生命の科学 復習・応用編 VOL5 エゴとの決別 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。



一つ目の記事です。


特筆すべきは肝臓と見られる内臓への照射開始、

そしてブログ更新妨害が更に激化と言うことです。


詳細は明日でも報告します。


夕方になり再びメンバーが変わったようで
性器への攻撃に腸の異物攻撃も強化されています。


背中から肝臓あたりへの攻撃もありますし

それが何を主目的としているものかは判りません。


私が民族や宗教にある程度歩み寄りを見せても
それら一つ一つの壁は厚いでしょうし


ましてそれを重ねて持っている人間となれば
私の事を理解するのは増して困難なのかもしれません。


それにユダヤ組織の誘導があります。


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音声送信を使用しては
それを高級霊のお告げと見せかけている組織の被害者が綴る
人工テレパシーの悲劇。


興味深く綴っているサイトがありました。


http://tanemura1956.blogspot.jp/2012_09_01_archive.html


本当のテレパシーが人の声で語りかけてくるものでないことを
理解していないからこそ


人間の悪意を持っての関与を高級霊のお告げだと
勘違いする事にもなります。


明言しておきます。高級霊など存在していません、


そしてテレパシーは人間の言葉として
お告げを与えるものでもありません。


多くの聖人達は今でも肉体を持って
この宇宙空間のどこかの惑星で暮らしている。


そしてテレパシーは印象であり閃きであって
人の声で聞き取れるのは音声送信という
ニューロフォン技術を使用したまやかしだと言うことです。


彼ら信者はある意味被害者だと言えますね。


ハイテク技術の悪用の被害者なのです。


これの応用は

例えば


クリスチャンに神や聖人や天使を語って
脳内に語りかける。


悪魔や高級霊や低級霊を語っては脳へと語りかける。


組織の工作員に指令を与える。


被害者に嫌がらせをする。


用途は多岐にのぼります。


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最初にオカルト関係?に少し触れてみます。


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773 :神も仏も名無しさん:2012/10/12(金) 18:15:29.96 ID:LGkrAtWg

敬虔なるクリスチャンのみなさん!!
http://toro.2ch.net/occult/index.html#1


カバラ魔術といった異端の術の実践者が、日本にも大勢いて、
2ちゃんねるのオカルト板に集まっています。


カバラ魔術とは、オカルト的な儀式により、人間である自分が、
神と合一できるという、恐ろしいカルトです。


どうか、異端を論破してやって下さい。
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オカルトや呪術と言われるカバラを使用しているのは
フリーメーソンやその上部の人間であり
大元はユダヤがその秘術を利用しているのは知られています。


ヘブライ語の聖書の文字を一定の法則により数字に置き換えて
そこに意味を見出すという手法もあるようです。


大元は、例えば風水のような
見えない創造主の法を数式に置き換えて


他人の運命をも計算するような
そんな手法でもあるのだと想像していますが詳細は不明です。


ただ、アダムスキーは一切の呪術的なものや
魔術的なものは同じ悪しき系統から来ていると言っていましたし
私達は一切関わらない方が良い事だけは間違いありません。


今現在もユダヤ関係者が災害を起こす時や
人間を暗殺するときに、年齢や日付けに拘っているのは
そこに呪術的な意味がある事に間違いないはずです。


【神と合一できる】


そんなことがカバラでできるのであれば
今頃敬虔なユダヤ教徒は皆創造主の法に従って
生きていることでしょう。


彼らがそんな生き方などしていないことは
私達の社会を見れば判るのですし、


つまりはカバラなどでは創造主の意志を
正しく受け止める事など出来ないということ。


創造主の法則の一部を数式に置き換えて
それを利用しているのがカバラではないかと思います。


彼らは創造主の法の存在を知っていながら、
それを利用はするが、その生き方に従うつもりはないということです。。


呪術事に血の生贄、


悪魔の儀式と言われるものは、大昔の王の時代に
生贄を求めることで人々に自分達の権威を見せ付けた
神官達の横暴の延長にこそあるのだと私達は理解すべきです。


彼らは”神の名の下”に神のお告げだとか
神が所望しているという名目で生贄を求め、


その生贄を市民の前で殺害することで
自分達の恐ろしさを市民に植え付け権力を見せ付けたそうです。


ユダヤ教の神が生贄として動物を求めたり
その血を塗ったりする事を命令したという話はありますが


イエスキリストは創造主の言葉としてこのように触れていたはずです。


「私は哀れみは好むが生贄は好まない」


慈愛に満ちた創造主が何故に生贄など要求するのか?


その習慣を作り上げたのは他の誰でもない人間なのです。


そして生贄を必要とする儀式などをしている人間達は
創造主の意志とは無縁の存在だともいえます。


魔術や呪術に触れてはいけない理由を、
私の理解できそうな範囲で触れれば


その大元となる意識からも、
その儀式により集まってくるエネルギーは
負の想念の集結したものだからです。


私達の想いはエネルギーとして蔓延するだけではなくて
それは他人によって認識されることもあります。


人間が悪魔を想えば、その悪魔は時には他人によって認識され
それをその人間が恐怖し再びイメージすれば
その悪魔と言う存在は更に想念という形でこの社会で増加していきます。


一連の悪魔儀式などは、
彼らの発する悪しき想念や悪しき象徴への想いが
一段と膨らまされる機会となるでしょうし、


そこで生贄を使用すれば殺される生物や人間の
恐怖の想念まで発生することになります。


悪しき思いはどんどん膨らむ。


そしてこれが時には同じような波動を強く持っている人間達の
ところへと集中していくことになる。


だからこそ時には悪魔的と呼ばれるような
人間が現れるのでしょうし、
私達人間は負の想念に囚われることで悪魔と化すのです。


それは病の原因にもなると思います。


悪魔は負の想念のエネルギーであり
同時にそれを身に纏った私達人間なのだと思います。


そしてあらゆるオカルトと言われる現象を
引き起こして見せているのだと私は想像しています。


悪魔付きなどという現象もおそらくは自己暗示と
このような悪しき想念の影響ではないかと想像しています。


日本では悪霊、でもクリスチャン圏では悪魔。


結局はそこで暮らしている人間の思い込みが
そのまま現れているのではないでしょうか。


悪しき想念が私達に病や精神的な不健全な状態を
齎す事があることも確かですが


その悪しき想念で私達が満たされれば
私達は必ずその影響を受けることになる。


私達の行動を誘導するのは脳機能としての心でしたが


その心に影響をもたらすのが
私達の細胞にも染み付いた悪しき想念であると言うことは
生命の科学でも取り上げました。


アダムスキーの言っていたエゴに従う悪魔細胞の話です。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11185545547.html
生命の科学 VOL61
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11147512181.html
生命の科学 VOL60
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11339078609.html
続・宇宙の法則 VOL11 細胞と想念


想念によって細胞の成分が物理的に変化するかどうかは判りませんが、

私達が取り合えず理解すべきは、


悪しき習慣は身に染み付いていて
それは細胞単位にまで想念として張り付いていて
それが私達の行動をも左右する事になると言う事実だと思います。


しかしその習慣を染み付けた細胞を改善するのは
容易ではないという話もしていました。


私達が記憶から影響を受けるように
想念は記憶を伝達する手段ともいえます。


それが身に染み付いていればその記憶が何らかの価値観を作りあげ
今度は私達の行動に対して影響を与えることもある。


しかしそれが悪しき想念であれば、私達はまたしても
心に囚われる事になるのでその改善を図らねばならない。


そのためにも悪しき習慣に関しての
改善の話をしていたのだと思います。
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目に見えない”想い”が、
実はこれほどにまで私達に大きな影響を
与えているという事に私達は気がついていません。


脳機能であれば長年同じ行動をとり続ければ
その一連の行為は恐らくは思考としても
深い皺となって私達の脳に刻み込まれることになります。


しかしその刻み込まれたことで
私達はその思考と行動を制約される事にもなるのです。


外部から同じ刺激を受けた時に
私達が経験の中で記憶し繰り返してきた意識は
それに対して同じ反応を返します。


私達の癖とか習慣と言われるものがそれです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11215105361.html
生命の科学 VOL82


私が好きだったバックトゥーザフューチャーという映画の
主人公はいつもは聡明なのですが


他人に「チキン(臆病者)」と言われると
突然切れてしまうという癖がありました。


映画がVOL2 VOL3と進んでもその癖は消えませんし
成長が無いと笑わせることがそこでの演出だったのでしょうが、
例えばそんな反応です。


それを長い時間改善せずに繰り返し続けると
私達の中でそのような反応は脳に深く刻み込まれて
条件反射のごとき状態になるはずです。


それは外部からの刺激に対する感情の反応だけではなくて
思考パターンに関しても同様です。


オカルトを一切認めない人間で
「宇宙人など存在しない」と思っている人間であれば


矢追純一氏のUFO特番を目にすると
そんなことはありえないと言ってチャンネルを
変えてしまった事でしょうし


その思考を延々と持っていれば
私が取り上げているアダムスキーのコンタクトした
スペースブラザーズに関しても


「そんなものは存在しない」
と一笑に付すかもしれません。


グレイなる宇宙人の存在を信じつけている人間にとっては
ロズウェルで墜落した宇宙船も


地球に頻繁に飛来していた宇宙船も
すべては彼らの乗り物となってしまいます。
(以前の私がそうでした)


つまり習慣であっても脳に深く刻み込まれた価値観や記憶は
その後の私達の生活の中で私達の行動や思考や言動に
延々と影響を与え続けるものだと言うことです。


そしてこれは悪しき想念を持った細胞の反応と同様に
私達の意識を支配し続けている事になります。


心の価値観を作り上げている主たる要素でもあります。


つまりその改善は容易ではないのです。


パウロあたりは”肉の想い”とか”肉に従う”と言う表現をしていましたが


私達が心として従っているのは脳機能であり、
その価値観であり、同時に身に染み付いた想念でもあります。


私達は自分の意識を変えようとするならば
この見えない思考の元となる価値観や
想念を変えなければならない事になります。


しかし今まで私達がそれに従っていたという事は
その行動や意識が私達の心にとっては楽だったと言うことです。


防衛機制もそうですが、
心は自分を守るために、自分を心地良い状態に置くために
独自の反応をしては私達を導いているのです。


私達は長い時間をかけて
心にとって心地良い状態を作り上げて来たことになります。


心が求めるものは自分個人にとっての満足です。
その多くは個人的真理、すなわちエゴから出ているはずです。


もしも私達が心に従うのを止めようと思えば
今度はその慣れ親しんだ心の価値観を変えなければなりません。


今まで当たり前だった心の反応をも変えねばならないことになります。


そんな反応全般を私達は改善していかなければならないのです。


そしてこの引用したアダムスキーの話へとつながって行きます。


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エゴを支配する


エゴを支配する道を進むのは容易ではありません。


「私の意志ではなく、あなたの(創造主の)意志がなされるのです」
と喜んで言えるようになるまでには、


人間はたびたび個人的苦痛という暗黒の夜を数時間、数日または数カ月もすごしながら、
肉体人間のエゴと闘わねばなりません。


しかもそれまでに人間は何度叫ぶことでしょう。


「ああ、父よ、この苦しみを除きたまえ」と。


 エゴの生活、すなわち”私の意志”による生活をすごすのは容易ですが、
自分自身を”創造主の意志”に任せるのはきわめて困難です。


変化の過程において弱い自我が突き抜けねばならぬ闘いは
ときとして最大の苦痛をひき起こします。


穏和や温順な状態に達するまでには長年月を要します。


毎度のことながら、宇宙的な表現のための非個人的な径路になろうとする人は、
自分に強さ、理解力、信念などがあるか否かを試す、
胸の張り裂けるほどの辛い試練にあいます。


人間は真理という鏡の中にすすんで自身の姿を映して見る必要があります。


ときとしてその姿があまりにいやらしいために、しりごみし、
どの程度の人格かを最もよく語ってくれる最大の伝え手から顔をそむけてしまい、
生命の表現の中にひそむ神性の欠乏により茫然自失の状態になります。


自身の肉体の魂に直面すると、
本人はのがれることのできない絶望の沼の中に投げ入れられ、
悔恨と自己非難の流砂の中に引き込まれます。


一方、心が純粋で、目的が真摯な人だけは、
自分の行動や想念に直面することができ、
こうした啓示にしりごみしません。


このようにして高地ヘ登った人は、信念による自分の再確立と、
愛による自分の純粋化の必要を感じます。


前述の鏡の中には、進化の道でつぐなわねばならぬ天罰、
すなわち誤った行為の反応という姿がしばしばあらわれます。


ときとして他人のとるに足りぬ弱さの上に自分がいると考える人は、
この啓示の鏡の中に自分の本当の姿が映し出されます。


それはエゴの欲望のもとでもがいている肉体人間としての自分、
意志の力によって”結果”を造り上げ、


他人の目に自分が偉大に見えるような知恵を求め、
同胞の上位につこうとする力を求める自分の姿です。


自身の内部に常に見いだしている些細なあせりの気持ちは、
肉体人間のプライドと野心の結果であることが本人にわかるでしょう。
こうした事のすべては、エゴを支配する道を歩み始めた人に与えられます。


これらを謙虚な心で認めねばなりません。


人間が真理の鏡をのぞき込み、自分個人のエゴの行為を見つめて、
しかもその恐怖に打ち負かされなければ、


本人は自分の行為のすべてが正当に評価される場所ヘ前進するでしょうし、
ここで自分の正当な分け前にしたがって、
過去の行為を清算するエッセンスの満ちた浄めの杯が与えられます。


人によってはその杯は大変、にがいでしょうし、
あえてそれを飲もうとせずに捨ててしまう人も多いでしょう。


こうした人に対しては鉄のドアーに通じる小道が開けており、
そこからさらに世俗的な物に満ちた薄暗い部屋があって、
その中で本人はまだ学ばなかった物事をふたたび体験するかもしれません。


 一方、真理の鏡の中に自己の姿を見たあと、
自分たちがずっと以前にエッセンスを入れておいた杯を手にするために、
不屈の勇気と愛の心と不滅の信念とをもって前進する人もあります。


この人たちにとっては別なドアー、すなわち純金の美しい門があらわれるのです。
この戸口の前でその人たちは、彼方の美しき物の”意識による知識”の閃光を
浴びるために立ち止まることを許されます。


 しかしある人にとっては自分が飲んだにがい杯が
自分の肉体の魂を変質させて、謀反、怒り、憎悪、自己憐憫、不正感、
その他無数の破壊要素の煙を立ちのぼらせるでしょう。


もし知覚的な肉体の心が弱ければ、右のすべての奴隷になるでしょうし
本人の内部に激しい混乱も生じるでしょう。


こうした場合、本人は体験という部屋の中ヘ導き入れられて、
そこでふたたび未来の試練のための力をつけるように努力するでしょう。


 黄金の戸口の前で立ちどまる少数の人は、自己の純化によって、杯の中味を超越し、
自分の唇に苦かった物を甘美にし、内部の自我にたいしてエッセンスを活気づけます。


他人にとって毒杯であったかもしれない一杯は、
こうした人にとっては新生の霊薬となります。


しかもこのような状態に達したならばさらに大きな試練があるのです。


本人は世俗の人々の肉体の苦しみ、利己主義、憎悪、貧欲などを見るでしょうが、
しかし創造主と同じほどに真実な、自由な、純粋な心をもって、
すぐに”宇宙の神聖さ”の上に自分の姿をとどめます。


このような人が容器(自身)をきれいにし、エゴのない状態に保ち、
意識の行為において心底より誠実な声で
「私の意志ではなく、創造主の意志がなされるのである」と告白できるならば、


そのときドアーは内部に少し開かれ、道を進む人に光が輝くでしょう。


求道者の神殿(肉体)をつらぬく光はますます強くなり、
いまや試練は更に大となります。


なぜなら、この増大する力とともに、より大きな意志、知識、力がわき起こるからです。
これはたしかに最高の試練です。


なぜなら、ほんの少しでもエゴの欲望があり、エゴの考えがあるなら、
ドアーは広く開かれず、探求者はしきいの上にとどまらねばならないからです。


そして本人は肉体人間のプライドという苦しみを通じて、
ふたたび謙虚さを知り、その光を非個人的に用いることを学ばねばなりません。


ときおり、充分に理解できる状態にまで昇華する人がいます。
このような人は多くの生まれ変わりを通じて、倦むことのない行為により、
エゴの欲望という迷路を骨折りながら前進して、肉体の魂を支配できるようになったのです。


 これまでに私の言葉に耳を傾けてきたあなたがたの多くは、
”意識による啓示”という鏡の中に自分自身をよく知覚する特性を与えられてきました。


たぶんあなたがたは自分の弱さに失望落胆したかもしれませんが、
ダウンしてはいけません! 光に向かうあなたがたの進歩は遅いのです。
 

あなたがたは、”自分の未来の成長”という花が、
本当の、しっかりした茎の上に支えられることが可能になるように、
いま自分をがっちりと根づかせているということを思い起こしなさい。


あなたがたは大地の暗黒の中に横たわっている小さな種子のようなものです。
満開の花になるのに、あせってはなりません。


”自己の意識”という天空の中に高く輝く栄光の炎にむかって、
あまりに急ぎすぎないように、コンスタントな前進を続けながら成長してください。
まず自分を支える強力な根を作るように努力しなさい。


信念、忍耐、寛容、愛、同情など、
これらはあなたがたの生命を後になって支えてくれる根なのです。


 肉体人間の利己的な想念をひとつずつあなたの意識から消し去らねばなりません。
しかしそうするためには、ひどい苦痛が生じます。自分でそのようにしているのです。


けれども一方では、責め苦にさいなまれるエゴが火花となって飛び散ることにより、
あなたがたの心は自由と再生の新しい誕生に加わることになります。


エゴを支配する道を行くのは容易ではないと私は言いましたが、
しかしこれはたとえようもなく美しいものなのです。


人間の内部に苦痛が発生すれば、それは新生という局面をも生じさせます。
したがって、コンスタントな活動を行なって前進しなさい。


そしてあなたがたが”宇宙の理解”という黄金の門を通りたければ、
勇気と、そして特に”愛”を持たねばならぬことを覚えておきなさい。

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私達のエゴは自分を美化します。


心は自分こそが可愛くて、自分を心地良い状態に保つためにこそ
ありとあらゆる方法で私達をコントロールしていると言ってもよいと思います。


私達の場合は他人を愛する気持ちでさえも
自分の心の心地良さに由来していることに
私達は気がついていると思います。


それはイエスキリストの言っていた愛ではありません。


時には他人に奉仕して見せても
それさえも自分のエゴを満たす行為であったりするのが
私達の実態なのです。


勿論個人差はありますが、
例えばエゴのプライドは時には私達に嘘をつかせ
その事で自分を大きく見せようとさせます。


私も以前は人並みのプライドがあったので、
そのプライドが自分を満たせと自己主張を誘導し
見栄を張る事を求めていた事も理解できます。


ただ、時には他人が自分の反面教師になり
私のプライドは徐々に削られ、へし折られ?


社会の底辺の存在になってからは
気がつくと限りなく粉々になりつつあります。


おかげで自分を大きく見せようという意識は
限りなく減りましたし、
今は正しい理解を求め続けています。


他人との関係で自己に優位を感じたい。


そんな時にもプライドは働くようです。


学生時代の知り合いにすごい見栄っ張りの人間がいて
何かと他人と競い、自分の優位さを表現していたのですが


その人間に実力が伴っていない事を何度も目撃しては
その人間に学ぶ羽目になった事も数多くあります。


その人間は自分を大きく見せることで
自分のプライドを満足させていたのだと思います。


勿論、私も若いころは自分の見栄のために
嘘をついたことだってあります。


私も今のような世捨て人?ではなくて
普通の一般庶民だったのです。


自分が可愛くて仕方のない心は、
時には不快な物から逃避することになります。


私は社会の中で転職を繰り返しましたが
職場の中で嫌がらせや悪意の悪評を流されて


その状態から自分が置かれる事になる不遇の立場に
我慢ができず、逃げ出し続けた人間でもあります。


自業自得であれば仕方がありませんが
他人の悪意に自分が傷つくことが我慢できませんでした。


ただ、私は逃げなければ
自分が一度は壊れていた可能性もを感じています。


心のエゴが必ずしもすべて間違いと言うわけでなく、
それを我慢しすぎると自分が壊れると言うことをも
時には本能で知らせてくれるのも心の様です。


心は本能的に身を守る手段をも
私達に意識させる器官でもあるようです。


そして人間同士の間であれば
自分の心が心地良い空間、心地良い相手を選んでは
そんな人間とばかり関わろうとする事もあります。


結果的に心が求めているのは自分が楽であること
自分が心地良いこと、そして自分が立派であると見せることなど


すべてがエゴと本能と言っても過言ではない価値観に基づいています。


それを肉の想いとパウロは表現したのです。


そこから出てくる想いはパウロによれば。

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肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、

偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
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不品行、汚れ、好色は性的本能などに基づく
私達の悪しき心の意識ですし


偶像や魔術は誤った心の価値観に基づく
私達の誤った行動、


敵意、争い、憤り、党派心、分裂、分派は
私達の好き嫌いや、自分の価値観に基づき
他人を裁いた(評価した)事にも由来するものです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/day-20120904.html
ワンポイント 聖書解釈


キリストは想念についてこう取り上げています。

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また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。


内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、


姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、


これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。

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http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11153006971.html
真訳聖書 VOL24


イエスキリストの挙げた例は
私達が自分達を可愛いと思うがゆえに


他人に対して実行する行為や
他人に対して持つことになる悪しき想念と言えると思います。


これらは実効しなくても思っただけで
想念として私達の体から発せられるものです。


そして、これらは単に内から出てくるだけではなくて
人を汚すと言っています。


勿論その想念の想いが私達に染み付いたり
他人に負の想いの影響を与えると言う意味です。


そしてこのような想いから開放されるためにも
私達は心の意識を改善していかねばなりません。


しかしアダムスキーが語っているように
そのためには私達はまず自分の姿を美化せずに
正しく認識する必要があるようです。


心は自分を美化し続けてきました。


しかし私達はその心が作り上げてきた美化された自分ではない
真の自分の姿を見つめなければならないわけです。


女性に怒られそうな例えをすれば
一日1時間かけた厚化粧で自分を飾っていて、
その事で多くの心地良い思いをしている人が居たとすれば


その化粧により自分が満たされている心地良さが
どのような効果であるかを認識し


自分のすっぴんの顔を鏡に映して
それこそが本当の自分の姿であると認識する。


化粧美人であればその行為は心地良いものではなくて
変身後の自分こそが本当の自分であると思いたいかもしれません。


しかし私達は自分を裸にしてその着飾っていない真の姿を認識し、
それを自分だと認めなければならないと言うことです。


男でも女でも化粧や整形や着飾ることで
自分を少しでも見栄えを良くしたいと願うのが私達の社会での常です。


そして誰もがそんな意識を持っています。


そしてその意識は私達の心が自分に対して働きかける意識
そのものだと言うことになります。


でも私達が心の化粧や整形を取り払わなければ
正しく心を認識することもできません。


私達が認識すべきなのは着飾っていない
自分の実態だと言うことです。


そして正しくそれを見つめなければ心を改善すると言う意識にも
ならないでしょうし改善のしようがないのです。


真の自分が美しくないと認識しているからこそ
それを着飾ろうとする私達がいるのですから


私達はその真の姿を認めるところから
始めねばならないわけです。


そして人の美しさは見映えだけでは無いことを
私達の多くは気がついていると思います。


アダムスキーはその行為はとても苦しいものだと触れています。


自分を美化したい、自分を高く評価されたい


自分こそが可愛い、そんな意識を持っている私達から
心地良さを奪って現実と直面させる行為。


私達のエゴは悲鳴を上げるほど苦しんで、
それに囚われている私達も苦しむことになるようです。


でも地道であってもその行為を繰り返さなければ
私達は変わる事ができません。


私達は真の自我である魂に従うためにも
自分自身の実態を理解し、


心へと張り付いているその悪しき思いを
剥がしていかねばならない。


誤った価値観や思考を改善し
高いプライドや、強い本能を押さえつけ


心の暴走を止めることで、今度はその心に
真自我としての魂の価値観を刻み込んでいく必要があるのです。


それを実行する気になった人間こそが
変わることが出来るのだと思います。


イエスの言っていた
「私達は幼子のような心にならなければ天の国に入れない」
と言う意味がよくわかる気がします。


私達は一旦塗ってしまった色で染まっていて
その影響を受け続けているわけですから
赤子のような心、つまり白紙に戻るためには


それまでに染め続けてきた色を一旦消す必要があります。


そのためにも慣れ親しんだ心のエゴに従い
おごり高ぶった意識でいてはいけないわけで

子供のごとく謙虚な意識こそが要求されるのだと言うことです。


そしてその上で先入観のない子供のような
白紙の心になる事を求められているのだと思います。


アダムスキーの生命の科学の中でも触れていましたが


生まれてきたばかりの赤ん坊は恐怖を知りません。


恐怖と言う体験をする事で初めてそれを知るのだと言うことでした。


同様に私達は生活環境の中で、
自分を美化する事で得が出来るという思考や、
自分の心を心地良くする手法を学んでいくのだと思います。


生まれた時から繰り返されて来たその行為を
私達は根底から改善しなければならない。


イエスキリストに”死人”と評される私達は
生き返らなければなりません。


放蕩息子がそうであった様に
本来であれば何かのきっかけが無ければ、
それは中々実現する事も難しいかと思います。


多くの場合は私達は体験の中から多くを学ぶことになりますし
自分を変えることになるような経験は恐らくは
とても痛い目に遭うような体験だと思います。


しかし私達は、わざわざ体験をする事で痛い目に逢わなくても
それを学ぶきっかけを得ているのですから
後はそれを実践すれば良いのです。


私達は過酷な社会を生きていますが
一方では真理へと近づく近道をも手に入れる事が出来ました。


後は自分の自由意志の選択しだいで


心に従って生きるも良し、魂に従って生きるも良しという
話になってくるのだと思います。


私達は魂に従って生きていきましょう。


【貴方に無限なる力の祝福がありますように】


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P.S.

以前から池袋を歩いていて気がついていたのですが
どうやら私の記事を読むように勧めてくれている組織があるようです。


残念ながら難しいとか

そんな言葉が頻繁に聞こえても来ます。


もう少し具体的な話を取り入れて
容易に説明できれば理解者も増えるのでしょうが
今のところはこれが精一杯なのです。


http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11367974641.html
生命の科学 復習と応用編 VOL1 前半
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11367969085.html
生命の科学 復習と応用編 VOL1後半
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11368897207.html
生命の科学 復習と応用 VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11369748271.html
生命の科学 復習・応用編 VOL3 カルマは解消できる?
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11370292500.html
生命の科学 復習・応用編 VOL4 潜在意識のカルマ
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11248386708.html
生命の科学の基礎講座 VOL1
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11249461717.html
生命の科学基礎講座 VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11249462098.html
生命の科学基礎講座 VOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11260739002.html
真の進化
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11259205375.html
All You Need Is Love
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11081144022.html
生命の科学 VOL21
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11130003226.html
生命の科学 VOL51