「既読スルー」されると悲しいですよねー
自分の存在を無視され、否定された気持ちになってしまいます。
その相手が、自分が大切に思う人であればあるほど、なおさらその絶望感は深いものとなります
自分が思うほど、相手は自分のこと何とも思ってなかったという事実を突きつけられるだけでなく、相手からのリアクションが無いものだから、相手がどういう状況かもわからない。相手が何考えてるのかわからないし、自分のこともこれ以上わかってもらえない。
何か変な誤解をされてしまったのかしら?嫌われてしまったのかしら?
ただ不安が募るばかりで、互いの関係性が断たれた手詰まりの状態になってしまいます。
ただ、本来ならそういった関係性を育むのは面と向かった”リアル”の場で行われるべきものです。
メールやLINEといったものは単なる連絡手段に過ぎないのだから、そこでそんな恨み言を言うのは筋違いでしかありません。
それでも、生活の場が違ってなかなか会えない人であったり、遠距離であったりした場合、メールやLINEがその人との間をつなぐ唯一の「命綱」となってしまうのですから、そう簡単に割り切れるものでは無いでしょう。
ただ、「既読スルー」をしてしまう気持ちもよくわかります。
相手にどういう返答を返せばいいかわからない、というのもありますが、それ以前に「面倒臭い」「今そういう気分じゃない」
という気分的なものが先立つんですよね
何の前触れもなく「ピロリン♪」という通知音とともに、今の状況や気分などお構いなしに、突然私の領域に強引に割り込んでくるメール。
まるでお昼寝中のまったりとした午後に、突然呼び鈴を鳴らしてやってくる訪問販売のセールスマンにも似た、傍若無人な闖入者
「今日の○時にメールするよ」といった予告でもあれば、それまでに心の受け入れ態勢を整えておくこともできますが、メールをするための予告メールを送るってのもおかしな話なのでw
自然、メールとは唐突なる無礼な闖入者にならざるを得なくなるわけです
それでもメールやLINEなんかはまだいい方で、たちが悪いのが電話。
けたたましい呼び出し音とともに私の生活スペースに土足で入り込んでくる。
出てしまったが最後、一方的に切るわけにもいかないから話が終わるまで一定時間付き合わざるを得ない状況に追い込まれてしまう
もはやこうなると借金取りか押し込み強盗ばりの暴漢っぷりです。
だからこういうのを嫌う人は、当然留守番電話の設定がデフォでしょう
…なんか「お前、どんだけ人嫌いやねん」ってツッコミが入りそうですが、それでも大なり小なり、誰もが感じたことのある”面倒臭さ”ではあるでしょう。
だから現代では、電話はよっぽど緊急な連絡であるか、事前に約束しているか、あらかじめ相手が電話に出られる状態であることがわかっている場面以外では、電話をするのは失礼であるような風潮ですし、まずはメールやLINEなどで相手の都合やご機嫌を伺うのが一般的になっています。
そう考えると、そもそもメールやLINEってのは、受け手の都合次第で自由に「スルー」することができるという、その特性にこそ価値があるともいえるでしょう。
だからその意味において「既読スルー」は別に悪いことじゃない、と結論づけられるかもしれない。
でもそれはあくまでも「スルー」する側の理屈であって、「スルー」された側はやっぱり寂しいし気分悪い
それで「スルー」した側に悪気はなくとも、人間関係がギクシャクしたり、いじめに発展したりといったことも起こったりするわけです。
だからといってそんな人間関係の悪化を恐れれば、今度は、四六時中メールの返信をして、グループトークに付き合い、いいね!をして、リプして、リツイートして、インスタ映えし続けなければいけない
SNSから少しでも目を離したら情弱とバカにされ、みんなの輪から除け者にされて、仲間はずれにされるかもしれない。
そんな強迫観念に囚われる「SNS疲れ」が社会問題となって久しかったりもします
SNSの登場により、いつでも、どこでも、誰とでも、自由に、簡単に人と繋がっていられる「夢の」コミュニケーションツールを、ついに手にすることができたはずなのに、なぜだかあんまり自由ではないし、気疲れすることも多く、思ったほど楽しくなかったりする…。
なんでこんなことになってしまうのか?
”パーソナルスペース”と”自意識”の相関関係。
”パーソナルスペース”とは他人に近づかれると不快に感じる空間のこと。
この空間は相手との親密度によって変化するもので、相手との関係が親しいほど、この空間は狭くなるし、快く思わない相手ほど広くなる。
人はこのパーソナルスペースの距離が適切に保たれていないと、緊張をし、不快感を覚え、ストレスを受けるのです。
先ほど電話やメールを「無礼な闖入者」と表現しましたが、その不快感は、まさにこのパーソナルスペースの”壁”を軽く飛び越えて近づいてくる侵入者に対するストレスであるといえるでしょう。
そしてそれがSNSのように「いつでも、どこでも、誰とでも」となってくると、もはやそのパーソナルスペースはゼロ距離で近づかれているようなものです。
恋人などの親しい間柄であれば楽しいことこの上ないですが、SNSは親しいも疎遠も等しくゼロ距離で距離を詰めてくるので、その無差別攻撃が与えるストレスは半端ないものになるのではないでしょうか
またこのパーソナルスペースは”自意識”が高い人ほど広くなる傾向があります。
それは自意識が高まるほど、自分を守ろうとする自己防衛本能が強く働くからです。
だから自意識過剰といわれる人ほど他人を警戒し、その距離にこだわってしまうのです。
この”自意識”とは他者との関わり合いが育むものです。
「自分は他人とは違う」という自己と他者との区別を認識した時に初めて”自意識”というものが芽生えるのです。
そして、他者との関わり合いの中で「自分が見ている私」と「他人が見ている私」は違う、ということを思い知らされる経験を何度も繰り返すうちに、
「自分は人からどのように見られているか?」という意識が、「自分とは何者なのか?」という疑問へと繋がることで、”自意識”はより高められていきます。
つまり人とのコミュニケーションこそが”自意識”を生み出し、高めるものであるということ。
では、そのコミュニケーションがSNSのような”過剰”なものとなれば、当然そこで育まれる”自意識”もまた”過剰”になってしかるべきではないか。
こうして、
「過剰なコミュニケーションが生み出す自意識過剰は、過剰なコミュニケーションを拒絶する」
というおかしな状況が生まれてしまう。
そしてこの”自意識”には、自己防衛本能と同時に”承認欲求”を強める働きがあるので、さらに話はややこしくなる。
自意識過剰であればあるほど、この承認欲求も肥大化していくので、
「他人を強く求めながら、他人を拒絶する」
という非常にアンビバレンスなコミュニケーションが、ここに誕生してしまう。
だからSNSでのコミュニケーションのあり様は、
ことさら「友達」「仲間」を強調した写真をUPし、インスタ映えなどと言って自分を飾り立てることに執心し、マウントの取り合い合戦が頻発し、今日何食べたとかの自分の情報を逐一報告しまくるといった、自分、自分、自分だらけの
「肥大化した自意識の、一方通行のコミュニケーション」
になってしまっているのではないかと思うのです。
高度に発達したコミュニケーションツールが生み出したのが、一方通行のコミュニケーションであった、というのはなんか皮肉な話だなぁ
…とここまで考えて気がつくのが、
今こうして夜な夜な書いている、このブログ自体が
「肥大化した自意識の、一方通行のコミュニケーション」
そのものじゃないですかー
次回は、「ネット社会におけるコミュニケーションのあり方」に絡めて、私がこのブログを書くことの意味について考察してみたいと思います
…うまく書けるかなぁ