房総半島には天守をいただく城跡が多い。
城の石垣は魅力的だが城門、土塀、櫓、そして天守。
それが模擬天守であっても城跡を引き立てる。
大多喜市の大多喜城へ。
唐破風まで備えた立派な模擬天守。
「海は見えるのかな」と思ったが、ずっと先までなだらかな山並み。
「忠勝公の銅像はどこにあるんですか」
駐車場の管理人の方に聞いてみたが、知らないという。
「ここにはないと思います」と。「え、え?」
確か写真で見たが。
岡崎城の像や桑名城のとは違った像だったが。
▼岡崎城の忠勝像
▼桑名城の忠勝像
ここ大多喜城にも確かあったと思うが…。
忠勝さんの墓所・良玄寺にあるのかも。
城から近い良玄寺境内、墓碑の周囲が忠勝公園となっていた。
「タダカツ パーク」か…。
しかしここにも忠勝像はなかった。
二代城主の忠朝、忠勝、忠勝妻室の墓碑が静かに並んでいた。
忠朝は、忠勝が桑名城主に移った後、大多喜城主となったが夏の陣で戦死、忠朝甥の政朝が城主に。
寺の方が誰もいなかったので、農作業をしている方に忠勝像のことを訊ねた。
「小さくてな、目立たないわ。わしはもっと大きいと思ってたんだが…」
境内でなく、近くの夷隅川の行徳橋の欄干に立っているという。
あった、あった、ここか!
ずっーと先に、背を見せた忠勝さんもいますが、みえますか。
二体あったとは知らなかった。
こ、恐えぇ!
アップ。小さい像でよかったか。
こっちはまた、かっこえぇではないか!
後に久留里城資料館の館長さんと談笑した折。
「家康第一の家臣、平八郎忠勝が、失礼ながらなぜこんな房総の山奥に配されたか不思議で…」
「家康は房総に秀吉死後も不気味に根付いていた里見氏の勢力を恐れ、江戸への攻め込みを警戒したんだと思います」と。
里見の勢力…、考えたこともなかったが、さすが家康、慎重の上にまた慎重。
岡崎以来関ケ原までの本多忠勝の活躍ばかりに気をとらわれていた自分であった。
「家康に 過ぎたるもの二つあり 唐の頭(兜)と本多平八」か。
大多喜城から、模擬天守のある久留里城へ。