人間自身 池田晶子 | 今、考えていること

人間自身 池田晶子

池田 晶子
人間自身―考えることに終わりなく

 本当にテレビを見なくなった。昨年の5月に今まで住んでいたマンションを売って実家に戻ってきた。実家には母親が一人で住んでいた。


 マンション生活が長かった。マンションというと豪邸のようだが、まあ、集合住宅である。その集合住宅の利点は、どの部屋でもテレビという機械があれば、鮮明な画像を見ることができるということである。それが当たり前のように思っていた。
 実家は築40年にもなる一軒屋である。結婚するまでは住んでいたが、その当時は、まだ一部屋に一台テレビがある時代ではなかった。一軒に一台の時代で、その電波を受信するために屋根にアンテナを建てていた。
 アンテナだけではないが、形ある物はすべからく老朽化する。家だって40年も経てば外も内もボロボロである。母親の一人暮らしは、使う部屋は限られてくる。使わない部屋はまるで倉庫状態である。


 テレビを見なくなったのは、部屋にはテレビはあるが、室内アンテナしかないので、よく映らないからである。あえて、CATVに接続しなかったのは、それほど見たいものがなかったというのも確かにある。見たい番組は母親の部屋のテレビから録画すればいい。


 ここにも何度も書いたがわたしはテレビっ子だった。大人になってもそれは変わらなかった。どんな時でもテレビにはスイッチが入っていて映像や音が流れていた。生活の一部だった。


 テレビを見なくなって考えるようになったのか、考えるようになってテレビを見なくなったのかは定かではない。しかしテレビは人間に考えさせない道具であることは確かだ。テレビが人間を馬鹿にする、というのは正しい。わたしはそれに気づくまでに50年もかかった。だから、特に子供たちには、テレビを見ていると馬鹿になるよ、と言っているが、これは本人が気づかない限りは本気でわたしの言うことなど訊くはずがない。テレビを見ていると気づけないようにできている。テレビを見ない生活をして、気づくしか、テレビから離れる方法はないのだ。


 中毒である。テレビホリックである。ニコチン中毒とも同じである。本人がテレビを見ていたがために馬鹿になってしまったと自覚しない限り、テレビ中毒から逃れることはできない。


 馬鹿で結構、馬鹿のどこが悪い。と居直られることがある。そう、馬鹿って仕合わせなのだ。考えなくていいのは仕合わせでしょう。特に世の中は、『鈍感力』の時代である。馬鹿といわれて何も敏感に反応することはない。


 自分の頭で考える。人間は本来そのように出来ている。いい悪いの問題ではない。その本来そのようにできている人間の性(さが)を忘れさせる道具がテレビである。しかしこのテレビも一生忘れさせてはくれないのだ。ワンセグなどという携帯電話についているテレビまで登場したが、それでもいつかは自分の頭で考えなければならない時が必ず来るのだ。
 テレビだけがもちろん自分の頭で考えることを忘れさせる道具ではない。この世の中すべからくその道具に満ち溢れている。その道具を買うためにお金が使われている。その経済効果で消費社会を形成している。
 景気がよくなるというのは、自分の頭で考えない人が増えた時で、景気が悪くなるのは自分の頭で考える人が増えた時である。


 自分の頭で考えることに何かメリットはあるのか。仕合わせになれるのか?
 否である。何度も言うけれど、自分の頭で考えるのは人間としての性(さが)である。


 『著者急逝!この先を考えるのはあなたです。』
 急逝された池田晶子さんが見たら怒るに違いない。 「わたしは、あなたのために考えていたわけではありません。わたしは考えずにはいられなかっただけです。」