熱く散って逝ったもののふ列伝

熱く散って逝ったもののふ列伝

各地で撮った写真とともに、我ら祖先のもののふ達の、熱き生きざまを書いています。

平安の風わたる公園(秋田県横手市)

若狭から越前、越中、そして越後へと漂う北陸路の旅。

銅像を見ながら追いながら、合間に立ち寄った史跡などのこぼれ話を。

しばしお付き合いくだされ。

 

●敦賀市の山間、新保の宿場街に武田耕雲斎陣所跡が。

 

およそ800人を率いて水戸からこの地まで進軍した天狗党なれど、越前・加賀藩兵に進路を封鎖され、ついに武装を解き降伏した。

耕雲斎と幕府側が最終の交渉の場がこの陣所だったという。

床の間などがよくそのまま残されていた。

陣屋内に、烈士を偲ぶ句が掲げられていた。

露草の 咲きし陣屋に 志士偲ぶ」か…。 

 

しかし交渉の結末は悲惨だった。

天狗党の主だった400人はすべて斬首刑。

  

水戸からここまでの進軍中、信州などで幕府軍と交戦したことなどが「反乱軍」と見なされたのだ。

 

天狗党の「尊皇攘夷」の素志に越前・加賀の藩士らも多くが心を寄せたというが。

なんと斬首の介錯人には、「あの桜田門外の事件の怨みを晴らさん!」と、彦根藩士が次々と名乗り出たという…、なんとも悲哀。

 

若狭から越前に入る道中の今庄の宿

昔ながらの宿場の情緒をよく残している。

 

そしてこの芭蕉句碑。

「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」

今庄宿あたり一帯にて1183年、木曽義仲方の北陸軍と平家軍が交戦した燧山(ひうちやま)の合戦

写真中央が燧山(火打山)。

義仲は出陣していなかったが木曽方が敗北、上洛をめざす義仲にとって厳しい敗戦となった。

その時の義仲の心情を詠んだといわれる芭蕉の句。

同じ句碑は、俱利伽羅峠にも立てられている。

芭蕉の義仲に寄せる心情は深かったのだろうか、近江・義仲寺にて義仲と並んで芭蕉は眠っている。

左の宝篋印塔墓が義仲墓、右端の石柱に囲まれた自然石墓塔が芭蕉墓。

●福井・北ノ庄城跡で、鬼柴田の銅像を拝顔。

というよりお市の方と三人の娘たちのかわいい像がお目当て。

柴田勝家像の表情が恐すぎ!

だからこそ、4人の女性像が一層やさしくなごやかにみえる。

 

●前田家の隆盛を今に顕実する越中・高岡の国宝・瑞龍寺

豪壮にして広大な構えは百万石のイメージがぴったり。

 

さらに瑞龍寺門前から1キロ続く長い参道。

利長像もりりしい。

その先の、前田利長の墓所も、あまりに立派にておどろき!

 

●実は、越前でのもう一つの目途は、越前大野城の、それからさらに山奥の大野市の歴史の里に立っているという悪源太義平像だったのだが。

ちょうど強風雨の天気予報にて、そのまま山道を信州に抜けようかとも計画していたのだが断念。

悪名高き?あの義平さんの像がまたなんでこんなところに?

また訪ねたい。

 

越後・糸魚川の海岸に、あの懐かしい響きの、安寿・厨子王の墓がきれいな花に囲まれていた。

現地の観光地図にて初めて存在を知る。

  

「♪あんじゅ 恋しや ほ~れやほい 

           厨子王 恋しや ほ~れやほい♬」

幼かったわての心にいまだ残っている絵本の唄。

またその地図には、「な、なにぃ? 村上義清の墓が!」

武田信玄を二度も破った村上義清は、信州・坂城町の英雄である。

現地の小学校校歌に歌われているほど。

「そうか、義清さんの墓所はここに…」

義清さんについてはまた後日。

明智神社にも立ち寄らず、一乗谷城址を横に見て、目指すはかなりの山奥、一乗の滝。

 

滝の周囲に飛び交うツバメを、一瞬にして二羽斬り落とすという早業、つばめ返しをここで編み出したという佐々木小次郎像。

もう少し人里近くに作れなかったのかなぁ、残念。

 

後ろ姿もいける。

せめてお師匠の富田勢源先生の道場近くならば、一乗谷城のそばでよかったのに。

小次郎像は岩国市の錦帯橋近くにも。

ここでツバメ返しを会得したとも。

 

そして武蔵と決闘した下関の船島、いや巌流島にも立つ。

岩国と同じ像かな。

銅像はみな前髪の少年風な剣士なれど、あの内田吐夢監督映画の「宮本武蔵」の高倉健演じた小次郎はちょっと大人ぽかった。

総髪姿でも登場、恐く強そうだった。

高倉健さんにロン毛は似合いますか? - 佐々木小次郎です。なかなか ...

決闘した当時の小次郎は、実際はかなりの壮年だったとか。

若々しい小次郎は吉川英治作「宮本武蔵」でのイメージ。

 

越前は小次郎の出身地といわれるが、これもはっきりしていないようだ。

物干竿と呼ばれた長刀を駆使したという小次郎だが、富田勢源は小太刀の名手だったという。

 

遠い昔、高校の授業で、ツバメ返しの実演は失笑を買ったが、なぜか予備校(併設校)の講習会では大受けだったことを思い出す(笑)。

武蔵も小次郎も不明なことが多い剣豪なれど、抜群の人気。

「小次郎、巌流島の決闘時なんと50歳!」、なんて今更いわれてもなぁ。

 

さて話かわって。

あの新田義貞の墓所、坂井市の称念寺にて、秘蔵の新田義貞像が特別に見れるという。

生まれ故郷の関東の地では、いくつもの義貞像を見ることができるが、残念なことに戦死の地・越前に銅像はないという。

義貞を祀る福井市の藤島神社にも画像は掲げられているが、境内に像はない。

義貞画像。

称念寺の義貞像は今まで拝顔出来なかったが、今年は大河「麒麟」のおかげで、称念寺も見学者が多いという。

 

というのも、この寺の近くで、光秀はながく下積みの生活を妻・煕子さんと送っていたとか。

あの有名な「月寂びや 明智が妻が 咄しせん」の芭蕉句はここで詠まれたとも。

境内には、句碑が立てられている。

 

寺を案内する方が数人控えていて、詳しく説明してくれた。

本堂にて、義貞公の木像を初めて拝顔す。

木像より、やはりブロンズ像がいいのかな。

むずかしいところ。

有名な太刀を海に投ずる像。

称念寺の義貞墓所。

越前の旅まだ続きます。

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数多くある銅像群のなかでも、特に気に入っている像。

福井城の堀際に立つ幕末の偉人二人。

左・横井小楠、右・由利公正

そろってこれから九州へ商談に旅立つという場面。

何の変哲もない普段の雰囲気がいい。

こういう場面をよく銅像にしたなぁ。

 

表情が穏やかで、後ろ姿がまたいいなぁ。

この旅の商談の結果、越前藩はおおいに富を得たというのがまたいい。

 

小楠は松平春嶽が熊本藩から懇願して招聘した開明的な儒学者。

公正は越前藩士で小楠の弟子。

春嶽が見い出した藩の英才で、後に五箇条の御誓文を起草する。

市内にその立像も。

 

小楠、公正、そしてもう一人橋本左内

春嶽を支えた俊才たちだ。

左内像は左内公園に若々しい表情の像が立つ。

今回、市内の郷土歴史博物館内に、大人っぽい顔立ちの左内さんの像と対面した。

純真にして清廉潔白な左内を見て、伝馬町の牢名主は、その死罪(安政の大獄)を泣いて悲しんだという。

 

最近、長野市松代の象山神社にも左内像が。

 

博物館前には英才たちを育てた松平春嶽像が。

幕末四賢侯の一人と称させられたごとく、聡明な顔立ち。

今回、春嶽を当初から支えた越前藩の重臣・中江雪江(ゆきえ)像の存在を初めて知った。

神明公園にその端座像が。

胸を張った堂々たる姿像。

 

幕末ではなく、昭和時代の福井県出身の首相・岡田啓介像が福井駅東口に。

あの二・二六事件で、九死に一生を得た首相。

その隣の像は「だれだろ?」

なんと首相と間違えられて暗殺されてしまったという秘書官だった松尾伝蔵氏、首相の義弟だったという。

 

福井にはまだまだ他にも魅力的な銅像・木像が。

私が今回もっとも見たかった像はまだ登場せず。次回。

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近江から若狭へ、そして越前へ。

灼熱の炎天下、いざ出陣!

 

●近江八幡市・八幡山公園の豊臣秀次さんの表情は実にいい。

 

あちこちでみるサルさんの顔なんかよりずっといい。

この秀次さんを拝顔してから、かつて京都・瑞泉寺へ行った。

これが衝撃だった。

 

胸が痛んだ。

  

秀次の幼児妻妾たち39人、家臣10人の墓塔が粛々と並び、あまりに痛々しく。

  

寺が京都のど真ん中、木屋町通り、竜馬通りのすぐ近くだったとは。

いやまったく、まったく知らんかった。

 

秀吉はほんとうにこの虐殺を命じたのだろうか。

「首切り奉行」といわれた三成の判断? まさか…。

心痛む、辛い話だ。

 

 

●その秀吉を祀る長浜市の豊国神社。

そして守護神のごとく立つ加藤清正像

清正さんの像は名古屋城など、あちこちに多い。

一度、熊本の騎馬像はぜひ見たいもの。

 

ここの豊国神社は、木村重成も祀られていた。嬉し。

 

さすがの清正公も後ろ姿はちょっと寂しい。

信州へ来たならば、松本城の「清正駒繋ぎの桜」をぜひお見逃しなく!

 

 

●長浜へ来たならば、この人の像は拝顔せずにはいられない。

わが石田治部少輔三成公像

石田一族墓所。

 

太閤と出会ったという観音寺。

 

あぁ、観音寺の参道を歩くときの、あの切ない感、また来たよ~と叫びたい感、言い知れぬなんとも満ち足り感、いや足りぬ感か(笑)。

 

本堂を背に参道を望む。

その向こうに、「佐吉ど~ん!」と呼びたくなるような巨大な入道雲が。

 

 

●ほんとうに何年振りかの、今は長浜市の高月町、雨森芳洲(あまのもりほうしゅう)庵記念館へ。

今から30年前、1992年のこと。

来日した韓国の盧泰愚(ノテウ)大統領は宮中晩餐会のあいさつで、雨森芳洲の名を挙げ、彼の主張した『誠信外交』を日韓外交にと提唱した。

 

無名ともいえる江戸時代の儒学者名が突然とび出して、マスコミから何から日本中がびっくり、てんやわんや。

 

対馬藩の外交担当の儒学者だったとはいえ、いやはや、いちばんおどろいたのは、出身地のここ高月町の人たちだったそうですよ」と、係員の方は話してくれた。

 

当時は高校教科書や副読本の片隅に雨森芳洲の名は載っていたが、今はどうなんだろな。

館内はきれいに整備され、関連資料が整然と並ぶ。

庭の美しさが記憶の隅に残っていた。

 

芳洲さんの木像。

すごい威厳!

画像も恐い。

「最近はさすがにここまでなかなか見学に来ませんね。あなたがきのうきょうで初めてです」

懐かしいような、マニアックのような芳洲先生の話や、歴史や世間話を長々と楽しむ。

近くの小学校の校歌に芳洲先生の名が出て来るとか。

 

記念館前に大きな水車が、そして集落のあちこちに水車が。

カンカン照りの間を、しばし涼風が吹き抜ける。

●近江から若狭へ。

敦賀へ来たならば、まずは大谷吉継さんの墓塔にご挨拶せねば。

菩提寺の永賞寺と九重の墓塔。

  

 

吉継さんの銅像もどこかにほしいな。

 

今回、米原の吉継さんの首塚には詣でたが、関ケ原の吉継さんの墓所は、暑くて…登れなかった。

もうムリかなぁ(泣)。

それよりも、なにはともあれ敦賀では、松原神社へ詣でねば。

水戸烈士追悼碑

 

鬱蒼とした横長の、天狗党、いや水戸烈士の塚。

ここに400人近い烈士の遺体が眠っている。

当初は、無造作な、ただ山積みのような塚だったという。

武田耕雲斎像が墓前にて待っている。

 

耕雲斎については前著に、今回の「負けても負けぬ……」では副隊長の藤田小四郎について書いた。

小四郎さんの像は遠く常陸の筑波山神社に。

墓碑に二人の名が刻まれている。

二人の首級は水戸へ運ばれ埋葬された。

水戸・妙雲寺の耕雲斎墓所。

天狗党については、信州人、特に南信州の人々の、そして私の思いは深い。

 

かくして銅像・木像拝顔行となった、近江・若狭の旅は越前へ。

越前は幕末のもののふ達の銅像の宝庫なり! 

そして新田義貞の史跡も。

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きのう地元紙の片隅にふと目をやると、本のベストセラーが。

なぬ?おお、なんとわが著「負けても負けぬ三十二将星列伝」が第5位に!

これには、我ながらびっくり! 意外だった!

 

いやはや、村上春樹氏や「女帝」の名があって、これこそ、記念の記事!

 

そういえば先日、店をのぞいたところ、いったん郷土コーナーに退いていたわが著が再び店頭に置かれていた。

最近地元紙で著作を紹介してくれたことや、信濃毎日新聞で書評を載せてくれたのがよかったのだろう。

ま、一瞬のときとはいえ、意外、嬉しかった。

 

因みに本日のアマゾン順位情報は、

ベストセラーランキング - 195,687位本 (の売れ筋ランキングを見る本)
- 4,597位日本史一般の本
- 20,011位ノンフィクション (本)

 

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我が信州の最西端ともいうべき佐久地方の南牧村は、私の住む安曇野からは遠い。

いったん山梨県に入り、北上して峠を越え、佐久へ向かう。

佐久は安曇野とは景観がかなり異なり、「他県・他国」のイメージが強い。

海の口城は甲斐から佐久へ入ったすぐの地にある。

 

海の口城の合戦
武田信虎・晴信VS平賀源心(源信)
天文5(1536)年11~12月

海の口城は長野県南佐久郡南牧村の、東西に峰を連ねる比高約220㍍の山城で、甲斐信濃の国境から北へ20㌔ほどに位置している。


当時の佐久の国人衆は、北信濃の葛尾城主・村上氏に従う者、また独立性を保っている者などが分立、国境を接する武田方としばしば小競り合いを起こしていた。

 

そんな佐久の状況を見ていた武田信虎は天文5年、駿河の今川氏と和を講じ、後顧の憂いをなくして佐久攻略に乗り出したのである。


11月甲府・躑躅が崎の館を出立。

将兵およそ8000の大軍と、初陣の嫡男・晴信(後の信玄)16歳を率い、清里から海ノ口城へ進攻、数日間で攻め落とすつもりでいたようだ。

 

一方佐久勢は、平賀城(佐久市平賀)主の平賀源心が軍勢数千を率い海の口城へ入城していた。

武田方は着陣すると直ちに城攻めに取り掛かったが、城方は手ごわかった。

平賀源心入道は、

「大剛強の兵者(つわもの)にて、力も七十人力と申し候(甲陽軍鑑)」
という豪傑で、大太刀を振り回しての大暴れには手を焼き攻めあぐんだ。
攻防は長引き一か月近く、冬となって寒さと雪が攻撃を萎縮させ死傷者も少なくなかった。
 
「殿(信虎)、ここは一旦兵を引くべきかと」という重臣たちの進言に、悔しがる信虎もついに撤退の決断をせざるを得なかった。
 

すると、「父上、殿(しんがり)の御役目をぜひ!」と、嫡男・晴信が申し出てきた。

難しい雪中での殿を、晴信は敢えて志願してきたのだ。

 

「殿は大役、初陣のそちには無理じゃ」という信虎に、晴信は「ぜひに!」と懇願した。

 

撤退時の殿は極めて難しい。

だがこの雪と吹雪では平賀勢の追撃もなかろうと、信虎は晴信の申し出を許し、300ほどの兵を預けて引き揚げの途についた。
国境あたりまで戻ると、晴信勢は留まり、平賀勢の追撃に備えた。
 
これには海の口城内は、大勝利したかのごとく勝鬨・歓声を上げ、武田の引き揚げを喜んだ。
追撃する策などはまったくなく大酒宴が開かれた。
合戦は終わったと、早々に年末の迫る故郷に帰る者さえいた。
 
一方、晴信は、「皆の者、明日は早々に出立する。軍装はそのまま、準備を怠るな」
しばらく峠にとどまると思っていた将兵たちは怪訝な面持ちだった
 
ところが早暁、晴信の号令は、「これよりただちに海の口城を攻撃する!」
もと来た道を戻り進撃、一気に城に奇襲をかけたのである。
源心は仰天した。
「しまった!」
 
まさか武田が踵を返して急襲してくるとは。
まったく考えていなかったのだ。
油断だった。
多くの将兵が帰還していて城はまったくの手薄状態。
大手門はなんなく破られ武田勢が城内に乱入、火もかけられた。
源心ひとりのみ最後の奮闘をみせ、よく闘ったがついに討ち死。

 

今度は武田勢の勝鬨が山谷にこだました。

 

 
実に鮮やかな晴信の初陣敵味方にその軍功がとどろいたのである。
 
だが、古来この合戦を、「あまりにも話が出来過ぎ」、「記録は甲陽軍鑑のみ」などと、実在を疑う見解も少なくないようだ。

 

晴信が源心の勇猛を称えて祀った胴塚が甲信の国境・平沢峠に祀られ、また山梨県北杜市には源信の墓所も立てられているのだが…。

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かつて、高校生に描いてもらった佐々成政のイメージ画。

これはよく伝えられている成政画像。

佐々の鉄砲戦』ー佐々成政ー(『決戦!設楽原 武田軍vs.織田・徳川軍 ...

 

かつて大河「利家とまつ」で山口祐一郎さんが扮した佐々成政。

大河ドラマ「利家とまつ~加賀百万石物語~」 | チャンネル銀河

 

佐々成政は、厳寒の北アルプスを越え、ついに信州大町に到着した。
しかし家臣の松沢新助は凍傷が重く、成政の同行は無理となった。
泣いて詫びる新助に、成政は親鸞聖人御真筆の掛け軸を授け、姫川沿いから糸魚川に抜けて富山へ帰るように指示した。

しかし新助は途中で落命。
同行していた新助の息子は父の落命した地にとどまった。
北安曇郡小谷村の来馬地区は姫川および国道からはかなり高地にある集落。
一戸建ての家のような西方堂は、寺ではなく公民館のようなものとか。

ここに新助が成政から授かった親鸞聖人の「帰妙尽十方无礙光如来(きみょうじっぽうむげこうにょらい)と記された御真筆が掲げられているという。

 

 

「無理、絶対にムリでしょう」

と今でも否定する人が多い成政の厳冬期のアルプス越え
しかし大町からおよそ50㌔も離れた北の山間の小谷村にもこのような伝承が残る。

やはり、成政はさらさら越えを成し遂げたのだろうか。

 

成政が大町の村人たちにおくったという大姥観音像

今も西正院に祀られているが、北安曇一帯には、大姥観音信仰は全くないという。

それに対して、越中一帯には、大姥観音信仰はひろく行き渡っているという。

やはり、成政は北アルプスを踏破したのだろうか。

残念なことに成政一行が家康のいる浜松へ向かったであろう信州の道筋の、安曇平、松本平、伊那谷の地に歩を運んだ痕跡や伝説・言い伝えが残っていないようだ。

今後、良質な史料が出るといいのだが。

 

富山には賤ケ岳合戦後も秀吉に敵対した成政がついに降伏、その証として剃髪したという「成政剃髪の地」の石碑が立てられている。

佐々堤などの功績を残し、降伏して越中の民を戦火から救った成政への富山県人の思いだろうか

成政には次のような逸話も。

信長が浅井一族の髑髏を正月の酒杯にしたとき、成政はその非を信長に諫言する気骨を見せたという。

また、鉄砲の三段撃ちは、成政が鉄砲奉行のときに考案したともいう。

 

末森城(加賀)の合戦の苦杯は成政にとって痛手だった。

 

前著「信州往来もののふ列伝」の成政さんを書いていた時は、それなりの思いがあってあれこれ調べていたのだが…。

それにしても長く成政のことを忘れていた。

京へ、尼崎へも墓参に行かねば。

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北陸墓参行から信州への帰路、夕立下の富山城。

「そうか…、成政(成正)神社へ寄っていこう。忘れてた」

佐々成政のことで、富山へ来たのはもう7年前。

 

佐々成政(さっさなりまさ 1536?~1588) 

戦国~安土桃山時代の武将。

 尾張国出身。信長の家臣として各合戦に戦功をあげる。

 天正9(1581)年には越中支配を任され富山城主となる。

 賤ヶ岳の合戦後秀吉と対立。

 厳冬の北アルプス越え(通称さらさら越え)をして家康との結託を図ったが果たせなかった。

 その後秀吉に服し、肥後国主を託されたが藩政の失敗をとがめられ切腹。

 享年53か。

 

成政は、厳寒のアルプス越えを敢行、踏破して信州北安曇の大町へ着いたという話はつとに有名。

今の黒部ダム湖の底をも横断したという!

ついにここを踏破、現在の信州・大町地区へ。

地元農民に救助され、その感謝として成政は、守り本尊・大姥観音像をおくった。

それが今も祀られている西正院。

この前は日ごろよく通っているのだが、最近成政のことは…。

成政の出生地(光通寺)の名古屋の比良城址を訪ねたのは十年も前。

そして富山のゆかりの地へ来たのは7年前。

 

すっかり忘れていたのは、兵庫・尼崎の法園寺にあるという成政墓所への墓参。

「これは行かねばなぁ」と思っていて。

その後すっかり忘れ…。

この間、いったい何度兵庫あたりを通過したことか。

西正院の前を通っていても、尼崎への墓参は忘却していたのだ。

 

成政は富山城主時代、常願寺川の治水に尽力、築かれた堤防は、「佐々堤」として今もその名を残す。

江戸時代にはその功績を称え、「済民堤」と名を変えた。

 

また成政は地元の人々に称えられ、「成政神社」として祀られた。

その後藩主が「成正」と改称して整備したという。

さっそく立山町へ。

すこしなつかしい。

7年前に来たときは、すばらしい後立山連峰が望めた。

 

だがそのときの石柱が今は危なそう。左が7年前。

 

山口祐一郎さんが成政に扮した大河「利家とまつ」では、かなりの出番があり、成政のイメージはよく残っている。

今回の大河光秀にも、成政さんは登場するらしい。

 

だが、信州では武将というより、アルプス越えした人物としてその名は伝わる。

現代の装備をしても到底無理、といわれる厳冬のアルプス越え(サラサラ越えとも)、様々な説が唱えられている。

 

ともあれ、すっかり忘れていた成政さんの墓参。

京都の慈眼寺にも墓塔があるという。

コロナがおさまったら行かねば、ほんとに忘れていた。

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   中原兼遠 樋口兼光  佐藤継信・忠信兄弟  曽我祐成・時致兄弟  

   源義経  平景清   仁科盛遠   香坂高宗

 

   諏訪頼重  板垣信方  鬼小島弥太郎  武田信虎  秋山信友 山県昌景  

   渡辺金太夫照  武田勝頼  織田信忠 二木重高  小笠原貞慶  芋川親正

 

   薄田兼相(岩見重太郎)  戸田康長  山村良勝  石川康長  小笠原忠真  

   鈴木伊織  恩田民親  藤田小四郎  高杉晋作  山岡鉄舟

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地元紙「信濃毎日新聞(通称信毎)」に今日、拙著「負けても負けぬ三十二将星列伝」の書評が小さくも載った。

ありがたい、嬉しい(いささか恥ずかしい)ことである。

 

 

謙信が家臣の鬼小島弥太郎を、特に取り上げてもらったあたりがなんとも嬉しい。

 

▼弥太郎の眠る飯山市・英岩寺

 

▼飯山の銘菓・鬼小島弥太郎

  

 

 「負けても負けぬ三十二将星列伝」  

    居並ぶ三十二将星は以下のごとくにて候…      

   中原兼遠    樋口兼光   佐藤継信・忠信兄弟  

   曽我祐成・時致兄弟  

   源義経   平景清   仁科盛遠   香坂高宗

 

   諏訪頼重  板垣信方  鬼小島弥太郎  武田信虎  

   秋山信友  山県昌景  

   渡辺金太夫照   武田勝頼   織田信忠  二木重高      

   小笠原貞慶     芋川親正

 

   薄田兼相(岩見重太郎)  戸田康長  山村良勝  

   石川康長   小笠原忠真  

   鈴木伊織   恩田民親   藤田小四郎   高杉晋作       

   山岡鉄舟

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藤井聡太二冠の昨今の活躍の影響もあったのだろう。

「へぇー、将棋の映画か…」と、偶然手にしたDVD。

もう14年も前の映画なので、110円レンタル。

 

いやぁ、まいった、泣けました! 

2度3度も観た、また泣けた。

涙腺崩壊!

遅かりし由良之助のいまごろとはいえ、これはだれにでも絶賛お勧めできる映画

観てない方はぜひ!

 

泣き虫しょったんの奇跡

 

しょったんが何度か挫折を味わっての最後の大勝負となる場面は、

「負けて終わるのかな、それじゃ、(物語として)あまりだし…」

ハラハラ緊張。
まさか実話とは!
 
勝った! 画面の中の喜びを爆発させる人々とともに「やったぁ!」 
涙があふれた

 

しょったんは、今50歳、念願のプロ棋士なれど、まだ六段。

これがまた胸に熱くジーン。

 

黒沢の「七人の侍」を凌駕する映画はない!と今でも思う。

でも「しょったんと、何が違うんだろな」などと考えたり…。

 

でも泣けて感動感涙したのはしょったんだ。

 

しょった~ん、ありがとう!