いや〜〜〜もう桜の季節も終わってしまいましたねぇ桜(まぁ東北とか、まだこれからの地域もありますけどね)

 

桜の季節に合わせて書き始めた「方舟さくら丸」。そろそろ投稿の続きを書かなきゃと思いながらも、なんかそんな気分にもなれずショボーン

 

最近、特に理由もなく別に鬱でもないのですが、マジなんにもしたくないというか、

   |     
   |   ('A`)    マンドクセ
  / ̄ノ( ヘヘ ̄ ̄

まさにこのAAまんまの状態になってる私……

 

で、この間の休みの日も、ずっと家に引きこもってひたすら食っちゃ寝を繰り返してましたゲッソリ

そして真夜中、寝るのにも飽きて、TVはつまらねえ。YouTubeもなんだかなー。

なんか気楽に観れる映画でもないかなーとNetflixを開いておすすめにでてきたのが、この「LOVE(ラブ)」というドラマ。

 

タイトルからして大した期待も持てず、でも頭空っぽにして観るにはちょうどいいかー。で、どうしようもなくつまんなかったら即切って、また寝よう。

そんな感じで観始めたら…………

 

最終回までイッキ見してしまったガーン

 

 

 

地味で真面目な映画オタク男と、アルコール/ドラッグ/セックス&恋愛依存症の破天荒な女との、おおよそ接点などないであろう男女が織りなすラブコメディ。

 

男の名前はガス(ポール・ラスト)。

脚本家になるのを夢みながら映画スタジオで子役の家庭教師を勤めている。

ナタリーという同棲中の彼女がいたが、浮気をされて別れてしまった。(実はそれは彼女の嘘なのだが)

ガスは絵に描いたような”善い彼氏”であろうと、常に相手に合わせ、優しく振る舞い、愛してると連呼する。だがその実、仮面をかぶって本心を押し殺しているようにも思われて、その愛情が重荷に感じられていた。

彼女いわく、それは「自己中の善人」の「優しさの押し売り」で「それって悪人より酷い」。

そんな彼の偽善的な態度に嫌気がさしていたのだった。

 

 

女の名前はミッキー(ジリアン・ジェイコブズ)。

ラジオ局でアシスタントをしているが、特に将来の夢はなく日々何となく過ごしている。

気がつけば周囲の同世代は結婚して子どもを持ち始め、みんなから取り残されて焦りを感じているアラサー女子。

彼氏は無職で薬物中毒ジャンキーのマザコン男で、その自堕落さに嫌気がさして別れていたのだが、強く復縁を迫られると拒めずに、またズルズルとよりを戻してしまう。

セックス中に彼氏の母親がやってきて、一緒にズボンを買いに行く約束だったとミッキーを置いて母親について行ってしまったのには、ほとほと愛想が尽きてしまった。

かと思いきや、それでも彼からの「ごめん。話をしよう」というメール一通で、ホイホイと呼び出しに応じてしまう。

そして彼女は睡眠薬で朦朧としながら、「愛を望んだり、欲しがったり、願ったりしたけど、かえって望むほど人生がダメになっていく」のに気づくのだった。

 

 

スクールカーストで言えば、ガスは下層の”ナード”側のオタク、ミッキーは上層の”ジョック”側のギャル(ヤンキー)といった風で対称的。性格的にもガスは田舎の保守的な性質だがミッキーは都会的で自由奔放と、とにかく正反対な二人。

 

それでも、そんな二人に共通するのは「恋人との距離の取り方がものすごくヘタ」なところ。

愛情に飢えながらも、お互いの核心部分(本心、本性)に触れるのを恐れて、一方では”いい人”を演じて心の壁を作り、他方では肉欲に溺れて自分を誤魔化そうとする。

 

このドラマの登場人物たちはスマホを頻繁に使用するが、このスマホがもたらす「ものすごく近くて、ものすごく遠い距離感」がそのまま「恋人との距離感」とリンクしている。

つまりガスやミッキーが抱えている問題は、SNS時代の私たちが抱えている問題「他人を強く求めながら、他人を拒絶する」アンビバレンスなコミュニケーションと深い関わりを持って、現代の私たちの恋愛の有り様をリアルに描きだそうとするのでした。

 

 

そんなわけでオタクな私はガスに感情移入しまくりでしたガーン

シーズン1の2話目。

ガスがマリファナに酔って、ミッキーの運転する車で間違って元カノのナタリーの家に行ってしまうエピソード。

ナタリーに見つかって、家に置きっ放しの私物のDVD(ブルーレイだよ!)を持って行ってくれと言われる。

その際、浮気の話は嘘だったと知らされ、なんでそんな嘘を?そんなに僕と別れたかったのかとガスはナタリーと言い争いになる。

 

「ナタリーのやつ。愛してなかったんだ。僕たちの絆なんてクソだったってこと!」

帰りの車の中でガスはミッキー相手に悪態をつく。

「まぁどこもそんなもんだよ」

「それが真実。なのに誰も言わない。おい、絆なんてものはクソだぞって

「そもそも男女が絆を深めていい関係になっていくなんて、なんで信じてたんだろう?

「どっからそんな嘘が!…ああわかった。あほらしい歌とか本だとか、それにこういう映画だよ。全部観たけど、どれも真実はない。僕とナタリーみたいに嘘っぱちだよ!」

そう言って手元のブルーレイを取り上げて、「カラーオブハート」クソくらえ!「プリティウーマン」あばよ!と1枚1枚、走る車の窓から投げ捨てる。

「グッドフェローズ」「トイストーリー3」「メラニーは行く」「ハートオブウーマン」「恋人たちの予感」「ホームランド シーズン3」嘘だ!嘘だ!大嘘だ!!

「こんなブルーレイは僕の重荷になるだけだ!僕の人生から消えちまえ!!」

ダンボール箱いっぱいのブルーレイを丸ごと投げ捨てるガス。

 

最高!

そのあと「なんで全部捨てちゃったのかな…」と後悔するところも含めて爆  笑

もうすっかり「ガスは俺だ」とか完全にのめり込んでましたてへぺろ

特に”自己中の善人”って言葉は思いっきり私の胸をえぐりましたですゲローあの子もオレのことそう思ってたのかななんて…

 

このドラマ、いわゆる「恋愛あるある」がふんだんに盛り込まれていて、そういうのあるよな〜と共感して笑えたり爆  笑、過去の恋愛黒歴史を思い出して悶絶したり…滝汗

まぁ、たまによくわからんエピソードもあって、シーズン3あたりは結構グダグダ感がありましたが…。

ラスト2話はホント最高でしたよー笑い泣き最後までグダグダなところがリアル。実際の人生ってそんな感じだよね。

 

 

 

監督のジャド・アパトーは2006年に日本でも公開されて話題になったコメディ映画、

40歳の童貞男」の監督として有名。

 

みうらじゅん氏提唱の「D.T.マインド」とは実際に女性経験があるかないかは関係ない、決して消せない人生のトラウマであり、イデオロギーである。

それは青年期に天より科せられた軛くびきである。

 

”この世界には2種類の男がいる。

「D.T.マインド」を持っている男と、そうでない男だ。”

 

そしてジャド・アパトーは最も「D.T.マインド」を持っている男である。

主人公が「男と女の絆なんて嘘っぱちだ!」と叫ぶ、このドラマ「LOVE(ラブ)」においても根底にあるのは紛れもなく「D.T.マインド」。

 

「D.T.マインド」とは”男女の絆”を純粋に信じる心である。

その”絆”とは自分だけを理解し、自分だけを受け入れ、自分だけと通じ合い、自分だけを愛してくれる存在との関係。

この”自分だけ”というのが重要で、それは強い自己愛の表れでもある。

自分が自分を愛するのと同じだけ相手を愛し、相手からも同じだけ愛されることを望む。

だがその気持ちが強ければ強いほど、そのような関係はあり得なくなってしまう。

なぜなら”他者”とは自己と絶対に相容れないからこその”他者”であり、とりわけ異性は脳の造りからして違う、圧倒的な”他者”であるためだ。

そして、そのような原理的にあり得ない存在を求めることは幻想であり、現実においては失望となる。

だからこれまでに女性と通じ合った経験を持たないD.T.は「女性崇拝」と「女性嫌悪(ミソジニー)」との入り混じった表裏一体のコンプレックスを持つに至るのである。

それは女性であっても同じこと。

ただ女性が男性と違うのは、女性の場合よっぽど不潔で醜くなければ簡単にセックスができてしまう点にある。出会い系サイトで「誰かわたしとやりませんか?」とつぶやけばたくさんの男たちが群がってくる。男の場合はそうはいかない。

だが、ただ身体の繋がりは得られても、心の繋がりは得られない。

だから女性が”男女の絆”を求めれば求めるほど、心と身体は引き裂かれてしまいD.T.のコンプレックス以上に複雑な苦しみを抱えてしまう。

そしてミッキーのように「愛を望んだり、欲しがったり、願ったりしたけど、かえって望むほど人生がダメになっていく」絶望を味わうことになるのだった。

 

したがって、”男女の絆”という本来相容れるはずのない自己と他者が互いに通じ合おうとする「恋愛」というものを問うとき、「D.T.マインド」は避けて通れない課題となる。

理想の形を望めば望むほどに、両者は引き裂かれ分断してしまう「恋愛」という幻想。

ガスが「そんなのは人生の重荷だ」と、丸ごと車から投げ捨ててしまうのも無理はない。

しかしそれを捨ててしまって平気でいられるほど、人は強くない。

自分が自分であるためには、どうしたって他者の存在を必要とするからだ。

それでも他者は自己の存在を保証すると同時に、自己を排斥して傷つける。

そのような痛みから逃れるために”男女の絆”を”人類愛”に読み換えて代替したくもなったりするが、それは自己と他者との相剋から目を逸らして逃避しているにすぎない。

それは別に男女でなくても、男男や女女であってもいいのだが、本当に必要としているのはエゴとエゴのぶつかり合いであり、通い合いであるのだから、一般化された”人類”というくくりでは代替しようがないのだ。

 

あるいは、決して自分を裏切らない空想の世界、二次元の世界へ逃げ込むことで「自己と他者との相剋」の痛みから解放されようとする。

それも結局はまやかしに過ぎないのだが、ただ単なるまやかしと言えなくなってきているのが、バーチャルリアリティーの完全な実現が目の前に迫ってきているという事実。

それによって、ようやく我々は、自意識というものが生まれた時から延々と苦しめられてきた「自己と他者との相剋」から解放されるのだろうか。

だが、それが実現されたときこそが、完全なる”ディス・コミュニケーション”時代の幕開けとなるだろう。

 

 

そんな時代を生きる私たちの「恋愛」は途方もなく不可能なことのように思えます。

それでも自分と違う相手だからこそお互いに惹かれ合い、自分と違うからこそお互いにいがみ合う。この人間の性は永遠に不変のものでしょう。

だから原理的に不可能であっても、なんとしてでもお互いに通じ合えないか、私たちは互いを隔てる壁のどこかに通路がないかを探しつづける。

それはガスとミッキーが互いに惹かれ合い、傷つけ合いながら、それでも通じ合い、寄り添い合える道を探しつづけたように。

そうやって二人がたどり着いた場所は、それだって所詮は幻想であったとしても、「恋愛」という人類の永遠の秘密に対するひとつの答えだったんじゃないかと思うのでした。

 

 

”永遠のD.T.男”と”永遠の17歳の女”が通じ合える道を探し求める物語。

 

この「LOVE(ラブ)」は、自分の中に少しでも「D.T.マインド」を感じられる人、全ての人にオススメのドラマでした照れ