お金、健康、セックス 8 | 今、考えていること

お金、健康、セックス 8

 『近未来通信』という会社が突然会社を閉鎖した。朝日新聞を購読されている人には結構馴染みの会社である。その馴染みというのは、朝日新聞に広告を載せていたからだ。他の読売や毎日にも載せていたのかもしれないが、うちは朝日しかとっていないので、わからない。
 たまたま朝見たワイドショーには、4000万も投資した人がインタビューに答えていた。
 まあ、そのうち司直の手が入るのだろうが、お気の毒としかいいようがない。いったいいくら損をしたのかは知らないが、儲けそこなったのはその本人の不徳である。諦めることだ。
 その不徳とは何か。よく考えなかったからである。徳が足りなかったのである。もっとお金が欲しかった。銀行に4000万円預けても、一年間で0.5%の利息だと2万円にしかならない。それが、月々50万も60万もくれるなら、そりゃあ自由になるお金があるなら誰でも一枚噛みたくなる。
 しかしよく考えてみればいい。どうしてそんなおいしい話を宣伝などするのだろうか。IP電話なら、無料のスカイプがあるではないか。もっと画期的なものなら、孫さんが、ボーダーホーンなんかやめて、今ごろやっている。そして宣伝するのは、その主催者がそのシステムで儲けようとしているからである。最近格好のいい言葉で、ビジネスモデルなどと謂っているが、その儲けのシステムは『マルチ』というもっとも基本的なモデルである。


 お金はあるに越したことはない、とほとんどの人が思っている。『幸せなお金持ち』にみんなが憧れている。しかし、これもよく考えてみればわかることだが、幸せであることとお金持ちとは全く別な概念である。そも、幸せになりたいのか、お金持ちになりたいのか?
 いや、幸せなお金持ちになりたいと言う。それは、大きな勘違いというものだ。人は、なりたい者にしかなれない。幸せなお金持ちは、幻想に過ぎない。だから、幻想である幸せなお金持ちにはいつまでたってもなれないのだ。

 お金がないと幸せになれないと思っている人もいる。そして、お金持ちになると、もれなく幸せがついてくると錯覚している人もいる。
 まあ、いずれにしても、そういう思い込みは、一度お金持ちになってみればわかることである。しかし、人間とは何て欲深いものだろうか。使い切れないお金をもっていても、もっとお金が欲しいのだ。
 お金も健康もセックスも肉体があるために起こる欲求である。この肉体がなければ、お金など必要とはしないし、健康に気を使うこともなければ、セックスをすることもない。まあ、この世に生きている証しと言ってしまえばそれまでだが、この肉体があるがために、人間は悩み、苦しむ。しかし、この世に生まれてきたということが、この肉体と魂のセットだとすれば、それはいたし方のないことで、そもこの肉体を持ってこの世に生まれてきたということが宿命である。ならば、この肉体が求める快楽を追求するのも悪くない。しかし、その肉体の快楽は一生続かない。ずっと続く快楽などないのだ。そして、その肉体は同じ快楽に飽きてしまう。実にやっかいな代物である。


 このやっかいな肉体を纏ってしまったがために人間は善く生きられなくなってしまったのだろうか。人間の正体は魂である。とすれば、この世は『所詮暇つぶし』なのだ。悠久を漂う魂にとっては、肉体があろうがなかろうが、その目的はその魂の品格を向上させるしかない。お金も健康もセックスも関係ないのだ。魂は知っている。それは、永遠の中にその本質を置いているからだ。

 いじめられた子の自殺と、学校の先生の自殺が流行っている。流行り物だからあまり世相に関心を示さないほうがいい。何しろ、情報媒体が過剰である。自殺をしたいと思う気持ちを後押しするのは、情報媒体が過剰なためである。自殺がそのいじめた本人への報復だと思い込んでいる。思い込んでいるから自殺できる。そしてまた、マスメディアが過剰なまでにその情報を流す。自殺に追い込んだ教師や生徒を糾弾する。
 現実に苛められている子供は、掃いて捨てるほどいるに違いない。どのくらい苛められると自殺したくなるのかはきまっていないが、自殺によって、いじめた子供が糾弾されるなら、遺書を残して自殺する子も出てくるだろう。そして、糾弾された方だって、それに耐えられなくなって自殺することも大いに在りえるのだ。だから、流行ものだと云ったのだ。


 人間は肉体を纏っているからこそ、死の恐怖と常に背中合わせで生きている。生きているということは、死があるからこそ生きていると実感できるのだ。魂に生死はない。常に在り続けるのだ。
 今、ここに生きているわたしは、それでは何ものだろうか。人間の正体は魂だとするなら、わたしはその魂だろうか。いや、魂に生死はない。しかし私は今生きているのだ。とするとこの肉体がわたしだろうか。
 とこんなことを自殺しようとする人間は考えない。苛められている方は、何しろその苦痛から逃れたいのだ。その苦痛は精神的なものもあれば、肉体的なものもあるだろう。何しろ、その苦痛から逃れる方法を探す。一番は、その苦痛をもたらす加害者から逃れられればいい。道端で不良に絡まれたら、逃げるが勝ちである。
 しかし、どうしてもそこから逃れられないとなれば、自分がこの世からいなくなればいいとなる。そして、あの世から恨んでやると遺書を残す。自分が死んで、その遺書でそのいじめた生徒が糾弾される姿を想像する。


 私もえらそうなことはいえない。昔は何も考えないで生きていた。しかし、自分の頭で考える癖をつけることが、思い込みを減らす。そして周りに振り回されなくなる。
 人間の心は弱い。心が弱いからろくでもないことを考える。そして、知識に振り回される。心を強くすることが、魂の品性の向上である。この世で肉体を纏った人間の心は弱い。それをこの世の生の中で強くしていくのだ。
 苛める方も、苛められる方もともにその心は弱い。その心を強くするためには、やっぱり死んではいけないのである。