今、考えていること -5ページ目

人間自身 池田晶子

池田 晶子
人間自身―考えることに終わりなく

 本当にテレビを見なくなった。昨年の5月に今まで住んでいたマンションを売って実家に戻ってきた。実家には母親が一人で住んでいた。


 マンション生活が長かった。マンションというと豪邸のようだが、まあ、集合住宅である。その集合住宅の利点は、どの部屋でもテレビという機械があれば、鮮明な画像を見ることができるということである。それが当たり前のように思っていた。
 実家は築40年にもなる一軒屋である。結婚するまでは住んでいたが、その当時は、まだ一部屋に一台テレビがある時代ではなかった。一軒に一台の時代で、その電波を受信するために屋根にアンテナを建てていた。
 アンテナだけではないが、形ある物はすべからく老朽化する。家だって40年も経てば外も内もボロボロである。母親の一人暮らしは、使う部屋は限られてくる。使わない部屋はまるで倉庫状態である。


 テレビを見なくなったのは、部屋にはテレビはあるが、室内アンテナしかないので、よく映らないからである。あえて、CATVに接続しなかったのは、それほど見たいものがなかったというのも確かにある。見たい番組は母親の部屋のテレビから録画すればいい。


 ここにも何度も書いたがわたしはテレビっ子だった。大人になってもそれは変わらなかった。どんな時でもテレビにはスイッチが入っていて映像や音が流れていた。生活の一部だった。


 テレビを見なくなって考えるようになったのか、考えるようになってテレビを見なくなったのかは定かではない。しかしテレビは人間に考えさせない道具であることは確かだ。テレビが人間を馬鹿にする、というのは正しい。わたしはそれに気づくまでに50年もかかった。だから、特に子供たちには、テレビを見ていると馬鹿になるよ、と言っているが、これは本人が気づかない限りは本気でわたしの言うことなど訊くはずがない。テレビを見ていると気づけないようにできている。テレビを見ない生活をして、気づくしか、テレビから離れる方法はないのだ。


 中毒である。テレビホリックである。ニコチン中毒とも同じである。本人がテレビを見ていたがために馬鹿になってしまったと自覚しない限り、テレビ中毒から逃れることはできない。


 馬鹿で結構、馬鹿のどこが悪い。と居直られることがある。そう、馬鹿って仕合わせなのだ。考えなくていいのは仕合わせでしょう。特に世の中は、『鈍感力』の時代である。馬鹿といわれて何も敏感に反応することはない。


 自分の頭で考える。人間は本来そのように出来ている。いい悪いの問題ではない。その本来そのようにできている人間の性(さが)を忘れさせる道具がテレビである。しかしこのテレビも一生忘れさせてはくれないのだ。ワンセグなどという携帯電話についているテレビまで登場したが、それでもいつかは自分の頭で考えなければならない時が必ず来るのだ。
 テレビだけがもちろん自分の頭で考えることを忘れさせる道具ではない。この世の中すべからくその道具に満ち溢れている。その道具を買うためにお金が使われている。その経済効果で消費社会を形成している。
 景気がよくなるというのは、自分の頭で考えない人が増えた時で、景気が悪くなるのは自分の頭で考える人が増えた時である。


 自分の頭で考えることに何かメリットはあるのか。仕合わせになれるのか?
 否である。何度も言うけれど、自分の頭で考えるのは人間としての性(さが)である。


 『著者急逝!この先を考えるのはあなたです。』
 急逝された池田晶子さんが見たら怒るに違いない。 「わたしは、あなたのために考えていたわけではありません。わたしは考えずにはいられなかっただけです。」

君自身に還れ 大峯顯 池田晶子

池田 晶子, 大峯 顯
君自身に還れ―知と信を巡る対話

 『謎』は『謎』だから『謎』だけれど、『謎』と思わなければ『謎』などどこにも存在しない。それを『謎』と思うのは『私』である。その『私』とは一体何ものか。
 生きているのは現実である。気がついたらこの世に生きていたのである。この世に生きたいと願った記憶はないが、精神世界の考え方では『私』はこの世に生まれるべくして生まれてきた。


 人間の正体は魂だという。『私』と魂の関係がよくわからない。二分論でいけば、肉体と精神で、魂は精神に属する。今、そう考えている『私』はその精神なのか、肉体なのか。
 『私』というのもわからないが、『こころ』というのもよくわからない。
 何度も考えたが結局わからない。わからないから『謎』である。こうなるとどこかで折り合いを付けなければならない。


 折り合いを付ける方法のひとつは、誰かの考えを取り入れることである。哲学でも宗教でも自分の頭でなく人の頭に依存する。自分の頭では考えられなかったのだから仕方がない。
 もうひとつが神秘体験である。これは積極的に自分から神秘体験を求めるものと、半ば偶然に神秘体験を味わってしまうという2種類が考えられる。
 修行というのも積極的な神秘体験を求める行為だし、薬や大麻といったものもそのひとつだといえる。


 池田晶子さんは考える人だった。真に哲学した人である。その哲学する人の唯一絶対の条件は『媚びない』ことである。その『媚びない』というのは、人の思想に『媚びない』ということだ。どこまでも自分の頭で考える。こんなことを言ったら何て言われるかなんてことは考えない。
 そして知ったかぶりをしない。わからないものはわからないと言う。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いという。
 そして何より、謎を謎のままいつまでも考えつづけられることである。折り合いを付けようとなどしてはいけない。『私』がその謎を解けたとしても、この世の中が変わるわけではないのだ。私がどこから来てどこに向かおうとも『私』が知らなくてもどこからか来てどこかに向かうのだから。

「よく生きること」の哲学 藤沢令夫

藤沢 令夫
「よく生きること」の哲学

 哲学を哲学することだと考え、その哲学するとは考えることである、とすると何となくわかったような気がしてくる。もちろん哲学などわかる必要がないといってしまえばそれまでだし、何の役にも立ちそうではないが、一度哲学をしてしまうと、後戻りできない。考えないようにしようと思っても考えてしまうのだ。つまり、哲学などしようと思う必要はさらさらない。好き嫌いに拘わらず、いつかは人間は哲学しなければならないようにできている。『人間は考える葦である。』とすれば、哲学するのは人間の性(さが)である。


 哲学の始祖はタレスということになっている。西洋哲学史の最初はどの本もそのタレスの言葉が載っている。
 『万物は水から生ずる』
 古代ギリシャの人の言葉だから、もちろんギリシャ語で当のタレスはのたまったのだろう。その水が空気に変わるのがアナクシマンドロスである。水や空気が淵源であればたぶん、ひょっとすると現代ももう少し違っていたかもしれない。そこに登場するのが、原子論というやつである。
 デモクリトスが『自然の森羅万象はすべて原子を構成要素として、その離合集散によって成り立っている』と言い出した。
 水や空気が原子(アトム)に変わっただけじゃないか、と素人は考える。そしてその通りではないのか、と見せ掛けの教育を受けた人間は考えてしまう。ところが、この原子論というのは、水や空気とは全く異なった考え方なのだ。つまり、この世界、宇宙、自然のもの全てが原子という『物質』で出来ているといっているのだ。
 一度この原子論は中世のキリスト教世界において葬り去られる。神様も人間も淵源が同じでは按配が悪い。しかし近世になって不死鳥のように蘇る。そしてその不死鳥は現代まで生き続け、やっとこさ、量子論が出て、お役ご免になろうとしているが、それでも科学技術の発達はこの原子論が根底にあって実現した。


 『生きることでなく、よく生きることをこそ、何よりも大切にしなければならない。』
 プラトンの対話編の中でソクラテスが語っている言葉である。よく生きることと、ただ生きることの違いは何なんだろうか。

 生前を記憶していないので、気がついたらこの世に生きていた。もちろんその気がついた時には、この世もあの世もわからないから、生きているという感覚さえよくわかっていなかった。生きているという感覚はいつ頃から目覚めるものなのだろうか。生というのは、死と対になっている概念である。生があってこその死であり、死があるから生きていると実感できるのである。
 生きているだけではそこに価値はない。しかし、それが『生かされている』ということであれば、話は別である。自分ではない別なものの意志がその『生きている』ことの真実だとすれば、自らよく生きる努力などしなくても自然とよく生きることができるのではないか。その自然と、というのは、自分ではない他の何ものかの意志である。


 人間が生きるにはとってもむずかしい時代である。それはとりもなおさず、科学技術が発達し過ぎたからである。しかしまだわたしたちは気づいていないのかもしれない。便利で快適な社会が本当は人間にとって仕合わせな社会ではないことに。でも、考えればわかるのだということが、最近わかってきたような気がする。気がするだけで、本当はわかってなんかいない。

哲学は何の役に立つのか 西研+佐藤幹夫

西 研, 佐藤 幹夫
哲学は何の役に立つのか

 哲学とは、考えることである。そう、池田晶子さんから教えてもらった。だから正確には『哲学する』という。


 わたしは大学でドイツ文学を専攻した。30年以上も前のことだが、その当時は、「あほの経済、間抜けの法科、役に立たない文学部」というのが、まあ世間一般の学部に対する考え方だった。それでは、その当時あほでもなく、間抜けでもなく、役に立つ学部はといえば、それは理工学部というやつである。
 『役に立つ』というのは、何の役に立つのだろうか。少なくともその当時の役に立つというのは、国の物質的な繁栄の役に立つことだった。そして見事にその役に立つ人たちのお陰で日本は物質的な繁栄を謳歌するようになったのである。


 文学がそうであるように、哲学も国の物質的な繁栄のためには役に立たない。言い換えれば、『考える』ことは、国の物質的な繁栄には役に立たないとなる。日本がこんなに物質的に繁栄できたのは、日本人が考えないで猪突猛進できたからなのだ。役に立たない文学や哲学がでしゃばらなかったからである。
 今さら、哲学は何の役に立つのかといわれても哲学にしてみたら面食らってしまうことだろう。


 大学の経済を出た人が皆経済学者になるわけではないし、法学部を出たものが皆裁判官や弁護士になるわけでもない。文学部を出て文学者になるものなど皆無に等しく、そも文学者とは何ものかもよくわからない。哲学科を出たものなど、もちろん哲学者になったのは、池田晶子さんぐらいなもので、哲学者と自認したり人に呼ばれていても実際は過去の哲学や思想を学んだ人に過ぎない。


 絶対に子供に言ってはいけない言葉というのがあるそうだ。その筆頭が『役立たず』である。最近はよくわからないが、人は人の役に立つ人間になるように教えられてきた。だから、おまえは役に立たない人間だといわれることほど自尊心を傷つけられることはないのだそうだ。


 人の役に立つ、とはいったいどういうことなのか。わたしたちの若い頃は理工系の大学を卒業した人、つまり物質的な物を創る勉強をした人が役に立つ人だと考えられていた。そして『哲学する』人、言い換えれば『考える人』はその対極にいる人たちと思われていた。
 自分の経験から言えば、人の役に立つために考えるようになったわけではない。考えざるを得ない状況に陥ったから考えるようになったのである。池田晶子さんのような根っからの『考える人』ではないから、まだまだ考える初心者である。


 『人間は考える葦である。』つまり、人間は生まれながらにして考えるように出来ている。それは漏れなくという意味である。人間を人間たらしめているのは『考える』からである。


 哲学とは、哲学することであり、その哲学するとは、考えることだとすれば、哲学とは人間が人間であることを自覚する行為である。
 哲学など何の役にも立たない。しかし人間である以上、哲学しないわけにはいかないのである。人間の性なのだから。

ロゴスに訊け 池田晶子

池田 晶子
ロゴスに訊け

 池田晶子さんがお亡くなりになりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。

 この本を図書館で借りてきたのが3月2日のことである。池田晶子さんのファンであるわたしは池田晶子さんの著作物はほとんど読んでいる。が全部ではない。その一冊が図書館の棚にあった。
 わたしはもちろん池田晶子さんにお会いしたことはない。実物はもちろん、動いている姿を見たことがない。一度お会いしたかった。残念である。


 池田晶子さんの何が好きかといって、文章の凄みだろうか。論壇とか哲学会(そんなものがあるのか知らないが)に身を置く人にとっては、その凄みは「脅し」なのかもしれないが、そんなところに身を置かないサード・パーティーには、その言葉は小気味いい。
 もちろん相性もあるだろう。池田晶子さんの文章が心地よい人と心地よくない人がいる。わたしは池田晶子さんの文章を読むことは悦楽なのだ。


 「世界とは精神が言語により見る夢である。」
 「理性の本性とは、その事象の『何であるか』すなわちその『本質』を考えるということである。」
 「知性(悟性)の本性は事象を理解するためにそれを対象化して、分類、分析することである。現代の科学万能主義というのは、この知性による勘違い、己の限界を限界としないカテゴリーエラーによるものである。」
 「『考える』ということを考える、これこそが知性にはなし得ない、理性の機能なのである。」
 「理性を別名『真っ当さの感覚』と私は呼んでいる。」
 「『理性の人』とは、善美の事柄、すなわち本質を直感的に了解する健全な人という意味である。」
 「混沌に秩序を与えるのが言語である。言語が存在しなければ善美は存在しない。」
 「論理で語るなら、人は幸福を求めるから不幸になる。」
 「理解不能とわかっていることを、なお理解しようと試みるとき、『しょせん人間でしかない』われわれに残された唯一の道は、正しく妄想することではなかろうか。」


 池田晶子さんの魅力は決して媚を売らないことだった。プラトンの生まれ変わりだったのかもしれない。そしてそのこの世の使命が終わったのだ。

男と女、二つの”性”がある理由 奥本大三郎 長谷川眞理子

奥本 大三郎, 長谷川 眞理子
男と女、―二つの“性”がある理由

 今の日本は少子高齢化社会というらしい。人口のバランスとして子供より老人のほうが多い社会である。こどもの生まれる数が減って、長生きするようになれば間違いなく少子高齢化していく。先進国はどこも同じである。
 それでは、この少子高齢化のどこが問題なのか。ある意味では物質的な豊かさの象徴である少子高齢化は望まれる社会ではないのか。いや、物質的に豊かになる、戦争もない社会なのだから、そういう社会を標榜してきたのではなかろうか。
 少子高齢化のキーになるのは、『物質的な豊かさ』である。少子高齢化が続くと物質的な繁栄を続けられなくなるという意味である。そしてこの少子高齢化というのは、対の概念である。少子と高齢が対なのだ。少子でも平均寿命が男女とも75歳ぐらいならいいのだが、女性は85歳で男性が78歳まで生きてしまうから問題なのだ。かといって、この高齢化というところに政治的に介入することはできない。こども(20歳未満)には選挙権はないが、高齢者には選挙権があるのだ。
 だから、対の概念である高齢化のことは絶対に政治の世界で論議されない。論議されるのは、少子化の話だけである。しかし、今さら産めよ増やせよといわれても、お上の思うようになるわけではない。そもそもこどもを産む、産まないはお国のためのものなのか。


 「女性は産む機械」と発言した柳沢厚生労働大臣。平身低頭の大臣を一気呵成に攻め立てる民主党の女性議員。
 この世には男と女しかいない。生物学的にいえば、それは子孫を残すためである。好き嫌いに拘わらず、その子孫を残すためには、男は男の、女は女の役割がある。どんなにがんばっても男はこどもを産めないし、女も男の協力なくしては妊娠できない。

 一時期、現在の皇太子に男の子がいないために、皇室典範を改定したらどうかという論議が盛んに行われた。お世継ぎ問題である。
 テレビや映画でも『大奥』なんていうのが作られているが、いつの世でもこのお世継ぎ問題というのはあるもので、トップに君臨するのは、男でその男を操るのは女という図式は今も変わっていない。


 生物学的な見地と真反対に位置するのが精神世界的な見地だが、いわゆる魂には、男女といった違いは存在しない。葬式仏教だと、死んだ人に戒名を付ける。PIGがPORKになるわけだが、その戒名は男と女の区別がある。死んでしまえば肉体は滅びる。しかし戒名というのも、この世のものだから、別にあってもいいのかもしれない。


 ホモサピエンスというのは人間のことだが、進化論的にみて、その前はホモ・エレクトゥスというらしい。どこまで遡ればいいのかわからないが、生殖というのは、オスとメス、雌雄があることで可能となる。人間の面倒なところは、生物学的だけで捉えることができないことである。人間以外の動物は、『生きがい』とか『仕合わせ』といったことをどうも考えないようである。男に生まれて得だったとか、女に生まれて損をしたなどと考えるのは人間だけである。
 生物学的に見た時の遺伝子の違いなどというものはチンパンジーと人間でさえほとんどないそうである。専門家ではないのでよくその違いがわからないが、男と女では染色体の一部が違うそうだ。女は23番目の染色体がXXで男はXYなのだそうだ。


 最近あまりフェミニズムという言葉を聞かなくなった。男女同権主義というのだが、少なくとも日本の戦後はフェミニズム社会だから、別段社会運動として活動する必要がなかった。もちろん男社会が前提にあってのフェミニズムだから、現在でも経済活動や政治活動といったものは男性中心であることに違いはない。だから男がえらいわけでも女が劣っているわけでもない。少なくとも差別というものは、日本の社会には存在しない。


 アメリカでは民主党から出馬予定のヒラリー・クリントンが建国以来始めての女性大統領になるかもしれないといわれている。そしてもしそれが実現すれば、夫婦で大統領になったというのも始めてである。そして民主党にはもうひとり、黒人候補がいる。アメリカの大統領は今まで女性もいなかったが、黒人もいなかった。
 人類の歴史を見ると、差別の歴史であり、戦いの歴史である。その歴史というのは、人間の歴史だから、人間というのはそもそもそんなに品格のある種ではないようである。


 ラジオで聞いた話だと、人身売買で年間取引される人の数は2000万人以上いるらしい。売買というのは、買う人がいて売る人が存在する。売る人だけでは商売にならない。そして、国としてこの人身売買を禁止していない国がある。我々日本人には信じられない話である。


 人種差別、民族差別、宗教差別に性差別。どうも人は無心、無欲ではいられないもののようだ。黒人でも白人でも黄色人種でもゲルマン民族もユダヤ民族もそしてキリスト教を信じようがイスラム教を信じようが皆人間である。人の世は心で廻る。人間皆同じ心をもっている。

日本はなぜここまで壊れたのか マークス寿子

マークス 寿子
日本はなぜここまで壊れたのか

 壊れてしまったのは、日本だけのことなのか、それとも地球規模でのことなのか。
 この世の中ちょっと変である。そう思って、書き始めたこのブログも3年目に突入する。

 柳沢厚生労働大臣の「女性は産む機械」発言で国会が空転した。野党が欠席している間に来期の補正予算案が衆院も参院も与党だけで通ってしまった。与党は自由民主党だけでも遥かに過半数を超えているから、野党が何といおうとどんな法律も予算も通すことができる。
 この「女性は産む機械」という発言はそこだけたびたび引用されるから、柳沢さんがまるで女性の敵にされている。野党がこんな「おいしい」与党の大臣の失言を見過ごすはずはない。だから予算委員会ではこの話に終始する。柳沢厚生労働相を罷免しなければ、一歩も引きませんとなる。
 野党が欠席しようが、反対しようが、文句を言おうが、今の政治システムでいくと、与党自由民主党の思ったような政治ができる。だから、自由民主党が恐れているのは、選挙で負けることだけである。選挙に負けない限りにおいては好き勝手ができるのだ。今の政治における勝てば官軍は、選挙に勝つということ、選挙で過半数を維持することである。
 考え方は野党も同じで、自由民主党の自由にさせないためには、結局は選挙で勝たなければだめなのだ。民主党の小沢さんはそれをよく知っているから、何しろ、一回選挙で民主党を含めた野党で過半数を獲得することが至上命令だと激を飛ばす。しかし、民主党は寄り合い所帯だから、本気で政権を取ろうと思っている者などほとんどいないのだ。昔の社会党と同じで、野党慣れしてきて、野党で評論家に混ざって政治ゲームを楽しんでいた方がいいと思っている。


 日本をここまで壊したのはもちろん政治家の責任が大きい。しかし、その政治家は、やはりその国民の写し絵なのだ。こんなに壊れてしまった日本でもまだ多くの人は『変化』を望んでいないのだ。格差社会といわれたり、勝ち組み、負け組みといわれる社会でも、その社会システムを変えることよりも、勝ち組みに入ることに心血を注ぐ。格差社会の是正ではなく、格差の中の上に行こうと必死になる。
 
 戦後62年、団塊の世代と呼ばれた一期生が今年大量に定年を迎える。大企業のとってはその退職金だけでも大層な額になるそうで、全体の退職金の額の金融機関による争奪戦が繰り広げられるらしい。確かにこの団塊の世代の方々が今の日本の物質的な繁栄をもたらしたことは言うまでもない。しかしその物質的な繁栄には心の豊かさを犠牲にしてしまったという陰の部分がつきまとう。物質的な繁栄と心の豊かさは決してトレードオフの関係ではない。しかし物質的な貧しさにあった者にとっては、物質的な豊かさが先で心の豊かさは置き去りにされてしまったのだともいえる。または、物質的な豊かさに、心の豊かさももれなく付いてくると思っていたのかもしれない。


 物質的な繁栄が必ずしも心の豊かさを保証するものではないと実はほとんどの人たちが気づいている。気づいてはいるが、現行の社会システムに組み込まれてしまってにっちもさっちもいかなくなっているというのが現状のようだ。気づいてしまってもそこで傍と考えないで現状に流されていれば精神の病に陥ることはない。しかし、そこで考え出すと「おれは何をやっているんだ」という疑問が頭を離れなくなる。そこで一度現実の世界から離れて、非日常の世界に飛び込めると景色が変わる。
 ところがそういう人ばかりではない。気づいてしまっても現実の中で生きていかなければならない人がほとんどである。そういう人は精神だけでなく、肉体も蝕まれていく。


 本当は何もかも捨てて、裸になることである。それはいくつになっても同じで、人間なんてもともとは裸で生まれてきて、死ぬ時は何一つ持ってあの世に往くことはできないのだ。
 資本主義社会における市場経済とは、人間の欲望を糧とした社会である。そこに生きる者が皆『無欲』『無心』(拘らない心)になってしまったら社会は成りいかなくなる。それでも『無欲』『無心』になることが人としての生き方の全てである。仕合わせになりたいなら、無欲、無心になるしかない。しかし、私が仕合わせになりたいという欲望を捨てない限り、仕合わせにはなれない。この世で仕合わせになるのは結構大変なことなのだ。


妄想力 金沢創

金沢 創
妄想力 ヒトの心とサルの心はどう違うのか

 人とチンパンジーの違いは、人には妄想力があって、チンパンジーにはないことだけらしい。妄想という語感がよくないのか、どうもこの言葉はネガティブである。妄想力などというと、よからぬことを考える能力のように聞こえる。


 大辞林 第二版 (三省堂)には下記のような説明がある。

もうそう まうさう 【妄想】(名)スル
〔古くは「もうぞう」とも〕

(1)〔仏〕 精神が対象の形態にとらわれて行う誤った思惟・判断。妄想分別。

(2)根拠のない誤った判断に基づいて作られた主観的な信念。分裂病・進行麻痺などで特徴的に見られ、その内容があり得ないものであっても経験や他人の説得によっては容易に訂正されない。
「被害―」「誇大―」「あらぬことを―する」「―にふける」


 国語辞書にも確かにいい意味では載っていない。しかしいいも悪いも人間にはこの妄想する力がある。あるから人間なのである。
 犬や猫、猿やチンパンジーは、あらぬことを妄想しないし、妄想に耽ることもない。
 人間の側からみると、そんな妄想しない動物は、生きていて楽しいのかと考えてしまう。そう考えてしまうのは、人間だけで、犬や猫、猿やチンパンジーはそもそも生きていることが楽しいとか、今日の仕事は辛かったとか、明日天気になあれ、なんて考えない。まして仕合わせとは何ぞや、とか何のために生きているのか、私は誰でしょうとも考えない。
 
 妄想というと聞こえが悪いが、想像というと何だかいいことを考えているような気になる。しかし妄想も想像も同じことである。被害妄想も誇大妄想も妄想している本人にはその意識はない。想像しているに過ぎないのだ。
 筆者は言う。「妄想が未来の新しい現実をめざすものだとすれば、夢は過去の現実を整理する際に生じる副産物。共に現実と繋がりつつも現実ではない。」
 重要なのは『現実ではない』ということだ。生きているのは現実である。別名、『今』である。しかし現実も今もすぐに過去のものになってしまう。だから、妄想して未来に旅立つ。そしてその未来もいつかは過去になる。
 だから現実に生きているのは、『今』しかないのだが、観念の『今』に生きているものはほとんどいない。人間が生きるのは大変なのだ。


 人間は妄想するから人間になったのか、人間は妄想するように造られたのかはわからない。しかし、妄想するからここまでは絶滅しないで済んだらしいが、ひょっとしたら生物学的なことではなくて人間、人類は絶滅の危機を迎えているのだろう。妄想したからここまで生き延びた人類は、その妄想が過ぎたことで、絶滅を迎える。パラドクスである。

生きる意味 上田紀行

上田 紀行
生きる意味

 納豆ダイエットを扱った番組で納豆が人気を呼んでスーパーマーケットでは品薄になっているという記事があった。確かに近くのスーパーに今までなら山と積まれた納豆がほとんどなかった。
 ところが、その番組がどうもいい加減だったようで、新聞の一面にテレビ局の社長が頭を下げている写真が載った。
 昔から納豆が身体にいいことは知られている。身体にいいのだから、本当の意味でのダイエットにはいいに決まっている。しかし身体にいいからといってそればかり毎日食べるというのはどうかとは思う。
 学生の時、下宿していた友人が金がなくなると納豆とご飯で暮らしていたという話は聞いたことがある。これは決してダイエットのためではない。食費を倹約しているのだ。そしてその結果として健康な身体になったかどうかは知らない。


 喰うために生きているのか、生きるために喰うのかというのはよく聞く哲学的な問である。
 納豆ダイエットの話は世の中平和な証拠である。関西テレビの社長にとってはそんな呑気な話ではないのだろうが、テレビで納豆ダイエットの話が出されただけで、全国のスーパーの納豆売り場から納豆が消えるぐらいに売れるのだ。そのためにある納豆製造会社では増産体制を整えたばかりだという。まあ人騒がせではある。
 ダイエットというのは、食事療法のことである。決して痩せることを目的にしてはいない。ただ現代は栄養失調などという人はまず見かけない。栄養過多で困っているのだ。取り過ぎなんだから、その栄養を控えればいい話である。酒でも食事でも過ぎたるは及ばざるがごとしで、控えめがいいのだ。


 最近はサラリーマン生活と違って接待で人と飲むことなどなくなった。久々に友人同士で新年会をやることになった。テニスの後に飲んだものだから回りが速い。ホームパーティー形式だからくつろいでしまった。結局零時を待たずにダウンである。
 朝起きても頭が痛かったわけでもないし、むかついたわけでもない。さすがに食欲は全くなかった。まさに二日酔いというやつで、寝てもお酒が抜けないのだ。これは明らかに飲みすぎである。
 人間は個人差があって、その酔い方は単純にそのお酒の量と比例しない。強い人はいくら飲んでも酔わない。中にはお酒はいくらでも飲めるが酔えないという人がいる。これなら、よっぽどお酒が飲めない方がましである。
 一番安上がりなのは、少量のアルコールで酔える人である。ワイングラスにワインが三分の一で十分酔えるとしたら、ワインのボトルを何本空けてもほろ酔いぐらいにしかならない人と比べたら、酒代はたぶん100分の一ぐらいで済むだろう。
 お酒と同じで同じ物を同じだけ食べていても太る人と太らない人がいる。エネルギー効率の問題である。しかし、それは体質だから仕方がない。背の高い人もいれば低い人もいる。痩せもいればデブもいる。目の大きい人がいれば、小さい人もいる。黒人もいれば、白人もいるし、日本人は黄色人種と呼ばれている。
 競馬の騎手は、スーパーモデル並に痩せていなければならない。サラブレッドだって、デブの騎手に鞭で叩かれたくはない。相撲取りは逆である。大きい方が断然有利である。だから太れない体質の者は苦労する。無理やりちゃんこを食わされる。

 『生きる意味の不況』なのだそうだ。それは経済不況よりもはるかに深刻だと。果たしてそう思っている人がどれだけいるのだろうか。


 この世は『こころ』で廻っている。だから、経済なんかよりずっと『生きる意味』を考えることのほうが先である。経済不況より生きる意味を見失うほうがよっぽど深刻である。でもそれに気づいている人がどれくらいいるのだろうか。
 納豆ダイエットの番組を見て納豆ダイエットを始める人たちは、『生きる意味』など考えたことがあるのだろうか。自分の体重を落とすことだけが生きがいなのかもしれない。
 でも、それも生きがいである。平和な世の中だからできる芸当ではあるが、何も考えないで太りつづけるよりはましなのだろう。
 何のためのダイエットなのだろうか。健康のために決まってるじゃないの。それでは、何のための健康なのだろう。元気に働くためさ。では、何のために働くのか。生活のためだろうが。
 それではお聞きします。あなたは何のために生きているのですか。

幸福論 春日武彦

春日 武彦
幸福論

 誰でもが仕合わせになろうと思っている。果たしてそうだろうか。今、仕合わせな人は仕合わせになろうなどとは思わない。とすると、仕合わせでない人、不幸な人が仕合わせになろうとする。
 それではその『仕合わせ』、幸せ、幸福とはいったい何なんだろうか。

 『仕合わせは心で味わう感慨です。』春日先生の本に書いてあったわけではない。しかし仕合わせを一行で顕すなら、この言葉が一番わたしにはピンとくる。
 仕合わせは相対的なものである、とよく言われる。相対的というのは、絶対的ではないということだ。しかし、『仕合わせは心で味わう感慨です。』という時の仕合わせは絶対的なもののように感じる。
 仕合わせというのは、形ではない。これも皆よく知っている。金持ちが仕合わせではないし、権力を自由に操るものが仕合わせとは限らない。そう誰もが思っている。しかし、金持ちになりたいし、権力も欲しい。そして尚且つ仕合わせになりたいのだ。

 富と名声と仕合わせを別なカテゴリーとして認識しているのなら、それはそれでいいのだろう。仕合わせになることなど考えずに金儲けに勤しむ。ある意味ではすがすがしさを感じる。しかし、金儲けに勤しむ多くの人の姿が決して清々しくはみえない。
 それはなぜかといえば、金儲けに勤しむことで仕合わせを手に入れようとしているように思えるからだ。

 24(ツエンティー・フォー)というアメリカ・フォックスのテレビドラマをご存知の方は多いだろう。すでにシーズンⅣまでが上陸している。このドラマは、一日、24時間の出来事を1時間ごとに24回に分けて放送する。ひとつのシーズンとはまる一日、24時間の出来事である。
 主人公はジャック・バウアーという連邦捜査官で、CTUというテロ対策専門の機関に所属する。
 このドラマは、初の黒人大統領候補の予備選挙でその大統領候補が暗殺される計画があるという情報から始まる。すでにご覧になった方も多いだろう。もしご覧になっていないなら、FOXチャンネルで観るもよし、DVDを買っても、借りてきてもいい。
 
 仕合わせとこのテレビドラマ『24』とどういう関係があるのか。全く関係などない。このドラマの登場人物全てが仕合わせになろうなどと思っていないからだ。
 大統領になろうとするものが、私は仕合わせになりたいから大統領に立候補しましたと言っても有権者からの一票は期待できない。それでは、その大統領候補は我が身を捨てて、政治の世界に飛び込んだのだろうか。
 アメリカの大統領は日本の総理大臣などとは比べ物にならないくらい絶対の権限を有する。その大統領になりたいという野心は『仕合わせ』になることと引き換えにしてもいいだけの価値はあるのかもしれない。自分の仕合わせなど気にしないで大統領になることを目指しているように有権者に見えるから大統領になれるのである。そしてその大統領候補は自分の仕合わせを捨てたことによって仕合わせになれる。パラドクスである。

 自分が仕合わせになるためには一度自分の仕合わせになりたいという欲望を捨てなければならない。
 わたしは富みも名声も入りません。仕合わせになりたいんだ、という人は簡単である。今の自分、環境、他人を肯定することである。『今』を受け入れるのである。
 しかし、そんなことが簡単にできる人は仕合わせなど望みはしない。だって、『今』仕合わせだからである。

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
24 -TWENTY FOUR- シーズン1~4 コンプリート・パック (Amazon.co.jp仕様)