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民営文化センター

民営の文化センターを開設するのが夢。このブログを書いているうちに何かヒントが掴めると思ってやっています。不器用で華やかさに欠ける画面ですが、少しでも世の為人の為になればとwrite everything forever




法隆寺の五重塔、金堂の柱等が日本の寺院建築の中でも突出して“真っ黒け”な理由を「飛鳥時代の古さ」に求めていたのですが、「移築説」を知ってからは、その他の疑問も含め全て氷解しました。



大宰府の観世音寺の建物を解体して筏に組み、博多から積み出し、岸和田に荷揚げして、斑鳩の興留に約20年間、野ざらしにされた後に組みたてられたのです。



天井裏の臍の部分でさえ風化が著しいということは、素人でも「移築の証明」と理解できるのです。



戦前から行われていた解体修理に携わった西岡常一氏を始めとする宮大工たち、学者たちは本当のことを発言することを止められ、胸が痛んだことでしょう。



それは今でも続いています。



選挙当日、8時に当確報道をするようなマスコミですので、この話題を絶対に取り上げることはありません。



このテーマがグローバルに広まれば「日本再評価」で世界中が盛り上がることでしょう。『源氏物語』がさらに350年遡るわけですし・・・


 




図の説明


伽藍のイメージを変えるために五重塔と金堂を入れ替え、さらに金堂を90度回転させたのです。



そのため、とんでもなく不細工な伽藍が出来上がったのです。


 


http://d.hatena.ne.jp/osamuharada/20080706


 




この手紙の主のように感動していただけると嬉しいですね。



バーコードなしの冊子ですので、さすがにアマゾンは無理だと思います。



今まで「先払い」でやってまいりましたが、品物を手にしないうちに代金を払うことに皆さん抵抗があるようですので「着払い」に切り替えることにしました。



そうすれば、在庫が少なくなった場合、「払ったのに品物がない」というトラブルを避けるメリットがあります。



当面は御面倒ですが、Fax(0566-77-5494)で申し込んでいただきます。



書名、価格(送料当方負担)はホームページに載っております。


 


http://www.abandjc-press.com/





栄(さかえ)の「中日ビル」内にあり、大通りに面した「サン・モリッツ」は名古屋市内で学生時代を思い出させてくれる、数少ないノスタルジック・スポットです。



10月25日、そこでいただいたナポリタンのウィンナーの表面は朱に近い赤色で、断面は均質、味は魚肉ソーセージ風、と昔のままでした。



「ナポリタンのセオリー」というものがあるのかどうか知りませんが、レトロな雰囲気を忠実に再現しているのは嬉しいものです。



しかし、現代風な、ポキッと音のするようなピュア・ポークのウィンナーが2個載っているものを望むのは無理なのでしょうか。



進化があってもよさそうに思うのですが。









ソ連のパビリオンです。メルヘンチックです。






工事中の万博会場を名神ハイウェイバスの中から撮った写真です。


小学校時代、だだっ広く未舗装の桜通りを市バスに乗って中央郵便局へ記念切手を買いに行きました。



駅前での露天掘りの地下鉄工事を目撃しています。



高校の修学旅行のフィナーレは旧駅舎(昭和2年竣工)時代のコンコースで「いつでも夢を」の大合唱(今なら考えられない!)。



毎日ビル内の“ホテル・ニューナゴヤ”でで挙式。



デザイン博覧会で「これで駅前は完璧、当分工事なし」と思いきや、駅舎は“タワーズ”に変身し、見た目どおり名古屋の門柱になりました。



世界のトヨタが自社ビル“ミッドランド”を建て(前述毎日ビルの跡)、負けじと“新・大名古屋ビルヂング”が完成。



市電が走り“青年の像”が立っていた頃も懐かしいですが、あの段階で街の発展、進化が止まったと考えたら恐ろしい気もします。



このデジタル画にある名鉄、近鉄のビルがこのまま残り、狭くなった空の一角にゆとりを残しておいてくれることを望むのですが、“リニア”が「ドーノコーノ」で、この先、一体どうなることやら・・・・



地底深く、電磁波をいっぱい浴びながら、いつ直下型地震が起きても不思議はないといわれる東京へ進む鉄道が完成した揚句に、乗る乗客が誰もいなかったら、関係者はどうするつもりなんだろう。



“リニア”建設の目的が凡人の思いつかない全く別のところにあるに違いありません。




奈良市内に幾つもある歌碑「あおによし奈良の都は咲く花の匂ふがごとくいまさかりなり 小野老(おののおゆ)」には大和朝廷側の立場で「ビバ!奈良」とか「奈良の都万歳!」と叫んでいるイメージがあります。



大半の日本人の受け止め方はこれです。





この写真の歌碑は太宰府の都府楼跡の南東にあるものです。



小野老の歌は大和勢力に征服されて60年近く過ぎ、跡形のなくなったこの地(九州王朝の首都)で詠まれたものです。



「大和の奴ら、今頃、さぞや、いい気分だろうな~、悔しい・・・」といったところでしょうか。



征服した側の驕り」ともいえる感情だけでなく、真相である「歴史を消された側の無力感」という正反対の解釈があることを、もっと多くの人が知るべきだと思います。



この歌碑が近畿だけでなく、ここ(太宰府)にある意義は大きいと思います。




ココからは連想ゲームです。



戦後、洋盤のヒット曲で「フジヤマ・ママ」という歌があり「ヒロシマ」、「ナガサキ」という単語を聴き取ることが出来ます。



歌詞をチェック(下記ブログ)してみたのですが、「征服した側の驕り」がプンプン感じられます。


http://ameblo.jp/sugarmountain/entry-11359404181.html



戦後70年間、国民が汗水たらして稼ぎ出した富の大半を掠め盗った宗主国が間もなく崩壊するという噂がチラホラですが「歴史を消された側の無力感」を今こそ晴らす瞬間が近づいていると思うとワクワクしますね。


イケない! また考え過ぎてしまった。





中日新聞に大きく宣伝されていましたので、観に行きました。



団塊世代に向けた「大人の青春映画」です。



色んなエピソードが“てんこ盛り”で、テンポも速く、少々疲れます。



終わりの方で、主人公の母親が交通事故で大腿骨頸部を骨折し、人工関節の術後の回復途中で母娘が大バトルとなるのですが、一応、ハッピーエンドで納まります。



「若き日に憧れていたあの国で 今、母と生きていく」とチラシにはありますが、あと数年以内に、再び同じ介護バトルを繰り返すことは眼に見えています。



観客としてはそこまで考える必要はないか・・・



http://vietnamnokaze.com/


http://d.hatena.ne.jp/otello/20150717

『柿本人麿の真実』34頁12~14行

赤い文字の部分が移動しております。訂正お願いします。申し訳ありませんでした。



これらの工事記録は無いが、現代の工事と比較しても、完成度は高く、しかもスピーディに工事が進められたと思われる。この間、奈良の帝は奈良の京に居られることも少ない日々が続いたと思われる逸話が『大和物語』にある。


 




名古屋市名城コートでのエキシビションマッチです。


ダブルスのパートナーはトリミングされ消えています。


昨今のプレーヤーと異なり、ぶっ叩きあいはなく、

品があり、優雅なプレー振りでした。


マスコミに登場することがほとんどありませんので、現在の彼女をネットで調べてみたら、イメージは昔のままでした。OK !









観世音寺を始めとして九州に在った寺院の移築の解明から始まった米田建築史学ですが、「地名の移動」に対する反応は人によって様々のようです。



既に述べた(2月23日)糸島半島のAさんは「何だ、明石・須磨は御近所じゃないかっ」と驚き、納得されています。



一方、現在の明石・須磨あたりに住む知人は「そんなバカな」と「地名の移動」を一笑に付します。それは郷土愛のなせる業でしょうか。



奈良市のなかむら先生は米田説を認めておられるようで、公平にクールに分析されています。



是非、以下の3本のブログを読んでみて下さい。学校で習った歴史が邪魔をして、何がなんだか分からなくなると思いますが・・・ 



倭国九州王朝時代のある時期、倭薈が遷都した奈良の京(みやこ)は短期間でしたが、吉野ヶ里辺りに在ったのです。




なかむら先生のブログ 院長日記 より


阿弥陀信仰は日本人発祥

http://nakamura-syounika.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/post-974c.html

東大寺大仏は大分県宇佐の小倉山に建っていた東大寺から奈良平城京に移したものであって、もともとは阿弥陀仏であった。


最初から狂った日本の歴史

http://nakamura-syounika.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-348c.html

いまだに語り継がれる帝の善政のかずかずは、反乱や疫病や地震が絶えない平安京ではなく倭京で行われたもの。


太宰府を訪ねて

http://nakamura-syounika.cocolog-nifty.com/blog/2015/10/post-1ac7.html
観世音寺です。後白河法皇は、観世音寺の三十三間堂を平安京に移築しました