国家と宗教 保坂俊司 | 今、考えていること

国家と宗教 保坂俊司

保坂 俊司
国家と宗教

 この世の中ますます変になってきた。新聞を見ているとそれがよくわかる。新聞は古くからある情報媒体である。家庭には前日までの情報が書かれたものが、朝刊としてまだ一般民が寝ている時間に配達される。戦うサラリーマンは駅の売店で日経新聞を購入する。夕刊は、その日の午前中の出来事がメインの情報として夕方各家庭に配送される。帰りに一杯引っ掛けたサラリーマンは、駅のキオスクで東スポを買って、非日常を楽しむ。
 世の中に情報が氾濫している。それは昨日今日始まったことではない。その情報とは何かといえば、各人の日々の生活の営みである。この世には知的かどうかは別にして、我が物顔で君臨しているのは人間しかいない。だから、情報というのは、その人間がどうしたこうしたの話しでしかないのだ。その人間のどうしたこうしたは、昨日今日始まったことではない。その人間のどうしたこうしたが情報という名前に変わっただけのことである。
 メディア、媒体のことである。その情報を流す媒体が急激に増えた。六十数年前は、情報といえば、大本営からの情報ぐらいしか一般民は聞けなかった。メディア、媒体があっても作為的に情報操作されていたのだ。
 確かに最近は、以前からある媒体にプラスして、インターネットを介した情報メディアが普及してきた。メディアが増えても、情報そのものは増えていない。当たり前のことである。
 情報とは、人間の日々の営みである。メディアが増えようが増えまいがそんなことに左右されない。情報が氾濫しているという表現は間違っている。情報量は一定なのだ。メディアが増えたおかげで、どうでもいいことまで情報に格上げされてしまったのだ。そして、メディアの数が増えたから、同じ情報をメディアの数だけ報道される。いじめはひとつでも、そのひとつのいじめがメディアの数だけ世に知らされる。ひとつの情報がさもたくさんあるように錯覚するのだ。その錯覚が情報の氾濫と呼ばれるのである。

 最近テレビを見なくなったと以前書いた。それは歳をとってきて目が疲れるということもあるが、単純におもしろくないだけである。その分、コンピューターのモニターを見る時間が増えた。
 新聞はとっているが、ざっと眺めるぐらいで、週刊誌の予告記事が一番おもしろい。
 サラリーマン時代は夕刊フジと週刊文春、週刊現代は必ず買っていた。学生時代は、平凡パンチかプレイボーイが必須アイテムである。
 テレビもおもしろかった。

 時代が変わろうとしている。それが世界的なことなのか、日本だけのことなのかはわからない。しかし、もう日本だけが勝手に鎖国することもできないのだから、日本だけが変わるなどということはあり得ないのだろう。
 戦後60年、それまでは何も考えないで突っ走る目標があった。焼け野原からのスタートは、まず、生活の安定、物質的に恵まれた社会の創造が目標とされた。国民全部がひとつの目標に向かって邁進できたのだ。どうすれば生活の安定、物質的な繁栄が築けるかだけを考えればよかった。本当は、そんなことは『考える』範疇のことではなかったのだ。しかし、こんなことしか考えられない教育をさせられてきた。
 いい学校に入って、いい会社に入る、いい学校を卒業して、国家公務員上級試験に合格する。それは、すべて、生活の安定と物質的な繁栄のためである。
 しかし、戦後60年、勤勉な日本人は、生活の安定と物質的な繁栄を手に入れてしまった。それでも、もっと、もっとと考えられる人たちは幸せである。生活の安定も物質的な繁栄も人間の欲望というものさしでは、限がない。
 
 日本という国は、戦後60年、宗教を胡散臭いものとして教育の中から抹殺してきた。政教分離。政治と宗教はいっしょになってはいけない。それは、まさしく戦前の天皇を神と崇めた神道の否定だった。戦前は国家と宗教が一体となっていたことへの反動である。
 バチカンのように宗教を主体にした国家は珍しいが、中東のイスラム社会は宗教と国家は同一のものである。イスラエルにしてもユダヤ教なしで国家を考えることなどできない。
 そう考えると、世界を見回して、宗教を胡散臭いものとして隅に追いやっているのは、共産主義の国以外ではほぼ日本だけである。

 人間の欲望には限がない。そして、人間の心は弱いものである。限のない欲望を持ち、弱い心だから人間なのである。
 そんな人間のこの世の営みが情報である。情報などというとものすごいものを考えてしまうが、人間の日々の営みだとすれば、そんな他人の営みに一喜一憂することもないだろう。知らぬが仏、知らなくてもいいことがこの世にはいっぱいあるのだ。