目覚めよ仏教! 上田紀行 | 今、考えていること

目覚めよ仏教! 上田紀行

上田 紀行
目覚めよ仏教!―ダライ・ラマとの対話 (NHKブックス 1087)

 宗教を主張する宗教を信じないことにしている。それは単なる経験則からだから、根拠のあることではない。二人姉妹では、必ず姉さんの方が美人だ、というのと同じである。


 以前にも書いたかもしれないが、イエス・キリストもマホメットももちろんゴータマ・ブッダも宗教を始めようとして始めたわけではない。特に日本の宗教法人ということになると、教祖と教義と信者がいれば、一応宗教法人登録可能である。


 世界三大宗教というのは、ご存知の通り、キリスト教、イスラム教と仏教なのだが、キリスト教とイスラム教は仲は悪いが親戚みたいなもので、仏教はそれから比べれば特異な存在である。
 そのキリスト教やイスラム教の一神教が宗教だとすれば、どうみても仏教は宗教とは言い難い。仏教にはその神さまが実は出てこない。仏陀というのは、悟った人で、お釈迦様は悟った人に過ぎない。つまり仏教の基本は、この世で悟ることである。この世で悟るというのは、仏教ではあの世を想定していないということだ。想定していないというのは、ない、というわけではなく、ある、というわけでもない。よく瀬戸内寂聴さんが言うように、この世にはあの世に往った人がいないのだから、あの世のことはわからない。死ねばわかるんだから、今知らなくてもいいでしょ。


 日本の仏教が葬式仏教になってしまったのは、たぶん明治以後のことだろう。神社も仏閣もいっしょくたになってしまった。しかし、仏教に神さまがいなかったのは好都合である。日本には八百万の神さまがいらっしゃるから、外国の神さまが入る余地などありゃしない。しかし、七福神には、外国の神さまがいらっしゃるそうな。


 何度か般若心経をここでも取り上げさせてもらったが、読めば読むほど、哲学であり、精神世界の話である。
 ダライ・ラマ法王の話を聞いているとそれがよくわかる。宗教に固執していないのだ。時に、上田さんと話がかみあわなくなるのは、ダライ・ラマ法王が宗教という枠を超えた話をしているのに、上田さんがどうしてもその枠組みをはずせないからである。


 仏教が目覚めるためには、仏教が宗教の枠を飛び越えることである。これを西洋の言葉でカッティング・エッジというが、これで宗教を超えることができる。宗教を主張しない宗教、これこそが、新しい宗教の形である。
 しかし、宗教という形の中で、教団という組織に守られている僧侶がその形を捨てられるはずがないのだ。それは官僚が役所という組織を捨てられないのと同じことである。
 
 お釈迦様は、全てを投げ打って出家して、悟りを開いた。それが仏教なのだから、全てを投げ打つ覚悟のある僧侶が出てこなければ、仏教が目覚めることなど永遠にあり得ない。だから、実は日本人は、僧侶、坊さんに期待などしていない。仏教が目覚めなくても自分が目覚めればいいのだから。