もうひとつの愛を哲学する アラン・ド・ボトン | 今、考えていること

もうひとつの愛を哲学する アラン・ド・ボトン

アラン・ド ボトン, Alain de Botton, 安引 宏
もうひとつの愛を哲学する―ステイタスの不安

 『愛』というのも、『幸せ』と同じくらい、わからない言葉である。

あい 【愛】

(1)対象をかけがえのないものと認め、それに引き付けられる心の動き。また、その気持ちの表れ。

(ア)相手をいつくしむ心。相手のために良かれと願う心。
「子への―」「―を注ぐ」「―の手をさしのべる」

(イ)異性に対して抱く思慕の情。恋。
「―が芽生える」「―を告げる」「―をはぐくむ」

(ウ)何事にもまして、大切にしたいと思う気持ち。
「学問に対する―」

(2)キリスト教で、神が人類を限りなく深くいつくしむこと。

→アガペー

(3)〔仏〕 人や物にとらわれ、執着すること。むさぼり求めること。渇愛。

(4)他人に好ましい印象を与える容貌や振る舞い。あいそ。あいきょう。
「阿呆口たたけば、夫が―に為つて/滑稽本・浮世風呂 4」


 大辞林 第二版(三省堂)には、上記のように載っている。


 概ね、『愛』はポジティブな言葉である。しかし、中庸を尊ぶ仏教においては、『愛』も度を越せば、『渇愛』となって、決して好ましいものではなくなってしまう。

 コムスンという介護をビジネスにする会社が不正をしていたということで、親会社のGWGはその子会社のコムスンを売却することにした。
 最近あまりテレビを見ないので、GWGの会長だか、社長がテレビに出て、やたらと頭を下げていたというニュースをラジオで聞いた。
 「介護ビジネス」を食い物にした、という批判である。
 GWGの社長だか、会長は、昔『ジュリアナ東京』を造った人である。起業家である。その起業家が『介護ビジネス』は儲かると踏んだから、『介護ビジネス』を始めたのである。そしてその『介護ビジネス』がもうあまり儲からなくなってきた。そろそろ引き時である。
 そして今、コムスンをどこが引き継ぐかが焦点になっている。

 『介護』が『介護ビジネス』になったのは、そう古い話ではない。それは決して自然発生的なものではなく、お国の政策である。『介護ビジネス』を創出したのは、お国である。
 ビジネスになるには、そこに『お金』が必要である。それも確実に収入が見込めることである。
 民間のビジネスの基本は、特にサービス業においては、サービスを受ける側がお金を払い、サービスを提供する側がお金を受け取る。
 だから、『介護ビジネス』が純粋に民間のビジネスなら、介護を受ける人がお金を払って、介護を提供する側がお金を貰うことになる。
 ところが、現在の『介護ビジネス』は、介護を受ける人がお金を払うのではなく、お国がお金を払う。介護というサービスを提供した会社はお国からお金を戴くことになる。
 『介護ビジネス』がその起業家にとって、とても『おいしい』ビジネスに見えたのは、まさに、この仕組みがあるからである。つまり、お金を払うところは、お国だから、取りパグレがないのだ。そして、この『介護ビジネス』は認可制だから、誰でもがこの商売に参入することはできない。
 ビジネスという観点から見れば、システム構築を間違えなければ確実な商売である、と起業家が考えてもおかしくない。『ジュリアナ東京』よりよっぽど確実な商売である。


かいご 【介護】

(名)スル

病人などを介抱し世話をすること。
「―人」「老母を―する」


 お国が『介護』をビジネスにするまでは、誰も『介護』がビジネスになるなどとは思っていなかった。病人や老母の世話をするのは、その家族や身内と相場が決まっていた。もちろん一人暮らしで身寄りのない老人もいるだろう。それは社会が助けなければならない。しかし、それは決してビジネスではない。


 年金問題もそうだが、この『介護ビジネス」も結局は、お国が作った『システム』に支障をきたしたということだ。『介護』をビジネスにしてしまったお国がもう一度その『システム』を変えていかなければならない。が、一度作った『システム』を簡単にお国が変えられるはずがない。


 『愛』の話に戻ろう。『愛』というのは、『幸せ』と同じで目で見ることもできないし、手で掴むこともできない。『愛』は感じることしかできないのだ。だからこれも『幸せ』といっしょである。
 『愛』には、ふたつあって、それは『愛する』ことと、『愛される』ことである。
 アラン・ド・ボトンは、「人は『二つの愛』を求めて生きる」と書いている。彼のいうふたつの愛とわたしの考えるふたつの愛は違う。いや、違わない。どっちでもいい。愛を数えることなどナンセンスだから。アラン・ド・ボトンのもうひとつの愛が知りたい人はこの本を読めばいい。
 
 さて、勝手に『愛』の話を続ける。人や物を愛するのは自由である。そして人や物に愛されたいと思うのもこれまた自由である。そのふたつの愛の実現とは、自分を愛することである。自己愛という。自分が自分を愛するというのは、自分は自分に愛されていることでもある。自分を愛することでひとつの愛は完結する。
 精神世界では、心の奥で、全てと自己は繋がっていると考える。だから、わたしはわたしだが、あなたでもあって、あなたもあなただが、わたしでもある。それが精神世界の考えだから、自分を愛するということは、あなたを愛することでもあるとなる。
 よって、精神世界の愛は、『愛する』ことと、『愛される』ことで完結するが、宗教の世界では、『自己愛』と『他者愛』というふたつの愛が登場する。
 基本は、自己愛である。この愛は、本能といってもいい。度が過ぎると『自己中』となるが、自己愛がないとこの世では生きていけない。そして人間はその自己愛を発展させて他者愛を目指すのが善い生き方とされている。


 そして介護の話である。人間誰しも介護されるような状態にはなりたくない、と考えている。しかし現在の高齢化社会というのは、介護を必要とする社会になってしまった。本来であれば介護がビジネスではなく、『愛』をベースにしたものであればいいのだが、残念ながら、『愛』よりもビジネスが優先される社会である。


 介護といったら、コムスン、GWG,ジュリアナ、そしてビジネスと連想してしまう今の世の中というのは、やっぱりおかしいのである。しかし、もう誰もおかしいとは感じなくなってきているのかもしれない。おかしいのは、この社会を作っている人間である。