●関東史跡行2 常陸・龍ヶ崎金龍寺の新田義貞墓所 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

新田義貞への哀惜は、今も昔も変わらない。

その無念さを晴らすがごとく各地に史跡・墓所が。

常陸・龍ヶ崎の金龍寺義貞墓所へ。

 

昨年、群馬県太田市の金山城山麓に金龍寺を訪ねた。

金山城主だった横瀬氏(後に由良氏)が、1417年先祖新田義貞供養のため開基した。

横瀬氏は、越前・称念寺の義貞墓▼から分骨して金龍寺を開基したという。

称念寺は義貞戦死地の灯明寺畷近くにて、壮大な墓所が営まれている。

 

強い義貞への思いから、横瀬氏は越前から墓を上野の金龍寺に遷して開基した。

横瀬氏の祖は、義貞の三男、義宗である。

 

境内奥に、横瀬氏一族の墓塔が並び、最上部に高さ3㍍ほどの義貞供養塔が立っている。

 

金龍寺は、後に横瀬氏の転封で常陸へ移転するが、江戸時代に館林城主となった榊原康政がこの地に再建し、義貞を祀った。

 

因みに金山城本丸には、明治になって義貞神社が祀られた。

太田市周辺の義貞の史跡は多い。

 

金山城主だった横瀬氏(後に由良氏)が開基した金龍寺は、後に常陸・牛久への転封に伴い移転、さらに現在の龍ヶ崎市若柴へ移転建立された。

 

今回、その龍ヶ崎市の金龍寺へ。

なぜ義貞生誕地・そして挙兵の地の太田市周辺から離れた常陸に、義貞の墓所があるのか、やっと流れが分かった気がした。

義貞の子孫・横瀬(由良)氏の強い先祖・義貞への思慕を知った。

桜も終わりかけた頃、特に新田義貞墓の案内もなかったので寺の方に訊ねると、墓は本堂の裏手という。

 

本堂左手から奥へ進む、竹林が広い。

何の案内板もなく…。

見つけた。「新田家累代之霊墓」の碑。

 

そして、ただ四基の霊塔が並んでいた。

これだけだった。

五輪塔が四基……。

新田貞氏は由良氏の初代、由良国繁は金龍寺を開基した人。

あまりにあっさりした墓碑でいささか寂しかった。

 

越前称念寺から上野・金龍寺、そして常陸牛久、常陸若柴金龍寺と長く歴史を重ねてきた義貞の墓碑だったのに…。

 

関東には桐生・善昌寺に義貞首塚が祀られている。

上野・生品神社で旗挙げしてついに鎌倉を滅ぼした義貞の墓碑は小田原にも、川崎市にも祀られているそうな。

今回の旅でどこまで行けるか…。

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