今、考えていること -4ページ目

ザ・シークレット ロンダ・バーン 

ロンダ・バーン, 山川 紘矢, 山川 亜希子, 佐野 美代子
ザ・シークレット

 間違いなく時間の流れが早くなってきている。
 ご存知の通り、この世は3+1次元時空である。この+1というのが時間の流れだが、その時間の流れを誰も見ることはできない。存在論でいえば、時間などどこにも存在しないのである。


 『思考は実現する。』現実の世界を作っているのは思考である。
 そんなことは別に秘密でもなんでもない。世に出ている自己啓発書といわれる本の基本は全て、この一点に尽きる。

 『引き寄せの法則』原語で書けば、 LOW OF ATTRACTIONである。実はこれも決して新しい考え方ではない。いわゆる波動の法則というやつで、船井幸雄さんは、4つの性質で説明している。


1.同じものは引き合う
2.違うものは排斥し合う。
3.フィードバックの原則
4.優位の波動は劣位の波動をコントロールする。


 『引き寄せの法則』はその波動の性質の『同じものは引き合う』と『フィードバックの原則』に着目したものである。

 類は類を呼ぶ。幸せは幸せを呼ぶ。だから、不幸は不幸を呼ぶ。だから、幸せになりたいなら、今、幸せでなければならない。それではその幸せとは、幸せである、という思考である。幸せに形などない。幸せと感じること、幸せと思うことが幸せなのだ。そして幸せだと思考すれば、幸せを呼び込めるのである。
 これが『同じものは引き合う』という考え方である。


 そして『フィードバックの原則』というのは、人に感謝すれば、感謝されるし、親切にすれば、親切にされる。人を憎めば憎まれるし、恨めば恨まれる。もちろん人を妬めば必ず妬まれる。自分の出した波動は巡り巡って自分に帰ってくるということである。


 時間と同じように思考も目には見えない。だからその存在を証明することはできない。存在を証明できないから科学的ではないと今の世の中では見られていて、それが真実とはならない。というより、真実かどうかわからないから、信じる人は信じてください、となる。


 9月のこのブログでリサ・ランドールの『ワープする宇宙-5次元宇宙の謎を解く』という本を紹介した。ここで使われている『ワープ』とは、スターウオーズの中でハン・ソロとチューバッカの乗るミレニアム・ファルコンが時空間を瞬間移動することではない。『歪んでいる』という意味である。
 リサ・ランドールは、現役バリバリの理論物理学者である。理論物理学というのは、物理学上の仮説を立てる学問である。つまり『この世の仕組み』、『宇宙の仕組み』を物理学的に思考することである。


 知識の総体がわからないから実際にはどれだけ知っていてどれだけ知らないのかはわからない。しかし人間の脳が5%も使われていないのと同じで人間ひとりが知っていることなどというのは砂漠の砂粒にも等しいに違いないと想像はできる。
 もっと居直ってしまえば、そんなこと知ってどうするのよ。


 まるで、自分に言い聞かせているようだが、実は『知りたい』というのは、人間の本能のひとつではないかと思っている。人間には知識欲という本能があるが、残念ながら知らないことが多すぎて、この世の全てを知ることは不可能である。マクロの宇宙がどうしてできたのかは、ともかくとして、『私』は誰でしょうという疑問さえ解決されていない。

 『思考は実現する』これがこの世の仕組みである。そして『同じものは引き合い』『フィードバックの原則』もまたこの世の仕組みの一部である。


 真実、真理とは、信じる人だけに作用するものではない。地球が自転しながら太陽の周りを回っているのは、昨日、今日のことではなく、コペルニクスが発見したからでもない。
 真実、真理は受け入れるしかないのである。
 人間の知識欲は本能である。そしてその知識欲とは、真実、真理を知ろうとする欲望のことである。


 『引き寄せの法則』をもっともっと知りたい方は今なら、もうたくさん、というくらいに関連本が出ています。精神世界オタクの人は、是非本屋で立ち読みしてください。買う必要はありません。

チャールズ F.ハアネル, 菅 靖彦
ザ・マスター・キー
マイケル・J・ロオジエ, 石井 裕之
引き寄せの法則
ジェリー・ヒックス, エスター・ヒックス, 吉田 利子
引き寄せの法則 エイブラハムとの対話
ウィリアム・W・アトキンソン, 林 陽
引き寄せの法則 すべての願いが現実になる
エスター・ヒックス, ジェリー・ヒックス, 秋津 一夫
「引き寄せの法則」のアメージング・パワー―エイブラハムのメッセージ

あなたが「宇宙のパワー」を手に入れる瞬間 ディーパック・チョプラ

ディーパック・チョプラ, 渡邊 愛子
あなたが「宇宙のパワー」を手に入れる瞬間―永遠に続く幸せの源泉

 月に一度くらいは書かないと。半ば強迫観念に陥る。誰かに急かされているわけでもないが、不思議なものである。

 本当のことが知りたい、というのもそれは人間の本能だと思う。それと同時に何かを表現したい、というのも本能ではなかろうか。それがたまたま『書く』という表現方法になる。ある人は、キャンバスに絵を描き、ある人はメロディーを奏でる。


 人間の究極の欲望は『幸せ』になることである。それではその『幸せ』とはいったい何なのか。ということを考えてきた。わたしは誰で、わたしはどこから来たのか。そしてわたしは何のためにこの世に生まれたのか。
 『幸せ』とはいったい何なのかというのは、そうした疑問と全く同じモノである。


 欲望というのは「人生の不確実性」によって起こるらしい。人生の不確実性というのは、一寸先は闇ということである。ならば、生きてるうちにやりたいことをやりましょうと。
 人間にはその一寸先がわからない。わかっているのは、人間は必ず『死ぬ』ということである。これを真理という。人間が人間を救うことはできない。これも真理である。


 この世を快適に過ごすには、無心、無欲の心が一番いい、とされている。無心というのは、こだわらない心、もう少し具体的に云えば余計なことに係わらない心である。
 云われてみればその通りで、最近以前より、快適に過ごせるようになったのは、テレビをあまり見なくなったからである。サラリーマンじゃないから、毎日ラッシュアワーで通勤することもない。しかし現代人のほとんどが、そんな生活ができるわけではない。いくら無心になりたくたって、環境がそうはさせてくれない。そりゃあ、ストレスがたまるだろう。


 日本の現代社会が戦争もしていないのに何故こんなに生きにくい環境なのかは、人を無心、無欲ではなくて、こだわりを是として欲望を煽る社会だからである。無心、無欲がこの世を快適に過ごす『真理』だとわかっていても、社会全体がそうはさせてくれないのだ。


加島 祥造
『求めない』 加島祥造

 「もとめない」という本が売れているらしい。『求めない』こともこの世を快適に過ごす方法である。皆、そんなことは知っているのだ。知っているけど、気付かない人もいるだろう。でも、本当は知っているんだから、気付いているのだ。知らないふりをしているだけである。
 社会が「こだわる」ことや、「もとめる」ことを、そして「もっと、もっと」欲望を募らせることを奨励しているのに、無心、無欲だとか、「もとめない」なんていえるはずがないじゃないか。


ディーパック チョプラ, Deepak Chopra, 住友 進
迷ったときは運命を信じなさい―すべての願望は自然に叶う

 明日のことは誰にもわからない。わからないけど、ここにこうして生きているということは、きっと、『生きている意味』があるはずである。だから、チョプラ先生は『運命を信じなさい』と云った。自分の運命を信じるということはこの世に生きている意味がある、ということである。そしてその自分の運命は与えられたものである。生かされているのである。

 「あなたが幸せを探し求めることをやめて、すでに手にしていることを知ることが、永続的な幸せへの鍵です。」



まもなく世界は5次元へ移行します エハン・デラヴィ+中丸薫

エハン・デラヴィ, 中丸 薫
まもなく世界は5次元へ移行します―イベント・ホライゾン2012

 最近また『2012年問題』が話題になっている。話題になっているといってもほとんど新聞を賑わすことはない。だから、2012年に人類がどうかしてしまう、という話を精神世界に関心のない人にしてもノストラダムスの『1999年問題』より相手にされない。


 これまでの2012年12月22日は地球がフォトン・ベルトに突入するという流れの中で論じられていたが、それと同時に地球そのものがアセンションするのだといわれている。


 私が始めて小説らしきものを書いたのが、このブログに発表した『最後の一番長い一日』で、それは、地球が突然テレポーテーションしてしまう話である。この小説のベースになっているのは、足立育朗さんの書いた『波動の法則』で初版が1994年に出版された。この本は、一時PHP出版ものは、廃版になっていたが、最近また新たに出版されている。


 果たして、2012年に私たちは今までとまったく違った世界、いや宇宙と出会うことになるのだろうか。アセンション(次元上昇)なのかテレポーテーションなのか、キリストの再臨なのか、大魔王の陰謀なのかはわからない。わからないが楽しみではある。


大沢 在昌
影絵の騎士

 最近読んだ本、確か大沢在昌さんの『影絵の騎士』の中の一人が語っていた言葉に、何故生きているかといえば、知りたいからだ、というのがあった。人間の究極の欲望は、その『知りたい』という欲望ではないかと。
 知らないから知りたいのである。わからないからわかろうとする。何故わたしがこの世に生まれたのか。生まれて50年以上になるが、未だにわからない。わからないが、確かに生きてはいける。そして今生きている。しかしいつかは死ぬだろうということもわかっている。この世では100歳まで生きれば長生きである。あのヨーダだって800年ぐらい生きたらしいが、それでも生き続けることはできなかった。


 魂は不滅である。そして人間の正体は魂である。普通の人だと100年足らず、ジェダイの騎士だと800年というが、そのこの世の寿命は肉体の寿命である。肉体を纏った魂。その肉体と魂を取り持っているのが『心』という図式らしい。
 しかし、この図式も本当にそうだといえるこの世の科学的な論証はできない。この科学というのが曲者で、科学的な論証がないものは信じてはいけない、と学校では教わる。だから現代においては、魂や心というのは信じることのできない世界の話である。いわんや、アセンションだとか、テレポーテーションはフィクションでしかない。

リサ・ランドール, 塩原 通緒
ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く

 その科学の世界にフィクションを持ち込んだ人がいる。リサ・ランドールという理論物理学者である。写真で見る限り、美人である。『ワープする宇宙~5次元時空の謎を解く』という刺激的な本を出版して、今年7月には来日して記念講演も行われた。


 5次元、何とも夢誘う言葉ではないか。英語でいうとFIFTH DIMENSION(フィフス・ディメンション)、昔流行ったディスコで必ずかかった曲を歌ったバンドの名前ではない。
 そもそも次元とは何ぞや。平面、英語でいえば、フラット・ランドが2次元、立体になると3次元、つまりこの世の空間は3次元で、そこに時間の流れが加わって4次元となる。この時空の考え方が現在の物理学、いわゆるアインシュタインが考えた相対性理論上の次元の捉え方である。そこに今5次元という概念が登場した。


 リサ・ランドールさんが考えた5次元宇宙と中丸さんやエハンさんが考えている5次元は同じように見えるが、この表題の本を読んでもらえばわかるが、違う5次元である。


 コペルニクスが地球は廻っている、と言い出すまでは、誰もが地球は廻っているなどとは思っていなかった。というより、地球が廻っていようがいまいがそんなことはどうでもよかったのだ。
 今は場合によっては小学校に入りたての子供でも地球は自転しながら、太陽の周りを猛スピードで回っていることを知っている。
 そして地球が自転しながら太陽の周りを回りだしたのは、決して最近のことではない。
 それは、宇宙がワープするのも、リサ・ランドールさんが言い出したから急にワープするわけではない。そんなことは誰でもわかっている。


 2012年、宇宙がワープするのだから、その宇宙の中の地球がワープしてもおかしいことではない。それがアセンションなのか、テレポーテーションなのか、たぶん言葉では表せないような宇宙の一大イベントだとすれば、そこに立ち会うことができるのは、幸せなことではないだろうか。といいつつ、知りたいという欲求は日増しに募っていく。

足立 育朗
波動の法則―宇宙からのメッセージ

目覚めよ仏教! 上田紀行

上田 紀行
目覚めよ仏教!―ダライ・ラマとの対話 (NHKブックス 1087)

 宗教を主張する宗教を信じないことにしている。それは単なる経験則からだから、根拠のあることではない。二人姉妹では、必ず姉さんの方が美人だ、というのと同じである。


 以前にも書いたかもしれないが、イエス・キリストもマホメットももちろんゴータマ・ブッダも宗教を始めようとして始めたわけではない。特に日本の宗教法人ということになると、教祖と教義と信者がいれば、一応宗教法人登録可能である。


 世界三大宗教というのは、ご存知の通り、キリスト教、イスラム教と仏教なのだが、キリスト教とイスラム教は仲は悪いが親戚みたいなもので、仏教はそれから比べれば特異な存在である。
 そのキリスト教やイスラム教の一神教が宗教だとすれば、どうみても仏教は宗教とは言い難い。仏教にはその神さまが実は出てこない。仏陀というのは、悟った人で、お釈迦様は悟った人に過ぎない。つまり仏教の基本は、この世で悟ることである。この世で悟るというのは、仏教ではあの世を想定していないということだ。想定していないというのは、ない、というわけではなく、ある、というわけでもない。よく瀬戸内寂聴さんが言うように、この世にはあの世に往った人がいないのだから、あの世のことはわからない。死ねばわかるんだから、今知らなくてもいいでしょ。


 日本の仏教が葬式仏教になってしまったのは、たぶん明治以後のことだろう。神社も仏閣もいっしょくたになってしまった。しかし、仏教に神さまがいなかったのは好都合である。日本には八百万の神さまがいらっしゃるから、外国の神さまが入る余地などありゃしない。しかし、七福神には、外国の神さまがいらっしゃるそうな。


 何度か般若心経をここでも取り上げさせてもらったが、読めば読むほど、哲学であり、精神世界の話である。
 ダライ・ラマ法王の話を聞いているとそれがよくわかる。宗教に固執していないのだ。時に、上田さんと話がかみあわなくなるのは、ダライ・ラマ法王が宗教という枠を超えた話をしているのに、上田さんがどうしてもその枠組みをはずせないからである。


 仏教が目覚めるためには、仏教が宗教の枠を飛び越えることである。これを西洋の言葉でカッティング・エッジというが、これで宗教を超えることができる。宗教を主張しない宗教、これこそが、新しい宗教の形である。
 しかし、宗教という形の中で、教団という組織に守られている僧侶がその形を捨てられるはずがないのだ。それは官僚が役所という組織を捨てられないのと同じことである。
 
 お釈迦様は、全てを投げ打って出家して、悟りを開いた。それが仏教なのだから、全てを投げ打つ覚悟のある僧侶が出てこなければ、仏教が目覚めることなど永遠にあり得ない。だから、実は日本人は、僧侶、坊さんに期待などしていない。仏教が目覚めなくても自分が目覚めればいいのだから。

新・考えるヒント 池田晶子

池田 晶子
新・考えるヒント

 第21回参議院議員通常選挙が7月29日に行われて、与党自由民主党が『歴史的な敗北』を喫した。こんなところで『歴史的』などという言葉が使われるというのも何だか奇妙な感じがする。参議院選挙そのものの『歴史』は、たかだか60年である。


 今、巷を賑わしている論議は、その『歴史的な敗北』を喫した自由民主党の総裁で、日本の総理大臣である安部さんの責任の取り方である。
 安部さんは、自分の責任は認めているが、総裁も総理大臣も辞める気はは全くありませんとおっしゃる。マスメディアや評論家はまさに『何故、辞めないのか?』とメディアを通じて、その真意を問いただす。


 昨日久々に夜テレビを見た。久々に行われた全国的なイベントである。選挙は好きだからもちろん投票に行った。何故投票に行くかといえば、その日の夜から行われる『選挙速報』というメディア総出のイベントをおもしろく見るためである。その心理は、馬券を買って見る競馬中継とほぼいっしょである。


 首都圏には地上波として、NHK,NHK第二、日本テレビ、TBS,フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京の7つが通常アンテナで映ることになっている。そのうちのNHK第二は教育テレビというある種特殊な目的を持っているもので、テレビ東京は、東京ローカールである。
 その2局を除いた5局が同じネタで番組を構成する。27時間テレビを放送していたフジテレビだけが、1時間時間を遅らせてのスタートだが、その他は投票終了直後にはもう出口調査での開票予想を発表する。その5局は、もちろん安部首相の生の声を聞きたいから代わる代わる番組にその顔が映し出される。針の筵(むしろ)とはこのことである。


 マスコミ、メディアを実にうまく利用して自由民主党の危機を救い、長らく総理大臣として君臨した小泉純一郎氏の後を託された安部晋三氏は、このマスコミ、メディアを敵に廻してしまったようだ。
 小泉さんが自由民主党を救ったから、必ずしも日本にとって良かったかは別問題である。
 沈没寸前の自由民主党をあの総裁選で小泉さんが勝っていなければ、その後政界再編が進み、少なくとも自由民主党が政権を維持していたかははなはだ疑問である。もちろんそれで、日本という国が今よりよくなっていたかどうかもわかりはしないが。
 
 選挙は水物である。郵政民営化で衆議院を解散した小泉さんは圧勝し、年金問題で叩かれた安部さんは『歴史的敗北』である。
 東京選挙区では、自民の前職が敗れて、丸川という元テレ朝の女性アナウンサーが当選した。


 今は、もうすでに安部政権に流れはない。そう国民も読めたから、民主党に票が集まったのである。そして安部さんはアメリカからもノーを突きつけられている。まさに四面楚歌。誰か安部さんを降ろしてやれる人はいないものか。
 「安部はKY」というのだそうだ。そのこころは、「安部首相は空気(K)が読(Y)めない。」


 安部さんといえば、『美しい日本』である。そして『憲法改正』。超タカ派である。北朝鮮拉致被害者にとっては力強い見方だが、それは小泉さんが居ての安部さんで、安部さんだけでは推進力に欠けてしまうのだ。


 もし安部さんが何が何でも「美しい日本」を造りたくて、「憲法改正」をして戦争にまっしぐらに突き進みたいなら、衆議院を解散すべきである。小泉さんの郵政民営化で解散するより、よっぽど男らしいではないか。
 憲法を改正すると美しい国になるのかどうかはわからない。そも、政治で美しい国を造るという発想そのものがよくわからないが、もし、この二つの課題を国民に突きつければ、きっと国民もすわ大変なことになったと思うはずである。


 こんな時、池田晶子さんは何を考え、何を発言したものか。そして小林秀雄しかりである。しかし、残念ながら両氏はすでにこの世の人ではない。

小林 秀雄
考えるヒント

暮らしの哲学 池田晶子

池田 晶子
暮らしの哲学
池田 晶子
REMARK―01OCT.1997~28JAN.2000
池田 晶子
リマーク 1997-2007

コメントをした人 :vase jaune
コメントのタイトル:はじめまして。
▼コメントの全文▼
はじめまして。
ちょっとだけですが、面白く読ませていただきました。ただ、わからないところがあったので、質問をさせてください。
?考えることと思い込むことはどう違うのでしょうか?
?今生きていると思い込んでいるのは、なぜわたしと言えるのでしょうか?

URL:http://fleurs-au-vase-jaune.cocolog-nifty.com/blog/


 時々コメントはいただくが、質問されたのは、初めてである。


 ここで格好よく質問に答えられればいいのだが、残念ながらすっきりした回答を出せない。
 たぶん、池田晶子さんなら切れ味のいい言葉が並ぶのだろうが。


 ふたつの質問をいただいて、考えているのはわたしである。と思い込んでいるが、確かにその思い込んでいるわたしはわたしなのかといえば、わからない、といったほうが正解である。
 思い込んでいるのがわたしなのかどうかもわからないのだからもちろん考えているのもわたしなのかどうかあやしいものだ。


 それでは、考えているのはわたしではない他者で、そう思い込んでいるのも他者なのだろうか。どうもこれはしっくりいかない。わたしではないから他者なのかといえば、そうでもないとすると、わたしでも他者でもない考えたり思い込んだりする存在は何だろうか。


 話は変わるが、池田晶子さんが亡くなって、やたらと本がでる。この本もそうだし、トランスビューから出た『リマーク1997-2007』というのが最新刊かもしれない。


 その『リマーク』は2001年に双葉社から『REMARK』として発刊されたが、現在では廃刊になっていて、新本の『リマーク1997-2007』は廃刊になった『REMARK』に2006年12月から2007年1月の『リマーク』を追加したものである。


 池田晶子さんは、自らの認識メモに『リマーク』と名付けた。日記とは違うが、元々人に読まれることを意識していない。だから、凡人のわたしなどには全くわからないところがほとんどだが、時に、納得する、または魂に訴える言葉がでてくる。


 OCT.1997の 27の項目に


「月を指す指は月ではない
当たり前である
しかし、月を指す指
とは何か
月を指す指が自身を問う、
これが哲学のはまるドツボである

how? →科学
why? →宗教
what?→哲学

哲学にだけ、答えがない
なぜなら、答えを指す指が問だからである」


 考えることと思い込みの話に戻ろう。哲学として考えると永遠に答えはでない。答えが『わからない』なのだ。それは、考えるのも思い込むのもそれはどこのどなたかがわからなくなってしまうからで、存在論の行き着くところは、what?『何?』だから、よって答えがないのである。


 しかし、これで、誰も納得などしやしない。凡人であればあるほど、答えを求めたがる。その答えが、時にhow?だったり、why?だったりするが、最近の流行は、where?ではないかと思っている。


 精神世界というやつである。正直、わたしはこの世界、結構好きである。格好の良さ、憧れとしては、もちろんwhat?→哲学の世界である。しかし、この世界は敷居が高い。憧れだけで踏み込めるような場所ではないのだ。
 それこそ、精神世界の話で行けば、人それぞれの器があるから、『哲学』の世界の住人たらしめる器でなければならない。と、わたしは思い込んでいるのだ。


 それに引き換え、精神世界は凡夫にも寛容である。気質、性格、性別、民族、器を問わない。


 精神世界的には、わたしはあなたで、あなたはわたしだから、当然考えているのもわたしでありあなた、ということになる。考えているのがわたしでありあなただから、思い込んでいるのもあなたでありわたしで、全ての垣根は取っ払われてしまう。と、どうなるかといえば、考えることと思い込むことの区別など存在しなくなる。ある種、明瞭、完結である。


 しかし、また、傍と考えると、やっぱり何だかわからなくなってくる。この繰り返しに狂わない人が真の哲学者である。


 池田晶子さんは、よって真の哲学者である。


もうひとつの愛を哲学する アラン・ド・ボトン

アラン・ド ボトン, Alain de Botton, 安引 宏
もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安

 『愛』というのも、『幸せ』と同じくらい、わからない言葉である。

あい 【愛】

(1)対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。また、その気持ちの表れ。

(ア)相手をいつくしむ心。相手のために良かれと願う心。
「子への―」「―を注ぐ」「―の手をさしのべる」

(イ)異性に対して抱く思慕の情。恋。
「―が芽生える」「―を告げる」「―をはぐくむ」

(ウ)何事にもまして、大切にしたいと思う気持ち。
「学問に対する―」

(2)キリスト教で、神が人類を限りなく深くいつくしむこと。

→アガペー

(3)〔仏〕 人や物にとらわれ、執着すること。むさぼり求めること。渇愛。

(4)他人に好ましい印象を与える容貌や振る舞い。あいそ。あいきょう。
「阿呆口たたけば、夫が―に為つて/滑稽本・浮世風呂 4」


 大辞林 第二版(三省堂)には、上記のように載っている。


 概ね、『愛』はポジティブな言葉である。しかし、中庸を尊ぶ仏教においては、『愛』も度を越せば、『渇愛』となって、決して好ましいものではなくなってしまう。

 コムスンという介護をビジネスにする会社が不正をしていたということで、親会社のGWGはその子会社のコムスンを売却することにした。
 最近あまりテレビを見ないので、GWGの会長だか、社長がテレビに出て、やたらと頭を下げていたというニュースをラジオで聞いた。
 「介護ビジネス」を食い物にした、という批判である。
 GWGの社長だか、会長は、昔『ジュリアナ東京』を造った人である。起業家である。その起業家が『介護ビジネス』は儲かると踏んだから、『介護ビジネス』を始めたのである。そしてその『介護ビジネス』がもうあまり儲からなくなってきた。そろそろ引き時である。
 そして今、コムスンをどこが引き継ぐかが焦点になっている。

 『介護』が『介護ビジネス』になったのは、そう古い話ではない。それは決して自然発生的なものではなく、お国の政策である。『介護ビジネス』を創出したのは、お国である。
 ビジネスになるには、そこに『お金』が必要である。それも確実に収入が見込めることである。
 民間のビジネスの基本は、特にサービス業においては、サービスを受ける側がお金を払い、サービスを提供する側がお金を受け取る。
 だから、『介護ビジネス』が純粋に民間のビジネスなら、介護を受ける人がお金を払って、介護を提供する側がお金を貰うことになる。
 ところが、現在の『介護ビジネス』は、介護を受ける人がお金を払うのではなく、お国がお金を払う。介護というサービスを提供した会社はお国からお金を戴くことになる。
 『介護ビジネス』がその起業家にとって、とても『おいしい』ビジネスに見えたのは、まさに、この仕組みがあるからである。つまり、お金を払うところは、お国だから、取りパグレがないのだ。そして、この『介護ビジネス』は認可制だから、誰でもがこの商売に参入することはできない。
 ビジネスという観点から見れば、システム構築を間違えなければ確実な商売である、と起業家が考えてもおかしくない。『ジュリアナ東京』よりよっぽど確実な商売である。


かいご 【介護】

(名)スル

病人などを介抱し世話をすること。
「―人」「老母を―する」


 お国が『介護』をビジネスにするまでは、誰も『介護』がビジネスになるなどとは思っていなかった。病人や老母の世話をするのは、その家族や身内と相場が決まっていた。もちろん一人暮らしで身寄りのない老人もいるだろう。それは社会が助けなければならない。しかし、それは決してビジネスではない。


 年金問題もそうだが、この『介護ビジネス」も結局は、お国が作った『システム』に支障をきたしたということだ。『介護』をビジネスにしてしまったお国がもう一度その『システム』を変えていかなければならない。が、一度作った『システム』を簡単にお国が変えられるはずがない。


 『愛』の話に戻ろう。『愛』というのは、『幸せ』と同じで目で見ることもできないし、手で掴むこともできない。『愛』は感じることしかできないのだ。だからこれも『幸せ』といっしょである。
 『愛』には、ふたつあって、それは『愛する』ことと、『愛される』ことである。
 アラン・ド・ボトンは、「人は『二つの愛』を求めて生きる」と書いている。彼のいうふたつの愛とわたしの考えるふたつの愛は違う。いや、違わない。どっちでもいい。愛を数えることなどナンセンスだから。アラン・ド・ボトンのもうひとつの愛が知りたい人はこの本を読めばいい。
 
 さて、勝手に『愛』の話を続ける。人や物を愛するのは自由である。そして人や物に愛されたいと思うのもこれまた自由である。そのふたつの愛の実現とは、自分を愛することである。自己愛という。自分が自分を愛するというのは、自分は自分に愛されていることでもある。自分を愛することでひとつの愛は完結する。
 精神世界では、心の奥で、全てと自己は繋がっていると考える。だから、わたしはわたしだが、あなたでもあって、あなたもあなただが、わたしでもある。それが精神世界の考えだから、自分を愛するということは、あなたを愛することでもあるとなる。
 よって、精神世界の愛は、『愛する』ことと、『愛される』ことで完結するが、宗教の世界では、『自己愛』と『他者愛』というふたつの愛が登場する。
 基本は、自己愛である。この愛は、本能といってもいい。度が過ぎると『自己中』となるが、自己愛がないとこの世では生きていけない。そして人間はその自己愛を発展させて他者愛を目指すのが善い生き方とされている。


 そして介護の話である。人間誰しも介護されるような状態にはなりたくない、と考えている。しかし現在の高齢化社会というのは、介護を必要とする社会になってしまった。本来であれば介護がビジネスではなく、『愛』をベースにしたものであればいいのだが、残念ながら、『愛』よりもビジネスが優先される社会である。


 介護といったら、コムスン、GWG,ジュリアナ、そしてビジネスと連想してしまう今の世の中というのは、やっぱりおかしいのである。しかし、もう誰もおかしいとは感じなくなってきているのかもしれない。おかしいのは、この社会を作っている人間である。

幸福論 宮台真司

宮台 真司, 鈴木 弘輝, 堀内 進之介
幸福論―〈共生〉の不可能と不可避について

 不幸せより、幸福がいいに決まっている。しかし、その幸福とは一体何なのか。不幸せというのは、幸せではないことである。とすると幸福とは不幸せではないことになる。それでは不幸せとは何かといえば、幸せではないことだ。
 幸せは、不幸せがあって初めて成立する。生きているから死ぬというのと原理は同じである。生きているから死ぬのだから、幸せもまた、不幸せがあるから幸せになれて、幸せがあるから不幸せになる。


 年金の不払いが問題になっている。その不払いとは、年金を受け取れることのできる人たちに払っていないということである。少し前の年金の不払いというのは、国民年金を払ってない人がたくさんいる、ということだった。
 同じ不払いでも前者の方がたちが悪い。受給資格があるということは、20年以上も義務付けられてるとはいえ、お金を払い続けてきた人たちである。それを、相手から請求がないから払っていない、というのは、詐欺といわれてもしかたがない。
 若い人たちでどのくらいの人たちが国民年金を払っているのだろうか。そしてその払っている人たちは、30年後や40年後に自分たちは年金をもらえると本気で思っているのだろうか。


 わたしは、23歳でサラリーマンになって、39歳でサラリーマン生活は辞めたが、未だに厚生年金は払い続けている。約30年間は払っていることになる。もう払わなくても60歳だか、65歳になると貰える資格はあるのだが、そのお金を全く当てにしていない。もちろんその歳になって、まだこのシステムが機能していて、申請すればもらえるというのなら、貰おうとは思うが、どうみても現在の『年金制度』が持ちこたえられるとは思えないのだ。


 これは、それほど考えなくてもわかることで、この制度そのものが現実とかみ合っていないのだ。たぶん、それを制度疲労といっているのだろうけど、疲労なら回復することもあるだろうが、これはもう疲労の域をはるかに越えている。
 20年間積み立てないと一銭ももらえない。19年と11ヶ月ではもらえないのだ。たとえば、今年20歳になった新成人は、大学や専門学校に行っている者は除いて、働いていようがいまいが、年金を払う義務がある。義務だから払わなければいけないのは、NHKの受信料と同じだが、NHKの場合はテレビの受像機がなければ払う必要はない。年金はその人間に支払能力があろうとなかろうとテレビを見ていようが、ラジオしか聞かなかろうが関係ない。 そうやって、20年間払わなければ、受給資格は生まれない。それも20年間払い続けて、もらえるのは、早くても45年後である。
 もし民間の保険会社がこんな保険を作ったら、誰が入るだろうか。


 わたしはまあ、この歳まで何とか支払うだけの生活をしてきたから、税金だと思って払い続けるが、こんな制度を若い人たちに押し付けていいものなのだろうか。
 
 健康保険も年金も生命保険もみな、将来のために考えられた社会システムである。『もしもの時』のために『お金』をプールしておく制度である。その根底にあるのは、結局は、『お金』が全てという発想である。もし、歳とって、お金がなかったら、そりゃあ、みじめよ。お金がなかったら、病気になっても医者にもかかれない。と皆思っている。
 つまり人生を担保するのは、お金だと思っているのだ。しかし、果たしてそうだろうか。言い換えれば、お金があれば幸せな一生を送れるのだろうか。お金があれば、悔いのない人生だったといって死んでいけるのだろうか。


 積極的にお金儲けをしなくても、お金はないより、あったほうがいいと考えている人は多いはずだ。今の社会は、お金儲けをしなければいけない社会である。お金儲けに長けた人が認められるのだ。この世のものさしは今は『お金』である。


 幸せの話に戻ろう。お金と幸せの関係は?ない。これは、何度も書くが、お金がないから不幸なのではなく、お金があるから幸福なのでもない。お金と幸せは次元の違う話なのだ。それをごっちゃにするからわからなくなる。
 幸せになるためには、一度不幸になってみなければならない。不幸を知らなければ幸せがわかるはずがないのである。幸せと唯一関係を持っているのは、不幸せのみである。

病いの哲学 小泉義之

小泉 義之
病いの哲学

 生と死について考えるのは、いつまでたってもわからないからである。全ての人がそうなのかはわからないが、わたしは生まれた瞬間を記憶していない。いつのまにか、生きていたのである。そして今生きている。もちろんその生きているというのは、幻想に過ぎないのかもしれない。生きていると思い込んでいるだけなのかもしれない。
 いつ生まれたかの記憶はないが、そしてその生きていることが幻影だとしても、生きていると思い込んでいる限り、いつかは死が訪れる。今、生きているのが幻影で思い込みならば、もちろんその死も幻影であり、思い込みである。
 それでは、その今生きていると思い込んでいるのは一体何ものなのだろうか。わたしである。そのわたしは一体何ものなのか。


 人間の正体は魂である。それでは、わたしは魂なのか。魂は生まれもしなければ死にもしない。永遠に『ある』存在である。時を持たない魂がわたしであるはずがない。わたしは今生きていると思い込んでいるのだ。魂は『ある』存在だから、今生きているなんて思い込むはずがない。そしてそもそも魂が思い込むこともない。
 となると、わたしは人間だが、その正体の魂ではない。それでは一体わたしは何ものか。


 考え方を変えてみよう。わたしは人間である。人間だと思い込んでいるのかもしれないが、人間は思い込むもののようだ。しかし人間の正体は魂である。そしてその魂は生死といった時制の中にはない。ただ『ある』存在である。人間は思い込むわたしと決して思い込まない『ある』だけの存在の魂が共存していることになる。ひょっとしたら、次元の違う世界の中で共存しているのかもしれない。


 ひとまず魂の話は置いておいて、わたしが今人間をやっている不思議について考えてみよう。
 それが思い込みで幻影だとしてもわたしは今この世に人間として生きている。宇宙の森羅万象が秩序という規則性の中で無常であるとすれば、人間もその秩序の中で無常な存在である。そして人間であるわたしも無常な存在ということになる。
 
 以前も一度書いたような気がするが、考えつづけるというのは、結構しんどいことである。特に最近考えるのは、答えが見つからないとわかっていて考えているから余計始末が悪い。そしてその考えているのは一体何ものかと考えているその本質を考えているのだから、ループ状態である。
 考えつづけることに疲れるとどこかで落しどころを探る作業に入る。考えを中断するには、それなりの理由、言い訳が必要なのだ。そうなるともう本質ではなく枝葉の世界に逃げているから、もう考えてなどいない。


 考えることを『病い』にまで昇華させられれば、たぶん決してそこから逃げることはないのだろう。いや、逃げられないから『病い』なのだ。
 わたしは残念ながらその域には達していない。すぐに逃げる算段を考え始める。

永遠の希望 飯田史彦

飯田 史彦
永遠の希望

 憲法記念日である。1947年5月3日に日本国憲法が施行されたのを記念して1948年に制定された。日本国憲法が公布されたのは、1946年11月3日でこの日は文化の日として同じく1948年に祝日と制定された。
 その憲法を改正しようという動きがある。まあ、憲法だろうが、普通の道路交通法でもそれは人間が作ったルールである。日本国憲法にしたところで、戦争に負けたがためにアメリカが作った憲法だといわれている。誰が作ってもそれは人間が作った人間のためのルールに違いない。日本国憲法だから、そのルールの当事者は日本人、日本国籍を持つものということになる。


 憲法というのは、決して『真理』ということではない。それはもちろん誰でもわかっていることで、だから、憲法を改正しようなどということを考えたり言い出したりするのである。しかし、憲法だけではないが、法律とか、ルールというのをまるでそれが『真理』のように思っている節がある。誰が?私を含めて、善良な市民が。


 高校生の野球の世界で特待生制度がどうのこうのともめている。高野連のルールだと、この野球をすることに優れているという理由で高校側が特待生として授業料免除などの特典を与えてはいけないことになっているらしい。が、ほとんどの私立高校では、特に有名な甲子園常連の高校ではその特待生制度を行っている。
 高校生を子供に持つ親なら、そんな話は不思議でもなんでもない。高野連のルールに特待生を禁止している条項があることを知らない者の方が多いに違いない。
 でるわでるわ、このままいったら、夏の甲子園など参加できるチームは公立高校に限られてくる。
 高野連も実はそんなルールがあったのを忘れてしまっていたのではないだろうか。正直当事者以外はどうでもいい話である。


 法律でもルールでも一度決まってしまうと、それがまるで、正義で真理のようになってしまう。そのルールを作るまでは、皆が寄って集(たか)って議論をする。しかしひとたび決まればルール違反は罰せられることになる。それが近代社会のルールである。
 憲法と高野連のルールをいっしょにしてはいけないのかもしれないが、現実には憲法第九条も高野連の特待生の禁止も実際に今施行されているルールである。だから近代社会においてはそのルール違反は罰せられる。
 ところが憲法9条に関して言えば、誰がどう考えても違反していることが今までに結構ある。ところが罰せられたためしがない。それは憲法を守らなければいけない国家公務員がルール違反をしているからである。そしてその国家公務員がその憲法を罰せられる前に変えようとしている。


 飯田史彦先生の「永遠の希望」と憲法9条とどういう関係があるの?全然関係ない。
 何だか生きるのが辛くなってきた人にとっては、憲法9条も高野連もどうでもいい話である。そしてその生きるのに何だか辛くなった人のことも、その知り合いでない限りはどうでもいいことである。


 憲法でもその他の法律でも、その会社だけのルールでも決まってしまったものは、ただ守るだけで、それから先どうしようと考えなくなる。
 信号が赤の時は横断歩道を渡ってはいけない。青なら文句なしに渡って構わない。それが日本の、いや文明国のルールである。となると、信号が青の時はもちろん車に注意する必要はない。しかし、信号が青でも、そんなことはお構いなしに突っ込んでくる車もあるだろう。青で横断歩道を渡っていた人はもちろん悪くない。信号が赤で突っ込んできた車が悪いのである。しかし、いい悪いは別にして、青で歩いていた人は車に轢かれて死んでしまったかもしれない。ルールはあるけど、ルールがあるから皆が守るとは限らないのである。ルールがあって、皆がそれを守るなら警察はいらない。


 憲法記念日に何を書いているのかわからなくなってきた。そんな日があってもいいじゃないか。それが、飯田史彦先生の言っている『永遠の希望』である。