永遠の希望 飯田史彦 | 今、考えていること

永遠の希望 飯田史彦

飯田 史彦
永遠の希望

 憲法記念日である。1947年5月3日に日本国憲法が施行されたのを記念して1948年に制定された。日本国憲法が公布されたのは、1946年11月3日でこの日は文化の日として同じく1948年に祝日と制定された。
 その憲法を改正しようという動きがある。まあ、憲法だろうが、普通の道路交通法でもそれは人間が作ったルールである。日本国憲法にしたところで、戦争に負けたがためにアメリカが作った憲法だといわれている。誰が作ってもそれは人間が作った人間のためのルールに違いない。日本国憲法だから、そのルールの当事者は日本人、日本国籍を持つものということになる。


 憲法というのは、決して『真理』ということではない。それはもちろん誰でもわかっていることで、だから、憲法を改正しようなどということを考えたり言い出したりするのである。しかし、憲法だけではないが、法律とか、ルールというのをまるでそれが『真理』のように思っている節がある。誰が?私を含めて、善良な市民が。


 高校生の野球の世界で特待生制度がどうのこうのともめている。高野連のルールだと、この野球をすることに優れているという理由で高校側が特待生として授業料免除などの特典を与えてはいけないことになっているらしい。が、ほとんどの私立高校では、特に有名な甲子園常連の高校ではその特待生制度を行っている。
 高校生を子供に持つ親なら、そんな話は不思議でもなんでもない。高野連のルールに特待生を禁止している条項があることを知らない者の方が多いに違いない。
 でるわでるわ、このままいったら、夏の甲子園など参加できるチームは公立高校に限られてくる。
 高野連も実はそんなルールがあったのを忘れてしまっていたのではないだろうか。正直当事者以外はどうでもいい話である。


 法律でもルールでも一度決まってしまうと、それがまるで、正義で真理のようになってしまう。そのルールを作るまでは、皆が寄って集(たか)って議論をする。しかしひとたび決まればルール違反は罰せられることになる。それが近代社会のルールである。
 憲法と高野連のルールをいっしょにしてはいけないのかもしれないが、現実には憲法第九条も高野連の特待生の禁止も実際に今施行されているルールである。だから近代社会においてはそのルール違反は罰せられる。
 ところが憲法9条に関して言えば、誰がどう考えても違反していることが今までに結構ある。ところが罰せられたためしがない。それは憲法を守らなければいけない国家公務員がルール違反をしているからである。そしてその国家公務員がその憲法を罰せられる前に変えようとしている。


 飯田史彦先生の「永遠の希望」と憲法9条とどういう関係があるの?全然関係ない。
 何だか生きるのが辛くなってきた人にとっては、憲法9条も高野連もどうでもいい話である。そしてその生きるのに何だか辛くなった人のことも、その知り合いでない限りはどうでもいいことである。


 憲法でもその他の法律でも、その会社だけのルールでも決まってしまったものは、ただ守るだけで、それから先どうしようと考えなくなる。
 信号が赤の時は横断歩道を渡ってはいけない。青なら文句なしに渡って構わない。それが日本の、いや文明国のルールである。となると、信号が青の時はもちろん車に注意する必要はない。しかし、信号が青でも、そんなことはお構いなしに突っ込んでくる車もあるだろう。青で横断歩道を渡っていた人はもちろん悪くない。信号が赤で突っ込んできた車が悪いのである。しかし、いい悪いは別にして、青で歩いていた人は車に轢かれて死んでしまったかもしれない。ルールはあるけど、ルールがあるから皆が守るとは限らないのである。ルールがあって、皆がそれを守るなら警察はいらない。


 憲法記念日に何を書いているのかわからなくなってきた。そんな日があってもいいじゃないか。それが、飯田史彦先生の言っている『永遠の希望』である。