熱く散って逝ったもののふ達のフォト列伝

熱く散って逝ったもののふ達のフォト列伝

各地で撮った写真とともに、我ら祖先のもののふ達の、熱き生きざまを書いています。

那須与一像(大田原市)

はや1年を経過した「信州知られざる古戦場」シリーズ。

ありがたいことに、地元松本のタウン紙「MGプレス」に1か月1度、掲載させてもらっています。

今まで取り上げてきた古戦場は12か所。

以下のごとくです。

 

1塩尻峠の戦い   2上田原の戦い   3野々宮の戦い  

4高遠城の戦い  5桔梗が原の戦い   6岩尾城の戦い 

 7和田峠の戦い   8瀬沢の戦い  9小岩嶽城の戦い 

10横田河原の戦い   11大倉城の戦い   12鳥居峠の戦い

 

このブログ内にすべて載せてありますので、ぜひまたご一読いただければ嬉しいです。

 

今回は、あの信玄がなんと敗れた砥石城の合戦

これまたご一読いただければ。

お願いばかりですみません。

 

砥石崩れ(石城の合戦)

武田信玄VS村上義清

天文19(1550)年8~10月

砥石城は、上田市街の北東およそ5キロ、太郎山東端の地にある。

南北に尾根を連ねる山並みの東側に流れる神川(かんがわ)の急崖を利した山城で、比高およそ200㍍、葛尾城(坂城町)城主・村上義清の東信一帯をにらむ最前線の城である。

城跡の南側に復元された城門から本郭へと歩を進める途中、一息入れて振り返ると、上田盆地一帯を広く望むことができる。

霞んでいて千曲川の川筋もよく見えない。

 

東の高台から城全体を望むと写真のごとく、まさに「砥石」といえようか。

天文19(1550)8月、信玄は佐久地方の城砦を次々と落とし砥石城へと迫った。

 

2年前、上田原で義清に敗れた屈辱を晴らすためでもあり、砥石城を攻略して義清の東信・佐久への支配力を弱めるのがねらいであった。

 

城の守備兵500に対し、攻める信玄方はおよそ7000の大軍だったという。

信玄は真田本城(上田市真田)の真田幸隆などにかなり入念な城の探査をさせたようだが、やはり大軍を擁した油断か、力攻めを命じた感がある。

▼砥石城を望む近くに幸隆のレリーフ像がある

だが城の急崖に阻まれた。

また城兵の抵抗は手ごわく、死傷兵の急増に焦った信玄は、自ら城近くにて陣頭指揮をとったという。

しかしなぜ比較的勾配が緩やかな城の北方あたりから攻めなかったのか、そのあたりが解せない。

 

当時義清は、北信濃の高梨氏と対立して出陣中、その間に信玄は砥石城を攻落するつもりだった。

 

そこへ突然、「村上勢、こちらに向かって進軍中!」の報が。

愕然とする信玄、事態は急転した。

 

砥石城での激しい攻防を聞き、北信濃へ出陣していた村上義清は、対立していた高梨氏と直ちに和睦を結び、居城・葛尾城へ帰陣、砥石城へ急行した。

 

一方、信玄方は、城の東側からの攻撃に難渋していた。

また城兵は500ほどだったが、先の佐久方面での戦いで、志賀城の周囲に3000の首級を晒すというむごい仕打ちを受けた生き残りの兵士が、「信玄憎し!」と加勢、石落とし、煮え湯を浴びせるなどして意気極めて盛んに城を守った。

 

「無念だが、ここは引かざるを得まい…」

義清の本隊が来援して、背腹から攻撃を受けると一気に戦局は不利となる。

軍議は撤退と決した。

 

武田勢は砥石城を後にして、佐久方面へ撤退をはじめた。

ところがそこへ義清が着到、武田勢に襲いかかった。

「信玄を逃すな!今度こそ討ち取れ!」

砥石城内からも一斉に打って出た。

 

退く武田、追う村上!

砥石城一帯で激烈な合戦が展開された。

戦いは村上方が圧倒した。

史書「妙法寺記」に、武田方「千人ばかり討ち死になされ候」とあるほどで、やっと望月宿あたりまで逃げのびたといわれる。

 

信玄は上田原の敗戦に続き、またも義清に苦杯をなめさせられるとは、まさに断腸の思いだったろう。

 

あきらかに信玄方の敗北なのだが、史書「甲陽軍鑑」ははっきり敗戦とせず、

「この合戦、信玄公の御代の無手際なる合戦なり」

と記している。

甲斐ではこの合戦を「砥石崩れ」と呼んだ。

 

かくして村上方は勝利をおさめたのが、なぜかその後の追撃は鈍く、真田本城も奪えぬままだった。

▼真田本城より霞に浮かぶ砥石城を望む

▼真田本城址

いや、それどころか翌年5月、なんと砥石城は真田幸隆の計略によって乗っ取られ、武田方の城となり、逆に義清は不利な状況に追いつめられていくのである。

 

※紙面版です

次の合戦は、妻籠城の合戦。

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次回作所収の「源義経伝」にて使う写真、京・鞍馬寺の「義経堂」は、やはり新しいものにせねばなぁ、と、軽い感覚で鞍馬へ向かう。

これがあまかった。

昔のままのトントントン、ひののにとん!なんて調子で走って行った記憶が間違いだった。

きつかった!

石段も山道もしんどかった、義経堂ってあんなに遠かったのか、まいった。

すっかり腰と膝をやられた敗残兵に。

……牛若さんはここから洛中の五条大橋まで、弁慶と闘うために行ったのかぇ、遠~い!

いや、奥州・平泉はもっともっと遠いわ。

 

平泉・衣川にて、ついに落命した義経の霊は、死後この鞍馬の地へ戻り、遮那王尊として御法魔王尊に仕えたということから、義経堂として祀られている。

 

 

ここまでの道の途中、まだ幼い牛若・遮那王が背比べをしたという「背比べ石」は覚えていたが…。

このあたりまで辛かった。

それにしても昔来た時、普通に来たという記憶というか、感じというか……。

なんも覚えていない、我が身の情けなさをつくづく知る。

 

大原・寂光院へ。

大昔の、記憶が一つだけ。

寂光院様、あのときはすみませんでした。

 

その時!

あまりに、あまりにもすごい参拝客で門前参道はごった返し、拝観料を払う窓口へたどりつけない。

あの日、なぜあんなに混んでいたのか、紅葉でもなかった、団体客が多かった感じではなかったような。

ぎっしりぎゅうぎゅうの拝観者、後ろからどんどん押される、ぐんぐん押される、危ない、転ぶ!

押すな、寄せ、待ってくれ、あぶねぇ、おい財布が、あ、落とす、おいやめろ、押すなぁ~!

 

密集した群衆はもろとも、そのまま石段をジリジリ押し上げられ、押され、境内へ…。

みな拝観料払わなかったような。

 

得したような、申し訳なかったような気持ちが…今も残る。

あれからン十年…悔恨の思いが。

なんと、境内の光景はまったく初めての感じだった。

清盛娘にて、高倉天皇妃にして、安徳天皇母の建礼門院徳子が、晩年を過ごした地。

 

徳子は、壇ノ浦にて入水したが、命を拾われた。

「おまえは生きるのじゃ」と、母時子に言われていたとか。

亡くなるまで、平氏一門の菩提をこの寂光院で弔った。

 

三千院へ。

 

亡き妻が門前で佇む古~い1枚の写真が残っている。

 

当時私が仕事で岡山へ出張の折、一緒に京都へ来た。

三千院などを見物した後、京都駅にて、私は西の岡山へ、妻は東の東京へ。

 

「あのときは寂しかった、新幹線で涙が出た…」

 

と、かなりたってから聞いた。いや信州へ移って来てからか、聞いた。

けんかしたわけでなかったからおどろいたが。

今は気持ちが分かるような気がする。

 

そんな女心も知らず、ったく…。

亡き妻に、あらためて冷たかったことを悔いる。

目に鮮やかな眩しいような苔の緑の奥の、金箔の巨大な本尊に。

まったくなにやってたんだかなぁ、この身は…。

 

あれやこれや、嫌なことばかりの、ン十年前を思い起こさせてくれる古寺逍遥か…。

 

さて、気を取り直して。

高杉さんとこへ行こう、竜馬じゃなくて晋作どんの霊山護国神社へ。

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義経家臣の、佐藤継信・忠信兄弟の聖地、福島県の医王寺を訪ねると、本堂内にて、かくのごとき美形の木像に出会った。

奥州に残していた兄弟の妻室、継信奥方・若桜と、忠信奥方・楓の像。

またなんと凛々しい武者姿ではないか。

暗くて残念だ。

 

二人は、兄弟の死を嘆き悲しむ母・乙和御前を慰めんと、夫の鎧を身にまとって喜ばせた。

地元ではよく知られた母思いの妻室たちの逸話という。

 

武装姿の女性像は我が信州にも。

こっちはほんとうに怪力無双の戦ったといわれる義仲妻室の巴御前

 

俱利伽羅峠の合戦では、一隊を指揮する武将として登場。

木曽町の義仲館内に太刀をはき、薙刀を持ち、表情も実にきりりとした像が。

義仲の討死後、信州へ落ちたとも、和田義盛の妻室となったとも。

俱利伽羅峠に巴塚が。

義仲死して、しばらくして、一人の尼僧が琵琶湖岸庵を建てたという。

これが近江・義仲寺となり、ここに巴の墓がある。

 

武装した女性像では、会津若松城のこの人。

大河ドラマですっかり名を知られた八重の像

なんてったて銃をたずさえて!

ドラマで、この出で立ちにて初登場したときは、思わず「おおぉ!」

かっこよかった!

 

だが、悲哀をおびての女性像は、やはりお市の方か、そしてその三人の娘たち。

信長の妹にして、浅井長政が妻室。

長浜に、そして福井にも お市の方像が立つ。

戦国時代一の絶世の美女といわれ、ついには越前・北ノ庄城にて落命。

 

その後長女・茶々姫は秀吉の奥方、秀頼の母に。

三女・江姫は秀忠妻に、家光母に。

小説に書きたくなる、ドラマでない真実である。

 

刈谷城近くの椎の木屋敷址に、於大の方像が。

なんとも優しい表情。

また「於大公園」近くのうのはな館には、於大の方、及び家康の木像が。

これは晩年の姿か。左が家康。

刈谷で、天下人の母・於大の方は相当に崇められているようである。

 

椎の木屋敷址は於大の方が離縁後暮らしていた地というが、きれいに整備されていた。

また於大公園の近くに「於大のみち」歴史散策路がつくられ、陶板で於大の方物語が刻まれているという。

 

於大の方は松平広忠の奥方となり、家康を産む。

しかしその後、離縁、三年後久松俊勝へ再嫁。

家康人質時代には駿河の家康(竹千代)を励ましていたという。

家康と再会したのは桶狭間合戦後だった。

 

長編歴史小説の大作「徳川家康」において、山岡荘八氏は、「戦国三夫人」として、信長室の濃姫、秀吉室の北政所、そして家康母の於大の方をしっかりした賢女として書き込んでいる気がした。

 

濃姫の像は清州城に立っていたが、北政所もどこかにたてられているのだろうか。

 

最後に。

私がすっかり魅せられた出雲阿国像

太刀を肩に、右手に扇子、いいねぇ!

表情もしっかりして、出雲の空に、その躍るような姿がなんともかっこよかった!

「よぉ、阿国、待ってました!」

と、銅像にむかって掛け声かけたいね。

だれもいなきゃやったか(笑)。

 

美形でないのがまたいい。

出雲大社の巫女出身というが、その最期は不明という。

近くに阿国の墓が。

一世風靡して江戸まで行き、その後ふる里に帰ったのだろうか。

 

京都にも、出雲とほぼ同じ像があるそうな。まだ見ていない。

拝顔に行かねば!

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佐藤継信・忠信兄弟伝  下の巻

 

兄を亡くし悲しみにくれた弟・忠信だったが、その後も義経に随従し、長門・壇の浦の合戦でも活躍する。

そしてついに義経は壇ノ浦にて平家を滅ぼす。

 

だが、義経の名声が一挙にあがったことが尾を引き、歴史は大きく転換。

源平の戦いから、なんと義経と頼朝の、皮肉にも兄弟どうし、源氏どうしの対立・抗争へ変わっていくのである。

 

「吾妻鑑」には、義経・頼朝の抗争が激化する中で、文治元(1185)年、鎌倉から都の義経へ刺客が差し向けられた際、忠信は義経とともに応戦したという記述がある。

そして翌年、義経の西国行に同行するも、船が難破、忠信は都に戻り、潜伏していたが、居所を襲撃されついに自害したという。

 

「義経記」によれば、

頼朝との抗争が劣勢となった義経一行は、京から難波を経て、大和・吉野の山中へ落ちのびていく途中、吉野の荒法師たちに襲撃された。

この時、忠信は義経の甲冑を身にまとい義経の身代わりとなって敵を引き付け奮戦、義経の危機を救ったという。

 

忠信は義経を逃げのびさせ、自らも逃れて都に潜伏、しかしその後隠れ家を発見され襲撃を受け、ついに割腹自刃した。

 

後にこの忠信の孤軍奮闘ぶりを聞いた頼朝は、

「哀れ、剛の者かな。東国にこれほどの者なかるらん」

と感涙したという。

 

吉野山において、忠信が義経を逃すために身代わりとなって敵を追い払ったといわれる地が、今は眼下に広大な千本桜を見下ろす名所・花矢倉の地だったという。

 

人影がまばらの真夏に花矢倉を訪れた。

最盛期にはとても登れないであろう狭い登りの吉野道をグングン車にて花矢倉へ。

 

桜の花はなくても、眼下のしたたるような濃い緑がパノラマのごとくに広がる絶景の地。

その一角に、忠信を称える「佐藤忠信花矢倉」と刻まれた碑が。

またこの時の戦いで、忠信が追いすがる剛腕の荒法師・横川覚範を討った地には、覚範の供養塔も立てられていた。

また花矢倉より下った地にある吉水神社には、忠信愛用の兜が安置されているという。

 

このような忠信の、終始義経を支え助ける、一途な生き様、そして壮絶な死までをもとにして、歌舞伎「義経千本桜」の、狐が忠信に化け、義経・静御前を守るという「狐忠信」の物語が創作され、今日まで演じ続けられているのだろう。

 

「平家物語」「義経記」に描かれた佐藤兄弟の姿は、世の多くの人々に感銘を与え、語りつがれ、しだいに真実味を帯びたに違いない。

そして全国へ、後世へとあまねく伝播して、ゆかりの地や史跡がつくられたのであろう。

 

京都国立博物館敷地内に並びたつ馬町十三重石塔は、純度の高い二人の一途な忠節心を語り継いできた人々の心情の象徴といえよう。

 

そして我が信州の善光寺

壮大な山門を抜けたすぐ左に、肩を寄せるように二つの供養塔が並んでいる。

善光寺の境内に林立する数多の石塔の中でもっとも古い石塔で、佐藤継信・忠信兄弟供養塔という。

口伝によれば、故郷・奥州の地で待てど暮らせど、ついに帰郷することのなかった二人の兄弟のために、母・梅唇尼は信濃・善光寺を参詣した折、ここに供養塔を立て厚く菩提を弔ったという。

 

この稿を書くにあたり長駆、佐藤兄弟の聖地ともいうべき福島市の医王寺を訪ねた。

杉の大木が整然と並び立つ長い参道の奥に鎮座する薬師堂。

それを囲繞するがごとく、兄弟の墓塔が、父・佐藤基治と母・乙和(梅唇尼)とともに、並び立っていた。

というより私は、境内に立っていた、義経を守るように、継信・忠信が両脇に並ぶ三人の石像が実に微笑ましかった。

佐藤兄弟の健気で一途な忠義心は、戦前などはおおいにもてはやされた喧伝されたのだろうが、昨今は、いささか縁が遠い話といえようか。

 

それでもいつの日かまた、こんな日がくるのだろうか。

「佐藤兄弟? 知ってる、知ってるよ。あの義経の盾となった男だろ」

 

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まったくなんということか!

 

下の写真は、今夏、古戦場記事「大倉城の合戦」に使おうと、長沼城(長野市穂保)の写真を撮りに行った時の千曲川河畔。

堤防上の道路、休憩所にて。

 

左右に連なる木々の向こう側が千曲川本流で、右から左へ流れている。

かくもおだやかな景色だったのに。

天正10年、信長の家臣で松代城主(海津城主)となった森長可に反旗をひるがえし、芋川親正が挙兵。

それに同心・加勢した地元の国衆・島津忠直の城砦・長沼城址がこのあたりという。

まさに濁流に覆われた穂保地区。

城跡の説明版が立つのみだったが、おそらくここも、一面濁流に覆われたに違いない。

一帯のりんご畑も全滅か…。

 

いつもは善光寺平(長野盆地)をゆっくりと流れる千曲川なのだが…。

 

これは大倉城(長野市豊野)の本郭から望んだ善光寺平。

写真中央あたりがもっとも被災した一帯と思われる。

中央右から左へ、千曲川が流れる。

写真左の道が国道18号。

右に、千曲川支流の鳥居川が手前から向こうへ流れている。

 

我が第二のふる里・須坂は、写真正面の山のふもとあたりだが、千曲川河畔の須坂市もかなり被災したという。

 

次々と伝えられる被災の映像を見るたびに、ただただ暗澹たる気持ちになるばかり。

復旧に、がんばれ、がんばってください! と祈るのみである。

やっと、負けても負けぬ 咆哮のつわもの達 

三十二将星」(仮称)最終稿をまとめた。

やっとというか、ふぅ~というか、モタモタダラダラ、だらしないというか、よくねばってるというか(笑)…。

 

最終稿は「佐藤継信・忠信兄弟」伝。

いままでも何度か兄弟のことは紹介してますが、

その後、奈良吉野山の史跡や、福島市の兄弟墓所・医王寺も訪ね、あらためて加筆・修正してまとめました。

またご一読いただければ幸いです。

 

佐藤継信・忠信兄弟

(さとうつぐのぶ 1158?~1185  ただのぶ1161?~1186) 
源平時代の武将。兄弟ともに源義経の家臣。

当初は奥州藤原秀衡の家臣だったが頼朝の挙兵に馳せ参じようとした義経に、秀衡は兄弟を家臣として従わせた。

以後二人は義経に忠節を尽くし、武蔵坊弁慶・伊勢三郎と並び義経四天王と称せられた。

しかし継信は元暦2・寿永41185)年の屋島の合戦にて、

忠信は翌年、義経と頼朝との抗争の中で都にて戦死。

享年26~28か。

                                ◆

「佐藤つぐのぶ・ただのぶ? 聞いたことないなぁ。義経の家来といえば弁慶だろが」
と、歴史通の友人。
そこで京都に立つ
巨大な佐藤兄弟の供養塔の写真を見せ、

さらに「善光寺境内にも二人の供養塔があるんだぞ」
というと、
「そんなに有名か?」
と怪訝な表情。

 

かくのごとく、残念ながらあまり知られていない佐藤兄弟、逆にそれだけあるじの義経、そして弁慶の名が巨大すぎるといえようか。

とはいえ、京都・国立博物館敷地に立てられている兄弟の2つの巨大な6メートルにも及ぶ供養の石塔を仰ぎ見た時は、おどろいた。

「佐藤兄弟とはここまで称えられているのか!」と。

そのおどろきは、四国・屋島の古戦場を訪れた時、倍加するのだから恐れ入った。

 

京都国立博物館の二つの十三重塔は、もともとここに立っていたのでなく、近くの東山区馬町の市街地にあったという。

正式名は「馬町十三重石塔」。
現在のような形に復元されたのは昭和15(1940)年で、それまでは三重塔と六重塔で上部は欠け落ち、その石が台座に使われていたという。

石塔は馬町交差点近くの住宅街の路地あたりに立っていたといい、今はその地に二人の墓塔がひっそりと並び立っている。

 

▼右側の石柱には「佐藤嗣信」と記されている

  

佐藤継信・忠信兄弟は、義経の家臣にて、弁慶に負けぬ熱い忠節心を持った武将として後世にその名を残した。

寿永3(1184)年の播磨・一の谷の合戦に続き、義経が勝利した讃岐・屋島の合戦は、那須与一が扇の的を射る話で世に知られた海戦である。

 

▼古戦場を西側から俯瞰する

義経は阿波国から上陸して、平家が陣を構える讃岐・屋島の背後より奇襲した。

源氏優勢の熾烈な戦場の中、敗色を挽回せんとして平家の猛将・平教経の、

「総大将・義経をただ一矢に射ん!」

放った強弓は、あわや義経に命中と思いきや、咄嗟に義経の前に躍り出た佐藤継信を射抜いた。

継信は身を挺して義経を守ったのだ

 

気息奄々の継信。
「継信、しっかりせい! 継信!」
と肩を揺らす義経。

「君(義経)の御世に渡らせ給はんを見参らせず(殿が出世されるのを、この目で見ることなく)して、死に候ふ事こそ心に懸かり候(平家物語)

と声をしぼり出す継信。

そしていまわの際に、

「武人が敵の矢に当たって死ぬは、覚悟の上。

今はただ、源平合戦にて、奥州の佐藤三郎兵衛継信という者が、屋島の合戦にて、義経様の命に代わって討たれたと、末代まで語り継がれるのが、この世の名誉、冥土の思い出です
この継信の最期の姿が、後世の人々の心をつかみ、まさに末代まで語り継がれているのである。
 

八百年の歳月を経た屋島の古戦場へ。

那須与一が扇をねらって弓を構え念じて立ったという岩や、

「義経弓流しの地」、

「悪七兵衛景清錣ひきの地」、

そして継信が討ち死した地・「射落畠(いおちばた)の史跡などが点在する。

古来より言い伝えられている地のためか、海岸がしだいに埋め立てられ、現在の海岸線からかなり内陸に入った地に位置している。

 

▼「佐藤兵衛尉嗣信戦死處 射落畠碑」と刻まれている

継信が戦死した地の、「佐藤兵衛尉継信戦死處射落畠碑」と刻まれた高さ3㍍は有する巨大な石碑には、圧倒される。

 

また近くの牟礼川河畔に、江戸時代、地元の高松藩主・松平康重が継信の忠死に感銘して墓所を造営した。

昭和になって継信のご子孫の方が大改修したとはいえ広大で、まるで公園のような墓所にて、これにもおどろかされた。

▲墓所の案内板に、こんな句が記されていた。

「胸板で すえて忠義の 的となり」

 

また松平頼重は、四国巡礼する人々に継信の忠死を広く知ってもらうため、巡礼者の往還する屋島の道筋に、継信の墓碑を立てた。

往時の古戦場全体を東から広く俯瞰できる地である。

屋島の合戦といえば、那須与一の名があまりにも有名でよく知られるが、まさか佐藤継信がかくも称えられ、屋島の古戦場に史跡を残しているとは、不覚にも私は、屋島へ行くまで全く知らなかった。

                     →下巻へ

 

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豪快な運慶・快慶の力作は、東大寺南大門の金剛力士像とばかりと思っていたのだが、これはまたすごかった! 知らなかった!

兵庫県小野市の浄土寺へ。

開基は鎌倉時代初期という。

 

境内の国宝・浄土堂は、宝形造瓦葺四方20メートルという大きさ。

創建者の重源上人は、天井を張らず、豪快な大仏様(天竺様)の建築様式でつくった。

 

堂内に入ると、中央に阿弥陀三尊像が東を向いて巨大に屹立!

中央に本尊・高さ530センチ、立像・木像の阿弥陀如来像。

脇侍の観音・勢至菩薩370センチ立像・木像。

まばゆいばかりの金箔!

さらに堂内は全体が朱に塗られている。

ムム、これには圧倒される。

 

これはどうしても紹介したい、これは必見に値すると。

パンフレットから借用させてもらいます。

背後西側の蔀戸を夕日が沈むころ開けると、

朱と金でまぶしく背後後方から反射した三尊は、

まさに西方浄土から来迎した姿という。

 

いやぁ、ため息の出るような演出の解説を聞いた。

それにしてもこの豪快な阿弥陀三尊は、もっと多くの人々に見てもらいたいような。

 

続いて、同じく兵庫県加古川市の鶴林寺へ。

聖徳太子創立という。

境内には、20以上の国宝・重文があるという。

国宝・本堂は入母屋造瓦葺、和様・大仏様・禅宗様の折衷様式。

同じく国宝の太子堂は、宝珠をいただく宝形造檜皮葺の優雅な建物。

嬉しかったのは堂内の重文の仏像が撮影可だったこと。

本尊の薬師如来像

左右に日光月光菩薩像。

東大寺法華堂の同じ菩薩像に匹敵するみごとさ。

十二神将像も彫りが細やか。

仏像群のなんと壮観なことか。

 

さすが国宝級の彫刻がズラリ。

 

そして急ぎ、夕闇迫る京都下京区嵯峨野の滝口寺へ。

竹林があざやかなれど、いささか暗かったけれど。

ここでの目的はただ一つ。

あぁ、新田義貞首塚

妻の勾当の内侍が都に晒された義貞の首を持ち出し、ひそかにこの地に葬ったという。

そして自らもこの地に眠るか。

義貞出生の地の群馬県太田市の新田荘や、越前福井県の落命の地などを思う。

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◆小型船で巌流島(船島)に着くと、すでにわれ武蔵の心境に。

足早に小高い丘へ。

「おぅ、武蔵も、おぅ、小次郎も!」

なんとすぐ近くの砂浜には、武蔵の乗ってきた小舟が。

なんという小気味よい演出だ、にくいねぇ。

そして、子供たちが闘っている、チャンバラやってる、いいなぁ、いいなぁ。

無人島の船島に、二人の闘っている像を立てるなんて、なんと素晴らしい。

お薦めです!

 

◆下関では壇ノ浦のこの像も、実に魅力的!

すでに何回か紹介している義経八艘跳び、そして平知盛が碇を身にまとい入水直前の像。

  

関門海峡を背景とした設定が実に素晴らしい。

これまた必見。

 

◆義経が壇ノ浦から凱旋、そして鎌倉へ。

腰越の満福寺で、弁慶とともに「腰越状」をしたためている石像。

義経が鎧兜というのがちょっといただけないが。

 

切々と兄・頼朝に自らの素志を訴えるも、ついに会えず。

無念、ここから頼朝との哀しい確執が。

 

あんりゃりゃ、傍らでのんきなお嬢様が二人にエールをおくっているぞ。

 

◆これぞ曽我兄弟!

富士市曽我寺に、仇の工藤祐経寝所へ討ち入りするこの勇ましくもかっこいい像。

そして亡き父を思い、仇の姿を思う幼いころの像が近くの玉渡神社に。

弟の時致はこの近くで斬首された。

二人の墓所は曽我寺にあるが、兄の祐成が討たれたあたりという富士の裾野の上出井の墓所は杉林の中、兄弟のみの荘厳な地となっている。

二本松少年隊の悲劇は、まったく知らなかった。

福島県・二本松城の門前の銅像群を見て、パンフなどを読んで初めて知った。

少年隊は激戦の中で戦死している。

東征軍との戦いで敗色濃くなると、藩重役たちが次々と自刃、12~17歳の少年たちを統率する命令系統がなくなり、少年たちは個々に戦い、さらに悲劇は拡大した。

 

背後で軍服を縫う母親像がまた…。

 

二本松城の石垣も、建物群もじつに美しい。

◆命の恩人を討ってしまった木曽義仲像

北陸加賀の篠原の古戦場に立つ三人のもののふ像。

左・義仲、中央・樋口兼光、右・手塚光盛。

三人の中央に兜が置かれ、義仲は首級を抱き天を仰いで泣いている。

首級は、幼いころ義仲の命を助け、中原兼遠に預けてくれた斎藤実盛だったのだ。

敵の平家の武将として出陣、敗色濃い中、手塚光盛に首討たれるまで自分の名を名乗らず落命した。

その名場面が像となっている。

 

すぐ近くに、義仲が実盛を厚く弔って築いた実盛塚が。

塚の巨大な松が実にみごとな枝ぶり。

これも必見!

◆「神よ、我が願いを叶いたまえ!」と、新田義貞が剣を海中に捧げると…。

これは、義貞挙兵の地、群馬県の生品神社に立つ像↑。

これは同じく太田市の新田荘歴史資料館の像↓。

おぉ、稲村ケ崎の潮はみるみる引き、浅瀬が! 

「ものども、鎌倉へ押し出せ!」

「義貞、自ら佩給へる金作の太刀を抜て、海中へ投給けり」。

稲村ケ崎から江の島を望む。

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木曽・鳥居峠の合戦

  武田信豊(武田勝頼方)VS木曽義昌(織田信長方)

天正10(1582)年2月

 

「なんと、木曽義昌が織田方に? 木曽は我が武田の親戚衆ぞ!」

武田勝頼は眼をむいて怒った。

 

だが親戚衆とはいえ政略的なもの、義昌妻室は勝頼妹であり、逆に勝頼居城の新府城(山梨県韮崎市)には、義昌母(70)と一子・千太郎(13歳)、息女(17)が送り込まれていた。

 

新府城普請負担の勝頼からの要求が重く義昌にのしかかり、また長篠合戦敗北以降の武田衰退が義昌を迷わせていた。

勝頼の鉄砲隊整備などの再建策は進捗していたが、信長の勢いは日に日に高まり、美濃の遠山氏あたりからの織田方への誘いの手もしきりだった。

 

迷いに迷った末の義昌の織田臣従の決断は、まさに自らの人質の処断を覚悟してのものだった。

戦国の世のならいとはいえ、あわれ義昌の母と子は斬刑となった。

 

新府城から南へ数百㍍ほどの古刹・光明寺。

高台の墓地に3人の墓塔が並ぶ。

改装された墓石が逆に何か哀しみを帯びる。

木曽攻めを断固内外に示した勝頼は、いとこの信豊を総大将として出陣させ、信豊は、諏訪・塩尻を経て木曽谷へ進攻した。

 

一方、義昌が織田方に同心したと聞いた信長は、ただちに出撃命令を発した。

総大将は嫡男・信忠、木曽谷口からは織田長益らが進攻、義昌の援軍とした。

 

木曽谷の天嶮は鳥居峠である。

この地をどちらが制するかで勝敗の帰趨は決まる。

それは義昌も武田も熟知していた。

だがこの難所の山道を自分の庭のごとく知る義昌には勝算があった。 

▼今は峠道に石畳が復元されている

 

武田信豊を総大将とする、名にし負う天下最強といわれる武田勢は、北の奈良井口から鳥居峠へ進軍してきた。

「よいか、敵(武田方)を山中に十分引き込むのじゃ。それまでは手出し無用」

 

義昌は全面衝突を避け、敵を細い山道へ誘い込むようにした。

そして味方を山中の随所に伏兵として配置し、武田勢全軍が山中に入ったところで一斉攻勢にて出た。

 

まるで猿が梢から梢に伝わるがごとく、山々峰々から矢・鉄砲を放つこと雨が降るより激しかったという。

そして斬り込み隊の突撃…。

 

武田軍先陣は次々と谷や沢に突き落とされ、将兵数百人が討たれた。

地の利を知った木曽勢の大勝利というのが大筋の合戦の経過だが、諸古書の記述はなかなか一致しない。

武田の別動隊が伊那の権兵衛峠あたりから木曽谷へ進攻してきて、義昌勢の背後を攻め、一時的な勝利からかなり追い込まれた可能性もあるのだ。

 

だがなぜか武田の追撃がなく、その間に織田勢の新手の援軍が到着、義昌は劣勢を挽回して鳥居峠を確保したと考えられる。

 

結果的に武田勢は敗走、木曽・織田勢の勝利につながったのだろう。

ともあれ、この鳥居峠の合戦は、

「木曽が織田に味方した!」

「あの武田が負けた!」

ことで、信州や甲斐の土豪が次々と武田を見限らせた。

 

上原城(茅野市)まで出陣していた勝頼は敗戦の報で甲斐へ後退する。

そしてなんと1か月後、武田家は天目山にて滅びるのである。

 

久々に鳥居峠に登った。

改めて峠の「義昌戦勝の碑」を撮ろうと思って。

 

碑文は磨滅してよく読めないが、この合戦勝利の顕彰碑は長く残ることだろう。

もはや400年前の合戦の阿鼻叫喚はまったく聞こえず、涼風が心地よかった。

峠から藪原宿、その先の静かな木曽谷が遠くまで望めた。

次回は、砥石崩れ(砥石城の合戦) 

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▼紙面版

 物語的、劇画的な銅像群、第二弾です。

 

新潟県長岡市の県立近代美術館前広場に、ずらり立ち並ぶいかつい武士たち。

中央に端座して右手を前にあげ、

「うんにゃ、ならねえだ!」と、小林虎三郎

「うるさい! さっさと米をわけろ、みな飢えてるのじゃ!」

刀に手をかけ威嚇する武士たちを抑え、説いている。

このとき、虎三郎は、長岡藩大参事。

我が信州の佐久間象山門下にて、吉田松陰と「象門の二とら」といわれた英才。

 

親戚藩から分与された米百俵を藩内で分けず、売ってその金で学校を作り、将来に投資するんじゃと、虎三郎はガンとしてその信念を譲らなかった。

 

かつて小泉元首相は、「耐える、ガマンする」ことでこの話を力説した。

肝心なことは、学校を作って人材を育成するという虎三郎の確固たる信念、これをを強調してほしかった。

 

●さて、もう一人のとら、寅二郎・吉田松陰は、伊豆・下田の海岸に。

弟子・金子重之輔とともに、下田に停泊するペリーの船にいざ乗り込もうとしている。

二人の決意固い表情がいい。

左が松陰、右が重之輔。

  

二人が一時乗り込んだサスケハナ号は観光船となって、目の前で下田湾内に浮かんでいる。

ああ、もしこの二人、あのままアメリカへ渡っていたら…。

 

●「あのお茶の話って、あれって石田三成のことだったんですか、知らんかった~」

と、よく云われる三碗の才、三献茶の像。

滋賀県長浜駅前に、秀吉と前髪姿の石田佐吉が。

佐吉どんの表情がかわいい。

「最初はぬるめをたっぷりと……、二杯目はほどよい加減で半分ほど…、三杯めは、舌が焼けるほどを三分の一」ですよね。

 

●さて北陸へ。

安宅関にて、この三人の姿像は見逃せない。

目の前に日本海の白波が押し寄せる目前に。

あの「勧進帳」の緊迫の場面が。

左から、義経、弁慶、そして関守の富樫

   

主役は、弁慶。

富樫の前で、きびしくあるじ義経をなじり、打擲する弁慶。

あまりのものすごさに、富樫は、「もうよい、はよう立ち去れ!」

 

●そして弁慶は、義経の前にひざまづき、涙ながらに謝罪。

「もうよい、もうよい弁慶。わしは打たれる痛さのたびにおぬしに感謝しておったぞ」……、うわ~ん、泣ける、泣けた~。

 

安宅関すぐ近くの能美市道林町にその場面の像が。

弁慶がいささか現代風。

かくして義経一行は北へ旅を続けるのだが…。

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