きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー -2ページ目

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

房総半島には天守をいただく城跡が多い。

城の石垣は魅力的だが城門、土塀、櫓、そして天守。

それが模擬天守であっても城跡を引き立てる。

 

大多喜市の大多喜城へ。

 

唐破風まで備えた立派な模擬天守。

 

「海は見えるのかな」と思ったが、ずっと先までなだらかな山並み。

忠勝公の銅像はどこにあるんですか」

駐車場の管理人の方に聞いてみたが、知らないという。

「ここにはないと思います」と。「え、え?」

確か写真で見たが。

岡崎城の像や桑名城のとは違った像だったが。

▼岡崎城の忠勝像

 

▼桑名城の忠勝像

 

ここ大多喜城にも確かあったと思うが…。

忠勝さんの墓所・良玄寺にあるのかも。

 

城から近い良玄寺境内、墓碑の周囲が忠勝公園となっていた。

「タダカツ パーク」か…。

 

しかしここにも忠勝像はなかった。

 

二代城主の忠朝、忠勝、忠勝妻室の墓碑が静かに並んでいた。

忠朝は、忠勝が桑名城主に移った後、大多喜城主となったが夏の陣で戦死、忠朝甥の政朝が城主に。

寺の方が誰もいなかったので、農作業をしている方に忠勝像のことを訊ねた。

「小さくてな、目立たないわ。わしはもっと大きいと思ってたんだが…」

境内でなく、近くの夷隅川の行徳橋の欄干に立っているという。

 

あった、あった、ここか!

ずっーと先に、背を見せた忠勝さんもいますが、みえますか。

二体あったとは知らなかった。

 

こ、恐えぇ!

 

アップ。小さい像でよかったか。

こっちはまた、かっこえぇではないか!

 

後に久留里城資料館の館長さんと談笑した折。

家康第一の家臣、平八郎忠勝が、失礼ながらなぜこんな房総の山奥に配されたか不思議で…」

「家康は房総に秀吉死後も不気味に根付いていた里見氏の勢力を恐れ、江戸への攻め込みを警戒したんだと思います」と。

里見の勢力…、考えたこともなかったが、さすが家康、慎重の上にまた慎重。

岡崎以来関ケ原までの本多忠勝の活躍ばかりに気をとらわれていた自分であった。

「家康に 過ぎたるもの二つあり 唐の頭(兜)と本多平八」か。

大多喜城から、模擬天守のある久留里城へ。

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「世界地図で唯一日本人名のついた地名、間宮海峡!」

「間宮海峡」この印象は強かった、が、長く忘れていた。

 

茨城県龍ヶ崎市金龍寺の新田義貞墓所を訪ね、ここで初めて間宮林蔵記念館・生家」が近くにあることを知った。

懐かしかった。その名を長く忘れていた。

記念館に、実直そうな二刀を帯びた林蔵の立像が出迎えてくれた。

 

農民の子だった林蔵は、後に勘定奉行付きの武士へと出世した。

ここは茨城県つくばみらい市。

土浦市から南西へ20㌔ほど。

 

南へ5㌔ほどが茨城県・千葉県の県境、つまり利根川。

 

すぐ近くから移築されたという茅葺屋根の林蔵生家は修理中だった。

それにしてもいつものことだが関東平野の広いこと、広いこと!

いったい山なんぞどこにあるのか。

 

近くに利根川の支流小貝川が流れる。

林蔵は幼いころ小貝川の堤防修理工事を間近で見て、修理する幕府の役人に工事の提案意見をしたそうな。

幼いころから聡明だったか。

小貝川の川の中島にも、林蔵の像が立っていた。

大雨時には滞留して水があふれる平野部の河川、その治水は難工事だったろう。

いまはゆうゆうと流れる小貝川だが。

 

生家近くの専称寺。幼いころ、ここで林蔵は学んだ。

 

広い境内の一角に林蔵の偉業を讃える巨大な顕彰碑が立っていた。

その碑の並んで、林蔵が生前建てたという墓が。

左が林蔵、右が両親の墓塔という。

林蔵家はもとは農民、林蔵が測量の下役人に登用され武士となった。

 

林蔵は二度目の北方蝦夷地測量を命ぜられたとき、死を覚悟してここに墓を立て出立したという。

1808年の北方測量で樺太北部へ、さらに翌年には海峡を渡って大陸へ。樺太が「島」と確認した。

また師である伊能忠敬が測量できなかった蝦夷北方地域、国後・択捉にも渡り状況を探査した。

▼佐原駅前に立つ伊能忠敬像

伊能が完成したといわれる「大日本全図」の蝦夷北方周辺の地図は林蔵の探査をもとに完成したという。

伊能の林蔵への信頼度はきわめて高かったという。

 

残念ながら伊能忠敬の知名度があまりに高く、佐原市の伊能忠敬生家を訪ねたときも、林蔵のことをほとんど意識しなかった。

 

宗谷海峡を望む北海道稚内市の宗谷岬に、間宮像が立っているという。

学生時代、宗谷岬へ行った。

私は間宮林蔵を思い出したのだろうか…。

 

今回、記念館に来て間宮林蔵を懐かしく思い出してよかった。

ほんとうによかったよ、林蔵さん!

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新田義貞への哀惜は、今も昔も変わらない。

その無念さを晴らすがごとく各地に史跡・墓所が。

常陸・龍ヶ崎の金龍寺義貞墓所へ。

 

昨年、群馬県太田市の金山城山麓に金龍寺を訪ねた。

金山城主だった横瀬氏(後に由良氏)が、1417年先祖新田義貞供養のため開基した。

横瀬氏は、越前・称念寺の義貞墓▼から分骨して金龍寺を開基したという。

称念寺は義貞戦死地の灯明寺畷近くにて、壮大な墓所が営まれている。

 

強い義貞への思いから、横瀬氏は越前から墓を上野の金龍寺に遷して開基した。

横瀬氏の祖は、義貞の三男、義宗である。

 

境内奥に、横瀬氏一族の墓塔が並び、最上部に高さ3㍍ほどの義貞供養塔が立っている。

 

金龍寺は、後に横瀬氏の転封で常陸へ移転するが、江戸時代に館林城主となった榊原康政がこの地に再建し、義貞を祀った。

 

因みに金山城本丸には、明治になって義貞神社が祀られた。

太田市周辺の義貞の史跡は多い。

 

金山城主だった横瀬氏(後に由良氏)が開基した金龍寺は、後に常陸・牛久への転封に伴い移転、さらに現在の龍ヶ崎市若柴へ移転建立された。

 

今回、その龍ヶ崎市の金龍寺へ。

なぜ義貞生誕地・そして挙兵の地の太田市周辺から離れた常陸に、義貞の墓所があるのか、やっと流れが分かった気がした。

義貞の子孫・横瀬(由良)氏の強い先祖・義貞への思慕を知った。

桜も終わりかけた頃、特に新田義貞墓の案内もなかったので寺の方に訊ねると、墓は本堂の裏手という。

 

本堂左手から奥へ進む、竹林が広い。

何の案内板もなく…。

見つけた。「新田家累代之霊墓」の碑。

 

そして、ただ四基の霊塔が並んでいた。

これだけだった。

五輪塔が四基……。

新田貞氏は由良氏の初代、由良国繁は金龍寺を開基した人。

あまりにあっさりした墓碑でいささか寂しかった。

 

越前称念寺から上野・金龍寺、そして常陸牛久、常陸若柴金龍寺と長く歴史を重ねてきた義貞の墓碑だったのに…。

 

関東には桐生・善昌寺に義貞首塚が祀られている。

上野・生品神社で旗挙げしてついに鎌倉を滅ぼした義貞の墓碑は小田原にも、川崎市にも祀られているそうな。

今回の旅でどこまで行けるか…。

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楯親忠(たてちかただ)さんの墓碑は群馬県にあると聞いてますが…」

と、佐久市正法寺の方から情報を得た。

 

義仲四天王の一人楯親忠は、義仲とともに鎌倉軍との京都周辺での合戦で戦死した。

しかし戦死の地、墓碑などは分からないままでいる、不明…。

▼激戦場だった宇治川畔に立つ「宇治川先陣之碑」。義仲軍は大敗した。

同じく四天王の一人で親忠の実父・根井行親(ねのいゆきちか)も京にて戦死した。

従者か家臣が故郷信濃の佐久へ晒られた首級を持ち帰ったか、佐久市根々井の正法寺には妻室が立てたという墓所がある。

▼根井行親の墓塔(佐久市正法寺)

 

因みに義仲四天王とは「今井兼平・樋口兼光・根井行親・楯親忠」をいうが、手塚光盛が入ることも。

兼平と兼光は兄弟である。

兼平は大津市琵琶湖近くに、兼光は長野県塩尻市に墓所が立っている。

▼今井兼平墓所

 

▼樋口兼光墓所。因みに戦国の武将、直江兼続は兼光の子孫を称した

 

正法寺の方に、「楯親忠さんは居館跡の碑がはありますが、墓碑などはないんですか」

と尋ねたことで、冒頭の返事を頂いた。

▼楯親忠居館跡(佐久穂町)

 

おそらく義仲遺臣や行親・親忠の従者たちは、肩を落として京から東信濃へ戻って来たが、鎌倉方の詮索を避けてか、隣国の上野国の方へ移り住んだのではないかという。

 

あれやこれや調べて、信濃から碓氷峠を越えて上野国へ、群馬県渋川市北橘に祀られているという木曽三社神社を訪ねた。

都で敗れた義仲遺臣らは、信濃の地への鎌倉の圧力を避けたのであろう。

義仲が信奉していた信濃の岡田神社など三社を勧請してこの地に遷したと考えられる。

まるで谷底のような地に目立たぬよう、しかし立派な社殿が建てられていた。

 

そして同地区の高台、

「おぉ、これだ!」

地元の方に教えていただいた墓地の一角に見つけた。

「親法公忠大禅定門」と刻まれた、これぞ楯親忠の墓碑。

 

遠くに榛名山が霞む。墓地には「楯家」の名字が多かった。

 

義仲挙兵の大きな原動力となった東信濃の有力豪族・根井一族の賛同

義仲は、木曽から筑摩そして東信濃へ馬を進め、依田城にて根井一族らと合流、挙兵した。

楯親忠は行親の六男だったが、有力な家臣として義仲に参じた。

依田城山麓(上田市丸子)の、浅間山を望む地に「木曽義仲挙兵の地」と大書された看板が立つ。

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塔といえば三重塔五重塔。

その違いは?

お釈迦さんの遺骨を塔の地下中央に納めてあることがそもそもの塔の存在。

よって三重も五重も大きさも特に関係ないそうな。

 

私は三重塔は何かやさしく女性的に、五重塔は豪快で男性的な感じが魅力的だ。

 

奈良隣国の伊賀上野に、高さ11㍍と小さきながら美しき開化寺三重塔が。

 

境内には白塀に囲まれ、本堂と三重塔がおさまっていた。

 

木造の三重塔は、本瓦葺、蟇股や雲紋彫刻が施されていた。

塔の建築法はかなりの熟練工でなければ難しいだろうな。装飾もまた。

よって塔の美しさが際立つか。

 

ところがで話が飛んで…。

開化寺すぐ近くに、あの荒木又右衛門三十六人斬りの仇討事件現場で有名な「鍵屋の辻」が。

そこに「数馬茶屋」店がある!

知らなかった。

ところがなんと閉店! 休業中か。

7年前来たとき、ここでうどんを食べた、けっこうお客がいたのに。

感じのいい茶店だったのに。

 

それがあぁ、閉まってる。

すぐ隣の「伊賀越え資料館」も。

あぁ、又右衛門よ、数馬よ。

あぁ、時代は移り行くか…。

 

寂しさ増して「荒木又右衛門誕生地碑」を懐かしく訪ねたのだが。

 

あ~、石碑のすぐ隣にあったお店「荒木又右衛門店」も姿なく。

寂しさますます…。

 

昨年秋訪ねた、鳥取の「荒木又右衛門記念館」は健在だったのに…。

 

仕方なし……荒木又右衛門への寂しい思いを払拭して。

 

今のテーマは塔じゃ! 

気を持ち直して北へ、滋賀県湖南市の常楽寺へ向かった。

ところが無念、工事中にて境内に入れず。

 

常楽寺三重塔は国宝である。

 

三重塔は、室町時代中期の建立にて高さ23㍍、本瓦葺。

きわめて伝統的な手法をもつ三重塔で、均整のとれた比例や整然とした姿は、室町時代の三重塔の代表作という。

 

うーんやっぱり、新緑、桜、紅葉の季節に撮らなければ…。

 

残念ながらこれもまた国宝の本堂は、工事囲いの外からほとんど見えず。

拝観には、予約も拝観料も必要とか。

 

常楽寺は同じ湖南市内の長寿寺、善水寺とともに「湖南三山」と称され、三山ともみな国宝を有する名刹。

善水寺の本堂はかくのごとく堂々たる風格。

 

 

長寿寺にはかつて三重塔が立っていたが、信長は安土城築城の際、持ってってしまったという。

ったく、信長のやつ!

しかし安土炎上では焼けず、三重塔はその後も改築され、現在も安土城跡↓に健在する。

金剛輪寺三重塔は次回に。

 

荒木又右衛門で話がそれてしまった、すみません。しかしなぁ…。

「荒木の前に荒木無し 荒木の後に荒木なし」……。(マダイッテルワ)

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素晴らしき本丸というか、岩殿山山頂でした。

しかし、難攻&難攻足が、膝が、爪が痛くて痛くて、泣いた!

よくぞ無事に帰還出来たと(嬉泣)。

 

好天無風に恵まれ、こんな感じで北側ルートから景気よくスタートしたのだが。

 

挑むは、中央線大月駅あたりからも見上げて驚くこの山。

中央道高速からも誰しも見上げる岩殿城。

勝頼さんがついに行かれなかったこの城、いやこの山。

 

山の麓から見上げると。

 

今から18年前、ふと東京からの帰途についでに登った。

「けっこう、まぁきつかったかな」

この安直な昔の感想が悲劇をもたらした。

 

この日は当時登ったルートが閉鎖されていて、北側のルートから登った。

健脚の相方がいなかったならば、まちがいなく私は途中から引き返していた。

 

硬い礫岩の岩盤を流れるこんな滝も眺めたが。

 

木の根をつかんで、鉄鎖をつかんで、最後は歯を食いしばって!

そしてついに、やったぁ!

 

やった、やった! やったぁ!

ほとんど泣いてる私。

相方は余裕のポーズ。

まったくもって相方のおかげ。

 

すげぇ富士だぁ!

 

眼下というより直下の大月市の街並み、景色、景色!

 

足がすくむ。

 

富士山が救いの神。

城主・小山田信茂の悲劇もまたふれなければ。

ともあれこの日、私の悲劇は無事帰還できて喜劇に。よかった!

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新府城から、涙の森を経て、躑躅が崎の館を通りすごし…。

勝頼一行は大善寺(甲州市勝沼)にその日の夜着到した。

落ちる者多く、もはや二百人足らずになっていたとも。

 

大善寺!

「ここはよ、国宝ぞ! 檜皮葺の屋根は圧巻、そして内陣の仏像群は…」

興奮して説明せんとする私を遮って、

「分かった、分かったてっことよ、さ、いこいこ!」と相方(ったくもう!)

如何でしょう、この檜皮葺。

過去の天気良き日のをご覧あれ。

 

話を勝頼一行にもどす。

この大善寺には武田家一族の理慶尼が居た。

理慶尼は、覚悟を決め心を尽くして一行をあれこれ懸命に世話をした。

無事に岩殿城へ送り届けんと。

その一部始終が、寺に残る「理慶尼記」に記されているという。

▼理慶尼墓所(大善寺)

翌早朝、勝頼一行は岩殿城へ向った。後20㌔ほど。

城主・小山田信茂は、自らの母を人質として勝頼のもとに送り、後に一行を迎えに軍を率いて来るというのだが。

織田軍は躑躅が崎の館に迫っていた。

 

「そうか、小山田は…裏切ったか」

岩殿へ向かう勝頼に悲報。

行き場のなくなった勝頼は、武田家祖先の墓所のある天目山へ向かったが、はやくも織田軍先鋒が来ていた。

 

仕方なし、追いつめられて景徳院に戻った勝頼は、最後の陣を構えた。

景徳院門前に「武田勝頼公墓所」と刻まれた石碑が立つ。


 

門前の駐車場に、大きなレリーフ像が目をひく。

レリーフ像の背後、姫ヶ淵は日川の流れ。

新府城より勝頼に付き従ってきた侍女十六名が、ついに観念してここから身を川底に投じたという。

 

勝頼は、残った武士を率いて景徳院より少し下流にある鳥居畑に陣を張った。


そしてついに、鳥居畑の合戦で武田の武士は壊滅した。

 

勝頼と正室の北条夫人、そして一子信勝は景徳院に逃れ、生害石に座った。

生害石とは、死をここに定めるという地に事前に置かれた石という。

 

勝頼37歳にて自害。

 

嫡男信勝16歳自害。

 

勝頼正室北条夫人19歳自害。

かくして武田家はここに滅亡した。

 

信勝十六歳の母は、滅ぼした織田信長の姪である!

信勝母が亡くなった後に、甲相同盟が結ばれ、北条夫人(北条氏政の妹)が勝頼に嫁いできた。

しかしこの同盟が解消された後も、夫人は勝頼のもとにとどまり小田原には還らず、景徳院で十九歳で自決した。

 

境内にひっそりと並ぶ、左から信勝、勝頼、北条夫人の五輪墓塔

 

首級は信長のもとに運ばれ、その後都に。胴部分はこの地に残された。

「没頭地蔵尊」として境内の一角に葬られている。

 

この間、相方とはほとんど言葉を交わさず。

悲惨な境内の様子に、互いに何といっていいのか…。

 

「あまりに悲惨な事実がつづくので、ぼくは書き続けるのに気が重い

読者諸君だってそうにちがいないと思うが、ぼくはがまんして書いています。がまんして読んでいただきたい」

 

歴史作家・海音寺潮五郎氏は名著「武将列伝 武田勝頼」の中でこう述べ、勝頼の最期を書いている。

 

景徳院から近い中央線JR甲斐大和駅前に、甲冑姿の勝頼像が立つ。

必ずや、勝頼公の復権を。

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新府城から岩殿城、勝頼さんの悲しみの道を行くってのはどうだや?」

今年も田んぼ畔草刈りや庭木の伐採などなど、もろもろ世話になる高校時代からのわが友リュウちゃんに、早春の史跡巡り接待のご案内をしたところ、

「いいねぇ、いいねぇ! 特に岩殿城はいいねぇ!」

と狂喜(ホント)のご返事。

 

まずは勝頼居城の新府城からだが、ここは昨年訪ねた。

ここの石段はきつかったぁ。

 

大手門跡ふきんから南東に広がる甲府盆地を望む。

遠くに薄い富士が見えた。

「ここをずっと向こうの山まで勝頼さんは落ちていったのか…」

信長の甲州攻め、信長は信忠を先頭に木曽谷・伊那谷より信濃の高遠城・上原城に迫る。

一方、駿河からは家康本隊が甲斐へ侵入。

風雲急を告げる武田軍に、なんと躑躅が崎を守備するはずの親戚衆・穴山信君が裏切って家康方に奔ったとの報が!

勝頼は迷った末、躑躅が崎館を通過して、その先の難攻不落の堅城、小山田信茂の岩殿城に向かうことに。

 

真田昌幸が進言した「上野・岩櫃城へぜひ!」は退けられたのだ。

「昌幸の準備していた勝頼を迎える岩櫃城の御殿跡、去年行ったなぁ…」

と二人で思い出してしんみり。

 

真田は、所詮外様の家臣、小山田は武田譜代の家臣ということか…。

勝頼は新装まもない新府城に火をかけ、岩殿城にむかった。

 

城からしばらく行った地で、一行は炎上する新府城を振り返りつつ涙したという所。

「涙の森」へ。

 

この日は終日止まずの雨、まさに勝頼さんの涙雨

雨中で相方にポーズをとってもらったが…、これじゃぁなぁ。

 

かつての晴れていたときの写真。

 

当時一帯は深い森だったか。

ここから北に目をやり、燃えさかる新府城を呆然と見たことだろう。

勝頼一行はもはや700人ほどに減り、女性も多数いた。

涙の森には、勝頼夫人の歌碑や、後世に立てられたであろう石仏が居並んでいた。

 

さらにしばらく行くと再び。

回看塚(みかえりづか)の碑。

新府城をふりかえり、ふりかえり、勝頼一行は岩殿城をめざした。

雨降り続く。

「あしたは岩殿城、景徳院はあさって、という計画に変更だわな、こりゃ」

「了解~」

というわけで、向かうは法泉寺(甲府市和田町)へ。

ここに勝頼の墓所が。

寺は躑躅が崎の館からは西へ2,3㌔の地にある。

かつての晴れた日の写真、右の石碑に勝頼公墓と刻まれている。

勝頼は、天目山の戦いで敗北後自刃、その首級は京都に晒された。

当時法泉寺の住職だった快岳和尚は奔走苦労して首級を甲斐に持ち帰ることができ、この地に埋葬した。

当初は人目をはばかり、右手の桜木を植え、そのもとにそっと埋めておいたという。

法泉寺から、晴れた日に富士山が美しく望める。

「雨、止まねかなぁ…」

「今日は夜までダメだな」

「明日に期待だ!」

 

かくして今日最後の訪問地、躑躅が崎館・武田神社に近い大泉寺(甲府市古府中町)へ。

神社から南東に1㌔ほどと近い。

ここは勝頼が祖父、武田信虎開基の寺。

門前には「武田信虎之墓」とあるが、境内には信虎・信玄・勝頼三代の墓碑が立っている。

いつ来ても墓参者はまったくいない。

みな武田神社へ行ってしまうか。

 

境内の一番奥に御霊殿が設けられ、信虎公が祀られている。

霊殿内に、武田三代の木像が安置されているという。

 

今回初めて門前の信虎公の石像を拝した。

恐い顔、甲府駅北口の信虎像もかくのごとし。

 

御霊堂の裏に、三つの墓碑が並んでいる。

左から写ってしまった相方の手、そして信玄、信虎、勝頼の墓塔が静かに眠る。

 

それにしてもである!

世は、信玄の偉大さを讃えんがために、ことさら「暴君信虎! 暗愚勝頼!」を喧伝しているがごとくの風潮で、私は実に不満である。

 

拙著『負けても負けぬ三十二将星列伝』で、私は信虎伝には「信玄に勝る父、名将にして智将」と副題を付けた。

また勝頼伝の副題は「無念、信長との再決戦ならず」と。

 

何度か大河ドラマにも登場する信虎、信玄・勝頼であるが、勝頼を主人公とした大河ドラマなどをおおいに期待したいものである。

 

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奈良・霊山寺(りょうせんじ・奈良市中町)。

私はなんと寺そのものをまったく知らずにいた。

いわんや三重塔をや!

唐招提寺、薬師寺から西へ2㌔ほどの地。このあたり来たことはなかった。

しかも広大な伽藍、境内! かくの如し。

 

開基は奈良時代、行基という。行基像にご挨拶して。

 

本堂は国宝というがめざすは三重塔

湯屋川をはさんで向かいの地に建立されているという。

苔むす石畳を歩む。

 

さらに行く。

感じのいい導入の路、いかなる三重塔が待っているのか。

 

おっ、見えたぞ。

 

おぉ、なんと素晴らしき朱色の塔ではないか!

 

高さ17㍍、5・5㍍四方の屋根は檜皮葺、鎌倉中期の建立。

初層内部に巨勢金岡(平安時代絵師)の極彩色の壁画が飾られているという。

 

 

冬とはいえ、朱色の塔を守るように囲む緑樹が塔を鮮やかに際立たせる。

それにしても不覚、こんなお寺が、こんな塔がまだ奈良にあったとは、まったく知らなかった。

春から秋にまた来なければ。

 

次の百済寺(くだらじ)もこれまた全く知らず初見参。

百済寺といえば滋賀県の湖東三山の一つが名高く、行ったことはあったが、奈良の百済寺はまったく知らなかった。

因みに湖東三山の百済寺は「ひゃくさいじ」と読み、三重塔は無い。

 

奈良広陵町の百済寺。

奈良盆地のど真ん中、周囲にビルも高層住宅もない田園の地、美麗な三重塔がそびえていた。

位置情報としては、当麻寺の北東6~7㌔ほど、唐古鑓遺跡から南西6~7㌔ほど

 

まずはご覧あれ!

 

私は一瞬、薬師寺の東塔を思い浮かべたが…。

薬師寺のは裳階がある。

興福寺の三重塔によく似ているらしい…。

 

塔は縁のない高欄をめぐらし、中央間板唐戸、脇間連子窓、中備えは中央間のみ間斗束。扉は端喰戸(はしばみど)。組物は三手先組物、軒は二軒繁垂木」

などという、素人にはまったく解らないチンプンカンプンの専門的な解説を読んだ。

「本瓦葺きの屋根」というのは分かったような(笑)。

塔の建築法は極めて難しく、専門的なのだろう。

 

境内は狭く、三重塔が燦然。

 

それにしても複雑な建築物、感嘆する。

 

境内の百済寺の解説板。これもまた難しい。


国宝にもうすぐ昇格できるような重要文化財らしいが、確かにこんな美しい三重塔が、
まるで「隣の家」のように無造作に建っているなんて、まさに「奈良」!

三重塔は女性的な優美さを、五重塔は男性的な豪放さを感じさ
せてくれる。

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塔の立つお寺の風景がいつごろからか好きになった。

塔の背に青空が、緑濃い木々が、碧き山々があれば、

さらにまた美しく、素晴らしい!

 

東塔西塔といえば、奈良の薬師寺がもっとも名高い。

あの六重塔に見えるリズム感を持つ三重塔、実に美しい。

 

だが驚くなかれ(驚かないか)!

大和平野西麓に位置する当麻寺の東塔西塔は、2塔とも国宝!

薬師寺は東塔のみなのに! そうか、そうだった!

 

ならばなおのこと、当麻寺の東塔西塔を一つのカメラにおさめねばと、冬の当麻寺を訪ねた。

左が東塔。おぉ、うまく撮れたか、しかし曇り空…。

ズームにしたが。

あまり変わりはないか。

 

薬師寺の東塔西塔と違って、當麻寺は同じ高さの地に2つは建てられていない。

意匠もいささか違う感じがした。

 

これが西塔。

 

東塔はなかなかうまく撮れず、これは以前に撮ったもの。

 

遠景からだと最上層のみしか撮れず。

緑樹の波に浮かぶ東塔か。

 

当麻寺は、今は東からの仁王門が正門口の役割をなし、境内に入ると東塔西塔は左手に並んでいて、いささか違和感がある。

かつては南側に寺の正門が置かれ、左右に東塔西塔が見えたという。

 

奈良天平時代からの一千年以上の風雪の歴史の中で、寺の様相も様々にかわったのである。

東塔は奈良時代初期、西塔は奈良後期の建立という。

ともに本瓦葺き、高さともにおよそ25㍍、まさに「天平の甍の三重塔」。

 

やはり二つの塔がともに並ぶ景色がいいなぁ。

いつかまた青き空、緑濃い時季に、良き写真を撮りに来よう。

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