「世界地図で唯一日本人名のついた地名、間宮海峡!」
「間宮海峡」この印象は強かった、が、長く忘れていた。
茨城県龍ヶ崎市金龍寺の新田義貞墓所を訪ね、ここで初めて「間宮林蔵記念館・生家」が近くにあることを知った。
懐かしかった。その名を長く忘れていた。
記念館に、実直そうな二刀を帯びた林蔵の立像が出迎えてくれた。
農民の子だった林蔵は、後に勘定奉行付きの武士へと出世した。
ここは茨城県つくばみらい市。
土浦市から南西へ20㌔ほど。
南へ5㌔ほどが茨城県・千葉県の県境、つまり利根川。
すぐ近くから移築されたという茅葺屋根の林蔵生家は修理中だった。
それにしてもいつものことだが関東平野の広いこと、広いこと!
いったい山なんぞどこにあるのか。
近くに利根川の支流小貝川が流れる。
林蔵は幼いころ小貝川の堤防修理工事を間近で見て、修理する幕府の役人に工事の提案意見をしたそうな。
幼いころから聡明だったか。
小貝川の川の中島にも、林蔵の像が立っていた。
大雨時には滞留して水があふれる平野部の河川、その治水は難工事だったろう。
いまはゆうゆうと流れる小貝川だが。
生家近くの専称寺。幼いころ、ここで林蔵は学んだ。
広い境内の一角に林蔵の偉業を讃える巨大な顕彰碑が立っていた。
その碑の並んで、林蔵が生前建てたという墓が。
左が林蔵、右が両親の墓塔という。
林蔵家はもとは農民、林蔵が測量の下役人に登用され武士となった。
林蔵は二度目の北方蝦夷地測量を命ぜられたとき、死を覚悟してここに墓を立て出立したという。
1808年の北方測量で樺太北部へ、さらに翌年には海峡を渡って大陸へ。樺太が「島」と確認した。
また師である伊能忠敬が測量できなかった蝦夷北方地域、国後・択捉にも渡り状況を探査した。
▼佐原駅前に立つ伊能忠敬像
伊能が完成したといわれる「大日本全図」の蝦夷北方周辺の地図は林蔵の探査をもとに完成したという。
伊能の林蔵への信頼度はきわめて高かったという。
残念ながら伊能忠敬の知名度があまりに高く、佐原市の伊能忠敬生家を訪ねたときも、林蔵のことをほとんど意識しなかった。
宗谷海峡を望む北海道稚内市の宗谷岬に、間宮像が立っているという。
学生時代、宗谷岬へ行った。
私は間宮林蔵を思い出したのだろうか…。
今回、記念館に来て間宮林蔵を懐かしく思い出してよかった。
ほんとうによかったよ、林蔵さん!