薬師寺東塔が倭国時代のものであっては困るのです。 | 民営文化センター

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民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever

 

 

薬師寺東塔の解体修理が終り、塔の現在地での新築説が固まり、さあ記念イベント、という所でコロナ騒ぎとなり停止状態のようです。

 

 

薬師寺古図」上のランダムに配置されている建築群のなかの一つが東塔と思われる三重塔であり、これだけでも現在地での新築説には無理があります。

 

 

何気なく薬師寺東塔の図面を見ていて、今までの自分の考え方の正しさを決定づける事実を発見しました。

 

 

塔の一階の一辺は11.452mです。

 

 

 この長さを倭国と大和朝廷以降の物差しで「尺」に換算します。

 

 

  11.452 ÷ 0.281 40.754 ≒ 40尺

               (倭国の1尺は0.281m)

 

 

  11.452 ÷ 0.303 37.795 ≒ 38尺

               (曲尺の1尺は0.303m)

 

 

これらの数値を見る限り、40尺の方が常識的な選択だと思いますが、「38尺だっていいじゃないか!」との反論はあるでしょう。

 

 

 「センス悪いゾ!」と外野の声。

 

 

 因みに、知恩院の経蔵(移築前は倭国長谷寺のもので、佐賀県三瀬村に在った)は一辺が50尺。

 

 

そこで、倭国の場合の0.754尺という端数は何か、ということですが、これは米田良三氏だけが警告を発した“内転び”という技法に由来するものと考えます。

 

 

倭国の寺院建築では柱群を僅かに内側に傾けるのですが、平面図として基準となるのは柱の上端であり、下端は約10cm 外側に移動するのです。

 

 

こうすることにより、建物内の景色が自然な感じになるのです。

 

 

恐らく、外観も優雅に見える気がします。

 

 

今回の解体修理で、柱群をストレートに修正してしまったのか心配です。

 

 

これには前科があり、唐招提寺の解体修理の際には“内転び”の概念を知らない集団であったらしく、柱はストレートに修正されています。

 

 

米田氏は『続 法隆寺は移築された 建築史学入門』の中で、静かながら怒りを発信しています。

 

 

西岡棟梁が曳いた図面による西塔の一階が何となくほっそり感じるのは、棟梁が“内転び”を採用しなかったせいかもしれません。