今、考えていること -6ページ目

14歳の君へ 池田晶子

池田 晶子
14歳の君へ―どう考えどう生きるか

 『14歳からの哲学』という本を読んだときはちょうど娘が14歳の時だった。
 堺屋太一さんが命名した『団塊の世代』の1947年生まれが今年60歳になる。世のサラリーマンは定年を迎えるらしい。狭義の『団塊世代』というのは、1947年から1949年までの3年間に生まれた人たちで、広義でいくと1946年から1950年生まれということになる。
 今年25歳から35歳になる人たちの世代を『ロスト・ジェネレーション世代』というらしい。奇しくも、この世代はいわゆる団塊二世の世代でもある。親子二代に渡って命名されるほど、日本の中ではその影響力があるということだろうか。
 団塊の世代が14歳になった時というのは、1961年から63年、広義の団塊世代が1960年から1964年である。まさに高度成長が始まった時期と重なる。
 ロスト・ジェネレーション世代は1972年から1982年に生まれた人たちで、1986年から1996年に14歳を迎えている。


 学校崩壊とか、いじめとか、こどもは大変生きづらい世の中のようだ。こどもたちが生きづらいのだから、おとなが生きやすいわけではない。おとなが生きづらいからこどもも生きづらいのである。おとなもこどもも年寄りもみんな生きづらい世の中だと思っている。それは社会が悪いのだろうか。政治が悪いからだろうか。ひょっとしたら、この日本という国がいけないのかもしれない。

 池田晶子さんは言う。国などないのだと。国がないのだから、社会なんていうものもない。そうなると政治というのはいったい何なのか?
 14歳の時には何の疑問も感じなかったが、世の不思議はたくさんある。その世の不思議は、最近急に不思議になったわけではなく、紀元前からの不思議である。その不思議は答えがでないから今もって不思議が続いている。そういう不思議というのは、人間ならもれなく持っている不思議にも係わらず、気づく人と気づかない人がいる。また、その気づく時期も人それぞれである。

 残念ながら自分の14歳の頃を覚えていない。14際の頃があったことは自覚している。いつから自分を自分と意識しだしたのかの記憶もない。突然、私はこの世を生きていたのだ。生きているという実感が常にあるわけではない。生きている実感などほとんどない、というほうが正しいだろう。それは死んだことがないからである。一回海で溺れそうになったが、死の恐怖に苛まれることはなかった。
 だから、生きていることは実は不思議なことであるにも係わらず、それが現実だから、生の実感が伴わない。日本だけでも毎年100万人ぐらいの人が死ぬ。病気だったり、事故だったり、殺されたり、自殺だったりするが、人口の1%ぐらいが一年間に死ぬことになる。生まれるのも同じぐらい生まれるのだが、死ぬ数より生まれる数のほうが少なくなったというので大騒ぎしている。
 1年間に100万人ぐらい死ぬということは、一分間に二人ぐらい死んでいる計算になる。30秒に一人日本だけで死んでいるのだから、世界65億の中では、その約60倍の人は死んでいることになる。まあ、日常茶飯事である。
 生まれたから死ぬのである。生まれなければ死なない。それは、14歳ぐらいになると誰でも知っている。だから最初の不思議は生と死である。日本だけで、30秒に一人死んで、30秒に一人生まれているのである。自分は生まれたときの記憶はないし、自分の意志で生まれてきたという感覚もないが、今生きている以上、いつかは死ぬ。明日かもしれないし、一年後かもしれないし20年後かもしれない。その死は、生まれてきたと同じように突然やってくる。生まれてきたときの記憶がないように、死んだ時の記憶もないという気がする。魂がこの肉体を飛び出して、ゴーストのように記憶を持った魂が存在し続けるのかもしれないが、こればっかりは考えてもわからない。考えてもわからないが気にはなる。知りたいと思う。そう、この世の不思議を知りたいのだ。本当のことを知りたいのだ。


 私が14歳のときは、知りたいなんて思わなかったかもしれない。だから、たいして考えもしなかった。いや違う。知りたいから考えるのではない。考えると知りたくなるのだ。考える方が先である。池田晶子さんはそれを教えている。

宇宙を作り出すのは人間の心だ フランチェスコ・アルベローニ

フランチェスコ アルベローニ, Francesco Alberoni, 大久保 昭男
宇宙をつくりだすのは人間の心だ

 今年はどんな年になるのだろうか。テレビやラジオやインターネット、雑誌や単行本までが2007年を占う。
 人間には残念ながら未来を予測することはできない。特に自然がもたらす環境変化に対して人間は無力である。雨風は凌げても、大地震を予知することはできない。
 もし、明日東京直下型の大地震が起これば、世の中は大きく変わる。その世の中とは、日本人の世の中である。しかし、それは十分に考えられることで、突飛な発想ではない。
 世の中が一夜にして変わることを日本人は62年前に経験している。それは、天変地異ではない。人間同士の争いである。


 人間は自然の一部である。自然というのは宇宙と言ってもいい。そして宇宙を神とも名付けられる。自然は人間以前に存在したものであり、人間がどうこうできるものではない。その人間がどうこうできないものをどうこうしようとするところに問題が生じる。
 地球の歴史を考えると、氷河期の連続である。氷河期と氷河期の間に人間が生息していると考えられるが、それを間氷期と呼んでいる。地球のスパンで考えれば、現在は第四間氷期ということになる。
 地球は自転しながら、太陽の周りを回っている。その太陽の周りを回っている星がいくつもあって、それ全体が太陽系といわれているが、その太陽系全体も銀河の中を移動している。その銀河もまた宇宙の中を移動しているというわけだから、全てのものは常に動いているということになる。
 宇宙にあるものは全て動いている。それは、人間も同じである。この世に存在するということは、動いているということだ。人間はこの世に生まれてからその生を終わるまで細胞の生滅を繰り返している。細胞は分子の集まりで、分子は原子の集まりである。原子は原子核に電子がくっつき、原子核は陽子と中性子でできている。その陽子も中性子も動いているし、原子核も電子もじっとはしていない。
 宇宙にあるあらゆるものがじっとしていない。じっとしていないから、捉えることができない。これが量子力学である。


 宇宙にあるもの全てが動いているのだから、この世が無常なのは当然のことで、自然を人間がコントロールしようなどと思うことは傲慢というものだ。自然はそれをコントロールしようと思うものにとっては勝手気ままな振る舞いのように思える。しかし、その勝手気ままな振る舞いこそが、宇宙の秩序である。
 時々、こんな声を聞くことがある。
 「人間同士の殺し合いなどに興味はない。勝手にするがいい。しかし、神に逆らうことは許さない。」
 その神とは、自然であり、宇宙である。

無痛文明論 森岡正博

森岡 正博
無痛文明論

 月末をみそかという。一年の最後の月のみそかだからおおみそか。地球規模で、一月一日を決めたのはいつ、誰なのだろうか。地球が生まれたのは45億年ぐらい前だといわれている。『波動の法則』によると、地球のEXA PIEKOが誕生したのが、48億5300万年前である。宇宙のものさしには、一日などという単位や24時間という単位は存在しない。
 世界の長寿の記録がどれくらいなのかは知らないが、100歳まで生きると長寿といわれ、その長寿の人が死ぬとめでたいといわれる。
 ちょっと前までは、50年がひとつの単位だった。それは50年生きれば十分だと考えられていたのだ。しかし今は、50歳で人生が終わるなどと考えている人はいない。50歳で死んだら親不孝者になる。50歳の息子、娘の親はまだぴんぴんしているのだ。


 人は『悔いのない人生』を歩みたいと思っている。それではその『悔いのない人生』とはいかなる人生なのだろうか。
 私は今、ここに生きている。それは、私は死んでいないということである。それでは、私はなぜ今、死んでいないのだろうか。
 今、生きているのは、死んでいないということだから、生の始まりが存在したはずである。地球と比較するのは恐れ多いのだが、地球は地球の始まりを記憶しているのだろうか。私は私の生の始まりを記憶していない。ある時、突然、私は生きていたのである。生きているのだが、生まれたという実感はない。とすると、死という実感もないのではないか。少なくともこの肉体はこの世限りのものである。この肉体にもれなくついてくる感覚が肉体の死とともに無になるのだから、死の感覚を感覚として味わう主体が存在しない。その感覚を記憶に留める脳もまた肉体の一部であるなら、死の記憶もどこにも存在しない。
 この世に生きている限りにおいては、決して『死』は存在しないとおっしゃる池田晶子さんは正しい。


 この世の中、おかしいと感じるのは、森岡先生の論からいえば、この世が『無痛文明』に冒されているからである。おかしいと感じられるのはまだ、私自身が『無痛文明』に冒されていない証拠ではあるのかもしれないが、冒されていないから『悔いのない人生』をおくれるかどうかはさだかではない。


 差し当たって、今年、この『無痛文明』へのささやかな抵抗を試みた。クリスマスに何もしなかったのだ。今まで何かしていたかというと、ケーキを買って食べていた。そのケーキを買わなかっただけだが、これはこれで気持ちの上ではすっきりした。そして来年のささやかな抵抗第二段は、初詣に行かない、である。
 『無痛文明』とキリスト教や神道といった宗教への抵抗に関係があるのかと思われるだろう。決して宗教を否定しているわけではない。もっと言えば、私は神さまの存在を信じている。その神さまを信じていることとクリスマスを祝うこと、初詣に社寺仏閣に参ることとは違うのだと確信しただけである。
 現在の日本におけるクリスマスも初詣も『無痛文明』における『無痛化装置』にしか過ぎない。少なくとも、私はクリスチャンじゃないし、特定の神社の氏子ではない。


 人間の歴史は『身体の欲望』の歴史である。それは、『無痛文明』を完結させるための歴史でもある。文明とはそういうものだからこそ、文明は滅びるのである。人間そのものが、まさに奇跡の存在で、宇宙の一部だから、人間のものさしを宇宙のものさしに変えて見れば見えないモノが見えてくる。
 宇宙にどれだけの星があるのかわからない。銀河系ひとつとってもわからないのだ。わからないけれど、宇宙が存在して、地球が存在して、その地球には人間が存在する。宇宙の始まりも地球の始まりも人間の始まりもわからないけれど、始まりがあったのなら、終わりがあるに違いない。人間の始まりはわからなくても、あなたの始まりも私の始まりも確実にあった。記憶にはないが、あったのだ。そして必ず終わりもある。生があるから死があるのだ。生が突然だったように、死も突然である。まだ死んだ経験がないので、断定はできない。単なる私の想像である。

福の神と貧乏神 小松和彦

小松 和彦
福の神と貧乏神

 今日は冬至で、昼の長さが一番短い日である。昼の長さとは、お天道様が顔を出して、隠れるまでを言う。日の出から日の入りまでということだが、逆にいえば夜が一番長いということになる。
 この冬至を境にこんどは夏至に向かってお天道様の出ている時間が長くなっていく。こんなことの繰り返しを地球はもう45億年も続けてきたことになるが、この世の人の一生が100年足らずのことだと考えれば、何とちっぽけなものかと思わざるをえない。日々の生活などそうした宇宙のものさしからみれば、まさにナノの世界である。


 恵比寿、大黒天、弁才天、毘沙門天、布袋、福禄寿、寿老人。七福神と呼ばれる神様である。
 神さまとひとことで言ってしまうが、人によってその神さまは違う。キリスト教を信じる方々の神さまはイエス・キリストだし、イスラム教ならアッラーということになる。
 基本的に仏教には神さまは出てこない。お釈迦様は、神さまではなく、悟りを拓いた人間で、仏様というのは、悟りを拓いた人の総称である。
 神道になると、神さまだらけである。八百万の神々というぐらいだから、自然、万物、全てが神さまとなる。古事記や日本書紀は、その日本の神さまのお話だが、その最初の神さまは天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)で、伊邪那岐命、伊邪那美命が国造りをして、伊邪那美命が黄泉の国の住人になったことから、この神さまのお話もおもしろくなってくる。
 神道の考え方はある意味では非常にシンプルである。初代の神さまが天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ということは、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)は宇宙そのものである。宇宙そのものが神なのだから、その宇宙にあるもの全てが神ということになる。人間の祖先はだから神さまであり、人間もまた全て神さまである。
 日本国においては、その国民の総代が天皇ということになる。天皇の歴史は神武天皇から始まる。
 旧約聖書をその起源とするキリスト教、ユダヤ教、イスラム教では、決して人間の先祖が神さまではない。アダムを創ったのは神さまだが、アダムは神の創造物で、それは天も地も全て神の創造物だが、それは神とは違う。


 昔から、七福神とは何ものかとは思っていた。福を授けてくれる神さまだから、いわゆる神道、日本神話の神さまだとばかり思っていた。しかし、とんでもない、ほとんどがインドの神さまである。
 日本の神さまである恵比寿さんにしても古事記にも日本書紀にも出てこない。唯一大黒天が大国主之命と融合している部分はあるが、大国主と大黒天では出自が違う。
 それではその神さまたちはどこから出てきたのか。民間伝承である。言い方を変えれば、その当時の人びとが勝手に作った神様なのだ。
 宗教教育が戦後全くと言っていいほどなされなくなってしまったから、神も仏も民間伝承も一緒くたになって、初詣には神社にも寺にも八幡様にも単なる現世ご利益を願いに出掛ける。その1週間前にはクリスマスというキリストの生誕を祝う宗教儀式に信者でもないのにキャンドルサービスに出向く。
 私も学生の時、大学がカソリック系だったもので、校舎の隣にある教会のキャンドルサービスに参列したことがある。もちろん信者でもなければ、洗礼を受けていたわけでもない。単なるデートスポットに過ぎなかった。30年以上も前の話である。
 だから、もちろん人のことは言えないが、今思えば、その当時はそんな宗教のことや、宇宙のこと、哲学的なことは何も考えていなかったのだ。
 人間、何も考えないと流される。どうも声の大きい人の波に乗ってしまうところがある。その声の大きい人がとってもよく考えてくれているならそれは安心なのかもしれないけれど、今までの歴史を見る限りはそうともいえない。


 七福神は現世ご利益をもたらしてくれる神々で、だから福の神なのだ。すでに福を持っている人たちはあえて神さまに頼むことはしない。福が今現在ここにないから福の神にお願いをする。それでは、何故今、ここに福はないのかといえば、厄病神がここにいるからである。福の神にお出で願うためにはこの疫病神、別名貧乏神にお引取願わねばならない。
 福の神は貧乏神との対極で、貧乏神と福の神の同居はありえない。貧乏神のいるところには福の神は入れないし、福の神のいるところには貧乏神は入れない。まさにトレードオフの関係にある。


 ネット参拝というのが、今流行っているらしい。テレビのニュースでやっていた。まあ、現世ご利益を祈願するわけで、別に実際の神社に行かなくてもそんなものは鼻から叶うわけもないのだからネットでも何でも同じことだ。
 所詮初詣などというのも、信仰心のある人などほとんどいないわけで、皆単なる年中行事のそれでしかない。若者はデートスポットのひとつだろう。まあ、社寺仏閣はそれなりに霊的な空間ではあるのだから、変な遊興施設よりはデートスポットとして高尚ではある。
 私も高校の時、明治神宮に大晦日の夜から初詣に出かけたことがある。あったのは人波だけで、そこに霊的なものは全く存在しなかった。きっと、八百万の神さまだって、あんなに人が来れば、その日ばかりはどこか別なところでご静養したくなるのも無理はない。だから、ネット参拝もあながち悪くないのかもしれない。

病気にならない人は知っている ケヴィン・トルドー

ケヴィン トルドー, Kevin Trudeau, 黒田 眞知
病気にならない人は知っている

 翻訳本の題名のつけ方によってその本の売れ行きが変わるそうである。翻訳本に限らず、最近流行の新書本などは、その題名を決めるのに編集者は全精力を注ぎこむと聞く。
 この本の原題は「Natural Cures」である。医者や薬に頼らない元々人間に具わった自然治癒力を使って健康に生きる方法が述べられている。
 元々、人間は病気になどならない、というのが原点である。そしてその病気というのは、外的なものでなるのではなく、その人自らが病気になるのだという。
 考えてみればその通りで、今はやりのノロウイスル、そのノロウイルスを身体に取り込んでも発症する人と発症しない人がいる。人間には外的な身体によくないものを体外に出す仕組みができている。だから、その元々具わった人間の身体能力があれば病気になることはない。
 ところが、その元々具わった人間の能力を弱めているものがある。それが食品添加物であり、薬である。そして電磁波。


 みんな薄々は気づいていたのだけれど、中々大っぴらに云えないことがある。特に病気のことや病院、薬の話は、しかるべき役所や、しかるべき免許を持った人たちが発言してしまえば、それが正しいことになってしまう。
 健康食品のお店で売っている食材の方が身体にいいことは皆知っている。知っているけど、そういう食材はめっぽう高い。そしてその健康食品店で売っているもの全てがいわゆる有機農法で作られたものかは確認のしようがない。
 携帯電話やコンピューターなどの電子機器から出る電磁波が身体に悪いことはわかっていても、今は普通に生活していてその電磁波から逃れることのできる人はいない。

 よく考えてみるまでもなく、この世は、人間を病気にするような仕組みになっている。肉体的な病気も精神的な病気もそうである。この世に何も考えずに生きていると遅かれ早かれ肉体的にも精神的にも病気になる。
 空気も水も食べるものも人間の作った化学物質で汚染されているからである。コンピューターも最新鋭のゲーム機も携帯電話も人間の身体によくない電磁波を出している。
 この世に生きて健康でいられる人のほうが珍しい。以前も書いたが、今や、健康であることは格好のいいことではない。メタボリック・シンドロームに罹っている人のほうがファッショナブルなのである。健康な人は特定健康食品のお世話になる必要はない。健康な人はビタミン剤を飲む必要もないし、病気にならないのだから薬や医者の世話になることもない。
 健康な人はこの世ではお金にならない人たちである。今の社会ではもっとも嫌われる人と云っていい。もし、この社会に生きる人たちが全員、健康になったら、何人の人が路頭に迷うことか。犯罪がなくなって、路頭に迷う人の数などタカが知れている。


 これも誰でも知っていることである。金貸しがいるから、金を借りるのだ。パチンコ屋があるからパチンコ依存症の人間が出てくる。人間なんて弱いものである。無欲、無心がいいことは神代の時代からわかっているのだ。だから、無欲、無心になれれば、病気はしない。病気に罹らない。健康でいられる。無欲、無心になるともちろんお金などいらない。そう思うと結果的にはお金に不自由しない。無欲、無心であれば、人から嫌われることはない。人に好かれれば人間関係でもめることもない。
 良い事づくめが、無欲、無心である。しかし、その無欲、無心がむずかしい。それは人間だからである。人間は神ではないから、無欲、無心になれない。なれないけれど、神に近づくことはできる。


 病気にならない人は知っている。その通りである。アルコール依存症にならない人は知っているのである。ギャンブル依存症にならない人は知っているのである。その知っているというのは、考えた結果である。
 この社会は何も考えないで生活していると欲張りで、こだわった人間になってしまう。そうすることを欲している社会だからである。だから、確かに幸せになるには大変な社会だ。だからこそ、自分の頭で考える。そして、自分は幸せになりたいのか、お金持ちになりたいのか、事業で成功したいのかを考えればいい。しかし前回も書いたが、幸せなお金持ちも幸せな成功者もいないということは理解しなければならない。

成功して不幸になる人びと ジョン・オニール

ジョン・オニール, 神田 昌典, 平野 誠一
成功して不幸になる人びと ビジネスの成功が、なぜ人生の失敗をよぶのか

 原題は「The Paradox Of Success」だから、『成功の逆説』とでもいうのだろうか。副題は『仕事での成功が人生での失敗を意味する時』となっている。
 ある程度の人生経験を積んだ人なら、ビジネスで成功している人のほとんどが家庭生活を犠牲にして成り立っている事実をよく知っている。
 以前、幸せなお金持ちというのは幻想に過ぎないと書いた。そもそも幸せとお金持ちというのは計るものさしが違うのだから、そんなものは存在しないのだ。
 実は、成功と不幸もまるで違う次元の話で、だから、もし幸せな成功者になろうとするのなら、それは土台無理な話なのだ。結果としてこの世では、成功した人は不幸を背負い込むことが多いだけのことで、成功、失敗と幸不幸に関係性はないのだ。

 そう言っていまうと、身も蓋もないのだが、関係ないものを関係あるように仮定して、成功しても、不幸にならない方法を考えるのはちとむずかしい。


 人はなるようにしかなれない。よく耳にする言葉である。成功した人たちは成功したかったのだ。だから、成功した。なるようになったのである。マーフィーの法則ではないが、思いは実現するのである。
 成功したいと思ったから成功した。しかし不幸になった。当たり前ではないか。成功しようと思っただけで、幸せになろうとは思わなかったのだから。ジェームズ・アレンの『原因と結果の法則』の通りである。


 何が成功で何が失敗かはわからない。大学受験を考えてみよう。行きたい大学に合格すれば、成功だし、落ちれば失敗である。見事東大に合格して、国家公務員上級試験(今は上級ではなくⅠ種と呼ぶらしい)にも合格して立派な通産官僚(今は通商産業省)になった人を世の人は成功者と呼ぶ。しかし、その人が幸福なのか不幸なのかは知ったことではない。本人が通産官僚になろうとしてなったのだから、それはそれで傍がとやかくいう話ではない。


 この世の中が変なのは、この世の中を作っている多くの人びとの考え方が変だからである。変というのは、この場合、勘違いだったり思い違いと同義語である。しかし、よく考えてみれば、人びとは2000年以上も勘違いしたり、思い違いをしてきているのかもしれない。昨日、今日、変になったわけではないのだ。
 紀元前のギリシャ。ソクラテスやプラトンが活躍したその時代から多くの人びとは今と同じに勘違いし、思い違いをしていたのだ。
 つまり、歴史ある勘違いであり、思い違いだから、そうそう、そういう人びとが多数の社会は変わりはしない。でも、変であることに違いはない。何故、変かといえば、本当の世の中の仕組みや人間、宇宙の真理から外れているからである。その外れているということも実はみんなわかっているのだ。わかっているけど、わからないふりをして暮らしている。気づきがおきないように、考えないようにしている。
 一生、考えないで過ごせるなら、それはひょっとしたら幸せかもしれない。本当の幸せを知らないからである。知らないで済むからである。本当の幸せとは何かがわかると、今がどうみても幸せでないことに気づいてしまう。それが不幸の始まりである。これこそ、人生の逆説とでもいうことだろうか。


 以前にも何度も書いたが、私も何十年と何も考えないで生きてきた。しかし、つい最近から考えるようになってしまった。何を考えるようになってしまったのか。ここはどこ?で、わたしは誰?である。それは、成功とか失敗とか、幸せとか不幸とかを超越した世界である。
 考えないで一生を過ごせるならそれに越したことはないが、残念ながら考えないで一生を過ごせた人を私は知らない。いつかは必ず考える日が来るのである。早いのがいいのか、遅いのがいいのかはその人の運命だからいい、悪いの問題ではない。
 今、あなたが成功して不幸だと感じているとして、もし幸せになろうと思っているのなら、それはそれほどむずかしいことではない。幸せになろうとすればいい。しかし、今の成功も捨てないで、幸せになろうとしても幸せにはなれない。考えればわかることである。

わたしの知らないわたしへ ヒュー・プレイサー

ヒュー プレイサー, Hugh Prather, 中川 吉晴
わたしの知らないわたしへ―自分を生きるためのノート

 考えてもわからないことがある。いや、そんなことはない。考えてわからないことなどない。わからないということがわかったではないか。それは考えなければわからなかった。
 考えてもわからないことは、実は存在しないのではないか。存在しない、つまり無いものを考えようとしてもわかるはずがない。しかし、それがあるのかないのかわからないのだから、考える以前の問題である。
 地球は廻っている。それは、コペルニクスが考えたから廻りだしたわけではない。天動説が地動説に変わった瞬間にも、地球は廻っていたし、それをいうなら、太陽系、銀河系全ての星が動いている。
 考えるということは本能だろうか。本能とは魂に属するものなのか、それとも肉体に属するものなのか。そして、わたしはいったい何ものだろうか。


 神は実在するのだろうか。その神というのは、観念の神ではない。だから宗教の神でもない。創造主としての神である。それは「わたし」を創った何ものかである。
 旧約聖書だと、人間の始まりは、アダムである。神さまが創ったのはアダムだけで、イブはアダムから自動生成装置の一部として創られたことになっている。
 ダー・ウインの進化論でいけば、北京原人やクロマニヨン人に遡り、もっともっと遡って、プランクトンや微生物に行き当たる。どっちが正しいのかなどこれも考えても仕方がない。私の5世代前の家系図さえわからないのだから。
 アダムが最初の人類でも、微生物が我々の原点でも、誰かが何かを創ったことには違いがない。今、わたしがいるこの時空間を宇宙と呼ぶとすれば、その宇宙は誰が創ったのか。


 128億4千万光年のかなたというのは、過去か未来か。スバル望遠鏡とかハッブル望遠鏡とか、何しろ遠くを見ることができる望遠鏡は途方もない遠くのものを捉えることができる。その捉えるというのは、光を捉えるということだ。128億4千万光年先にあるものが見えるというのは、128億4千万年前の光を捉えたということだから、128億4千万年前にはそこにあったけれども、今果たしてそれがあるかはわからない、ということである。
 地球は出来てから45億年ぐらい経っているといわれている。128億4千万年前の光は、地球が存在するより遥か以前の光である。
 今というのは、128億4千万光年離れた場所でも今である。しかし、今であってもここで捉える今ではない。ここでの今はここにしかなく、128億4千万光年先の今はそこにしかない。


 わたしというのはあなたではないということである。それは、実はそう教えられてきただけのことで、実はわたしとあなたは別なものではないのではないか。少なくともそういう仮説はありえるのではないか。だって、旧約聖書では、人類の肉体的な祖先はアダムだから、人類全てがアダムの子孫である。
 ダー・ウインの進化論だと元は微生物だろうから、その微生物にわたしやあなたがあったとは思えない。
 ということで何もわたしがあなたではないと考えることもないとすれば、わたしは彼でも彼女でもないわけではない。


 誰が考えるのかはさておき、わからないから考える。しかし考えてもわからないものはわからない。それは、「わたし」だったり、宇宙だったり、運命だったり、神のことだったりする。わからないものだらけだけど、どういうわけか、人はこの世で生きている。ひとつだけ確実なことは、人はいつかは死ぬ。その死ぬというのはこの肉体の機能を停止するということだ。それ以外のことはわからない。
 わからないからそれを人間と呼んでいる。何でもわかっているのは神と呼ばれている。そして、わたしはその人間をこの世でやっている。わたしは人間である。

考える人 池田晶子

池田 晶子
考える人―口伝(オラクル)西洋哲学史

 この世が変だ、と感じるようになったのは、ここ一二年のことだが、実はもっと前からこの世は変なのだ。変だと感じるのは、変ではない、しごく真っ当な世界というものが基本にあるから、それと比べて変だとわかる。そのしごく真っ当だと感じる世界を基本形として持ち合わせていない人にとっては、この世は決して変ではない。
 前回、『幸せなお金持ち』は幻想だと書いた。幸せなお金持ちに憧れるのは、実際には、不幸なお金持ちが多いからなのか。ただ単純に幸せになりたいというのは、今のご時世流行らないことなのだろうか。
 この世に生まれたということは、何がしかの目的があるに違いない。精神世界ではそう考える。世に偶然などということはないのだから、私がこの世に生を受けたのも必然である。それは、私だけが必然なのではなく、この世に生きているもの全てが必然である。だから、この世での目的、使命というのも、私だけのものではなく、この世に生きている人全てがもれなく、使命を帯びている。
 使命とは誰が誰に果たした使命なのか。わたしがわたしに果たした使命である。それではそのわたしとはいったい誰なんだ。
 とまあ、結局行き着くところは同じで堂々巡りが始まるのだが、それは仕方がない。我を忘れて考えても、結局わからない。考えている時は、常に我を忘れる。誰が考えているなど意識しない。私が考えているのだと意識することなどあるのだろうか。私が考えていると意識する時には、実は考えていない。我を忘れた時に初めて考えている自分がいる。しかし、それは後になって自分が考えていたと思うだけで、その時実際に考えていたのが、私なのかは実はわからない。


 未だに脳を鍛えることが流行っている。脳を鍛えてどうするのだろうか、と私は考える。それは、お金持ちになってどうするのか、健康になってどうするのかと同じ疑問である。
 お金はないよりあったほうがいいし、病気より健康の方がいい。人はほとんどそう思っている。それではどのくらいお金があるとお金持ちでどのくらい健康だと満足するのだろうか。

 生まれながらに『考える』ことから逃れられない池田晶子さんのような人は、人が『考えない』ということが真からはわからない。天然の考える人だからである。しかし皆が皆そんな人ばかりではない。というより、この世には考えない人の方がはるかに多い。だから、脳を鍛えるなどということにまっとうに励む人がでてくる。脳を鍛えるとはどういうことで、脳を鍛えるとどうなってということを考えないから、脳を鍛えるゲームに飛びつく。近未来通信に投資して損するのも、ライブドアの株で損するのも結局はよく考えなかったからである。
 しかし、人に騙されたり、人に裏切られたりすると、人は考えるようになる。天然の考える人ではない我々は何かをきっかけに考える人になる。そして自分の頭で考えるとこの世が変だと思えてくる。そう気づいてしまえば、もう後戻りはできない。一度考え始めれば、もう考えない世界には戻れない。やっと池田晶子さんと同じ土俵に立てた瞬間である。

お金、健康、セックス 8

 『近未来通信』という会社が突然会社を閉鎖した。朝日新聞を購読されている人には結構馴染みの会社である。その馴染みというのは、朝日新聞に広告を載せていたからだ。他の読売や毎日にも載せていたのかもしれないが、うちは朝日しかとっていないので、わからない。
 たまたま朝見たワイドショーには、4000万も投資した人がインタビューに答えていた。
 まあ、そのうち司直の手が入るのだろうが、お気の毒としかいいようがない。いったいいくら損をしたのかは知らないが、儲けそこなったのはその本人の不徳である。諦めることだ。
 その不徳とは何か。よく考えなかったからである。徳が足りなかったのである。もっとお金が欲しかった。銀行に4000万円預けても、一年間で0.5%の利息だと2万円にしかならない。それが、月々50万も60万もくれるなら、そりゃあ自由になるお金があるなら誰でも一枚噛みたくなる。
 しかしよく考えてみればいい。どうしてそんなおいしい話を宣伝などするのだろうか。IP電話なら、無料のスカイプがあるではないか。もっと画期的なものなら、孫さんが、ボーダーホーンなんかやめて、今ごろやっている。そして宣伝するのは、その主催者がそのシステムで儲けようとしているからである。最近格好のいい言葉で、ビジネスモデルなどと謂っているが、その儲けのシステムは『マルチ』というもっとも基本的なモデルである。


 お金はあるに越したことはない、とほとんどの人が思っている。『幸せなお金持ち』にみんなが憧れている。しかし、これもよく考えてみればわかることだが、幸せであることとお金持ちとは全く別な概念である。そも、幸せになりたいのか、お金持ちになりたいのか?
 いや、幸せなお金持ちになりたいと言う。それは、大きな勘違いというものだ。人は、なりたい者にしかなれない。幸せなお金持ちは、幻想に過ぎない。だから、幻想である幸せなお金持ちにはいつまでたってもなれないのだ。

 お金がないと幸せになれないと思っている人もいる。そして、お金持ちになると、もれなく幸せがついてくると錯覚している人もいる。
 まあ、いずれにしても、そういう思い込みは、一度お金持ちになってみればわかることである。しかし、人間とは何て欲深いものだろうか。使い切れないお金をもっていても、もっとお金が欲しいのだ。
 お金も健康もセックスも肉体があるために起こる欲求である。この肉体がなければ、お金など必要とはしないし、健康に気を使うこともなければ、セックスをすることもない。まあ、この世に生きている証しと言ってしまえばそれまでだが、この肉体があるがために、人間は悩み、苦しむ。しかし、この世に生まれてきたということが、この肉体と魂のセットだとすれば、それはいたし方のないことで、そもこの肉体を持ってこの世に生まれてきたということが宿命である。ならば、この肉体が求める快楽を追求するのも悪くない。しかし、その肉体の快楽は一生続かない。ずっと続く快楽などないのだ。そして、その肉体は同じ快楽に飽きてしまう。実にやっかいな代物である。


 このやっかいな肉体を纏ってしまったがために人間は善く生きられなくなってしまったのだろうか。人間の正体は魂である。とすれば、この世は『所詮暇つぶし』なのだ。悠久を漂う魂にとっては、肉体があろうがなかろうが、その目的はその魂の品格を向上させるしかない。お金も健康もセックスも関係ないのだ。魂は知っている。それは、永遠の中にその本質を置いているからだ。

 いじめられた子の自殺と、学校の先生の自殺が流行っている。流行り物だからあまり世相に関心を示さないほうがいい。何しろ、情報媒体が過剰である。自殺をしたいと思う気持ちを後押しするのは、情報媒体が過剰なためである。自殺がそのいじめた本人への報復だと思い込んでいる。思い込んでいるから自殺できる。そしてまた、マスメディアが過剰なまでにその情報を流す。自殺に追い込んだ教師や生徒を糾弾する。
 現実に苛められている子供は、掃いて捨てるほどいるに違いない。どのくらい苛められると自殺したくなるのかはきまっていないが、自殺によって、いじめた子供が糾弾されるなら、遺書を残して自殺する子も出てくるだろう。そして、糾弾された方だって、それに耐えられなくなって自殺することも大いに在りえるのだ。だから、流行ものだと云ったのだ。


 人間は肉体を纏っているからこそ、死の恐怖と常に背中合わせで生きている。生きているということは、死があるからこそ生きていると実感できるのだ。魂に生死はない。常に在り続けるのだ。
 今、ここに生きているわたしは、それでは何ものだろうか。人間の正体は魂だとするなら、わたしはその魂だろうか。いや、魂に生死はない。しかし私は今生きているのだ。とするとこの肉体がわたしだろうか。
 とこんなことを自殺しようとする人間は考えない。苛められている方は、何しろその苦痛から逃れたいのだ。その苦痛は精神的なものもあれば、肉体的なものもあるだろう。何しろ、その苦痛から逃れる方法を探す。一番は、その苦痛をもたらす加害者から逃れられればいい。道端で不良に絡まれたら、逃げるが勝ちである。
 しかし、どうしてもそこから逃れられないとなれば、自分がこの世からいなくなればいいとなる。そして、あの世から恨んでやると遺書を残す。自分が死んで、その遺書でそのいじめた生徒が糾弾される姿を想像する。


 私もえらそうなことはいえない。昔は何も考えないで生きていた。しかし、自分の頭で考える癖をつけることが、思い込みを減らす。そして周りに振り回されなくなる。
 人間の心は弱い。心が弱いからろくでもないことを考える。そして、知識に振り回される。心を強くすることが、魂の品性の向上である。この世で肉体を纏った人間の心は弱い。それをこの世の生の中で強くしていくのだ。
 苛める方も、苛められる方もともにその心は弱い。その心を強くするためには、やっぱり死んではいけないのである。

国家と宗教 保坂俊司

保坂 俊司
国家と宗教

 この世の中ますます変になってきた。新聞を見ているとそれがよくわかる。新聞は古くからある情報媒体である。家庭には前日までの情報が書かれたものが、朝刊としてまだ一般民が寝ている時間に配達される。戦うサラリーマンは駅の売店で日経新聞を購入する。夕刊は、その日の午前中の出来事がメインの情報として夕方各家庭に配送される。帰りに一杯引っ掛けたサラリーマンは、駅のキオスクで東スポを買って、非日常を楽しむ。
 世の中に情報が氾濫している。それは昨日今日始まったことではない。その情報とは何かといえば、各人の日々の生活の営みである。この世には知的かどうかは別にして、我が物顔で君臨しているのは人間しかいない。だから、情報というのは、その人間がどうしたこうしたの話しでしかないのだ。その人間のどうしたこうしたは、昨日今日始まったことではない。その人間のどうしたこうしたが情報という名前に変わっただけのことである。
 メディア、媒体のことである。その情報を流す媒体が急激に増えた。六十数年前は、情報といえば、大本営からの情報ぐらいしか一般民は聞けなかった。メディア、媒体があっても作為的に情報操作されていたのだ。
 確かに最近は、以前からある媒体にプラスして、インターネットを介した情報メディアが普及してきた。メディアが増えても、情報そのものは増えていない。当たり前のことである。
 情報とは、人間の日々の営みである。メディアが増えようが増えまいがそんなことに左右されない。情報が氾濫しているという表現は間違っている。情報量は一定なのだ。メディアが増えたおかげで、どうでもいいことまで情報に格上げされてしまったのだ。そして、メディアの数が増えたから、同じ情報をメディアの数だけ報道される。いじめはひとつでも、そのひとつのいじめがメディアの数だけ世に知らされる。ひとつの情報がさもたくさんあるように錯覚するのだ。その錯覚が情報の氾濫と呼ばれるのである。

 最近テレビを見なくなったと以前書いた。それは歳をとってきて目が疲れるということもあるが、単純におもしろくないだけである。その分、コンピューターのモニターを見る時間が増えた。
 新聞はとっているが、ざっと眺めるぐらいで、週刊誌の予告記事が一番おもしろい。
 サラリーマン時代は夕刊フジと週刊文春、週刊現代は必ず買っていた。学生時代は、平凡パンチかプレイボーイが必須アイテムである。
 テレビもおもしろかった。

 時代が変わろうとしている。それが世界的なことなのか、日本だけのことなのかはわからない。しかし、もう日本だけが勝手に鎖国することもできないのだから、日本だけが変わるなどということはあり得ないのだろう。
 戦後60年、それまでは何も考えないで突っ走る目標があった。焼け野原からのスタートは、まず、生活の安定、物質的に恵まれた社会の創造が目標とされた。国民全部がひとつの目標に向かって邁進できたのだ。どうすれば生活の安定、物質的な繁栄が築けるかだけを考えればよかった。本当は、そんなことは『考える』範疇のことではなかったのだ。しかし、こんなことしか考えられない教育をさせられてきた。
 いい学校に入って、いい会社に入る、いい学校を卒業して、国家公務員上級試験に合格する。それは、すべて、生活の安定と物質的な繁栄のためである。
 しかし、戦後60年、勤勉な日本人は、生活の安定と物質的な繁栄を手に入れてしまった。それでも、もっと、もっとと考えられる人たちは幸せである。生活の安定も物質的な繁栄も人間の欲望というものさしでは、限がない。
 
 日本という国は、戦後60年、宗教を胡散臭いものとして教育の中から抹殺してきた。政教分離。政治と宗教はいっしょになってはいけない。それは、まさしく戦前の天皇を神と崇めた神道の否定だった。戦前は国家と宗教が一体となっていたことへの反動である。
 バチカンのように宗教を主体にした国家は珍しいが、中東のイスラム社会は宗教と国家は同一のものである。イスラエルにしてもユダヤ教なしで国家を考えることなどできない。
 そう考えると、世界を見回して、宗教を胡散臭いものとして隅に追いやっているのは、共産主義の国以外ではほぼ日本だけである。

 人間の欲望には限がない。そして、人間の心は弱いものである。限のない欲望を持ち、弱い心だから人間なのである。
 そんな人間のこの世の営みが情報である。情報などというとものすごいものを考えてしまうが、人間の日々の営みだとすれば、そんな他人の営みに一喜一憂することもないだろう。知らぬが仏、知らなくてもいいことがこの世にはいっぱいあるのだ。