前回のブログにも記載したが、私はただいまクルーズで旅行中。

実家家族親戚郎党での旅行であり、母にとっては人生最後の旅行になるであろうということで、私は生まれて初めてのクルーズ旅行を楽しんでいるわけである。

 

ところが、、クルーズ2日目において、イスラエルへのハマスよりの攻撃が発生した。

 

正直言うと、当日は、

全く状況が分かっていなかった。いくら戦争宣言がイスラエル首相によってされたとは言えども、港町であるハイファの街やナザレ、ヨルダン川が非常に平和であったからである。

 

しかし。。今思うと、、、

その当日はというと、イスラエル北部のハイファという港にクルーズを停めて、私達が港を出たのは朝の大体8時頃、その後、イエス様の育ったナザレの街や、洗礼をする場所でも知られるヨルダン川の観光を行っていたわけであるが、その間、若い、とはいっても私と恐らく年齢の変わらなさそうなユダヤ人のガイドさんは、面白いジョークを交えて楽しそうに普段と全く変わらない様子でガイドしてくれた。

 

つまりは、いたって普通の至らぬ旅行中の日常であった。自分は昔アメリカに住んでいたことがあるので、だからこそCity Englishを話すなどと言って、65歳以上の高齢者ばかりのこのクルーズの老人たちは笑い、更にはそのガイドさんが、自身のイスラエル名を述べたが、その後に、Royというのが自分のニックネームだと言い出したので、恐らく若いころは大変イケイケであったであろうアメリカ人女性の数人が、Roy!Roy!Roy!とチャンティング(声を挙げて唱えだした!)し始めたため、戦争どころか、とっても楽しい雰囲気であった。

 

そもそも、このクルーズのゲストはほとんどがアメリカ人である。しかも、白人ばかりである。

私の家族7人と、他にも香港人、フィリピン人のアジア人団体は見かけるものの、大層少数派である。せっかくリタイアを楽しんでいるアメリカ人が、ニュースを朝確認していたかまで、私は分からない。

 

恐らく、数多くのこのクルーズ客たちは何も知らずに、バスに乗り、ツアーに出かけたわけである。私は、というと、もちろん何も確認せずに、バスツアーにでかけた。

 

今思うと、このイスラエル人のガイドさんが、何も知らなかったとは言えず、というのも、同行していた私の従弟によると、本来であれば違う場所に行く予定が、10月7日午前6時半に起こった事件を元に、ツアーの内容を変えたということであったため、彼は全てを知っていたはずだ。

しかしながら何も知らない顔をして、普段通りにガイドを続けた、ということについて、私は彼のプロフェッショナル精神に感謝をせざるを得ない。全てを知りながら、何食わぬ顔をして、観光客には何も告げずに業務追行するその姿勢というのには、ある意味尊敬にも値する。

 

ナザレに入った際に、彼が説明した言葉がまだ脳裏によぎる。

つまり、彼はこう言ったのである。

普段であれば、ナザレは非常に混んでおり、街に入るだけでも、数時間待たないといけないこともあるが、本日は土曜日でお休みの日であり、更には今日は祝日祭日のため、人が少なくてあなたたちはラッキーですね、と彼は告げたわけである。しかも、笑顔で。

 

今思うと、私達に直接の被害がなかったため、彼の態度には今となって尊敬の気持ちも抱けるが、とはいえど、もしこれで直接私達がシェルターに入らなければならなかったり、人質に取られたとしたならば、彼のこと、いや、こういった大事が起きているにも関わらずそれでもバスツアー催行を決定したクルーズ会社のことを心から憎しんだことであろう。

 

 

何はともあれ、私は彼がこうも言ったこともまだしっかりと覚えている。彼はこう言ったのである。

「皆さん、せっかくイスラエルに来てくれたのに、今南で起こっていることが原因で、急いで船に戻るよう、発令が出ています。

大変申し訳ないのですが、本来であればレストランに行く予定でしたが、至急船に戻ります。私は、この場を借りて心よりお詫びします。是非次回イスラエルに来た際には、私を訪れてください。私はあなたたちを私の家に招き、ワインをご馳走します。これは冗談ではありません。必要であれば、私のビジネスカードをあげますので、後で私にいってください。」と。

 

もちろん半分冗談ではあったとは思うが、今思うと、彼は既に事の重要さをもちろん把握していたはずであり、今日の今ごろは

既に兵隊となってガザに向かっているかと思うと、彼の言葉は遺言にも受け取れるように思われるわけである。

子供はおらず、前妻がいて、離婚している、ということを、誰も聞いていないのに、自ら全ての乗客に話していたガイドさんの行方が偲ばれる。

 

ちなみに、それを聞き、私の叔母は初めて携帯を使ってイスラエルに何が起こっているのかニュースを確かめたわけである。私の従弟も然り、私も、である。お昼12時頃である。そこで初めて私たちはイスラエル首相が戦争宣言をしたことに気づいたわけであるが、まだ情報も定かではなく、当時はまだ30人が殺された、とかそういった数字が浮かび上がっていただけであり、まさか数千人規模で人が殺されただとかそういった情報はまだ公になっていなかったように思う。

 

私はガイドさんが、マイクを回収する際に、彼に聞いた。

こういった事態はイスラエルによく起こることなのか、と。

すると、あれほどにこやかに笑顔を浮かべていた彼の顔が思わず本心が出たのか、心配そうな顔となり、

思わず、かっと目が見開き、去年はこういったことはなく、非常に情勢は安定したいたが、このようなことは大変イスラエル人にとっては大事であり、皆ショックを受けている、と言い出した。しかし、彼には仕事があり、他の乗客のマイクを回収しなければならなかったため、それ以上話すことはできなかった。

 

その後、船に戻り、船の9階にあるバフェでランチを食べたのだが、まだそれでも緊張感は感じなかった。

テレビを見始めて、BBCやらCNBCが全てイスラエルのことを話している。

それで私も自分なりに情報収集したら、

翌日訪れる予定であったAshdotという街でもサイレンが鳴り響き、1名が亡くなったというニュースを発見した。

エルサレムでも、被害が激しかったわけではないが、サイレンが鳴り響き、シェルターに入らざるを得ない状況であったということであった。一方で、我々はハイファという港町でクルーズに閉じ込めらたわけであっても、ミサイルが飛んできているわけではないし、何よりも港にいるので、イスラエルを離れたければいつでも離れられるであろう、とあまり怖くなかったのである。しかしながら、見入っていたニュースによると、南からはアタックを受けているが、北からも攻撃を受ける可能性は十分ある、というニュースを目にしてから、怖くなった。

まだ死ねない、と思った。

 

私には5歳と7歳の娘がいる。この娘達を残してまだ死ぬわけにはいかない、と強く思った。

そこで、5歳の娘のベストフレンドがたまたまイスラエル人であることもあり、そのお母さんに連絡をした。

もし何かあったら、そちらのお嬢さんとうちの子を遊ばせてあげてほしい、という内容であった。彼らはアメリカにいるが、彼らの父親母親などは全てイスラエルに住んでいるのである。

 

 

私達は12時過ぎに船に戻り、ようやく船がハイファを離れたのは午後6時半頃であった。

当初はAshdotという、より南イスラエルに行く予定が、キプロス島に向かうことにしたのである。

しかしながら、キプロス島の港事情もあったのであろう。マイアミの交通省の指示にしたがい、このクルーズ船はイスラエルを離れたのであるが、交通省の指示により、今すぐイスラエルを離れるように、という指示ということで、突如エルサレムにいく予定が、海で過ごす一日へと急遽予定変更された。

 

この12時過ぎから午後6時半までの間、私たちは、どうしていいか分からず、母は寝ていた。まぁいずれにせよ76歳の高齢者であるため、すぐに寝てしまうのであるが、ずっと寝ていた記憶がある。

私はというと、BBCを食いついたように見ていた。

 

翌日の期待外の海で過ごした日は、悲しくなり、涙がでてきた。

戦争に巻き込まれたこと、実は母の荷物がロストされ、テルアビブ空港に残っていること、そして、母がどんなに今は荷物どころの状況ではない、と説明してもなおかつ、まだ荷物がいつ届くのか、というばかり気にしていることに大層苛立たされた。

それだけではなく、海を越えて、5歳の娘が他のお友達と人間関係について問題を起こし、その対処としてそちらのお嬢さんの親御さんともメールのやり取りをしていたことも、私の心を疲れさせた。

 

生れてはじめての楽しみにしていたクルーズ旅行であったのにも関わらず、食事が大変まずく、パンダエクスプレスレベルであったことも、気持ちがへこんでしまったことの理由でもあった。

 

このクルーズ旅行、心から楽しくない、と思い、主人に電話しながら泣いた。バルコニーのある部屋であったが、初めてバルコニーを使った日は、戦争開戦のため、致し方なく海で過ごすことになってしまった日であり、気持ちの沈んでいた私にとってはバルコニーはないよりはあったほうが良い、と心から思った。

 

 

 


元はと言えば、一日違いでエルサレムに行く予定だった私達。イスラエルの戦争状態が始まったのは昨日の10月7日。私達がエルサレムに行く予定だったのは10月8日。

たまたまこの予定をクルーズ会社が組んでいたわけであるが、たった一日違えば私達もサイレンを聞き、防空壕に飛び込まなければならなかったかもしれないと思うと、恐ろしい。

また、クルーズだからこそ港から離れることができたが、これがもしイスラエルのみの観光であり、飛行機で離陸しなければならなかったと思うと、
今の状況で飛行場に向かうのは命の危険との隣り合わせであり、たまたまクルーズでイスラエルを離れられたことは不幸中の幸いだとも言えよう。。





実は何を隠そう、私はつい2日前にはテルアビブにおり、本日のハマスによるイスラエル攻撃の最中にイスラエルにいた。

実家家族の親戚郎党とともに、イスラエル発、ローマ着のクルーズに乗っているのである。

 

一昨日、テルアビブ空港に到着し、昨日ハイファという北部にある港町についた。そしてそこから大きなクルーズ船に乗ったわけである。本日は朝早起きをして、キリストの生まれ育ったナザレの街、そして、ヨルダン川を観光した。

 

テルアビブ空港に到着した際は、ユダヤ教の祝日ということで、土日は特に誰も働かないであろう、ということをタクシードライバーから耳にした。ちなみに会話したところ、タクシードライバーはパレスチナ人であった。だからといって、特にイスラエル人に何かの気持ちを持っているか、というと、そんなことはなさそうだった。いたって普通に、イスラエル人の中に順応しているように思えた(私は政治には詳しくはないので、変なことを発現していたら大変失礼!)

 

私は、某お嬢さま学校と言われる白〇合学園で小学校から高校までを過ごした。つまりは12年間、私がキリスト教徒であろうかなかろうかに関わらず、ひたすら宗教について学ばされ、毎日ジーザスに向かって祈っていたわけである。フランス語でも祈っていたし、英語でも祈っていた。なぜならば、この私の通っていたカソリックの学校が、生徒たちに強制的に祈らせるからである。中には、お寺の住職がお父様という生徒もいたので、この生徒が、ちょっとした笑いのネタであったことは想像にかたくないであろう。

 

さて、私は12年も旧約聖書や新約聖書について学ばされたおかげで、いっちょまえに、ガリレア湖や、ベツレヘム、ナザレ、というクリスチャンにとっては憧れの聖地ともいえる場所の歴史をまなんだ。そのため、今回生まれて初のクルーズに参加することを非常に楽しみにしていた。

 

ところがなんだ、やれ、やっと明日エルサレムに行こう、としていたところ、テルアビブとエルサレムが攻撃の対象になったわけである。

 

イスラエル最大の観光地はエルサレム、それを目前にしてイスラエルを離れなければならなかったことは残念ではあるが、それどころじゃない状況になってしまったことを心からイスラエル国民に対してお悔やみ申し上げたい。

 

 

本日は、ちなみに早起きをして、ニュースのチェックもせず、何も知らずに、楽しくバスにのり、ナザレの街とヨルダン川の観光をした。

イスラエル観光は、たった半日の観光となってしまったが、当初は丸一日、夜9時にクルーズ船にたどり着く予定であったのにも関わらず、

ユダヤ人であるイスラエル人のガイドさんの真摯なお詫びの連絡を受け、私たちは、レストランでランチのはずが、代わりに、クルーズ船に直帰となったわけである。

 

幸いに、私たちは平和に観光を終わらせ、なにも攻撃も受けることなく、戦場を目にすることはなかった。しかしながら、もし明日行く予定であったエルサレムが、本日の予定であったら、と思うと、戦慄の思いがする。

血が跳ね散る様子を目にしたかもしれない。

 

 

たった一日の違いがこれほど大きな違いを産むとは。。

 

 

 

本日から私はサンノゼを2週間離れる。

朝6時半に家を出るため、本来であれば娘を起こすことはしたくなかったのだが、

2週間会えないため、キス攻撃をして家を後にした。

 

しかし、キスをした瞬間、起きてしまい、元々本日よりながく家を離れることを伝えたため、

いつ帰ってくるのか、無事で返ってくるのか、などなど嘆き悲しみ、ハグをしてくれた。

 

一度家を出たものの、忘れ物に気づいたりもして、再度家に入ったときなぞ、

起こされてしまったためまだ寝つけなかったらしく、

いそいそとかけつけては、自分のプレゼントを見せてくれる、と彼女なりの最大限のおもてなしをして嘆き悲しみ、

さらなるハグの攻撃を受けた。

 

娘には、おじいちゃんおばあちゃん、お父さん、先生のいうことをよく聞くようにと言い、私もたったの2週間だけなのに、

別れを惜しむような形で家を離れた。

 

さて、午前11時に、つまりは数時間後に主人に電話し、朝起きて学校に行くときに母親がいなかった際の反応はどうであったか、と聞くと、至極いたって平然として、特段母親の不在を悲しむそぶりもなく、自分は今日も学校に行くのか?という質問をしたっきり

無事に学校に行ったようである。

 

私としては、、、あれほどまでの嘆き悲しみであったため、少しは名残惜しそうにしてくれたのではないか、という淡い期待を抱いたものであったが、そのわずかな希望というのは、至極簡単に崩れ去り、

やはり娘は非常にスイートであるが、その場その場をやり過ごすのがとても上手である、という現実につきつけられたのであった。。。

少し前の話になるが、備忘録としてこのブログを書いているので、忘れないように書いておこう。

 

ある朝、5歳の娘が耳が痛いといってきた。しかしながら、いつも何かしらぼやくというタイプではないものの、そこまで大事でもないだろうと、さほど気にも留めず学校に行かせた。

とすると、その夜に、やはり耳がオカシイ、といってくる。

なぜ不快なのかおかしいのか問い詰めると、小さなビーズを耳の中に入れたのだ、と白状してきた。

それはマズイ!と思い、医者に行こうか、というと、通常医者にかかるのを嫌がる娘が、進んで医者に会いたがったので、これはかなり深刻である、と受け止めた。

 

しかしながら、時は既に午後9時。。。Urgent Careは閉まってしまい、開いてるのは、Emergencyしかない。

Emergencyは時として数時間待たされることもある。無論、早いとすぐに対応してくれるときもあるが、そうであるとは限らない。

主人に相談したところ、ビーズが耳に入っていても死ぬことはないし、不快ではあろうが、翌日まで待って、いつものかかりつけの医者にかかったほうが良いだろうという結論に達し、娘を説き伏せて翌日病院に行くことにした。

 

当初は、夜普段寝る時間に、外出できることの興奮が勝り、なんとか医者にかかろうとしていた娘ではあるものの、夜中にいくと、もしかすると数時間も待たないといけない可能性がある旨を話すと、娘は、なんとか状況を理解し、翌日まで待てる、と言ってくれた。

 

私としては慌てふためいたものの、冷静な主人が下した結論であるし、主人の言っていることはもっともでもあるので、娘が落ち着いたところで、私は自分のPCに向かい、いつもながら仕事をしていた。

 

 

すると、15分ほど経った後で、娘が驚喜の声を挙げた。

私はどうしたのか、と娘の部屋へ駆け込むと、娘は自分で何とか耳をベッドにこすりつけたりして、耳の中のビーズを取り出したらしい。イメージとしては、以下のビーズが一つ耳の中にはいっていた、ということである。

私も嬉しくなり、娘を抱き上げては

「良かったね~‼これでドクターに行かなくて良かったし、自分でドクターになっちゃったね~。本当にすごい!!とってもえらい!!!」と褒めちぎった。

 

こちらの記事の一つ前のブログに書いた内容だが、娘はGoldRushの街に観光に行ってからというものの、

Gold Minerつまりは金鉱堀になりたがり、親としてはうっかり間違えてGold Digger(玉の輿)になりたいと言いかねないか心配していたわけだが、この日を機に、彼女は医者になりたいと言い出した。

 

自分で自分の耳の中からビーズを取り出せたということは、喜びもひとしおであり、感無量であった模様である。

1日間、自分の耳を苦しめ続けたビーズからの解放というのは、長い冬が過ぎるのが待ち遠しく、待ちわびた春の到来を楽しんでいる動物の様にも例えられる。

 

娘は、自分で自分の問題を解決できたことに非常に自信を持ち、医者、つまりはDoctorになりたい、と言い出した。

娘曰く、Gold Minor Doctorつまりは金鉱堀ドクターということで、全くもって意味不明であるが、何はともあれ、

問題解決ができて本当によかった。

 

 

 

 

 

レイバーデーの週末に、義弟の住むサクラメントへと行った。

そこでついでに立ち寄った場所は、昔ゴールドラッシュの際に栄えたこの場所。

 

娘達と家族で一緒に、ゴールドラッシュの歴史を探ることにした。

 

そこで、我々はゴールドマイナー(Gold Miner)つまりは金鉱堀りの生活史を垣間見ることができた。

 

中国人が開いたお店などの跡地であったり、実際に、金を採るためのクラスがあったりと、中身はかなり充実し、

子供にはよくわからなかったかもしれないが、大人はそれなりに楽しむことができた。

 

 

さて、ここで5歳の娘は、Gold Minerという言葉を覚えた。

 

将来何になりたいのか、と聞くと、誇りをもってGold Minerというようになった。

 

将来は、金鉱採掘師となり、私にも沢山お金をくれる、とも言ってくれた。

 

だが、彼女はまだ年長さん。

学校で、レイバーデイウィークエンドは何をしましたか、と聞かれた際に、意気揚々と、金鉱堀りになりたい、と

答えたらば、子供たちはまだしも、それを聞いた大人たち(娘達の行く学校にはボランティアの親が沢山いる)は、私達がどこにいったのか特に知らなかった場合、なぜこの子供がいきなりGold Minerになりたいのか、不思議に思うかもしれない。

 

それどころか、私がすぐにピンときたスラングは、Gold Digger 。。つまりは、玉の輿、という意味である。

 

既にレイバーデイから1週間以上経った今でも、彼女の将来への夢は依然としてBIGであり、

やはりまだGold Minerになりたい、と高らかに誇りをもって述べてくれる。

 

私としては、うっかり間違えてGold Digger(玉の輿)になりたい、と言わないように願うばかりである。

 

 

 

5歳の娘がアボカドトーストを床に落としたので、ついつい声を荒げて怒ってしまった。

 

アボガドが服につき服も変えなければならなかった。

 

娘は私が怒り出したことに怒り出し、終いには、I wanna die. I wanna kill myself and put knife in my tummyつまりは、死んでやる!ナイフをお腹に突き刺して死んでやる〜!とまでいつものように泣き叫びながら言い出したから、大変驚いた。これほどまでに小さな人間がこんなに酷い事を言えることに驚愕した。むろん私がそんなことを口に出したことは記憶にある限りない。一体どこでそんな言い回しを覚えたのか大変謎であった。

 

 

しかし一方でふと我に返り、ふざけていても絶対にそんなことを口に出してはいけないと諭した。死にたい、なんてことを言い出したら、人々は真剣に捉えるし、精神病院に送り込まれるとも言ってやった。

 

したらば娘は、自分の話した言葉の意味がやはりどれほどの重みのある言葉か分かっていなかったらしく、ニヤリと笑って

Oh! Because I wanna see God!!つまりは死んで神様に会ってみたかったから、と言い出した。

 

思わず笑ってしまった。が、笑って済ませる話題ではない。

 

日頃から私は娘たちに、死んだら天国で神様にあえると常々言い聞かせている。が、しかし、このようにトンチを聞かせた会話を娘がしようものなら、私も話し方や接し方を変えなければならない。

 

子育ては一筋縄にはいかないことを痛感した夜である。

5歳の娘がものすごく集中して紙を切ったり貼ったりして何かを作っていたのは数日前のこと。
 
その後気にもとめていなかったが、彼女のくまのぬいぐるみを見たらばこんなザマになっていたので、彼女へ質問すると、クマのためにハワイアンドレスを作ったとのこと。
 
 
 
 
つまりはこの切り裂かれた紙がくっついてる箇所がスカート部分であるらしい。
 
にしたってこんなみすぼらしい服をきているぬいぐるみもまた珍しい。そもそも紙で作られている服を着たぬいぐるみはあまり存在しないように見受けられる。
 
それどころか、This is a Hawaiian dress. I accidentally ripped it. つまりはこれはハワイアンのドレスで、私が間違って破っちゃったの、と白状しているので、くまのパンツ部分までもを誤って切り裂いたらしい。
 
 
 

さて、夏休みも終わったところだけど、まだ真夏日真っ盛りのサンノゼ。我が家の娘たちにも水泳を習わせることに。というか、日本に夏休み帰国した際には円安の恩恵を深々と受けて、各々45分ずつのプライベートレッスンを受けさせた親バカの私。それでも、シリコンバレー価格の二分の一から三分の一程度の価格でプライベートレッスンが受けられたので、夏休みのプライベートレッスンに合計で10万円くらい使ったとはいえど、満足はしている。

 

そしてサンノゼに戻ってからというもののレッスンに入れてなかったので、また水泳クラスに入れだしたのだが、コーチを選ぶ基準は我が家においては<美>が基本である。

 

ハンサムのボーイだと、娘たちは緊張するのである。特に5歳の娘が緊張するのである。ちなみに5歳の娘のお友達のパパさんからの彼女へのニックネームはハム。肉肉しい体つき、ムチムチ具合からしてそれは妥当と言える。なんなら私の母から彼女へのあだ名も肉団子であるので、ハムと呼ばれてるからといって、私が傷つくことは毛頭もなく、むしろ至極適切なニックネームであるととらえている。

 

その肉付きの良い娘は、如何せん究極の外見至上主義のため、かわいこちゃんが大好き。

そのため、今回私が水泳のコーチとして選抜したのが、彼女、Ruth.

 

とても楽しんで水泳のレッスンを受けている。

 

肉付のよい娘が外見至上主義なのに対し、すらりとした娘は、正直言って親の目からみても、肉付きの良い娘に比べて顔が整っているほうであるが、その娘は、外見至上主義者というわけでもない。

 

にしても、本音をいうと、肉付きがよく、さほど美人というわけでもない下の娘が、むちむちしている割には、人一倍女の子らしくふるまい、そして、実際に見かけを気にしているのは正直面白い。このムチムチ肉団子娘は、ハンサムボーイ、いや、ハンサムとは言わず、Teenagerの年ごろの男の子の目の前となると、途端にしおらしくなる。が、家では、姉である7歳の長女をいじめまくり、泣かせているわけである。

 

同じ親から生まれた子供にも関わらず、性格が違うのはみていても面白い。

 

我が家は夜涼しいので窓を開けて寝る。ところが、窓を開けてるため涼しすぎて布団が必ず必要となる。

娘のお気に入りのぬいぐるみも寒いであろうという娘からの精一杯のおもてなしをご覧いただこう。