昨日の話題についての最新動画です。
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「幸せなら手をたたこう」
御存知、坂本 九 の歌で有名です。
最近のこの国の雰囲気からすると、わざわざ“幸せなら態度で示そう”とする人はいないでしょう。
そんな事をしようものなら袋叩きに会うのが関の山。
総中流だった時代は今は昔、東南アジアより貧乏な東朝鮮と言うのが実態ですので、今は“不幸せなら”とか“不満があるなら”態度で示す段階です。
インチキっぽいコロナ騒ぎの現在、国民の大半が糞真面目にマスクを着けているようでは今後も政権はやりたい放題が続きます。
“マスクなし”が極悪人扱いされる世の中は明らかにおかしく、他人に迷惑をかけないためのワクチン理論と発想は同じです。
PCR検査信仰とマスク必装着はまだ続きそうです。
猫の首に鈴を付けるのは誰でしょう。
そろそろ国民が態度で示さないとこの国はお終いです。
高知大学の名誉教授の動画は“科学理論の大切さ”を教えてくれます。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=383&v=UNUPdLAAmPI&feature=emb_logo
デビュー曲 ― 愛の奇跡
私の学生時代、ふたりはデビューしました。
ベッツィー・アンド・クリスもそうですが、外国人が歌う日本語の歌は独特の味があり、自分の好みにマッチするといい気分になれます。
写真は社会人になってから、高校の後輩の結婚式の披露宴に出席した時のものです。
新婦のお色直しのアトラクションに何と彼らが登場したのです。
自分の座席からのショットですがロザンナさん 綺麗でした。
その後、彼女の自叙伝を読みました。
可愛い3人の子供さんに囲まれて幸せいっぱいだったのですが、その後が大変だったようです。
今は日本に骨を(ヒデの隣り)埋めるという強い覚悟だそうで好感が持てます。
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一連の新型コロナウィルス騒動は「全てがデタラメだらけ」
http://blog.sizen-kankyo.com/blog/2020/08/4786.html
「医学、医療に関する諸々も陰謀の例外に非ず」ということでしょうか?
その他の似たようなツイッター2編 引用
板橋 哲 という方のツイッター(8月13日)は敗戦記念の日を前に誠に相応しい内容で思わず拍手しました。
書き込み諸氏の内容も素晴らしく、学校で習う歴史がどうあれ、みんな真相は御存じです。
テレビ番組に細工を加え、昔は見て馬鹿になることもあったのですが、今では元々のバカしか見ません。
インチキ・コロナ騒ぎ、不自然現象(豪雨、地震、台風、猛暑、火事、交通事故)の国難を民意の高さで乗り越えましょう。
引用
本日のローカルTVでこんな場面があった。
終戦直前の盛岡爆撃についてアナウンサーが市民に尋ねた。
「盛岡で戦争があったって知ってますか?」
マイクを向けられた子供(中学生?)が答えた。
「え?アテルイ?」
「え?それも戦争ですけど…」 困惑するアナウンサー。
岩手の子供は最高だ(笑)
午後7:17 · 2020年8月13日·Twitter Web App
以下に書き込みを抜粋します。
.. 岩手県民にとって戦争とは、1200年前のヤマト朝廷の侵入のことだったりする(笑) 修学旅行で必ず清水寺に行きますから。(大爆笑)
アテルイへの1980年代からになりますね。それ以前から、蝦夷征伐とか東北征伐とか記述されることへの憤りはありましたが… 80年代以前、岩手の歴史教育の中心は戊辰戦争で、幕末から明治にかけてを東北の立場で記述するものでした。 教科書より市教委・県教委編纂の副読本の方が厚かった(笑)
阿弖流為か~ グッドアンサーだ。清水寺で阿弖流為のお墓に参るのか、岩手の修学旅行凄いな
たぶん、空襲の事を聞きたかったアナウンサー破れるですね。宮古とか釜石とかなら空襲の記憶が強いけど、盛岡はどうなんだろう。
盛岡の子が阿弖流為と言ってくれたのでしょうか? だったら尚更嬉しいです(*´∀`) 岩手は南部藩伊達藩を越えた時代が元の姿。アテルイの話は日本人が卑怯すぎてどっちが文明人だよ!と当時の天皇に文句が言いたくなる。征夷大将軍とは、もともとこんな意味だったなんて…
京都人の前の戦争と同じ素養ですね
尊敬! 応仁の乱なんか、目じゃねえやん!
子供とアナウンサーの掛け合いが見事ですね。どちらもある程度の知識がなければできないギャグだと思います。
original
https://twitter.com/satosiTS/status/1293854174812098561
日本SF界の巨匠・小松左京原作。大ベストセラー小説の完全映画化。
空前のスケールで描く、スペクタクル映画の原点!日本海溝直下の大規模な地殻変動により、日本列島のほとんどが海中に沈没するという驚愕の事態が予測された。
それを裏打ちするかのように、各地の火山が噴火、M(マグニチュード)8以上の大地震が次々と発生。
Xデーが避けられないと悟った政府は、諸外国に避難する国民の受け入れを要請する。
1億の日本人は、どこへ逃れるのか?日本が沈んでいく!(C)1973 東宝
コロナ騒ぎの最中、国民の免疫力の低下に追い打ちをかけるようなNHKBS「日本沈没」の放映の意図は何なのか?
毎度おなじみの優子の動画
https://ameblo.jp/writeeverythingforever/entry-12606762551.html
もう国民の大部分は気象兵器、人工地震の存在は知っているものの、具体的な行動を起こさないことを幸いとばかりにやりたい放題。
お盆休みを狙った台風が迫っているようです。
さるスジによって実施される地震を含めた不自然現象に立ち向かう男がいます。
彼は人工地震、豪雨、台風を弱体化するテクニックの開発に成功し、実践している最中だそうです。
偶然見つけた彼のブログの内容は、私の理解を遥かに超えており、現在のところペテンなのか本当なのか皆目見当つきませんが、非常に興味深く、もし本当だとしたら、こんな素晴らしいことはありません。
どう思われますか?
尚、タイトルにある日本(倭)国とは米田良三氏による造語で、九州王朝の最後の約70年間、倭国が名乗っていた「日本」という国号を、大和朝廷が倭国から奪った同じ「日本」と区別するための呼び名です。
現代の我々の国名は盗品であり、 日の丸、君が代 も同様です。「日の丸、君が代」強制反対と言いますが、国旗を仰いで国歌を歌う時、首都大宰府をイメージすればOK 、間違っても高松塚等、飛鳥をイメージしてはなりません。
奈良文化財研究所のHPに「調査報告書」のサマリーを見つけました。
まずは全文を読んでください。
飛ばしてもらっても構いません。
引用
この調査は、昨年3月3日の倒木で破損した屋根の修理を契機とし、その足場を利用し実施しました。
考古・史料の研究員の協力を得て、屋瓦や棟札や、指図、文献史料などを調査し、『重要文化財 長谷寺本堂調査報告書』を刊行しました。
文献によれば、本堂は天文5年(1536)に焼失し、同7年には像高 10m余の現本尊が造られました。
それを覆う本堂は、大和郡山城に入った豊臣秀長によって天正16年(1588)に再興されました。
その後、被災記事がないにもかかわらず、慶長12年(1607)の上棟など、本堂の造営記事が散見します。
現本堂は、棟札から慶安3年(1650)の供養が明らかなため、秀長の建てた本堂を骨格として、慶安3年に完成したのが現本堂と考えられてきたのです。
しかし調査の結果、増改築を示す痕跡はほとんどなく、まったくの新築であることが判明しました。
また、細部意匠を他の同時期の建築と比較すると、現本堂の年代は慶安年間頃に編年できます。
棟札によれば、現本堂の造営には、将軍・徳川家光の援助を得て工匠には当時の天皇の御所造営をおこなった精鋭たちが招集されたことがわかります。
筆頭棟梁と思われる今奥和泉守は、現在の東寺五重塔の棟梁でもありました。
すると、天正 16 年に豊臣秀長が建てた本堂の材料は、現本堂には使われなかったことになります。
豊臣家造営の本堂がわずか50 年ほどで傷むとは考えられず、この造営には建築的問題とは別の、何らかの社会的な理由が潜んでいると思われます。
なお、調査成果の一部は、飛鳥資料館の企画展「豊山長谷寺本堂」(平成 16 年 8 月 6 日~ 31 日)で公表し、棟札や指図、新出の文献史料など、本堂の写真をまじえて展示・解説しました。
(飛鳥藤原宮跡発掘調査部 箱崎和久)
引用終わり
次に、この記事から年表的部分(緑色文字)を抜き出し、私のコメント(カッコ内)を加えます。
天文 5年(1536)本堂(創建以来7回火災に会っていると言う伝説に続く最後の)焼失
同 7年 (1538) 現本尊が造られる(現本尊と言うが、戦国の世であれだけの金箔が手に入るのか? あのレベルの仏像はオリジナル以外有り得ない。その後、像は仮堂で雨露を凌いだのか?)
天正16年(1588)本堂 豊臣秀長によって再興(戦国の世では本格的な本堂再建は無理であろう)
慶長12年(1607)上棟など、本堂の造営記事(時間的に前後の繋がりが無く、実態が感じられない工事)
慶安 3年(1650)現本堂完成(秀長の建てた本堂を骨格として)(前々回の部材が残っていた?)
調査の結果、まったくの新築であることが判明(そこまで言い切ってよいのか? 研究所が“まったくの新築”と言う結論を出した、というのですが、報告書の写真をチラッと眺めただけでも、そうではない場面が認められることから、現代の調査体制も信用できません。即ち、昔の古文書・伝説は言わずもがな、長谷寺に関する調査は全く信用できない。)
終わりの方で、研究員自身が「この造営には建築的問題とは別の、何らかの社会的な理由が潜んでいる」と、“オウンゴール的”コメントを発していますが、長谷寺の歴史には何か国家規模の大きな秘密が隠されていて、嘘に嘘を重ねた挙句、身動きが取れなくなっている状態にあるのではないでしょうか。
真っ先に浮かぶのが、長谷寺の本堂が法隆寺より古い木造建築であり、倭国の時代、佐賀県に在った建物を現在地へ移築した、という説の存在です。
このサマリーを読んで思うのは、研究者の面々が本気で真実を追究しようとする迫力が全然伝わって来ない点です。
上記の“オウンゴール的”コメントが学会の旧体制に対する反乱の狼煙であれば非常に喜ばしいのですが。
本音とか、真意が知りたいところです。
ネットニュースの書き込みが凄いことになっています。
もう、みんな全てを知っていますね。
この先、どうケリをつけるのでしょうか?
与野党共、国会議員共通の心理として、“俺たちは特別だ!”と思い込んでいますので当初から、すべての議員、その家族、親戚にはアビガンが用意されているに違いありません。
誰か議員で感染、発病したというニュースは聞いたことがありますか?
与党の連中の狡さには国民は慣れっこですが、問題は野党議員がアビガンのおかげで生き延びた場合、今後野党としての役目が果たせるのか、国民に顔向けできるのか?
既に、何となく野党議員の元気のなさが目に付きますが、考え過ぎなのでしょうかネ?
天才に遭遇するチャンスは滅多にあるものではないのですが、10年以上、米田良三氏の原稿と格闘してきた挙句“彼こそがそうだ”と確信しました。
私の手許には彼の研究ノートがあります。
ノートのサイズはバラバラ、情報のエッセンスが無秩序に書き込まれているだけで、文章作成の下書き的なものは全く見当たりません。
思いつくままにPCに文章を綴っていったのでしょう。
打ち合わせの時、どんな些細なことでも、自分の書いた部分に関しての反応は瞬時かつ正確でした。
米田氏の未公開原稿を以下に公開します。
門外漢の心を打つことは無いと思いますが、建築に携わる人々は彼の天才を意識するかもしれません。
5.資科の発掘
史料は思わぬところに思わぬ形で眠っている。
私の最初の研究は法隆寺の建築が何時造られたかということを知りたいことに始まった。
と言うのは法隆寺の建築が再建なのか、非再建なのかの論争が明治以来続いていたからである。
決着の付かない論争、何時造られたかが分からなければ知りたくなるものである。
当時、木造住宅の設計をやっており、施工にも隈なく目を光らせていたから、法隆寺の建築の細かいところまで知れば、次の道が開けるのではないかと思った。
解体修理工事が行われていたことは知っていたし、大学の研究室には大部の報告書が置かれていたことも記憶していた。
まず知ろうと言う事で、金堂と五重塔の報告書を大学から借り全部を読んでみた。
読み終わって思ったことは、この報告書を最初から最後まで読んだ人は、果たしているのかという思いであった。
研究者の何人が読んでいるのだろうか。読むのを阻止するような晦渋な文章が続く中に、工事担当者の思い入れそのものという文章があり、ホッとしたことを思い出す。
報告書の中から事実を拾い集め、そこに論理を組み立てることに懸けてみた。
晦渋さと思い入れの中に事実が隠されていたと言うか、在ったから、読むことによって報告書が史料と化したと言える。
ちなみに、その一文を掲げてみたい。金堂の柱の底面の仕上げについてである。
柱の底面はその性質上腐損や虫害を被ること多く、完全なものは極めて少なかったが中には非常に保存のよいものもあり、当初の切断面がその儘残っていて当時の工法のよく窺えるものもあった。
それによると、柱頂と略同じように、刃幅一寸二分程度の鑿(のみ)を用いて切断し、周辺を略平らに、中心部に向って幾分決り気味に仕上げてあった。
解体修理工事報告書が研究にあまり使われているとは思えないが、史料らしい存在ではある。
さりげなく「晦渋」という言葉が出てきて、漢和辞典のご厄介になりました。
奈良文化財研究所発行の『長谷寺本堂調査報告書』も じっくり読めば現在の本堂が江戸時代の創建でないことは明らかです。