右前方に衝撃
突然、視界が真っ暗になった。いや、「真っ黒」と言った方がいい。僕は睡魔に耐え切れず、無意識にまぶたを閉じていたのだ。
車の右前方に衝撃を感じて目を覚ました僕は、反射的にハンドルを左に切った。対抗車線に大きくはみ出した車は、急ブレーキをかけなければスピンを回避できる。僕は方向を修正しながらブレーキを丁寧に踏み、車を路肩に停めた。
外に出て衝撃のあった右前方を確認すると、右ヘッドライトのあたりに大きな凹みがあり、ガラスが砕けて反射鏡が外れ、ぶらぶらしていた。ガードレールに擦ってその反動で破損したようだ。その向こうは深い谷底になっており、ガードレールがなかったら車もろとも真っ逆さまに転落していたにちがいない。僕はぞっとしながらも自分の幸運を知り、神に感謝した。
愛車でひたすら西へ
僕の愛車フィアットは、時々オーバーヒートはしたがなんとか健在だった。
座席は一応4つあるが、スポーツカーなので後部座席は飾りみたいなものだ。ヨーロッパ車なので車体も小さい。トランクに荷物を詰め込み過ぎると、せっかく網で修理した底がぬけるかもしれない。僕は後部座席にテントのセットと寝袋を押し込み、助手席にカトリーヌを載せて、数々の思い出を懐かしみながらミシガンの大学キャンパスをあとにした。
通常、アメリカ大陸横断は10日前後の日程で組む。僕たちはそれを5日でこなそうとした。
途中、イエローストーンにも寄ってみたい。見渡す限りの畑以外何もない中西部はフリーウェイをひたすら突っ走ることにして、彼女と交代で運転した。ガソリンが空になるまでひとりが運転し、もうひとりは助手席で仮眠、ガソリンスタンドで役割を交代するという連続運転方式だ。
サボテンだらけの砂漠のような地域では、エンジンが頻繁にオーバーヒートした。誰一人通らない田舎道の路肩に車を止め、水を補給してエンジンが冷えるのを待つのは結構心細かった。ワイオミング州に入るとキャンプ場を探し、テントを張って寝袋で眠った。大自然の中での宿泊は、高級ホテルにも勝る別種の快適さがあった。
大陸横断旅行
アメリカの大学は5月中にはspring quarterが終わり、夏休みが長い。僕は9月までに日本の大学に戻れば良かった。時間はたっぷりある。いろいろなことにチャレンジし続けた1年の総仕上げとして、僕はアメリカ大陸横断旅行を計画した。
大学のあるミシガン州からイリノイ州のシカゴを通過し、少し南のルートをとりながら広大な中西部を西へ西へ、コロラド州やワイオミング州を経てイエローストーン、そしてシアトルの友人宅に2~3泊し、今度は西海岸のルート1を海岸沿いにひたすら南へ。サンフランシスコにしばらく滞在してから、さらにロサンゼルスまで南下し、そして少し内側に入ってアリゾナ州のグランドキャニオンを最終目標にした。あとはサンフランシスコまで戻って成田への飛行機に乗るだけだ。
2ヶ月以上の長旅になるので、ホテルなんかに泊まる経済的余裕はない。メキシコ登山ツアーの経験が僕を大胆にし、全行程を車泊と野宿でまかなうことにした。同じ大学の留学生数名も旅行を計画していたので、日程を決めて行く先々で落ち合うことにした。
カトリーヌというフランスからの留学生も、シアトルに到着するまで車に同乗したいと言ってきた。先輩に「お前には女難の相がある」と言われたことが再び思い出されて一瞬躊躇したが、学生時代最後の大冒険だ、女だろうが魔物だろうが何でも来いと、僕は彼女の依頼を受け入れた。
自慢の愛車
春学期が終わるまで、この車が僕の自慢の種だった。
僕の並外れた(?)デザイン・センスをいかんなく発揮したツートンカラーのボディは、キャンパスでもひときわ皆の目を引いた。「Great car !!!」などと声をかけられ有頂天になった僕は、感謝祭で親しくなった巻き毛のブロンドの女の子を誘い、近くの湖までのドライブに誘った。
外車のスポーツカーにブロンド美人の彼女を乗せ、降り注ぐ日差しの中をエンジン音も高らかにドライブする・・・ そんな映画の中でしか見たことのないような光景が、ついに自分のものとなったのだ!
自力で修理
購入後によく調べてみると、多くの問題点が見つかった。ドアミラーは片側が欠落し、トランクルームの内部はすぐに底が抜け、荷物を置くことすらできなくなってしまった。
ここまでくると、腹が据わるものだ。近くのホームセンターで買った網とボンドでトランクルームの底を作り、安いドアミラーをビスでボディにねじ止めし、ボディーの穴はパテで補修した。無数のパテの継ぎ目を隠すため、昔のスポーツカーのように派手な黄色のボディを黒のラッカーで塗り分け、ツートンカラーに仕上げるとなかなかカッコ良かった。
スポーツカーっぽいエンジン音が僕のお気に入りだったが、オーバーヒートにはその後も常に悩まされることとなった。ただしそれも、ポリケースに入れた水を常備していればいつも何とかなった。
まったくこんな車が公道を走れることすら不思議だが、何か壊れるとすぐにガソリンスタンドや修理工場に駆け込む日本と比べて、こちらは自給自足の開拓者精神が徹底している。特に車は生活の一部なので、殆どの男性は車のメカに関する基本的な知識と経験を持っており、たいてい自力で対処してしまう。ホームセンターにはありとあらゆるパーツが破格の値段で揃っているのも嬉しい。
異常にピカピカに磨き上げ、バンパーにちょっと触れただけで大声で怒鳴り散らす日本のカーオーナーたちは、車を宝石と勘違いしているのだろうか、まったくどうかしているとしか言いようがない。(そもそもバンパーというのは、その名の示すとおり、衝撃吸収パーツだ。これを使って他の車を押し出し縦列駐車するなどは、本来の目的に叶った利用法のはずだ。)
アルバイトに励む
とにかく車が無くなったという事実は、僕の生活と自尊心に大きなインパクトを与えた。ちょっとした買い物でタウンに行くのも不便になり、得意げに友人たちを送り迎えしていたのができなくなった。皆さんもご存知のとおり、いったん贅沢を味わったら、なかなか元には戻れないものだ。
僕は再びアルバイトに猛然と精を出し、2ヵ月後に、今度は175ドルの車を新聞の広告欄で見つけた。驚くなかれ、今度は憧れの外車だ。
フィアットの850 Sports Coupeというこの年代モノのイタリア車は、道路に塩を撒くミシガン州の冬に十数年も耐えた結果、ボディーは穴だらけ、シャーシーは錆だらけの代物だった。錆に不安を感じた僕は、僕の車をNYに置き去りにしてきた友人(彼は車に詳しい)に頼んで試乗してもらい、「いいんじゃないの?」と言う彼のコメントを鵜呑みにして、購入を決意した。
車が無い!
ツアーから戻ってきたばかりの僕を、不運が待っていた。僕の車が、ニューヨークのガソリンスタンドに置きざりにされているという事実だった。
冬休みが始まる前、僕はある友人から「車を貸してくれ」と頼まれ、引き受けたのだ。彼は、実家が同じニューヨーク方面のクラスメート数人と一緒に車で帰省し、飛行機代を浮かせようと計画していた。ところがニューヨーク到着後にガソリンスタンドで給油をした際、店員にシャーシーのサビを指摘され、「この状態でハイウェイを運転したら空中分解する」と言われてそのまま置いてきたそうだ。
冗談じゃない、必死でアルバイトをして貯めた金でやっと買った150ドルの車だ。せめて40ドルもした新品のバッテリーだけでも持ち帰って欲しかった。彼は責任を感じたのか、「お詫び」として僕に40ドルを差し出した。少し気が引けたが、妥当な額だろうと、僕は受け取った。
ところが、彼と一緒にニューヨークに帰省した女学生たちからは、ごうごうの非難を浴びた。
「彼からお金を受け取るなんて何と言う神経をしているの? 私たちはあなたのボロ車のせいで、帰路は止む無く飛行機よ。もう財布はスッカラカン。こちらが損害賠償を請求したいぐらいだわ!」
というのが彼女たちの理論だったが、ボロ車かどうかは余計なお世話だ。借りたいと言ったのはそっちだし、それで帰省するのは自己責任だろう。こちらは友人の頼みをきいたばかりに大切な車が無くなった。キャンパスで静かに乗っていれば、まだまだ使えたはずだ。
チェックアウト
翌朝、ひとりがチェックアウトの手続きをしている間に、僕たちは音を立てないようにひとりずつ部屋から抜け出した。
不運なことに、僕は最後の退出者だった。フロントデスクの横を何食わぬ顔でゆっくりと通り過ぎようとする僕の斜め後ろから、疑いの視線を感じた。続いて僕を呼び止めるような声がしたが、僕は反射的に歩調を速めた。そしてそれがいつの間にか全力疾走に変わり、大声で叫びながら追いかけてくるホテルの従業員を振り切るようにして、僕は待ち受ける車に飛び込んだ。
ぎりぎりセーフだ。急発進する車の中で、皆が拍手喝采で僕を迎えてくれた。
ふたつの贅沢
さあ、あとは帰るだけだ。国境を越えれば再びノンストップの長旅になるので、せっかくのメキシコを少し楽しもうということになった。ふもとのAmecamecaでは1~2時間滞在し、おみやげを買った。
そしてメキシコシティーまでのドライブの途中、僕たちは登頂成功を祝福する意味で今回のツアー最大の贅沢をした。マックドナルドに寄ったのだ。ハンバーガーがこれほど美味いと思ったことはなかった!
その晩はもうひとつの贅沢として、ホテルに滞在した。とは言っても、貧乏旅行の予算が許すはずはない。ひとりが安いホテルのシングル・ルームを借り、あとからこっそりと、ひとり、ふたりと部屋に忍び込むのだ。
シングルの部屋に9人はさすがに辛く、大半は床で眠ることになるのだが、僕たちには寝袋という強い味方がある。一番嬉しかったのは2~3週間ぶりのシャワーだった。われ先にと交代でシャワーを酷使した結果、シャワールームの排水が追いつかず、ホテルの部屋はあやうく水浸しになるところだった。
その晩は、全員が死んだように熟睡した。