●武田勝頼、哀しき死路 | きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

きょうのもののふフォト列伝 ー古戦場 城 もののふ 旅ー

熱く 燃えて 散って 逝った 我ら祖先のもののふ達 その懸命な生きざま姿を追う旅を続けています。

新府城から岩殿城、勝頼さんの悲しみの道を行くってのはどうだや?」

今年も田んぼ畔草刈りや庭木の伐採などなど、もろもろ世話になる高校時代からのわが友リュウちゃんに、早春の史跡巡り接待のご案内をしたところ、

「いいねぇ、いいねぇ! 特に岩殿城はいいねぇ!」

と狂喜(ホント)のご返事。

 

まずは勝頼居城の新府城からだが、ここは昨年訪ねた。

ここの石段はきつかったぁ。

 

大手門跡ふきんから南東に広がる甲府盆地を望む。

遠くに薄い富士が見えた。

「ここをずっと向こうの山まで勝頼さんは落ちていったのか…」

信長の甲州攻め、信長は信忠を先頭に木曽谷・伊那谷より信濃の高遠城・上原城に迫る。

一方、駿河からは家康本隊が甲斐へ侵入。

風雲急を告げる武田軍に、なんと躑躅が崎を守備するはずの親戚衆・穴山信君が裏切って家康方に奔ったとの報が!

勝頼は迷った末、躑躅が崎館を通過して、その先の難攻不落の堅城、小山田信茂の岩殿城に向かうことに。

 

真田昌幸が進言した「上野・岩櫃城へぜひ!」は退けられたのだ。

「昌幸の準備していた勝頼を迎える岩櫃城の御殿跡、去年行ったなぁ…」

と二人で思い出してしんみり。

 

真田は、所詮外様の家臣、小山田は武田譜代の家臣ということか…。

勝頼は新装まもない新府城に火をかけ、岩殿城にむかった。

 

城からしばらく行った地で、一行は炎上する新府城を振り返りつつ涙したという所。

「涙の森」へ。

 

この日は終日止まずの雨、まさに勝頼さんの涙雨

雨中で相方にポーズをとってもらったが…、これじゃぁなぁ。

 

かつての晴れていたときの写真。

 

当時一帯は深い森だったか。

ここから北に目をやり、燃えさかる新府城を呆然と見たことだろう。

勝頼一行はもはや700人ほどに減り、女性も多数いた。

涙の森には、勝頼夫人の歌碑や、後世に立てられたであろう石仏が居並んでいた。

 

さらにしばらく行くと再び。

回看塚(みかえりづか)の碑。

新府城をふりかえり、ふりかえり、勝頼一行は岩殿城をめざした。

雨降り続く。

「あしたは岩殿城、景徳院はあさって、という計画に変更だわな、こりゃ」

「了解~」

というわけで、向かうは法泉寺(甲府市和田町)へ。

ここに勝頼の墓所が。

寺は躑躅が崎の館からは西へ2,3㌔の地にある。

かつての晴れた日の写真、右の石碑に勝頼公墓と刻まれている。

勝頼は、天目山の戦いで敗北後自刃、その首級は京都に晒された。

当時法泉寺の住職だった快岳和尚は奔走苦労して首級を甲斐に持ち帰ることができ、この地に埋葬した。

当初は人目をはばかり、右手の桜木を植え、そのもとにそっと埋めておいたという。

法泉寺から、晴れた日に富士山が美しく望める。

「雨、止まねかなぁ…」

「今日は夜までダメだな」

「明日に期待だ!」

 

かくして今日最後の訪問地、躑躅が崎館・武田神社に近い大泉寺(甲府市古府中町)へ。

神社から南東に1㌔ほどと近い。

ここは勝頼が祖父、武田信虎開基の寺。

門前には「武田信虎之墓」とあるが、境内には信虎・信玄・勝頼三代の墓碑が立っている。

いつ来ても墓参者はまったくいない。

みな武田神社へ行ってしまうか。

 

境内の一番奥に御霊殿が設けられ、信虎公が祀られている。

霊殿内に、武田三代の木像が安置されているという。

 

今回初めて門前の信虎公の石像を拝した。

恐い顔、甲府駅北口の信虎像もかくのごとし。

 

御霊堂の裏に、三つの墓碑が並んでいる。

左から写ってしまった相方の手、そして信玄、信虎、勝頼の墓塔が静かに眠る。

 

それにしてもである!

世は、信玄の偉大さを讃えんがために、ことさら「暴君信虎! 暗愚勝頼!」を喧伝しているがごとくの風潮で、私は実に不満である。

 

拙著『負けても負けぬ三十二将星列伝』で、私は信虎伝には「信玄に勝る父、名将にして智将」と副題を付けた。

また勝頼伝の副題は「無念、信長との再決戦ならず」と。

 

何度か大河ドラマにも登場する信虎、信玄・勝頼であるが、勝頼を主人公とした大河ドラマなどをおおいに期待したいものである。

 

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