私、久々に風邪をひいて床に臥せっていました
今はもうだいぶ回復したのですが、それでもまだ咳が止まらないのがつらいですね。
咳って体力を消耗するだけでなく、精神も削られる感じがして嫌いです。
心臓や肺の循環器系の病気ってメンタルに多大な影響を与えますよね。
それは、胸のドキドキや息苦しさが身体的な病によるものなのか、精神的な不安によるものなのかを混同し、錯覚して、精神が過敏になり、本来必要のない不安まで感じてしまうからなんでしょう。
ともかく「ゴキゲン」でいるためには、健康って何よりも大切だなぁと、しみじみ思う今日この頃なのでした
そんな病床にあって、繰り返し聴いていたのが、
昨年リリースされた白井貴子のニューアルバム
”涙河(NAMIDAGAWA)〜白井貴子「北山修/きたやまおさむ」を歌う”
でした
涙河(NAMIDAGAWA)白井貴子「北山修/きたやまおさむ」を歌う
3,240円
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白井貴子とは
https://ja.wikipedia.org/wiki/白井貴子_(歌手)
80年代、「学園祭クイーン」「ロックの女王」「総立ちの貴子」と呼ばれ人気を博していたロックシンガー。
白井貴子がデビューした頃は、女性がロックをやるなんて、まだ一般的ではなかった時代。
貴子自身も当初は”ポップス”、”ニューミュージック”の扱いで、そのようなアレンジの楽曲で売り出されていました。
それでも彼女が音楽を志したきっかけである、ビートルズへの憧れを捨てきれずに、ロックバンド”白井貴子&CRAZYBOYS"を結成。
活動の場をライブハウスへ移して「女性ロックシンガー」の道を切り開いていきました。
しかし、そうした先駆的存在でありながら、現在、80年代「女性ロック」が語られる時、白井貴子の名前が挙げられることは、残念ながら稀です。
80年代「女性ロック」と言えば、貴子の事務所の後輩の渡辺美里「My Revolution」、レベッカ「フレンズ」、PRINCESS PRINCESS「世界でいちばん暑い夏」なんかが真っ先に取り上げられるでしょう。
これらの曲がヒットした80年代後半。
ようやく「女性ロック」が陽の目を見てブームが訪れたにもかかわらず、彼女はその波にうまく乗ることができずに、ヒット曲を生み出すことができませんでした。
このころの音楽シーンはひと月ごとにめまぐるしく変化していた時代で、時代にちょっと先行していた彼女の存在自体が、もはや”古い”と受け取られていたかもしれない。
また彼女自身も、巨大化の一途を辿る音楽ビジネスが要求するものと、自分の求める音楽との齟齬からくる軋轢に耐えきれないでいた。
そして、1988年にこれまでのキャリアを全てを捨ててイギリスへと渡り、音楽シーンから忽然と消えてしまったのでした。
ところで、そんな彼女が活動を休止していた1988年から1990年という期間は、たった2年間ではあったものの、この2年間は日本の音楽シーンにおいて、最も重要なターニングポイントでありました。
それは1989年に放映開始された『三宅裕司のいかすバンド天国』略して”イカ天”が象徴する一大ムーブメント、「バンドブーム」の隆興でした。
このブームを境に”ポップス””アイドル””歌謡曲”で占められていたヒットチャートは、雨の後の筍のように生まれてきた”ロックバンド”や”アーティスト”たちに取って代わられ、「ザ・ベストテン」に象徴される、これまでの”歌謡曲”は一気に過去の遺物となってしまいました。(「ザ・ベストテン」が終了したのが1989年9月)
この”バンドブーム”によって巷では、とりあえず仲間ができたら「バンドやろうぜ」って感じで、猫も杓子も、楽器ができない輩までもが、誰もが皆んなこぞって”バンド”をやり始めるようになりました。
このことは、若者の音楽との関わり方を大きく変えるきっかけとなりました。
”バンド”は、それまでは音楽の才能に秀でた一部の連中だけの特権でした。
それが流行という形で敷居が下げられたことによって、その特権が大衆の元へと、「誰もが楽しめる」身近な娯楽へと引き摺り下ろされるようになりました。
また、こうして”聴衆”と”演者”との垣根が低くなり、相互交換が容易になったことによって、”バンド”というものが、単なる音楽活動ではない、仲間をつなぐためのコミュニケーションツールとしての意味合いを強くしていきました。
そして90年代の音楽は、こうした大衆化された”バンド”を下地として、さらに敷居の低い”カラオケ”へと引き継がれることになります。
”カラオケ”は、楽器の練習などしなくても、マイクを握るだけで誰もが簡単に”演者”となり、”主役”となることのできる、新しい音楽の楽しみ方をもたらした。
そして”バンド”よりも遥かに手軽に、老若男女問わず、簡単に人と人との間をつなぐことのできる「最強の」コミュニケーションツールとして大いに受け入れられ、新しい文化として発展していった。
ここにおいて音楽の”民主化”が完成され、裾野の大きく広がった音楽ビジネスは、ミリオンセラーが絶えず連発されるような巨大産業として最盛期を迎えることになったのでした。
そんな音楽シーンの重大な転換期の渦中にありながら、早々と離脱してしまった白井貴子。
そのために彼女は時代に名を残すことができなかった。
しかし、あのまま無理に続けていても、彼女自身が語るように、音楽自体を辞めてしまっていただろう。
あの時一度立ち止まった、そのおかげで30年近く経った今もなお、現役で音楽活動を続けて来られた。
そして立ち止まったあの日から、「売るため」の音楽は捨てて、自分が思い描く理想の、「私のため」の音楽を追い求める旅を続けてきた。
そんな彼女が奇しくも出会ったのが、オリコン統計初のミリオンセラーである「帰って来たヨッパライ」を世に送り出したザ・フォーク・クルセダーズの北山修。
北山もまた、売らんがための音楽に辟易し、一度音楽シーンから身を引いて、精神分析医の道へと進んだ人物でした。
「ロックの女王」と「フォークの巨匠」
違うジャンルの二人でありながら、二人の音楽に対する思いは重なる部分がとても大きい。
そんな二人が交わって生み出されたのは、
「ロック」であり「フォーク」でもある、とても奇特で、とても個人的な
”私たちのため”の音楽でした。
この「涙河」というアルバムは元々、北山修の過去の名曲「あの素晴らしい愛をもう一度」や「戦争を知らない子供たち」などを次世代へと歌い継ぐ、という意図で企画されました。
しかし制作を進めていくうちに、カバーだけではなく自然と、白井貴子との共作による新曲が3曲出来上がって、このアルバムに収められることになりました。
そんな中の一曲が、今回取り上げる、
「返信をください」
です。
この歌詞。
いわゆる「既読スルー」を歌にしてるんですね。
好きなあの子に想いをしたためてメールを送るも、華麗に「既読スルー」
それに対して、「届いてないですか?」「あなたのアドレスはまだ生きていますか?」「あなたのスマホはまだ生きていますか?」
と問い詰めるわたし
実際にこんな追撃をしまくったら、嫌われてなくても、「キモい」と嫌われること必至でしょう
しかしそれを臆面もなく、「返信をください」と言っちゃう彼は天然さんなのか?とんでもない鋼のハートの持ち主!そこにシビれる!あこがれるゥ!
…なんかヤバいものを垣間見てしまったかのような何とも言えない衝撃の歌詞に、風邪の熱に浮かされた頭がさらにクラクラと回りだし、いろんな思いが私の頭の中を駆け巡り始めたのでした
……つづきます