今、考えていること -3ページ目

がんばらない生き方 池田清彦

がんばらない生き方/池田 清彦
 未曾有の経済危機からパンデミックへと世界は、ある意味では予想通りの展開を見せています。
 経済危機の流れで言えば、これは世界恐慌で、資本主義の崩壊につながっていきます。
 「2010年 資本主義大爆裂!」という昨年2月に出たラビ・バトラさんの本には、10の予測というのが書いてありました。
2010年資本主義大爆裂!―緊急!近未来10の予測/ラビ バトラ

1.原油価格は100ドルを超えて高騰し続ける
2.「サブプライム住宅ローン危機」は再三爆発する
3.2008年、米大統領選挙は民主党の勝利
4.アメリカの大企業の破綻が続発する
5.日本の好況は2008年半ばか末まで
6.2009年に、イランが新たな中東の火種になる
7.アメリカの資本主義は数年内に終焉する
8.2009年後半から2010年前半に世界的な重大危機
9.中国にも2010年に危機到来
10.日本で新たな経済システムの胎動が起こる


 これは易、占いではありませんから、何がしかの根拠があって予測しています。今は2009年の半ばに差し掛かりました。1番から6番までの予測は見事に的中していますから、7番から10番の予測もきっと当たると考えた方が合理的です。


資本主義崩壊最終ラウンド―2009~2013 大恐慌はまだまだこれからが本番だ!/船井 幸雄

 パンデミック(世界的大流行)の流れで考えると、元は狂牛病や鳥インフルエンザになります。今までには考えもつかなかった感染症の発生です。起こるべくして起きたのかもしれないけれど、逃れることができない。


 2012年問題というのも絡んできます。フォトンベルトです。2012年12月22日に地球が次元上昇(アセンション)する?


 世界から国内へと眼を向けると、相変わらず政治の世界は混沌としています。とはいえどんなにがんばっても9月には衆議院が任期切れになりますから、このままいくと政権交代ということになります。


日米「振り込め詐欺」大恐慌―私たちの年金・保険は3分の1に削られる/副島 隆彦

 おもしろいといえばおもしろい世の中です。ただこの流れについていこうとするとしんどい世の中です。この流れについていこうとすると必然的にがんばらざるを得ません。世のほとんどの人は急流に押し流されないように必死にがんばっています。がんばっていれば、流れが弱くなってくれればいいのですが、急流が激流になってくることが予想されています。


 そこでひとつの生き方が「がんばらない生き方」になるのでしょうか。
 ひろさちやさんなども、この「がんばらない生き方」の提唱者です。

けちのすすめ 仏教が教える少欲知足/ひろさちや

 ある程度の歳を重ねてくると、がんばってもどうにもならない時があることが経験としてわかってきます。努力すれば何でもできるなどということが錯覚だとわかってきます。


 今わたしは幸せなのだろうか?たぶん人は常にそう自問自答を繰り返しているのではないでしょうか。今、どう考えても幸せではないと思えば、それは過去の幸せと比較してのことでしょう。今は幸せと思えば、それは過去の不幸よりはましだと考えているのです。


 幸せに形はありません。あなたの幸せとわたしの幸せを比較することはできないのです。
 そんなことは20年も人間をやっていればわかることですが、いくつになっても幸せ比べを始めてしまう。他人との比較を卒業すれば、自分自身の過去との比較が始まる。


 今は決して生きやすい時代ではないように思いますが、それも過去との比較の問題です。わたしの知っている過去などというものはわたしの記憶にある過去にすぎません。


脳と仮想 (新潮文庫)/茂木 健一郎

 最近は脳ブームです。そのブームに乗ったのかどうかはわかりませんが、「脳死が人の死」という臓器移植法が衆議院で可決されました。死もまた、脳で決まる時代になりましたが、その死は、脳とは関係なく昔から存在しなかったのですから、本当はそんなものは誰にも決められないはずです。しかしそんな話をしても通じる人には通じるけれど通じない人には通じない。


 テレビをほとんど見なくなって久しいのですが、別に我慢しているわけではなくて、ただ単純にテレビ番組に興味を魅かれるものがないからです。タバコを吸わなくなって5年ぐらいになりますが、そのタバコもどちらかといえば吸いたくなくなったというのが止めた理由です。


死とは何か さて死んだのは誰なのか/池田 晶子

 欲望というのは肉体を持った人間である以上生きていくためには必要なものです。欲望がなくなるとこれは神の領域ですから、この世に生きている意味がありません。


  しかし、人間が生きていく上で悩み、苦しむのも欲望があるからです。


 人間が悩み苦しむのには3つの大きな理由があるといわれます。ひとつは、この欲望です。ある程度の欲望が度を超すと悩みの種になります。ふたつめが、気質、体質、性格からくる悩みです。そして最後が喪失感からくる悩みです。世は無常ですから、形のあるものはいつかは無くなります。人も永遠に生きられませんからいつかは亡くなります。


 人間万事塞翁が馬、いつの時代もこの世は、何が幸いして、何が禍となるかは全くわからないのです。


 がんばっている人をあえて、がんばるな、とは言わないで、がんばるのに疲れた人に「がんばらない生き方」があることをそっと教えてあげるのがいいのかもしれません。



最後の「ああでもなくこうでもなく」 橋本治

最後の「ああでもなくこうでもなく」―そして、時代は続いて行く/橋本 治

 ほどんどテレビを見なくなったので、芸能関係ネタ、とりわけて、お笑い系は全くわからない。別に、わからなくても困ることはない。
 タモリのお昼の番組を見なくなって3年ぐらいになるか。


 テレビもタバコと同じで、ないならないで、全く困らないということがわかる。家に帰れば、必ずテレビを見ていた時というのは何だったのかと、今は思うが、その時はテレビが生活の一部だったのだ。

 最近の世の中でおもしろいのは、『政治』である。それも日本の政治。そのおもしろさとは、橋本治さんの言葉を借りれば、『政治が日本で一番時代から取り残されているものだから』である。
 
 思い起こせば、2001年小渕さんが総理在任中に亡くなって、森喜朗が4人組の談合で総理になるが、史上最低の支持率であえなく辞任。政界再編、政権交代の芽があったが、そこに現れたのが、自民党にとっては救世主の小泉さん。『自民党をぶっ潰す!』と言って、自民党を救ったのである。この時もおもしろかった。


 人気の小泉さんが任期満了で、その後を継いだのが安部晋三さん。確かに小泉さん時代は格好良かった。若さと毛並の良さが、韓流を好むおばさま層に持てたのだ。
 安部さんにとっては悲願の総理大臣の席である。父親は、次代の総理候補と言われながら、プリンスのまま総理になる前にこの世を去った。
 しかし、安部さんには荷が重かった。器ではなかったのかもしれない。
 そして後に登場したのが、福田さんである。しかしその福田さんもあっさり放り投げ、吉田茂の血をひく麻生太郎さんの登場となった。
 
 周りが麻生さんを祭り上げたのは福田さんが嫌がった、解散という儀式のためである。ところが、表向きは、未曾有(みぞう)の経済金融危機のためだが、解散が棚上げされてしまった。
 もちろんその時解散していれば、かなりの確立で政権は交代していただろうが、世の流れは確実に『解散』に傾いていた。
 政治のおもしろさはここからである。


 麻生さんは、端から解散する気などなかったのではないか。少なくとも、今は、どんなに世論調査で支持率が低かろうが、9月の任期満了まで辞める気はさらさらない。もちろん、自民党総裁を降りる気もない。

 そこに降って沸いてきたのが、民主党党首、小沢一郎さんの公設秘書の政治資金規制法違反容疑である。
 官僚と政治家、そして司法がそのバトルに加わったのだ。


 戦後政治の一大エポックは田中角栄が福田赳夫と争って佐藤栄作の跡を引継ぎ、総理大臣になったことと、その田中角栄がロッキード事件で現職の総理大臣として逮捕されたことである。


 小沢一郎さんは、田中派の大番頭、金丸信の秘蔵っこだった。西松建設の繋がりもその時からずっと続いているのである。


 ついアメリカと比較してしまうが、バラク・オバマはお馬鹿なブッシュの共和党から民主党に政権を奪い返した。それでは、日本はひょっとしたら、ブッシュよりもお馬鹿な麻生太郎さんの自民党から民主党は政権奪取できるのだろうか。


 いや、日本の政治はそうじゃない。自由民主党というのは、1955年の保守合同で、自由党と民主党がいっしょになってできた党である。小沢さんも鳩山さんも元はといえば、自由民主党の出身である。
 つまり、政治の世界は何ひとつ変わってはいないのだ。


 『政治は最後にやってくる。』


 本当のバトルはこれから始まる。それは政治家と官僚と司法の権力闘争である。それは三国志なんかよりよっぽどおもしろい三権分立じゃなくて、三権バトルである。




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オバマ演説集

生声CD付き [対訳] オバマ演説集/CNN English Express編
 「オバマ演説集」が日本で40万部も売れているというので、買ってみた。昨年行われた大統領選挙で第44代アメリカ合衆国の大統領に選ばれたバラク・オバマ氏の大統領就任式がワシントンD.C.で現地時間の1月20日に行われる。
 オバマさんの人気はJ.F.ケネディー以来といわれている。そのJFKは、ニューヨークの国際空港の名前になっているくらいに有名だが、そのケネディーがどのくらいアメリカ国民に人気があったのかは映画やその時の報道で知るしかない。何しろ、JFKは1963年の11月にパレードの際に狙撃されて殺されてしまったからだ。わたしが小学校3年だか4年の時である。

 アメリカの建国は1776年、イギリスとの独立戦争で勝ち取ったものである。「雛なろう」とその年号を覚えさせられた。その時の第一代の大統領がワシントンで、大統領府のワシントンD.C.の名前に残っている。D.C.というのは、コロンビア特別区のことで、コロンビアとは、アメリカ大陸を発見したコロンバスのことである。ついで、アメリカというのは、どこからきているかといえば、アメリカをアメリカと認識した人、アメリゴベスプッチの名前から来ている。コロンブスは、発見した新大陸をインドだと思っていたのだから。
 最近のアメリカは実に評判が悪い。その評判の悪さに拍車をかけたのが、昨年9月のリーマンショックである。デリバティブなどというわけのわからない金融商品を作って、インベストバンク(投資銀行)というビジネスモデルの元、世界に売りまくったのである。サブプライムなどというのは、ほんのその一部の話に過ぎない。今でも、そのわけのわからない金融商品、証券が世界にどのくらいばらまかれたのか、その総量を誰も把握できてない。
 アメリカが自国のドルを守るために金融で生きていこうと決めたその日から、実はこうなることはわかっていたことである。
 世界大恐慌の引き金は1929年10月24日、ニューヨーク株式市場の株の大暴落である。株が大暴落するためには、その前に暴騰している必要がある。アメリカは第一次世界大戦後「永遠の繁栄」と呼ばれる好景気を迎えたのである。
 それが今回は2008年9月15日のリーマンショックに変わっただけだといわれている。世界大恐慌の再来である。その引き金を引いたのはまたも金融立国を目指したアメリカである。
 そもそも金融が一人歩きし始めるなどということはあってはならないことである。

 金融とは、お金を融通することである。手っ取り早く言えば、金貸しである。その金を貸すという行為が、実体を伴ったものに対して行われるのが本来の金融である。その目的が何であれ、実体経済とセットになっていることが金融の最低限守らなければならないルールである。
 金融大国になるということは、金貸しの親玉になることを意味する。しかしそこにも最低のルールは求められる。投資をしても、投機はしてはいけないのである。
 アメリカの評判が悪いのに、こんど大統領になるオバマさんの人気は異常なほど高い。アメリカ国民だけでなく、世界の国々、日本も含めて気に入られている。WASPではない。ユダヤ系でもない。マイノリティーといわれる、アフリカン・アメリカンである。
 それまでのブッシュがあまりにも評判悪すぎた。その意味では、オバマさんはやりやすいかもしれない。比較される相手がブッシュなら、何をやってもうまく見える。
 しかし、今のアメリカは1920年代に「永遠の繁栄」を謳歌した時の力も第二次世界大戦後の復興に力を入れ、東西冷戦に敢然と立ち向かった威光もない。
 金融立国を目指したくせに、財政破綻と貿易収支の赤字ですでに首が廻らない状態である。

 そんなアメリカをオバマさんは何とかできるのだろうか。イラクからの撤退はすでに命じたと伝えられる。
 演説の中でも、オバマさんは、中東産原油依存から10年以内に脱っするのだという。そして原油依存体質からも抜けていくのだと。
 
 2004年の大統領選挙の時は、まだ一地方議員だったオバマさんが、4年後には大統領になれる国。それがアメリカという国である。
 1929年の世界大恐慌に立ち向かった大統領として有名なのが、32代目の大統領フランクリン・ルーズベルトである。ルーズベルトの推し進めた「ニューディール」政策がアメリカの恐慌を立ち直らせたといわれている。
 また、日本にとっては、もし、ルーズベルトが1945年4月12日、脳卒中で亡くならなければ、8月の原爆投下はなかったかもしれないといわれている。歴史に「もし」は通用しない。しかし、ルーズベルトは歴代2位の人気を博した大統領だったのである。
 それでは、アメリカの大統領人気ランキング一位は誰かといえば、それはもちろん第16代のリンカーンである。今のアメリカがアメリカでありえるのは、南北戦争でリンカーン率いる北軍が勝ったからである。そして黒人が奴隷から開放されたのもリンカーンがいたからである。
 
 オバマさんは、リンカーン、ルーズベルト、そしてケネディーを尊敬している。そして自らをその後継者だとしている。カリスマ性は抜群である。英語の不得意な日本人がその演説集を40万人が買うのである。それこそカリスマ性の証明ではなかろうか。
 CHANGEもYES,WE CANも英語だから、格好いいのである。日本語に訳すと何だかピンとこない。そもそも日本人にも、日本語にも演説は苦手なのである。
 第44代アメリカ合衆国大統領の就任式が後数時間で始まる。何だかワクワクしているのは、きっと私だけではないだろう。日本のテレビ局も異例だろうが、生中継を予定している。
 テレビで見るには、NHK,NHK衛星、その他民放でも予定されている。
 より現場に即してというなら、ケーブルテレビのCNNjあたりがおもしろいと思う。
 ラジオで聞きたいというなら、昔のFEN,今はAFNと呼ばれる、米軍の基地からの放送で生放送される。
 そして、テレビやラジオじゃなく、ネットで見たいんだという方にお勧めは、「ライブステーション」がいい 。専用のアプリをダウンロードしなければならないが、日本の中でネットで生で見るためには、これがいいようだ。
 「オバマ演説集」というのは、この歴史的なオバマさんの大統領就任式を愉しんで見るための資料である。このオバマ演説集をある程度マスターしておけば、彼の話す英語もわかるはずである。

英語で聞く、英語で読む ! オバマ「変革」の時代 2009年 01月号 [雑誌]


人生は愉快だ 池田晶子

人生は愉快だ/池田 晶子

 初のアフリカ系アメリカン大統領が誕生した。


 アメリカ合衆国の建国は1776年のことである。一代目の大統領はご存知ジョージ・ワシントン。そして南北戦争で勝利した第16代の大統領エイブラハム・リンカーンは奴隷解放政策を打ち立てる。いや、そもそも奴隷開放政策なんて言い出したもんだから「人歯むいていがみ合う」(1861)ことになった。


 人を肌の色で差別してはいけない。人を宗教の違いで差別してはいけない。そんなことは誰でも知っている。


 「なぜ、人を殺してはいけないのですか?」


 素朴な疑問に答えられない時代である。


 「リベンジ」


 嫌な言葉である。報復とは負の連鎖で、必ず報復合戦となる。9.11のテロに対して、その主謀者の犯罪を暴き、テロの撲滅を図る目的でアメリカ軍はアフガニスタンに侵攻した。


 44代目となるアメリカ合衆国大統領は、43代目のブッシュが始めたイラク戦争から撤退しようとしている。それはイラク戦争が国益という天秤に掛けたとき、それに見合わないとわかってきたからである。
 投資銀行(インベストメント・バンク)というビジネスモデルが崩壊したのも、アメリカの国益より、一部の人間の利益の方が勝ってきたからである。


 アメリカの国益と一部の人間の利益。


 グローバル経済とは、別名国境なきハイエナ経済である。金のあるところならどこでも参上して、その富を吸い尽くす。


 1929年以来の世界大恐慌が始まろうとしている。と、世の中は慌しい。それじゃなくても11月、12月なんていうのは慌しいものである。と考えると、別に今とりわけて慌しいわけではないのではないか。慌しいと思っているだけ。誰が。
 
 すわ一大事と思っても、その一大事とはいったい何が。よくよく考えると、何も変わっちゃいない。少なくともわたしは。


 実際にはお会いしたこともないし、お話したこともない43代アメリカ合衆国大統領は、マイケル・ムーアの映画や、新聞、雑誌、メディアで報道される限りは、あまり頭のよろしくない方のようである。たぶん「おばかな」大統領ということでは歴史にその名を残すことだろう。


 とはいっても、イラク戦争、金融危機やその他もろもろのアメリカの失点をすべてブッシュに被せてしまうのも大人気ないのではなかろうか。


 アメリカの大統領を日本人が選ぶことはできないけれど、小泉さんは、ブッシュとは仲良しだった。
 国民を超える指導者など登場するわけがない。というのが長い(短い?)歴史の箴言である。選挙制度に問題があろうと、若干のインチキはあったのかもしれないが、少なくとも4年前にはアメリカ国民はブッシュを大統領に選んだのである。
 衆議院が自民党の独壇場になったのは、前の選挙で日本国民が郵政民営化の小泉さんを祭り上げたからである。


 さて、新聞、雑誌、テレビ、ラジオにインターネットといったメディアが広がると、どんな山奥で隠遁生活をしていても下界の一大事が耳に届く。
 もちろん山奥で隠遁生活ができるようなリッチな人がそうそういるとは思えない。そしてそういうリッチな方は、そも一大事などとは考えていない。
 山奥で隠遁生活ができない一般庶民はこの一大事にどうしたものか。


 時は、2008年の暮れ。この世がアセンションという流れの中に入るのは4年後のことである。


 フォトンベルトじゃなかったの?
 フォトンベルトもアセンションも単なる記号である。2012年の別名かもしれない。金融危機も、政権交代も大恐慌も一大事ということでは同じ記号である。それでは何が一大事なのか。誰が。どうして。


 最近ひとつわかったことがある。長生きはするものである。


 「思いは実現する」


 マーフィーの法則である。実現することを思うのである。


 「人は幸福を求めるから不幸になる」


 これも実は立派なマーフィーの法則なのだという理屈を教えてくれたのは池田晶子さんだった。


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 世の中が慌しくなってきた。「経済不況」「経済恐慌」といった言葉がメディアに飛び交っている。「サブプライムローン破綻」などというわけのわからない言葉がくしゃみをすると日本が風邪をひいてしまうアメリカから飛び込んできたのは昨年のことだった。


 サブプライムローンとは、信用力の低い借り手に対する住宅ローンである。「低所得者向け」なんていう言葉の通り、普通なら貸したくない借り手にローンを組むのである。
 貸したくない相手に貸すのだから、言ってみれば貸したけれど返してもらえないリスクが高い相手だから、それが慈善事業でない限りは、貸す側に何らかのメリットがなければならない。


 そもそもこのサブプライムローンというのが、何故誕生したかといえば、不動産バブルがあったからである。不動産バブルで儲かるのは当然建築業と不動産業である。そしてもちろんその建築業や不動産業に融資する金融業が儲かる仕組みになっている。
 不動産バブルとは不動産の価格がうなぎのぼりに上昇することを意味する。サブプライムローンとはそのうなぎのぼりに上昇する不動産価格を前提に組まれたローンである。不動産価格が上昇する限りは、借り手の信用力など全く必要とはしないのだ。犬でも猫でもいいとはいわないが、必ず上昇するであろう不動産物件を100%ローンで貸し付けてもその担保となる物件は購入時より価格が上昇していれば、返済されなかったらその物件を差し押さえてしまえばいい。借りる側にしても、価格が上昇する物件なら借り換えればいいことである。


 つまり、サブプライムローンそのものが、不動産バブルに便乗した金融商品といえなくもない。
 不動産バブルで、建築業者や不動産業者は銀行からじゃんじゃんお金を借りて新しい住宅を作りつづけた。そしてサブプライムローン会社はじゃんじゃん信用力の低い借り手に貸し続けたのである。
 しかし、どんな世界でもうなぎ上りに価格が上昇し続けるなどということはあり得ない。価格の上昇が止まり、下落するのである。必ずバブルの崩壊は起こるのである。
 不動産バブルが崩壊すれば、それありきのサブプライムローンなど吹っ飛んでしまうのはことの必然である。
 フレディーマックやファニーメイといったサブプライムローン会社が破綻したのは当然の成り行きといえる。


 しかし、不動産バブルの崩壊とそれに伴うサブプライムローン会社の破綻だけなら、世界の金融市場にこれほどの影響をおよぼさなかっただろう。
 リーマンが破綻し、インベストメント・バンク(投資銀行、證券会社)というビジネスモデルが崩壊することもなかったはずだ。

 金融業界とはどこまでもお金に対して貪欲である。その貪欲な金融業界の代表がメリル・リンチ、モルガン・スタンレー、ゴールドマン・サックス、リーマン・ブラザースやベア・スターンズといった投資銀行である。
 日本だと、上記5社を全米大手證券会社と呼んでいた。1997年の金融ビッグバンですでに日本でも銀行、生保、証券、損保といった金融業の垣根はなきに等しい。銀行とサラ金の垣根さえ今はもうないのだ。銀行が単なるお金の貸し借りをやっているわけではなく、證券会社が株の売買の仲介をしているだけではない。


 サブプライムローンが崩壊して、どうして生保、損保のAIGが危機に陥るのかと普通は思う。しかし、先に書いたように、すでに、金融業界は何でもありありの世界に突入していたのだ。
 そもそも金融業の走りは生命保険である。人の命に値段をつけたのである。


 「証券化」という言葉を聞いたことがあるだろう。サブプライムローンでいえば、大量のローン債権を集めて、それを切り分けて小口にして売るのである。その『証券化』を仕組んだのがいわゆる投資銀行である。


 キャッシュフローで観てみよう。住宅を建てるにはお金が必要である。建築業や不動産屋にまず金が動く。借金して住宅を建てれば、売ってその資金を回収しなければならない。
 この住宅の買主は、資金の全額をサブプライムローン会社から借りることになる。
 わかりやすいように、サブプライムローン会社が建築業や不動産屋に融資して、住宅の買主にもローンを組めば、キャッシュフローだけでみれば、サブプライムローンから出たキャッシュがまたサブプライムローン会社に戻っただけである。
 住宅価格がうなぎ昇りに上昇している不動産バブルならば、そのお金の流れは、動くごとに増えていく。
 サブプライムローン会社も取引が増えれば、より多くの資金を必要になってくる。資金の調達方法はもちろん銀行から借りるという手はあるが、銀行も何もなしではお金は貸さない。担保ということでは、サブプライムローン会社がもっているのは、貸し出したローンの債権だけである。担保は不動産ということになる。
 借りたものは返さなければならない。それも金利をつけて。それならいっそ貸し出したローン債権を売ってしまえばいいだろう。価格の上昇が見込まれる不動産が担保についている。
 端っから、サブプライムローン会社は金利の利ざやで収益を上げるというビジネスなど考えていない。住宅バブルで住宅価格がうなぎ昇りに上がるのだから、貸す相手は誰でもよくて、金を貸すことによる手数料を巻き上げることで収益を上げるのだ。だからローン債権を担保に金を借りるより、ローン債権は売り払ってしまったほうがいいのだ。もちろん売るためには買い手が必要である。


 そのローン債権にたくさんの買い手を作る手法が『証券化』といえる。
 つまり、その実体はどうでもいいのだ。住宅ローン債権だろうと、クレジット支払の残高の債権だろうと、買い手のつく、買い手が買いたいと思うような『証券』に仕立てるのが、投資銀行なのだ。


 「証券化の最も本源的な機能とは、『原資産を金融商品に変質させる』メカニズムであり、これによりリスクは本質的に変質するのである。」


 サブプライムローンの破綻が単に不動産バブルの崩壊によるサブプライムローン会社の破綻だけに終わらなかったのは、サブプライムローン債権が優良な金融商品に変質されて、AAA証券として世界の投資家にばらまかれたからである。


 やっと米国の『金融救済法』が下院でも可決されたにも拘わらず、NY株は先週末より580ドルも値を下げて、1万ドルを割ってしまった。
 ドルも急落して、一ドル100円代を付けた。


 何しろ、この世の中、わからないことが多い。わからないことが多いのは悪いことではないと思う。わからないから、人は考えるのである。


 サブプライムローンなんて、銀行か證券会社か、それこそサラ金にでも勤めてなければ、知らないで済んだ言葉である。それが、世界を『恐慌』の危機にまで追い込んだ張本人となると、知らないではいられなくなってきた。

 『世界大恐慌』というのは、1929年、10月24日の株の暴落から始まったとされるが、いやいや、本当の『世界大恐慌』の発端はオーストリアのクレジットアシュタルト(ロスチャイルド家の銀行)の破綻からだという説もある。


 恐慌というのは、突然なるわけではない。1929年の世界大恐慌にしても後付けではあるかもしれないがそうなった理由が存在する。それまでのアメリカはわが世の春を謳歌していたのである。


 もし、これから世界大恐慌に向かっていくとすれば、そうなるべく理由があるのだ。
 サブプライムローン破綻がその発端なのかもしれないが、サブプライムローンだけの理由で世界恐慌になったとするには、世界の経済界はあまりにもナイーブ過ぎる。いやひょっとしたら、そんな脆弱な基盤の上にアメリカ経済は立脚していたのかもしれない。


 折りしも、アメリカでは大統領選挙の真っ只中である。そして日本でもいつ麻生さんが衆議院を解散して選挙に打って出るかは秒読みの段階に来ている。
 アメリカの大統領選挙はオバマさんの民主党が若干優勢と伝えられるが、これから戦争経済に突入せざるを得ない状況で、オバマ民主党が勝つことなどあり得ないと豪語する方もいらっしゃる。
 日本も同じで、選挙になれば、失点続きの自民党が小沢民主党に政権が移るのではないかと思われているが、絶対に民主党が政権を握ることはないとおっしゃる方もおいでになる。


 サブプライム問題にしても恐慌の話も、言葉の問題ではなく、これから、アメリカは、世界は、日本はどうなっていくのかがみんなわからないでいる。つまり、どうなって欲しいというのではなく、どうなってしまうのかという関心である。

 1990年にソ連邦が崩壊して資本主義との対立軸としての社会主義、共産主義といった社会体制が終焉を迎えた。しかし、それは資本主義の勝利ということではなく、単に資本主義が残ったというだけのことである。
 そして2010年までに残った資本主義も崩壊するだろうと言われ始めている。


 北京オリンピックも終わり、中国バブルが弾け、2010年の上海万博を待たずに世界同時不況に突入しようとしているのだろうか。


 株式投資、FXは、どんなに格好をつけていっても、所詮ギャンブルである。ギャンブルは、必ず胴元が儲かるようにできている。しかし、その胴元が潰れてしまえば、そのギャンブルそのものが成り立たない。
 金融工学を駆使した、デリバティブという博打(ギャンブル)は、その胴元である投資銀行が破綻してしまった。
 ギャンブルに参加していた人たちにとっては大事である。FX取引でお金を積んでいた業者が潰れたのと同じである。しかし、所詮はギャンブルだから、それはあり得るのだ。
 サブプライムローンも証券化した時点でギャンブルになったのである。


 破綻したリーマンのCEOの昨年の報酬がプロスポーツ選手も真っ青な金額だとか。それは、どこの金融機関でも同じことである。お金が商品である金融機関の仕事はずばり、お金を増やすことである。そのお金を増やす方法、錬金術が現代は金融工学を駆使したデリバティブだった。金融工学という考え方は、さる高尚なノーベル賞受賞者のものらしい。


 株もやらなければ、もちろん金融商品にも、FXにも手を出していない人たちがほとんどなのに、欲に目の眩んだ拝金主義者たちが破綻したからといって、どうして公的資金で助けなければならないのか?
 と考えるのは、アメリカ国民も同じである。そしてたとえ一国のGDPに匹敵するような巨額の公的資金を投入したところで、世界の金融界は元には戻らない。デリバティブというギャンブルの底が割れてしまったからだ。


 富むものはもっと富、貧しいものはもっと貧しくなるような社会はやっぱりおかしいのである。


 「すべての経済はバブルに通じる」
 しごく名言である。われわれの経済活動は必ずバブルを引き起こす。そしてそのバブルは必ず崩壊するのである。


参考文献

恐慌前夜/副島 隆彦
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2010年資本主義大爆裂!―緊急!近未来10の予測/ラビ・バトラ

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日本人の良識 ひろさちや

日本人の良識 (アスキー新書 57) (アスキー新書 57) (アスキー新書 57)/ひろ さちや
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 英国のアパレル会社「スピード」(SPEEDO)社が開発した『LZR RACER』という競泳水着が世界水泳連盟の認可を得たのがいつのことかはわからないが、そのLZR RACERという水着を着用した選手が世界新記録を連発した。


 慌てたのは、日本水泳連盟である。スピード社の競泳水着が公認されていなかったからである。
 もちろんその公認されていなかったのには理由(わけ)がある。昨年までは『ミズノ』がスピード社と販売契約を結んでいた。しかし現在のスピード社の販売は『ゴールドウイン』である。
 日本水泳連盟の公認企業は『ミズノ』『アシックス』『デサント』の3社だから、必然的にスピード社のLZR RACERを日本の選手が着用することはできない。


 結局すったもんだはあったが、世界の『常識』に合わせて、日本水泳連盟は、日本選手にLZR RACERの着用を認めることになった。めでたし、めでたし。


 あるラジオの番組で、どなたが言ったのか忘れてしまったが、
 「あの水着は着るドーピングです。」
 そう断言しておられた。


 あの水着とはもちろんLZR RACERのことである。全くその通りだと思っているひとりだが、そんな言葉が、テレビや新聞に流れることがないのも不思議である。


 海外の競泳水着のメーカーが画期的な商品を開発した。その画期的商品とは、その水着を着用すれば誰でもが自分の実力以上に速く泳ぐことができるものである。スピード社では2005年5月から数百万ポンド(スピード社は元々はオーストラリアの会社だが、現在は英国のペントラント社の配下にある)をかけてNASAなどの協力を得て開発してきたのだという。


 もちろんどんな水着を着てもいいわけではない。「推進力や浮力を与える用具」であってはならない。また、『素材を含め水着表面に高速化のための加工を施すこと」は禁じられている。
 世界水泳連盟も今年の各国での国際大会でLZR RACERを着用した選手が世界新記録を連発したことから、調査に乗り出した。しかし、現在の世界水泳連盟の規約に抵触していないと結論したのだ。


 世界の『常識』はLZR RACERはたいしたものだ、ということである。オリンピックで勝つためには、LZR RACERを着ていなければ叶うはずがない。だから、日本も日本水泳連盟の公認が取れていようがいまいが、選手にLZR RACERの着用を認めた。公認3社、『ミズノ』『アシックス』『デサント』も高い公認料を払っているのに、公認料を払ってない『ゴールドウイン』の扱うLZR RACERにOKが出てしまったことがおもしろいわけではない。しかし、世の中の『常識』に逆らうことなどできようか。ここは太っ腹なところをみせるしかないのだ。


 オリンピックの水泳はまさにLZR RACERの品評会になるのだろう。LZR RACERの水着を着ていない選手が優勝すれば、それが大ニュースになる。
 注目されるのは、NIKEとADIDUSの動向である。LZR RACERを超える水着を開発してくるのか?この世界には入り込まないのか?


 『勝てば官軍、負ければ賊軍』だから、勝つためなら手段は選ばない。日本水泳連盟がオリンピック代表選手にLZR RACERを着用してもお咎めなし、と決めたのは、LZR RACERを着なければ勝てないと判断したからである。少なくとも、優勝する実力のある北島選手がLZR RACER以外の水着を着て負けたら、日本水泳連盟は袋叩きに合うと思ったに違いない。


 やっぱり何かおかしくはないだろうか。『極薄、超軽量、撥水性に優れている』そこまではいい。しかし、身体をシュリンクさせてしまうのだ。水の抵抗を10%減らせるらしい。身体をシュリンクさせても今までと同じように動けるような素材なのだろう。それが技術力といわれればそれまでだが、それまでして速く泳ぐ必要性がどこにあるのか。そう考えるのが『良識』というものではあるまいか。


 今や、『良識』が通じない世界になっている。
 参議院で福田首相に対しての問責決議が可決された。しかしそんなものは法的根拠などないというので、自民党は無視を決め込んだ。逆に衆院では内閣信任案なるものを提出して可決された。


 衆議院で絶対多数を自民党が占めていることで政治的には今は自民党の天下である。野党がどんな真っ当なことを言っても、自民党が衆院を解散して総選挙するはずがない。つまりこれが『常識』である。折角決められた規則で、来年の9月までは自民党の天下であるのに、それを投げ出す必要などないのだ。今、解散して総選挙になれば、自民党が負ける確率が高い。そう自民党も思っているから解散できないのだ。つまり国民に信任されているなどとは自民党の誰もが思っていないのだ。


 『良識』などといっていたら、この世の中渡っていけないよ。そういう声がいろいろなところから聞こえてくる。でも、こんな世の中、渡っていく価値があるのだろうか。LZR RACERを着てまで勝つ意味があるのだろうか。


参考文献


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「いいかげん」のすすめ/ひろ さちや
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世間も他人も気にしない (文春新書 640)/ひろ さちや
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感謝するということ ノエル・C・ネルソン ジェニーん・レメーア・カラバ

感謝するということ―もう、ひとのせいにしない/ノエル・C. ネルソン

 生まれる時も死んでいく時も人間ひとりである。それは、インターネットの集団自殺でも愛するもの同士の崖からの飛び降り自殺も同じことだ。
 人はひとりで生まれてひとりで死んでいくが、ひとりでは生きていけない。


 感謝して生きるための10の法則が示されている。感謝しながら生きていくとどんないいことがあるのか?それは各自が実践して掴んでもらうしかない。確実なことは、感謝しながら生きたために変な副作用が出る心配はないということだ。


1.感謝は波動であり、力であり、エレルギーである。


 感謝というのは、物事を大きく捉えた時の心の状態である。そして心というのは、魂と体の間にある波動である。


2.私たちは波動的な存在で、ある種の周波数の波動を放っている。


 波動について興味のある方は、足立育朗さんの書いた『波動の法則』をご覧下さい。


3.波動は、主として思考や感情から成り立つ。


 最近は、『思考は実現化する』ナポレオン・ヒルの本を読まなくても精神世界では常識になっている。それもこれも思考や感情が波動であり、そもそも人はみな波動的な存在だからである。


4.思考や感情は、人生体験に影響を及ぼす。


5.思考は選択できる。思考が変化すると感情も変化する。


6.意識的に注目しつづけると、その物事はすべて大きくなっていく。


7.何かまたは誰かに感謝すると、私たちはそのものや人物と波動的に一致する。


8.自分を何かと波動的に一致させると、それをもっと自分に引き寄せ(類は友を呼ぶ)、願いを実現することができる。


9.自分にないものと自分を一致させることはできない。憎しみの中にいて、愛と自分を一致させることはできない。


10.相手に感謝されなくても、自分から相手に感謝することはできる。


波動の法則―宇宙からのメッセージ/足立 育朗


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観念的生活 中島義道

中島 義道
観念的生活
 哲学者というのは結構憧れる響きがある。前にも書いたが、哲学、宗教、精神世界の中では、哲学は格段に敷居が高い。哲学も宗教も精神世界も一生必要ないでいられるならそれに越したことはない。ところが、物心つかないうちにあっけなく死なない限り、「わたしはいったい誰でしょう?」という問を発することになる。

 わたしの経験から言えば、そういった問に遭遇するのは、若ければ若いほどいい。が、それは人それぞれで、わたしのように人生の後半に遭遇することもある。
 問題はその問をどう昇華するかにかかっている。つまり問が生まれたから考えざるを得ない。問は思考の原点である。
 中島先生は、哲学者の条件を次のように言っている。
 「真正の哲学病患者であって、かつそれを精緻な言語によって表現する能力、すなわち個人的な実感を普遍的な論理に乗せて語る能力が必要になる。」
 誰でもが哲学者になる素質は持っている。しかし、今の社会で真っ当な生活を志す人間は、哲学者になれない。確かに、哲学者といわれる人間で『真っ当』な人間を知らない。もちろん何を『真っ当』というかという疑問は残る。そして『幸せ』とは無縁である。その『幸せ』とはいったい何かという問はちょっと端に寄せておこう。
 哲学も宗教も精神世界もそこで求められているのは『救済』である。三つの中でもっとも敷居の低いのは精神世界である。言葉を換えれば、精神世界に救いを求めて、そこで癒されると感じられるうちは、まだ十分社会生活を営める精神状態だといえる。そしてそれが、悪徳でもカルトでも宗教団体に所属して精神の安定が図れるなら、それもまだ社会生活に対応できる能力を残している。
 精神世界や宗教で自分を取り戻したり、癒されたり、救われてしまう人は、決して哲学者にはなれない。つまり、『真正の哲学病患者』は、精神世界や宗教では救ってもらえない人のことである。
 アカデミズムの中で哲学を教えている人を哲学者と呼ぶのではない。もちろん大学で哲学を学んだ人を哲学者などと誰も呼ばない。哲学者はなりたくてなるものではない。真っ当な人が哲学者になりたいなどと思うはずがない。
 と考えると哲学者と呼ばれる人は哲学者にならざるを得なかった人たちということになる。それはつまり端から敷居などなかったのだ。
 池田晶子さんが亡くなられたのは昨年の2月23日のことである。哲学者らしい哲学者だった。しかし、哲学者とは決して名乗らなかった。文筆家というのがその代わりだった。

 宗教だという宗教を信じないことにしている。それと同じように、哲学者と名乗る哲学者を信じないことにしている。これはわたしがこれまでの人生の中で学んだことである。

中島 義道
「死」を哲学する (双書哲学塾)
中島 義道, 加賀野井 秀一
「うるさい日本」を哲学する
中島 義道
哲学者というならず者がいる
中島 義道
どうせ死んでしまう・・・・・・私は哲学病 (私は哲学病。)

人が死なない理由 牛込覚心

牛込 覚心
人が死なない理由(わけ)

 人はこの世に生まれ、そして必ず死を迎える。生まれたこの世は、物質世界で、人は肉体を纏って生まれてくる。


 この世は物質世界だから肉体が必要であり、肉体は必ず滅びる。人の肉体が滅びることをこの世では「死ぬ」と表現する。
 この世があるのだからあの世があるに違いない。この世が物質世界ならあの世は非物質世界ということになる。この世では人は肉体を必要とするがあの世は非物質の世界だから肉体を必要としない。
 肉体はこの世だけのもので、人の全てが肉体なら人にはあの世は存在しない。
 人はこの世に生まれてくる。それはあの世からの転移である。とすれば、ひとが死ぬということは、あの世への転移となる。


 仏教思想の根本は「輪廻転生」という「生死のメカニズム」である。この世においては、生死のメカニズムだが、あの世から見れば「転移のメカニズム」になる。この世での「生死」というのは、人の肉体である。人の誕生日とはこの世に肉体が生まれた日で、命日は人の肉体が滅びた日である。
 人の全てが肉体なら、死によって、人の全てが消滅する。存在がなくなる。しかし、仏教思想においては肉体が全てとは考えない。この世で滅びるものは、肉体で、あの世に転移するものがある。この世に生まれることがあの世からの転移だから、この世の死は、あの世への帰還ともとれる。


 それでは、あの世とこの世を転移するのは何なのか。
 仏教では、「識」、「受想行識」の「識」で、現代語にすれば「心」である。精神世界では、「魂」とか「霊魂」だろうか。


 実は、物質世界のこの世も実体のない「心」で廻っている、というのが仏教の核心である。
 「生」があるから「死」がある。しかし「死」には実体はない。われわれが見ているのは、「死体」で、それは「死」ではない。


 この世もあの世も実は垣根などないのではないか。それは、物質世界と呼ばれる「この世」に生きていると思っている、その「心」は、今、ここでも、「あの世」に往くことができる。


 「生と死」の問題は、「わたしは誰」よりもずっとわかりやすい命題である。永遠の中の「心」が物質世界での「死」を経験したときに、必ず解けるからである。


柳澤 桂子, 堀 文子
愛蔵版DVD BOOK 生きて死ぬ智慧 (小学館DVDブック)

運命におまかせ 森田健

森田 健
運命におまかせ ~いつも幸せを感じるあなたに~

 重力について調べていたら、アインシュタインの相対性理論を調べて、量子力学に、そして超ひも理論まで跳んだ。
 朝6時に起きるとまだ日の出前で月が煌煌と輝いて星まで見える。


 地球は太陽の周りを一年掛けて廻る。地球が廻っていることをコペルニクスは発見した。月は地球の衛星で地球の周りを27日7時間43.7分かけて廻る。月も地球と同じように自転しているが、その自転は公転とほぼ同じ速度だから、地球から見える月の表面はいつも同じということになるらしい。そこで地球からは観測できない月の裏側を調べるために『かぐや』の出動となったらしい。


 我々が住んでいる地球は太陽系第3惑星と呼ばれ、太陽から3番目に近いところを廻っている。太陽までの距離はアバウトだが15000万kmあるから、太陽の光は地球上に降り注ぐのには500秒、約8分20秒かかる計算である。


 地球が出来て約43億年、宇宙ができて約137億年といわれているが、誰も地球のできるところを見たわけではなく、もちろん宇宙が膨張を続けているのを見れるわけでもない。


 人類についてもそれほどわかっていることはない。6500万年ぐらい前に哺乳動物の霊長類が出現したことになっているが、何故、出現したのかはわかりようもない。宇宙や地球の誕生と同じく、人類の生い立ちも実は誰にもわからないのだ。わからなくてもここにこうして人類は65億にもなって地球で生きている。


 ここにこうして『私』は生きているというのが事実である。どうして『私』はここにこうして生きているのかはわからない。それは、宇宙のおいたちも地球のおいたちも人類のおいたちもわからないのだから、『私』のおいたちがわかるはずがないのだ。


 わかるはずがないものを知りたいと思うのはやはり本能である。確かに知ったからどうだといわれれば、それまでである。地球が廻っているといって磔になる時代ではなくなったが、知っていようが、知っていまいが、真理は変わらない。
 人はその真理、変わらないモノを知りたいのだ。多数決で決まるようなことを知りたいわけではない。


 「運を天に任せる」という言い方がある。運命を天に委ねるということである。もし、運命というものがすでに定まっているもの、生まれた時から決まっているのであれば、そしてその運命を授けてくれたのが、天であるなら、その運命を天に委ねることがもっとも正しい生き方である。もちろんその授けてもらった運命が『いい運命』でなくては困ってしまう。しかし、たとえそれが『いい運命』でないとしても天が授けてくれた運命であるなら、その天にまかせるのがやはり得策といえる。天はやみくもに運命を授けないからである。


 人類はひょっとすると思い違いをしているのかもしれない。いや、いい直そう、最近の日本人は、と。
 わたしが今、ここに存在するのは、父親と母親のセックスの結果である。
 今、この世に生きている人間の全てが男女のセックスで生まれてきたことは事実である。だから、人間は人間が創りあげたものだと錯覚しやすい。自分は父親と母親とのセックスによる産物だと思うと、その創造主は父親と母親ということになる。その創造主である両親を尊敬するとまではいかなくとも、それなりに敬意を表せるのであればいいが、殺したいほど憎むような存在だったらどうだろう。
 自分の存在が許せなくなってしまうのも無理はない。


 しかし、よく考えれば、人間を造ったのは人間ではない。少なくとも人間以外のものが創ったことはわかる。それが、神と呼ばれたり、宇宙と呼ばれたり、大いなるもの、サムシング・グレイトと呼ばれたりする。
 この世に存在するもの全てがこの大いなるものが創ったことは間違いない。草木花などの植物もバラはバラとして咲いたり枯れたりするが、それは永続している。それではそのバラはバラが創ったとはバラも考えてないし、われわれ人間もそうは考えない。


 人間以外のものは、誰もそのものが創ったとは考えないのに、人間だけは、人間が創ったものと勘違いしているところに、この世の不幸がある。


 何故、人類が存在して、地球が存在して、宇宙が存在するのかはわからない。わからないが宇宙も地球も人類も今、ここに存在するのも事実である。


 事実は受け入れるしかない。そして私の肉体は父親と母親とのセックスによる産物かもしれないが、私の運命を定めたのは父親でも母親でもない。もちろん隣のおじさんでもない。


 運命にまかせる。運命に委ねる。運命に抗わない。運命を信じるのとは違う。信じようと信じまいと運命は定まったものだからである。