暮らしの哲学 池田晶子 | 今、考えていること

暮らしの哲学 池田晶子

池田 晶子
暮らしの哲学
池田 晶子
REMARK―01OCT.1997~28JAN.2000
池田 晶子
リマーク 1997-2007

コメントをした人 :vase jaune
コメントのタイトル:はじめまして。
▼コメントの全文▼
はじめまして。
ちょっとだけですが、面白く読ませていただきました。ただ、わからないところがあったので、質問をさせてください。
?考えることと思い込むことはどう違うのでしょうか?
?今生きていると思い込んでいるのは、なぜわたしと言えるのでしょうか?

URL:http://fleurs-au-vase-jaune.cocolog-nifty.com/blog/


 時々コメントはいただくが、質問されたのは、初めてである。


 ここで格好よく質問に答えられればいいのだが、残念ながらすっきりした回答を出せない。
 たぶん、池田晶子さんなら切れ味のいい言葉が並ぶのだろうが。


 ふたつの質問をいただいて、考えているのはわたしである。と思い込んでいるが、確かにその思い込んでいるわたしはわたしなのかといえば、わからない、といったほうが正解である。
 思い込んでいるのがわたしなのかどうかもわからないのだからもちろん考えているのもわたしなのかどうかあやしいものだ。


 それでは、考えているのはわたしではない他者で、そう思い込んでいるのも他者なのだろうか。どうもこれはしっくりいかない。わたしではないから他者なのかといえば、そうでもないとすると、わたしでも他者でもない考えたり思い込んだりする存在は何だろうか。


 話は変わるが、池田晶子さんが亡くなって、やたらと本がでる。この本もそうだし、トランスビューから出た『リマーク1997-2007』というのが最新刊かもしれない。


 その『リマーク』は2001年に双葉社から『REMARK』として発刊されたが、現在では廃刊になっていて、新本の『リマーク1997-2007』は廃刊になった『REMARK』に2006年12月から2007年1月の『リマーク』を追加したものである。


 池田晶子さんは、自らの認識メモに『リマーク』と名付けた。日記とは違うが、元々人に読まれることを意識していない。だから、凡人のわたしなどには全くわからないところがほとんどだが、時に、納得する、または魂に訴える言葉がでてくる。


 OCT.1997の 27の項目に


「月を指す指は月ではない
当たり前である
しかし、月を指す指
とは何か
月を指す指が自身を問う、
これが哲学のはまるドツボである

how? →科学
why? →宗教
what?→哲学

哲学にだけ、答えがない
なぜなら、答えを指す指が問だからである」


 考えることと思い込みの話に戻ろう。哲学として考えると永遠に答えはでない。答えが『わからない』なのだ。それは、考えるのも思い込むのもそれはどこのどなたかがわからなくなってしまうからで、存在論の行き着くところは、what?『何?』だから、よって答えがないのである。


 しかし、これで、誰も納得などしやしない。凡人であればあるほど、答えを求めたがる。その答えが、時にhow?だったり、why?だったりするが、最近の流行は、where?ではないかと思っている。


 精神世界というやつである。正直、わたしはこの世界、結構好きである。格好の良さ、憧れとしては、もちろんwhat?→哲学の世界である。しかし、この世界は敷居が高い。憧れだけで踏み込めるような場所ではないのだ。
 それこそ、精神世界の話で行けば、人それぞれの器があるから、『哲学』の世界の住人たらしめる器でなければならない。と、わたしは思い込んでいるのだ。


 それに引き換え、精神世界は凡夫にも寛容である。気質、性格、性別、民族、器を問わない。


 精神世界的には、わたしはあなたで、あなたはわたしだから、当然考えているのもわたしでありあなた、ということになる。考えているのがわたしでありあなただから、思い込んでいるのもあなたでありわたしで、全ての垣根は取っ払われてしまう。と、どうなるかといえば、考えることと思い込むことの区別など存在しなくなる。ある種、明瞭、完結である。


 しかし、また、傍と考えると、やっぱり何だかわからなくなってくる。この繰り返しに狂わない人が真の哲学者である。


 池田晶子さんは、よって真の哲学者である。