一睡もせずに語り明かしたであろうその地がここ徳田屋

浦賀湾の突端にあった旅館跡。

これはかつて撮った写真、碑が立っていたけどなぁ。当時。
 
今は建物があるだけだが、昭和の初期までは旅館業をやっていたようだ。
 以前は館跡前の石碑に、
「吉田松陰佐久間象山相会処(徳田屋跡)」
と刻まれていた。

 

ところで、この徳田屋旅館はすごい!
何がすごいかっていうと、この宿に草鞋を脱いだ面々がすごい!

   
 まず、佐久間象山吉田松陰
二人は黒船を直接見ようとこの宿にやってきて会ったという。
それより2年前には、象山は弟子の「米百俵」で有名な小林虎三郎をともなって来ている。

  

 

同じ年、松陰は友人の熊本藩士で、後に池田屋で新選組に惨殺された宮部鼎蔵とともに泊まっている。

 
徳田屋の開業がいつかは定かでないが、1700年代の終わりごろ、老中・松平定信が沿岸の視察でやってきて泊まった記録があるという。
 

 また1853年には、浮世絵師の歌川広重が。

 

  

あの桂小五郎、後の木戸孝允も草鞋を脱いだという。

こうして徳田屋に泊まった数多くの人々が、ここから世界に目を広げていったということか。
上手に保存されるといいが、石碑がなくなっていることが気がかり。

 

さて最大の浦賀へ来た目的を果たさねば。

まず義弟と久々に会って、近くの乗誓寺へ。

義父母の墓に本当に久しぶりに額づく。

 

しばらくぶりの再会で、義弟夫婦と長く談笑、安曇野にぜひぜひと誘って、安曇野米をどっさり?渡して。

「ところで乗誓寺になんで曽我兄弟の銅像が? 以前はなかったような…」

「そうなんですよ、なんか住職は曽我兄弟のご子孫とか

「あれ~、意外!」 

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投稿して2週間も連絡なし。

ボツか…「仕方なし」とあきらめていたところへ連絡が。

「ホホ、やった!」あな嬉し! 

さらに待つこと2週間、5月末の地元タウン紙に載った。

今をときめく大谷翔平を「ダシ」にしてのお題は『大谷翔平選手と高野長英』。

 

しかし実は書くぞ!と意気込んだものの数か月もズルズルズルズル…わずか700字程度なのに。

老醜哀れ、忍耐無し、忘却甚だし、すぐ飽きる、嫌になる…。

4月末、なんとかまとめた、やっとこさ。

ぜひまたご一読願わしゅう。

 

2005年、初めて奥州市(当時水沢市)へ。

吉村昭氏作の歴史小説『長英逃亡』を読んで以来、いつか長英さんのふる里へ行ってみたかった。

当時、大谷選手も地元のジュニアで活躍してたんだろうが、そんなことはもちろんつゆ知らず。

19年前に撮った長英さんの生家

立派な長英記念館。

これは4年前撮影、ウーン残念、見学者は誰もいなかった。

大谷記念館が出来たら、すごいだろうなぁ、わたしゃ生きてるうちはムリだわな。

 

東京・港区南青山のビルにはめ込まれた長英隠れ家跡の碑。

「都旧跡 高野長英先生隠れ家」とある。

長英は医者としてこの隠れ家で働くも、家の周囲の落ち葉などはそのままにして幕吏・捕り方の近寄る侵入を警戒していたという。

また常に劇薬を携帯、いざの時は服用自死を覚悟していたとも。

だが江戸の「人の海」は隠れやすいが顔見知りに会う確率も高く…、ついに長英は…。

 

隠れ家跡碑に近い善光寺(港区北青山)境内に、長英の顕彰碑とレリーフ像が立てられている。

命日の10月30日は、境内の落ち葉はレリーフ像周囲に集められるという。

『長英逃亡』終章、長英が捕縛されるシーンは息をのむほど怖い。

そして長英がかわいそうである。

高野長英 享年46。

一代の英傑だった!

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間宮林蔵の生家・墓所を訪ねた日の夜。

久々近藤勇ゆかりの地・流山にて旧友Kと邂逅 、昨年秋に逝去した旧友・竹内整一東大教授を偲びながら献杯す。

▼流山の近藤勇陣屋跡

Mとは竹内教授を介して大学時代に知り合った。

Mの数学は高校時代ダントツの才だったと周囲のものはみな今も恐懼して口を揃える。

さらに文学・歴史学にも造詣が深く舌を巻く(モチ東大!)。

この夜の酒では、間宮林蔵の話で盛り上がるも、Mはすでに私より先に生家を訪ねていて驚いた。

▼生家跡・記念館前に立つ間宮林蔵

哀しくも楽しい酒を流山の地にて、旧友竹内教授、近藤勇、間宮林蔵に献杯しつつ長く痛飲した。

 

千葉城(千葉市内)。

模擬天守というが白壁がきれいで堂々たる造り、天守最上階まで登る、無料だったし。

四層五階、小田原城をモデルにしたとか。高さは30㍍という。

残念ながら最上階から東京湾は望めず。

天守前に堂々たる騎馬像が。

鎌倉初期、頼朝を支え房総一帯を支配した千葉常胤像

 

千葉氏は、桓武平氏の平忠常の子孫。

同郷の上総介広常とともに頼朝を支えた。常胤のときに千葉氏を称したという。

広常が誅殺された後は、常胤が房総一帯の惣領として支配したようだ。

天守内に常胤の木像も。

 

頼朝上陸の地(鋸南町)へ。

石橋山の戦いに敗れ、真鶴半島から東へ海路90㌔近くを渡り、這う這うの体にて房総半島へたどりついた頼朝一行。

▼真鶴半島の頼朝が船で逃れた地、おそらく絶望の胸中だった頼朝…。

そしてこの地に着いた。

「源頼朝上陸地」と刻まれている。

相模湾を望む。

後に天下人となった頼朝にはこの地でのさまざまな伝承が残る。

その1。

先ず房総へ逃げ延びる小舟の中で。

なんとあの和田義盛が「天下取ったら侍大将にしてくだされ」と。

天下どころか、死を背負う頼朝も皆も呆れたが、頼朝は「わかった、義盛」と。

この時の約束が、後に「和田義盛侍所別当!」という大抜擢になったとか。

その2。

この上陸の地でわずかな供ぞろえの頼朝一行を迎えたのは、なんと2万騎という大軍を率いてきた上総介広常だった。

ところが狂喜乱舞して感涙するはずの頼朝が、「着到遅し!」と怒り、広常に目通りを許さなかった!

その頼朝の厳然たる態度に広常は屈服・服従したという…

ウーンこの逸話。老いた今の我が身になっても人生を思うなぁ。

後に広常は頼朝に暗殺される…。

▼勝浦城へ向かう途中で布施塚・広常墓(いすみ市)に墓参。見つけにくかった。こんな道を登って…。

囲いがブロックかよ…。

▼すぐ近くの目立つ道路沿いに、なんと広常の愛馬「尾骨」が神社となって祀られていた(驚き)

次は館山城、そしてフェリーで久里浜へ、亡き妻の実家浦賀へ…。

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「なにも京都や奈良へ行くこたぁねぇじゃんかよ!」

「すげぇなぁ信州!」

友人を信州の名刹・三重塔を案内した時、こんな感嘆の声が。

然り!

というわけで、早春三月に訪ねた東信濃の名塔・三重塔をぜひご覧いただきたく。

だがその前に、今回は行かなかったけれど、薬師寺東塔など奈良の塔にも決してひけをとらぬ我が信州の国宝の三重塔(上田市別所温泉)をぜひご覧あれ!

 

ジャーン、安楽寺八角三重塔!

鎌倉時代の執権北条一族が東信濃の塩田平に居を構えて一帯は発展。

この地に全国唯一の八角の塔が。

四重塔に見えるが、最下層は裳階(もこし・飾り屋根)。

この時は杮葺(こけらぶき)の屋根がまだ新しく美しかった。

塔の正式名称は「裳階付木造八角三重塔」だそうな。

こればかりではない。

もう一つ、信州には「見返りの塔」と呼ばれる国宝がある。

大法寺三重塔(青木村当郷)。
 

 

初重から二重、三重と屋根の面積が小さくなり安定感のある美しさ。

高さ18㍍、檜皮葺。鎌倉末期の建立。

 

この塔を拝観した人は坂道を下りながら帰る途中、必ず振り返って塔の優美さをもう一度見なおすことから「見返りの塔」の別名が生まれたという。


というわけで、信州の国宝の名塔を見ていただいたところで今早春に巡った三重塔もぜひご覧いただきたく。

まず、

貞祥寺三重塔(ていしょうじ・佐久市前山)。

 

まだ薄い春の日差しを浴びて。

いまだ木々が芽吹いていないため、塔全体がよく見える。

三重塔は、江戸時代後期の建築という。

 

前扉の透かし彫りの、立体的な木彫が凝っていて素晴らしい。

 

境内の苔の緑も日差しを精一杯吸い込んでいるがごとく!

 

重厚な山門。貞祥寺は戦国時代の地元の豪族伴野氏が開基、七堂伽藍を備えた大本山だったそうな。

 

貞祥寺から東へ、佐久平東側山裾の、新海三社神社へ向かう。

だが途中、最近注目されつつある龍岡城五稜郭に立ち寄らねば。

有名な函館五稜郭は知っていたが、信州人なのに佐久の五稜郭はかつては全く知らずにいた。

五角形の旧城内は田口小学校となっていたが、最近閉校になったという。

 

きちっとした五角形の築造がそのまま残る。

一部は埋め立てられたが、いまだ堀も石垣もかなり残っている。

 

これこそ寄り道・余談なれど。

かつて連載『信州往来もののふ列伝・巻95』として、龍岡城五稜郭を築城した松平乗謨(のりかた)について地元タウン紙に書いた。

ダイジェストをぜひご一読を。

 

 松平乗謨(まつだいらのりかた 1839~1910) 

幕末の譜代大名。三河・奥殿藩1万6千石の藩主。

明治になって元老院議官、華族となる。

24歳の時、飛び地として領有していた佐久・田野口(龍岡)へ藩庁を移転、居館を五稜郭として築造する。

慶応2(1866)年幕府の老中、陸軍総裁に就任。

明治維新後は大給恒(おぎゅうゆずる)と改名、後に伯爵となる。

日本赤十字社の創設者。没年72歳。

▼当時高校生が描いてくれた松平乗謨

                          

「信州に五稜郭? 何だ、それ。北海道の函館だろうに」

と、信州人さえもよく知らず、他県人となればほとんど初耳だろう。

函館の五稜郭は、かの土方歳三戦死の地でもあり有名すぎるからなおのことである。

佐久盆地の南、JR小海(八ヶ岳高原)線・龍岡城駅より東南へ1㌔ほど行くと、五稜郭の龍岡城跡(佐久市田口)に至る。

星型の城郭内はそのまま市立田口小学校の校地となっており、空撮写真で五稜郭がはっきり分かる。

規模は函館五稜郭の三分の一ほど、直径約150㍍、石垣・土塁・水堀がよく保存されている。

 西洋には巨大な星型要塞が数多く見られ、考案者のフランス軍人の名を冠してヴァーバン式要塞とも呼ばれる。

 

水堀に守られた星型の5つの突出した砦から攻め手の動きを確実に捕捉できる死角のないのが利点といわれ、また平地に石垣を低く築くため遠くからの砲撃は目標物が見えず、攻めにくい城塞という。

 

乗謨は三河松平家発祥の松平郷・奥殿藩大給松平家に生まれ、江戸で育った。

▼三河の奥殿陣屋

幼いころから聡明で5歳ころには「四書五経」を全て暗記したという。

蕃書調所で蘭学・フランス語を学び、西洋の事情に精通した。

兵制や兵学を熱心に学び、特にフランスの軍事顧問を招くなどして研究、仏会話も出来たほどだったという。

 

嘉永5(1852)年、奥殿藩の藩主に着任、11年後飛び地として1万2千石領有していた佐久に藩庁居館を移し、五稜郭の築造に着手、およそ3年かけ慶応2(1866)年ほぼ完成した。

江戸・京都から遠い信州の地にこのような新式要塞を特に造る必要があったのか疑問だが、まさに進取の気性に富む乗謨のなせる業だったといえよう。

 

才気煥発な乗謨に期待した幕閣は、同年老中に抜擢した。

3万石以下の大名の老中就任は異例だったが、大政奉還の前年のこと、時はすでに遅かった。

 

明治維新後、乗謨は大給恒と改名して政府に恭順した。

幕閣の中枢にあったため一時冷遇されたが、西洋の事情に詳しいことなどから賞勳制度の整備を命じられ、制度が結実すると賞勳局総裁、さらに華族・伯爵に任ぜられた。

乗謨(大給恒)が西洋通をもっとも発揮したのは博愛社、後の日本赤十字社の創設に尽力したことであろう……以下略 

 

長々と五稜郭の話となり、東信濃の三重塔から外れてしまった。すみませんでした。

新海三社神社の三重塔については次回に。

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「この天守は岡崎城がモデルですか?」

「そうなんです」

大多喜城から西へ10キロほど、山城本丸に模擬天守を擁した久留里城

 

駐車場から天守までたどり着くのがけっこう難儀。

深い堀切の坂道を登って。

 

さらに登って。

 

天守に到着。青空を背景に天守が映える。

 

久留里城は、房総の有力戦国大名・里見氏の主たる居城だった。

家康の関東支配後は、大須賀氏そして土屋氏が城主に。

 

なによりもかによりも、あの天下の碩学・新井白石が、二代藩主土屋利直の時、この久留里城に18歳から4年間、過ごしてその才を磨いたというではないか。

知らなかった!

利直は、非凡な才の白石を「火の子」と名付けてかわいがったという。

 

後に白石は6代将軍家継、7代家宣の側用人として仕え、「正徳の治」と讃えられる政治を主導する。

 

資料館前に白石さんの銅像が! いやぁ、こんなところで拝顔できるとは感激。

 

ぬぬ、恐い、怒られそう。

 

かつて江戸で、中野区の高徳寺で白石さんの墓参へ。

晩年、不遇だったともいわれ、意外と質素な墓だった。

 

いや、それよりもなによりも白石さんには入試対策授業で実に実に「お世話?」になった私である。

 

………「先生! これ、全部覚えなきゃいけないんですか、全部漢字で! 新井白石だけで6つも著作があるじゃないですか」

「6つとも全部教科書に載ってるからな。テスト・入試に出ても難問じゃねぇぞ。また白石は本の名ばかりじゃないからな」

「…そうだけどさあ、またこの本の名前も覚えにくい、だめだこりゃ」

こんな会話を長い間日本史授業の中で、何度交わしたことか。

 

教科書に載っている白石の6冊の著作とは。

『西洋紀聞』『采覧異言』宣教師ヨハン・シドッチとの会話から得た西洋の事情をまとめた書。白石はシドッチからイタリア語を会得した!

『古史通』…古代史の解説、邪馬台国なども深く研究。

『読史余論』…将軍用の日本史テキスト。

『藩翰譜』…各藩の歴史・地理書。

『折たく柴の記』…白石の自叙伝。

 

ただただ、すげぇ!

こんな人物は教科書の中で白石のみ。

他の高名な学者たちでも多くて二冊、だいたい一冊。

白石は政治家ばかりでなく、学者であった。

 

そして!

「井戸水を裸体にぶっかけて眠気を覚まし勉強、勉強したという新井白石! 

二宮尊徳は膝に錐を刺してその痛みで眠気をふっとばした! 

野口英世はなんと眠らなかった。いつ行っても実験・研究してた」

半分冗談とはいえ、受験生をこうまくし立てたものだ。

 

日本史の受験生がいかに大変か(大変だったか)、いかに日本史授業・受験が「日本史嫌い」にさせているか(させてきたか)。

いまになるとつくづく思う、自らもまた深く反省しています、はい。

すみません、つまらん愚痴話を長々と。

 

さて目先変えて、房総に来たのだから! 広い海を!

海の見える城へ! 勝浦城。

城の面影はほとんどなく。

本丸・本郭らしさもなく、大海原が広がる!

おぉ、海面に鳥居が浮かんでる。

 

おぉ、太平洋を背に女人の像が。

 

徳川御三家の紀伊藩初代頼宣の、そして水戸藩初代頼房の母、於萬の方像

勝浦城主正木頼忠は於萬の方の父だった。

 

秀吉の小田原攻めでは北条方として戦い敗れた正木氏、於萬の方はこの海への急崖を

九死に一生を得て逃れたという。

 

家康が見惚れたいい顔の像だった。

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房総半島には天守をいただく城跡が多い。

城の石垣は魅力的だが城門、土塀、櫓、そして天守。

それが模擬天守であっても城跡を引き立てる。

 

大多喜市の大多喜城へ。

 

唐破風まで備えた立派な模擬天守。

 

「海は見えるのかな」と思ったが、ずっと先までなだらかな山並み。

忠勝公の銅像はどこにあるんですか」

駐車場の管理人の方に聞いてみたが、知らないという。

「ここにはないと思います」と。「え、え?」

確か写真で見たが。

岡崎城の像や桑名城のとは違った像だったが。

▼岡崎城の忠勝像

 

▼桑名城の忠勝像

 

ここ大多喜城にも確かあったと思うが…。

忠勝さんの墓所・良玄寺にあるのかも。

 

城から近い良玄寺境内、墓碑の周囲が忠勝公園となっていた。

「タダカツ パーク」か…。

 

しかしここにも忠勝像はなかった。

 

二代城主の忠朝、忠勝、忠勝妻室の墓碑が静かに並んでいた。

忠朝は、忠勝が桑名城主に移った後、大多喜城主となったが夏の陣で戦死、忠朝甥の政朝が城主に。

寺の方が誰もいなかったので、農作業をしている方に忠勝像のことを訊ねた。

「小さくてな、目立たないわ。わしはもっと大きいと思ってたんだが…」

境内でなく、近くの夷隅川の行徳橋の欄干に立っているという。

 

あった、あった、ここか!

ずっーと先に、背を見せた忠勝さんもいますが、みえますか。

二体あったとは知らなかった。

 

こ、恐えぇ!

 

アップ。小さい像でよかったか。

こっちはまた、かっこえぇではないか!

 

後に久留里城資料館の館長さんと談笑した折。

家康第一の家臣、平八郎忠勝が、失礼ながらなぜこんな房総の山奥に配されたか不思議で…」

「家康は房総に秀吉死後も不気味に根付いていた里見氏の勢力を恐れ、江戸への攻め込みを警戒したんだと思います」と。

里見の勢力…、考えたこともなかったが、さすが家康、慎重の上にまた慎重。

岡崎以来関ケ原までの本多忠勝の活躍ばかりに気をとらわれていた自分であった。

「家康に 過ぎたるもの二つあり 唐の頭(兜)と本多平八」か。

大多喜城から、模擬天守のある久留里城へ。

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「世界地図で唯一日本人名のついた地名、間宮海峡!」

「間宮海峡」この印象は強かった、が、長く忘れていた。

 

茨城県龍ヶ崎市金龍寺の新田義貞墓所を訪ね、ここで初めて間宮林蔵記念館・生家」が近くにあることを知った。

懐かしかった。その名を長く忘れていた。

記念館に、実直そうな二刀を帯びた林蔵の立像が出迎えてくれた。

 

農民の子だった林蔵は、後に勘定奉行付きの武士へと出世した。

ここは茨城県つくばみらい市。

土浦市から南西へ20㌔ほど。

 

南へ5㌔ほどが茨城県・千葉県の県境、つまり利根川。

 

すぐ近くから移築されたという茅葺屋根の林蔵生家は修理中だった。

それにしてもいつものことだが関東平野の広いこと、広いこと!

いったい山なんぞどこにあるのか。

 

近くに利根川の支流小貝川が流れる。

林蔵は幼いころ小貝川の堤防修理工事を間近で見て、修理する幕府の役人に工事の提案意見をしたそうな。

幼いころから聡明だったか。

小貝川の川の中島にも、林蔵の像が立っていた。

大雨時には滞留して水があふれる平野部の河川、その治水は難工事だったろう。

いまはゆうゆうと流れる小貝川だが。

 

生家近くの専称寺。幼いころ、ここで林蔵は学んだ。

 

広い境内の一角に林蔵の偉業を讃える巨大な顕彰碑が立っていた。

その碑の並んで、林蔵が生前建てたという墓が。

左が林蔵、右が両親の墓塔という。

林蔵家はもとは農民、林蔵が測量の下役人に登用され武士となった。

 

林蔵は二度目の北方蝦夷地測量を命ぜられたとき、死を覚悟してここに墓を立て出立したという。

1808年の北方測量で樺太北部へ、さらに翌年には海峡を渡って大陸へ。樺太が「島」と確認した。

また師である伊能忠敬が測量できなかった蝦夷北方地域、国後・択捉にも渡り状況を探査した。

▼佐原駅前に立つ伊能忠敬像

伊能が完成したといわれる「大日本全図」の蝦夷北方周辺の地図は林蔵の探査をもとに完成したという。

伊能の林蔵への信頼度はきわめて高かったという。

 

残念ながら伊能忠敬の知名度があまりに高く、佐原市の伊能忠敬生家を訪ねたときも、林蔵のことをほとんど意識しなかった。

 

宗谷海峡を望む北海道稚内市の宗谷岬に、間宮像が立っているという。

学生時代、宗谷岬へ行った。

私は間宮林蔵を思い出したのだろうか…。

 

今回、記念館に来て間宮林蔵を懐かしく思い出してよかった。

ほんとうによかったよ、林蔵さん!

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新田義貞への哀惜は、今も昔も変わらない。

その無念さを晴らすがごとく各地に史跡・墓所が。

常陸・龍ヶ崎の金龍寺義貞墓所へ。

 

昨年、群馬県太田市の金山城山麓に金龍寺を訪ねた。

金山城主だった横瀬氏(後に由良氏)が、1417年先祖新田義貞供養のため開基した。

横瀬氏は、越前・称念寺の義貞墓▼から分骨して金龍寺を開基したという。

称念寺は義貞戦死地の灯明寺畷近くにて、壮大な墓所が営まれている。

 

強い義貞への思いから、横瀬氏は越前から墓を上野の金龍寺に遷して開基した。

横瀬氏の祖は、義貞の三男、義宗である。

 

境内奥に、横瀬氏一族の墓塔が並び、最上部に高さ3㍍ほどの義貞供養塔が立っている。

 

金龍寺は、後に横瀬氏の転封で常陸へ移転するが、江戸時代に館林城主となった榊原康政がこの地に再建し、義貞を祀った。

 

因みに金山城本丸には、明治になって義貞神社が祀られた。

太田市周辺の義貞の史跡は多い。

 

金山城主だった横瀬氏(後に由良氏)が開基した金龍寺は、後に常陸・牛久への転封に伴い移転、さらに現在の龍ヶ崎市若柴へ移転建立された。

 

今回、その龍ヶ崎市の金龍寺へ。

なぜ義貞生誕地・そして挙兵の地の太田市周辺から離れた常陸に、義貞の墓所があるのか、やっと流れが分かった気がした。

義貞の子孫・横瀬(由良)氏の強い先祖・義貞への思慕を知った。

桜も終わりかけた頃、特に新田義貞墓の案内もなかったので寺の方に訊ねると、墓は本堂の裏手という。

 

本堂左手から奥へ進む、竹林が広い。

何の案内板もなく…。

見つけた。「新田家累代之霊墓」の碑。

 

そして、ただ四基の霊塔が並んでいた。

これだけだった。

五輪塔が四基……。

新田貞氏は由良氏の初代、由良国繁は金龍寺を開基した人。

あまりにあっさりした墓碑でいささか寂しかった。

 

越前称念寺から上野・金龍寺、そして常陸牛久、常陸若柴金龍寺と長く歴史を重ねてきた義貞の墓碑だったのに…。

 

関東には桐生・善昌寺に義貞首塚が祀られている。

上野・生品神社で旗挙げしてついに鎌倉を滅ぼした義貞の墓碑は小田原にも、川崎市にも祀られているそうな。

今回の旅でどこまで行けるか…。

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