●関東史跡行6 千葉城、頼朝上陸地、上総介広常墓 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

間宮林蔵の生家・墓所を訪ねた日の夜。

久々近藤勇ゆかりの地・流山にて旧友Kと邂逅 、昨年秋に逝去した旧友・竹内整一東大教授を偲びながら献杯す。

▼流山の近藤勇陣屋跡

Mとは竹内教授を介して大学時代に知り合った。

Mの数学は高校時代ダントツの才だったと周囲のものはみな今も恐懼して口を揃える。

さらに文学・歴史学にも造詣が深く舌を巻く(モチ東大!)。

この夜の酒では、間宮林蔵の話で盛り上がるも、Mはすでに私より先に生家を訪ねていて驚いた。

▼生家跡・記念館前に立つ間宮林蔵

哀しくも楽しい酒を流山の地にて、旧友竹内教授、近藤勇、間宮林蔵に献杯しつつ長く痛飲した。

 

千葉城(千葉市内)。

模擬天守というが白壁がきれいで堂々たる造り、天守最上階まで登る、無料だったし。

四層五階、小田原城をモデルにしたとか。高さは30㍍という。

残念ながら最上階から東京湾は望めず。

天守前に堂々たる騎馬像が。

鎌倉初期、頼朝を支え房総一帯を支配した千葉常胤像

 

千葉氏は、桓武平氏の平忠常の子孫。

同郷の上総介広常とともに頼朝を支えた。常胤のときに千葉氏を称したという。

広常が誅殺された後は、常胤が房総一帯の惣領として支配したようだ。

天守内に常胤の木像も。

 

頼朝上陸の地(鋸南町)へ。

石橋山の戦いに敗れ、真鶴半島から東へ海路90㌔近くを渡り、這う這うの体にて房総半島へたどりついた頼朝一行。

▼真鶴半島の頼朝が船で逃れた地、おそらく絶望の胸中だった頼朝…。

そしてこの地に着いた。

「源頼朝上陸地」と刻まれている。

相模湾を望む。

後に天下人となった頼朝にはこの地でのさまざまな伝承が残る。

その1。

先ず房総へ逃げ延びる小舟の中で。

なんとあの和田義盛が「天下取ったら侍大将にしてくだされ」と。

天下どころか、死を背負う頼朝も皆も呆れたが、頼朝は「わかった、義盛」と。

この時の約束が、後に「和田義盛侍所別当!」という大抜擢になったとか。

その2。

この上陸の地でわずかな供ぞろえの頼朝一行を迎えたのは、なんと2万騎という大軍を率いてきた上総介広常だった。

ところが狂喜乱舞して感涙するはずの頼朝が、「着到遅し!」と怒り、広常に目通りを許さなかった!

その頼朝の厳然たる態度に広常は屈服・服従したという…

ウーンこの逸話。老いた今の我が身になっても人生を思うなぁ。

後に広常は頼朝に暗殺される…。

▼勝浦城へ向かう途中で布施塚・広常墓(いすみ市)に墓参。見つけにくかった。こんな道を登って…。

囲いがブロックかよ…。

▼すぐ近くの目立つ道路沿いに、なんと広常の愛馬「尾骨」が神社となって祀られていた(驚き)

次は館山城、そしてフェリーで久里浜へ、亡き妻の実家浦賀へ…。

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