●塔影禮讃4 信州の4名塔、国宝あり&龍岡城五稜郭も | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

「なにも京都や奈良へ行くこたぁねぇじゃんかよ!」

「すげぇなぁ信州!」

友人を信州の名刹・三重塔を案内した時、こんな感嘆の声が。

然り!

というわけで、早春三月に訪ねた東信濃の名塔・三重塔をぜひご覧いただきたく。

だがその前に、今回は行かなかったけれど、薬師寺東塔など奈良の塔にも決してひけをとらぬ我が信州の国宝の三重塔(上田市別所温泉)をぜひご覧あれ!

 

ジャーン、安楽寺八角三重塔!

鎌倉時代の執権北条一族が東信濃の塩田平に居を構えて一帯は発展。

この地に全国唯一の八角の塔が。

四重塔に見えるが、最下層は裳階(もこし・飾り屋根)。

この時は杮葺(こけらぶき)の屋根がまだ新しく美しかった。

塔の正式名称は「裳階付木造八角三重塔」だそうな。

こればかりではない。

もう一つ、信州には「見返りの塔」と呼ばれる国宝がある。

大法寺三重塔(青木村当郷)。
 

 

初重から二重、三重と屋根の面積が小さくなり安定感のある美しさ。

高さ18㍍、檜皮葺。鎌倉末期の建立。

 

この塔を拝観した人は坂道を下りながら帰る途中、必ず振り返って塔の優美さをもう一度見なおすことから「見返りの塔」の別名が生まれたという。


というわけで、信州の国宝の名塔を見ていただいたところで今早春に巡った三重塔もぜひご覧いただきたく。

まず、

貞祥寺三重塔(ていしょうじ・佐久市前山)。

 

まだ薄い春の日差しを浴びて。

いまだ木々が芽吹いていないため、塔全体がよく見える。

三重塔は、江戸時代後期の建築という。

 

前扉の透かし彫りの、立体的な木彫が凝っていて素晴らしい。

 

境内の苔の緑も日差しを精一杯吸い込んでいるがごとく!

 

重厚な山門。貞祥寺は戦国時代の地元の豪族伴野氏が開基、七堂伽藍を備えた大本山だったそうな。

 

貞祥寺から東へ、佐久平東側山裾の、新海三社神社へ向かう。

だが途中、最近注目されつつある龍岡城五稜郭に立ち寄らねば。

有名な函館五稜郭は知っていたが、信州人なのに佐久の五稜郭はかつては全く知らずにいた。

五角形の旧城内は田口小学校となっていたが、最近閉校になったという。

 

きちっとした五角形の築造がそのまま残る。

一部は埋め立てられたが、いまだ堀も石垣もかなり残っている。

 

これこそ寄り道・余談なれど。

かつて連載『信州往来もののふ列伝・巻95』として、龍岡城五稜郭を築城した松平乗謨(のりかた)について地元タウン紙に書いた。

ダイジェストをぜひご一読を。

 

 松平乗謨(まつだいらのりかた 1839~1910) 

幕末の譜代大名。三河・奥殿藩1万6千石の藩主。

明治になって元老院議官、華族となる。

24歳の時、飛び地として領有していた佐久・田野口(龍岡)へ藩庁を移転、居館を五稜郭として築造する。

慶応2(1866)年幕府の老中、陸軍総裁に就任。

明治維新後は大給恒(おぎゅうゆずる)と改名、後に伯爵となる。

日本赤十字社の創設者。没年72歳。

▼当時高校生が描いてくれた松平乗謨

                          

「信州に五稜郭? 何だ、それ。北海道の函館だろうに」

と、信州人さえもよく知らず、他県人となればほとんど初耳だろう。

函館の五稜郭は、かの土方歳三戦死の地でもあり有名すぎるからなおのことである。

佐久盆地の南、JR小海(八ヶ岳高原)線・龍岡城駅より東南へ1㌔ほど行くと、五稜郭の龍岡城跡(佐久市田口)に至る。

星型の城郭内はそのまま市立田口小学校の校地となっており、空撮写真で五稜郭がはっきり分かる。

規模は函館五稜郭の三分の一ほど、直径約150㍍、石垣・土塁・水堀がよく保存されている。

 西洋には巨大な星型要塞が数多く見られ、考案者のフランス軍人の名を冠してヴァーバン式要塞とも呼ばれる。

 

水堀に守られた星型の5つの突出した砦から攻め手の動きを確実に捕捉できる死角のないのが利点といわれ、また平地に石垣を低く築くため遠くからの砲撃は目標物が見えず、攻めにくい城塞という。

 

乗謨は三河松平家発祥の松平郷・奥殿藩大給松平家に生まれ、江戸で育った。

▼三河の奥殿陣屋

幼いころから聡明で5歳ころには「四書五経」を全て暗記したという。

蕃書調所で蘭学・フランス語を学び、西洋の事情に精通した。

兵制や兵学を熱心に学び、特にフランスの軍事顧問を招くなどして研究、仏会話も出来たほどだったという。

 

嘉永5(1852)年、奥殿藩の藩主に着任、11年後飛び地として1万2千石領有していた佐久に藩庁居館を移し、五稜郭の築造に着手、およそ3年かけ慶応2(1866)年ほぼ完成した。

江戸・京都から遠い信州の地にこのような新式要塞を特に造る必要があったのか疑問だが、まさに進取の気性に富む乗謨のなせる業だったといえよう。

 

才気煥発な乗謨に期待した幕閣は、同年老中に抜擢した。

3万石以下の大名の老中就任は異例だったが、大政奉還の前年のこと、時はすでに遅かった。

 

明治維新後、乗謨は大給恒と改名して政府に恭順した。

幕閣の中枢にあったため一時冷遇されたが、西洋の事情に詳しいことなどから賞勳制度の整備を命じられ、制度が結実すると賞勳局総裁、さらに華族・伯爵に任ぜられた。

乗謨(大給恒)が西洋通をもっとも発揮したのは博愛社、後の日本赤十字社の創設に尽力したことであろう……以下略 

 

長々と五稜郭の話となり、東信濃の三重塔から外れてしまった。すみませんでした。

新海三社神社の三重塔については次回に。

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