館山市の館山城へ。
山の上の模擬天守は高さ70㍍ほど。
海が! 相模湾が一望!
天守は小田原城がモデルという。
天守からの海。
山城の天守から大海原が望める景色が城めぐりの最高の極みのような。
天気が勝負か。
房総の雄、里見氏の居城だった館山城、しかし…。
里見氏の隠然たる勢力を警戒した江戸幕府は、小田原・大久保忠隣処罰の際、連座にて里見氏を遠く山陰に転封した。
本多忠勝の大多喜城への配置といい、幕府はよほど里見氏を警戒したのだろう。
そんな里見氏の話を背景に『南総里見八犬伝』という滝沢馬琴の名作が誕生したという。
幼いころ読んだ見た絵本がよみがえる里見八犬士!
犬飼現八、犬山道節、犬坂毛野、犬江親兵衛、犬村大角、犬田小文吾……うーん、あと二人…出てこない。
このあたりまでしか思い出せない、名前の漢字があってるかどうか…。
そんな昔を思い出させてくれた館山城を後にして、東京湾フェリーの金谷港へ。
波も穏やか、久里浜までのいい東京湾横断の船旅が出来るかも。
彼方に対岸の三浦半島が。
巨大なタンカーが。
懐かしい、三浦半島、久里浜…。
久里浜でフェリーを降り、浦賀へ向かう。
浦賀は亡き妻のふる里、義弟と久々の邂逅の前に、懐かしい「浦賀ポンポン船」に乗る。
おお、浦賀の渡しは健在なり!
東渡船場から、浦賀湾を横切って西渡船場へ。
今も朝夕はかなりの人らしい。
5~6人乗りの優雅な渡し舟。
かつては蒸気船?(よくは覚えていない)で、動くと蒸気の音が「ポンポンポン」と海面に響くので「ポンポン船」と呼んだらしい。
今もみな老いも若きもポンポン船と言うそうな。
往復乗って戻って来た。
乗客は我一人のみだった、乗ったのは何十年ぶりだろう…。
浦賀港ではかつて造船所もあり、タンカーの進水式が盛大に行われたという。
よく覚えている浦賀の有名な史跡、東渡船の乗り場近くの舟宿「徳田屋」跡。
…………嘉永6(1853)年、黒船4隻が浦賀へ来航した時、
吉田松陰24歳は、ただちに江戸から浦賀へ急行した。
おそらく佐久間象山もいっしょだったか。
二人は黒船の巨大さに感動、かつ恐怖したに違いない。
「あれが異国の船か!」
「攘夷などといってはおられぬ…!」
「象山先生、私は異国へ行ってみたい!」
松陰と象山は一睡もせずに語り明かしたであろうその地がここ徳田屋。
浦賀湾の突端にあった旅館跡。
これはかつて撮った写真、碑が立っていたけどなぁ。当時。
今は建物があるだけだが、昭和の初期までは旅館業をやっていたようだ。
以前は館跡前の石碑に、
「吉田松陰佐久間象山相会処(徳田屋跡)」
と刻まれていた。
ところで、この徳田屋旅館はすごい!
何がすごいかっていうと、この宿に草鞋を脱いだ面々がすごい!
まず、佐久間象山と吉田松陰。
二人は黒船を直接見ようとこの宿にやってきて会ったという。
それより2年前には、象山は弟子の「米百俵」で有名な小林虎三郎をともなって来ている。
同じ年、松陰は友人の熊本藩士で、後に池田屋で新選組に惨殺された宮部鼎蔵とともに泊まっている。
徳田屋の開業がいつかは定かでないが、1700年代の終わりごろ、老中・松平定信が沿岸の視察でやってきて泊まった記録があるという。
また1853年には、浮世絵師の歌川広重が。
あの桂小五郎、後の木戸孝允も草鞋を脱いだという。
こうして徳田屋に泊まった数多くの人々が、ここから世界に目を広げていったということか。
上手に保存されるといいが、石碑がなくなっていることが気がかり。
さて最大の浦賀へ来た目的を果たさねば。
まず義弟と久々に会って、近くの乗誓寺へ。
義父母の墓に本当に久しぶりに額づく。
しばらくぶりの再会で、義弟夫婦と長く談笑、安曇野にぜひぜひと誘って、安曇野米をどっさり?渡して。
「ところで乗誓寺になんで曽我兄弟の銅像が? 以前はなかったような…」
「そうなんですよ、なんか住職は曽我兄弟のご子孫とか」
「あれ~、意外!」