いや〜〜〜〜
先回の投稿から4ヶ月もすぎて、気がつけばもうすっかり真夏。
8月じゃないですかっ!!
もうお盆も過ぎちゃうし、
なんだかなぁ…。
なんだか知らんが、焦る、焦る。
怒涛のような時の流れが恐ろしい…
そんな私がいままで何をしていたかというと……
思いっきり遊び呆けていました〜〜〜
5月は宮古島へダイビング
もう、めっちゃ楽しかった〜〜〜
宮古島のダイビングは入り組んだ地形が特徴で、洞窟探検したり、冒険心を思いっきり刺激してくれる楽しいスポットです
この動画の「マリン・レイク」では、海の中の洞窟をくぐり抜けていくと、ひょっこり小さな湖に顔を出すという
洞窟の裂け目から外の光が差し込んでキラキラと揺れる様も幻想的で、光の柱でできた神殿にいるような、まるでファンタジー世界に迷い込んでしまったかのような体験でした
そう、それはまさにファンタジーの世界。
現実の風景を見ているのに、それを形容するのに「なんかファイナルファンタジーぽいなー」って感想がでてしまう私。
いやいや、こっちがオリジナルだってば
現実の体験をしているのに、なんだか仮想現実(VR)の世界にいるような感じ。
それはやはり、海の世界が、エラ呼吸ができないわれわれ人間にとっては紛れもなく「異世界」だからなのでしょう。
私たちは決して海の住人になることはできません。
できるのは潜水していられる、限られたほんの数十分だけの”観光”でしかない。
海の世界にとって、私たちは絶対的な”よそ者”なのでした。
そんな「異世界」をゴーグルを通して見ているから、よけいにそんな風に感じてしまうのかもしれません。
あるいは単に私が、今年のGW映画「レディ・プレイヤー1」に影響を受けすぎなだけかもしれませんが
そこで湧きあがるのが、
「”現実”と”仮想現実”との違いって?」
「そもそも”現実”って何なんだろう?」
って疑問。
このままVR技術が発達していけば、近い将来、私たちは何のリスクもなく、誰でもカンタンお手軽にダイビングを楽しむことができるようになるでしょう。
いやいや、普通のダイビングどころか、日本海溝の深海だって、ヒマラヤ登頂だって、あるいは月面着陸だって、はるか銀河の彼方へ行くことだって可能になるわけです。
もちろん、この世に存在しない架空の世界へだって。
そう、”この世”ではなく、天国や地獄といった”あの世”へだって生きながらにして行くことができるんですよ。
こうなってくると、もはや「”生きる”って何なんだろう?」ってところまで行き着いてしまいます。
”この世”と”あの世”をシームレスに自由に行き来することができるようになった時、”現実”と”虚構”の区別など全く意味をなさなくなるでしょう。
究極には、実際に自分が生きているのか死んでいるのかも意味をなさなくなる世界。
ただ、あるのはその世界を”体験”している、その”感覚”のみ。
う〜〜ん。まるでフッサールの「現象学的還元」的な世界観だなぁ
とにかく私としては、そんな”体験”ができるようになる未来が楽しみで仕方がないですね。
それまで頑張って”長生き”しなきゃなー
宮古島名物、「宮古島まもる君」
交通安全とともに、すばらしい宮古島の自然も守ろうね
で、6月はといえば
山田玲司のヤングサンデー第96回『奇想天外に王道を往け!彼こそがリアル・スピリット・オブ・“J”〜近代日本画の主人公☆横山大観の努力と友情、そして……』
この激アツの”横山大観”回に感化されて、私も行ってきましたよ
京都国立近代美術館 「横山大観展」
ずいぶん昔にも大観展は観に行った記憶はあるんだけど、今回はこのヤンサンの大観回を見たお陰で以前の10倍は楽しむことができました
「日本美術」を再発見、再定義し、そこから新しい日本美術の道を切り開かんとした岡倉天心。
その天心の元に同じ熱い想いを抱いた若き志士たち、大観、観山、春草らが集った。
彼らは互いに協力、ライバル関係を築き、切磋琢磨しながらそれぞれの「日本画」を生み出していった。
そのムーブメントの中心人物だった横山大観が明治〜大正〜昭和と激動の時代を通して何を思い、どう生きぬいたのか。
そんな大観をめぐるドラマをとてもわかりやすく、面白くまとめてくれたのがこの動画。
ジャンプ漫画になぞらえることで、大観らにぐっと親近感が湧いて感情移入しやすくなりました。
ただ純粋に「紅葉」の鮮烈さに圧倒されるのもいいですが、大観の人生に入り込みながら作品と向き合うのも、これまた楽しかったです これも”人生補完”ですね…
で、さらに6月の後半はといえば、
鎌倉へアジサイを見に行ってきました〜
アジサイ寺 長谷寺
梅雨の時期の鎌倉は風情があっていいですね〜。
ちょうど小雨がぱらつく曇天で、アジサイ鑑賞にはうってつけの日でした
江ノ電とアジサイ
長谷の御霊神社前の踏切は、江ノ電とアジサイのコラボしたステキな写真が撮れるので有名です
この時も人がいっぱいで、ポジション取りが大変でした
それでも、人垣の後ろから腕を伸ばしたカメラで、テキトーにパシャパシャ撮っただけの割りには、なかなか良く撮れてると思いません? 自己満足…
そしてもうひとつのお目当てが、
同じ長谷にある 鎌倉文学館
旧前田侯爵家の別荘だったのを、鎌倉ゆかりの文士たちを後世に伝える資料館として利用しています。
ここはバラ園が有名で、春と秋には色とりどりの美しいバラが咲き乱れる人気のスポットです。
この時はもうシーズンも終わりかけで、ちょっと寂しい感じですが、それでもまだまだ綺麗に咲いていましたよ
そんなバラ鑑賞も素敵でしたが、私の目的はこちら、
私の大好きな作家の一人、高橋源一郎の2001年刊行の小説「日本文学盛衰史」。
日本文学盛衰史 (講談社文庫)
1,080円 Amazon |
明治期には日本美術が横山大観ら若き志士たちによって革新されていったように、日本文学もまた、若き作家たちによって新たな文学表現が開拓されていった。
江戸から明治への時代の大転換は社会のあり方のみならず日本人の心をも大きく変化させた。
このドラスティックな変化はそれまで当たり前のように信じられてきた価値観の全てを揺るがし崩壊させた。
そして人々はそれを一から創り直さなければならなかった。
こうした変化をもたらしたのは紛れもなく、西洋という異世界との「未知との遭遇」によるものだった。
極東のこの世界の片隅で独自に培われてきた文化は、西洋という他者の目によって”発見”されたときに初めて「日本文化」となった。
それまでは「日本文化」という概念は存在せず、「日本文学」もまた存在しなかった。
東洋と西洋とが交差する特異点に突如として出現した”BUNGAKU"
だが、この未知なる怪物を言い表すための言葉も存在していなかった。
ただ何かよくわからない”近代”というできものが身体の内に生まれ、日増しに腫れ上がっていくのを感じるだけだった。
だから、まず彼らは、新しい”言葉”、新しい日本語を創造するところから始めなければならなかった。
”明治”という時代そのものが、何もかも若く、未熟で、青臭かった。
日本という国が”西洋”と出会うことで、その”幼年期の終わり”を迎え、必死に青年へと成長しようとしている、そんな時代だった。
そんな時代を切り開き、駆け抜けていった若きクリエイターたち。
彼らの産み出していったものは皆、未だかつて無い新しさに輝き、若さに満ち溢れていた。
しかしそんな若い彼らも皆、とうの昔にこの世を去った。
そして彼らが心血を注いで遺した作品の多くは、もはや誰にも読まれずに忘れ去られようとしている。
彼らがその短い一生を賭して発展させてきた「文学」も、すっかり手垢にまみれ、埃をかぶって、アカデミズムの檻の中で朽ち果てようとしている。
そんな時代は平成。21世紀を目前に凋落していった世紀末日本。
高橋源一郎は彼らを単に振り返るだけでなく、今一度この荒廃した時代に蘇らせようと試みた。
二葉亭四迷、森鴎外、北村透谷、石川啄木、夏目漱石、島崎藤村……
蘇った彼らは時空を越えて、明治と現代とを自在に往き交い、現実と虚構がない交ぜとなった場所で、彼らの探し求めた”BUNGAKU"をめぐる、新たな物語を紡ぎはじめる……
明治から150年の今年で”平成”は終わる。
まぁ、元号が変わるだけで何か大事件が起きるわけでもなく、明治の時のような社会の大変革が起こるわけでもないですが、それでもこの数年で世の中が大きく変わっていく予感がします。
たぶんそれは経済的な変化から始まり、私たちの暮らし、文化、思想へと波及していくでしょう。
まずは来年予定の消費税増税。そして2020年の東京オリンピック。
オリンピックまではいいとして、その後、景気の急激なブレーキがかかったとき、それを乗り切るだけの体力がこの国にあるのかなぁ…なんて。
いずれにせよ、これからあらゆることが否応なしに変化を迫られる訳で、それは少なくとも90年代のバブル崩壊と同じくらいのインパクトはあるだろうなぁと思います。
「日本文学盛衰史」が書かれてから、もうそろそろ20年。
またひとつの時代が終わり、また新しい時代の訪れを予感させる今。
明治と現代とを自由に闊歩する彼らの物語… 「日本文学盛衰史」。
歴史資料として納められた文豪たちの原稿用紙や書簡を、その物語と併せみることで、
彼らの肉筆は、まさに肉感を取り戻し、展示ケースを突き破って、私たちの前に迫りだします。
150年の時を越えて。
彼らの”BUNGAKU"はとっくに死んでしまって久しいが、それでも今なお姿かたちを変えながら、これからも消えることはない。
いつの時代であっても、そこに”若者”がいるかぎり、それは連綿と受け継がれ、途切れることはない。
それは亡霊のように私たちを縛りつけ苦しめることもあるが、時に守護霊のように私たちを導いてもくれる。
そんな”ゴースト”たちに囲まれながら、過去と現在が重なる場所で新しい時代に思いを馳せる……
曇り空に陰りをおびた鎌倉の古い洋館の雰囲気と相まって、とても興味深い文学展示でした
そして7月は、といえば、
西日本豪雨災害に始まり、その後の”7月の40℃”、記録的な猛暑が続くといった異常気象に見舞われて、遊びに行くどころではなかったですねぇ…。休みの日はほぼ家に引きこもってましたよ
災害に遭われた方々に心から哀悼の意を表します。
まあ、それでもついガマンできずに行ってきたんですけどね
ソロキャンプ〜〜〜〜
「立場川キャンプ場」
雄大な八ヶ岳の麓、長野県の富士見町にあるキャンプ場です。
炊事場とトイレしかありませんが、車の乗り入れできて、広い敷地の中を基本自由に使えるし、直火もOK。
林の中の隠れ家的なキャンプができてよかったです
ただ、虫がメチャ多いのが難点
昼はアブやハエや蚊、夜なんか蛾やらガガンボ、毛虫や何やらトンボやクワガタムシまで集まってきて大変でした
まぁ夏のキャンプに虫は付きものですけどね。
またこのキャンプ場は昔、とある事件があったらしく、そういうのが苦手な人にもおすすめはできませんね
夏ならではのイベント、肝試しにはうってつけですが…
それでも綺麗に整備された高規格キャンプ場と違って、自然に囲まれてワイルドに過ごすには良いところです。
八ヶ岳を観光するのにもいい場所にありますしね
そんなキャンプの様子は動画をみていただくとして、
キャンプの帰りに近くの「八ヶ岳美術館」にも寄ってきました。
この美術館は信州、原村出身の彫刻家 清水多嘉示の作品を収蔵するために建てられました。
躍動感のある人体像がすばらしいですね。
日本の彫刻芸術の歴史は浅く、その概念が取り入れられたのは絵画や文学にずっと遅れた明治30年代になってからのことでした。
いやいや、もっと昔っから”仏像”というすばらしい彫刻が日本にはあったじゃないか。と思われるかもしれませんが、それらは”芸術”ではなくいわゆる”工芸”と呼ばれる類のもので、別カテゴリーとして区別されていました。
”芸術”と”工芸”の違いとはなにか?
それは「近代彫刻の父」といわれるオーギュスト・ロダンのもたらした革命が、その両者の間に一線を画すことになりました。
ロダンが彫刻にもたらしたもの。
造形による”内面”の表現。
深く、恐ろしく真実を語るものであれ。
自分の感じることを表現するに決してためらうな。
これはロダンの芸術に心酔し、彼の言葉を本にまとめた高村光太郎の「ロダンの言葉抄」にある一節。
高村光太郎は日本彫刻の大家、高村光雲の息子で、詩人であり、画家であり、そして彫刻家としても活躍した多才な芸術家でした。
そして彼こそが、同じくロダンに師事した萩原禄山(守衛)らとともに”近代日本彫刻”を確立した人物でした。
あれあれ。またしても「東洋と西洋とが交差する特異点”MEIJI”」のお話になってしまいましたねー
こうしてみると絵画も文学も彫刻も、あらゆる芸術の日本における近代化とは、西洋からの”内面”という概念の輸入から始まったのがはっきりとしてきます。
印象派の手法を日本画に取り入れた横山大観の「朦朧体」も、二葉亭四迷らが追求した「言文一致」も、そしてこの「ロダニズム」にしても、すべて「自分の感じることを表現する」”内面”の表現欲求に端を発したところから生まれたものであり、それこそが”近代”であったといえるでしょう。
ところで、この八ヶ岳美術館には別の常設展示品があります。
それがこれ、
ドキドキ 縄文土器〜〜!
八ヶ岳には縄文遺跡が数多くあり、主なものとして原村の阿久遺跡や富士見町の井戸尻遺跡、茅野の尖石遺跡なんかがあります。
尖石遺跡の考古館は結構規模が大きく見応えがあって、私も何度か足を運んだことがありますが、
この八ヶ岳美術館でも、貴重な縄文土器や土偶などをみることができます。
私、この縄文土器が大好きなんですよね〜〜〜
このプリミティブでミステリアスな造形美!
こんな造形物が有史以前、紀元前1万3千年ごろという途方もない昔から作られていたなんて(まぁ草創期、早期のものは単に縄目がついただけのシンプルなスタイルですが)、その縄文人たちの優れた創造力に驚嘆してしまいます。
一方で、その1万年もの長い間、ひたすら土をこね、木の実を集め、貝を掘ってウホウホやっていたかと思うと、その膨大な時間の積み重ねと人々の営みの無限の繰り返しに気が遠くなってしまいます
人面装飾付土器
丸顔でカワイイ サンリオあたりにこんなキャラいそう…
それにしても、何を思って器にこんなキャラをくっ付けてみようと思ったんでしょうかね?
他にも宇宙人みたいな顔だったり、蛇だったり、炎だったり。
草創期では単なる縄目模様で、それは滑り止めで持ちやすくするためだったのが、もっと持ちやすくするために取っ手をつけて、それがどんどんエスカレートして、ゴテゴテと飾りがつくようになった。
元々は実用本位だったのが意匠を凝らしていくうちにどんどん実用から遠のいていってしまう。
「火焔土器」が代表する中期の土器が最も装飾過多で、まったく実用的ではなくなってしまっています。
その理由として一般に言われているのは宗教的儀式に用いられた説。
装飾の取っ手が故意に壊されているものが数多く見つかっているらしく、それは何らかの儀式だったんじゃないかという話。
食物を煮炊きするために発明された土器が、時を経て次第に神聖なものへと価値を与えられていくのが面白いです。
私は専門家ではないのでテキトーなことを言いますが、宗教的とは別に、美術品的な価値もこの頃すでに与えられていたんじゃないかと妄想したりします。実際、ヒスイや黒曜石などが広範囲にわたって交易されていたことは定説になっていますし。
縄文時代だからといって、縄文人の誰もがみんな立派な縄文式土器を作れた訳ではないと思うんですよ。
やっぱり上手い下手があって、その中でも飛び抜けて精巧でしかも斬新な土器を作る、いわゆる匠の土器職人がこの時代にもいたはずなんですよね。
で、それぞれの名匠たちが互いに競い合って、
「オメー、そんなとこにヘビ付けたんかよ んじゃオレはここにカエルを付けちゃうもんねー」
「どーよこのスタイル 燃え盛る炎みたいでカッケーだろ」
なんてイノベーションを起こしたりして、そんなやりとりが繰り返された末に、あんな変な形になっていったんじゃないかって
当時、”カッコイイ”とかいう概念はたぶん無かったとは思うんですが、少なくとも「これは良い(悪い)」という価値観は持っており、また”美意識”についてもそれを言語化できなかっただけで、今の私たちとさほど変わらないものを持っていたはずです。
したがって、彼ら名も無き”縄文、DOKIクリエイターズ”が、「深く、恐ろしく真実を語る」言葉にならない「自分の感じること」を土器の造形に託していたとしても何の不思議もないことです。
そんな縄文人の”内面”を発見したのは、日本が世界に誇る芸術家、岡本太郎でした。
岡本太郎が1952年に発表した論文「四次元との対話―縄文土器論」で、初めて縄文土器の持つ芸術性が語られました。
それまでは単なる考古学の”資料”としてしか扱われてこなかった縄文土器が、この論文を契機に広く”芸術”として認められるようになったのでした。
今でこそ当たり前のように美術館に縄文土器が展示されていたりするのですが、それって実は結構最近のことだったんですねー
それにしても、こうやって”近代日本彫刻”と”縄文土器”を同じ場所で並べてみながら、日本人の”内面”について思いをめぐらしてみるのも大変興味深い体験でした。
西洋文化を取り入れることで飛躍的な発展を遂げた近代日本。
しかしその急激な変化が日本のあり方をいびつに捻じ曲げ、日本人の”内面”に永劫消すことのできない深い傷を残すことになった。
日本の開化はあの時から急劇に曲折し始めたのであります。また曲折しなければならないほどの衝動を受けたのであります。これを前の言葉で表現しますと、今まで内発的に展開して来たのが、急に自己本位の能力を失って外から無理押しに押されて否応なしにその云う通りにしなければ立ち行かないという有様になったのであります。
夏目漱石が「現代日本の開化」という講演で語ったことですが、100年以上経った今も変わらず「自己本位の能力」は失われたままです。
西洋文化である「文学」の形式を真似ることでしか”内面”を語り得ないこと、そもそも”内面”という概念自体が西洋からの借り物であることに自覚的だった漱石は、すべてが借り物の「皮相上滑り」に感じ、「事実やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない」「上皮を滑って行き、また滑るまいと思って踏張るために神経衰弱になる」と悲観的に語ります。
実際、漱石の小説執筆は書けば書くほど自身の神経をすり減らしていくものでしたが、それでも49歳というまだまだ若いその歳で亡くなるまで書くのをやめることはできませんでした。
借り物から生まれた”内面”であったとしても、一旦その存在を知ってしまった以上、もはや無かったことにはできない。
借り物の嘘くささを感じながら、しかし確かにここにある実感を打ち消すこともできない。
このジレンマは漱石に限らず、近代以降の日本のアーティストたち全てが抱え続けている呪いのようなものかもしれません。
では近代以前ならば、そのようなジレンマに苦しむことのない、純然たる日本の姿があるだろうか?
ところが日本人は自分たちの黎明である縄文文化の”内面”の価値について、本当に長い間、つい最近まで気づくことができずにずっと無視してきました。
岡本太郎が、西洋芸術の文脈からそれを見出すまで。
結局、現代の私たちがみている”縄文”も純然たる日本の姿ではなく、西洋的なるバイアスのかかった”JOMON"にすぎないのでした。
一度かかったが最後けっして解くことのできない「近代」のジレンマ。
漱石はこの近代のジレンマを悲観的にとらえ苦しみましたが、そこから生まれた作品は唯一無二の独自性を持って、今なお輝いています。
そしてこのジレンマがあったからこそ、他に類をみない様々な日本独特のミクスチャー文化が生まれ、多彩に発展し、今や世界に発信できるまで成熟するに至ったともいえるでしょう。
新しい日本の黎明期としての”MEIJI"。そして古来の日本の黎明期としての"JOMON"。
これら黎明を振りかえって感じるのは、何か新しいものが生み出されるときの猛烈な”若さ”とその”熱量”。
そしてその”生命力”が、現代を生きる私たちにも連綿と引き継がれていることを忘れてしまわないように。
これからもそれを思い出させてくれるものを求めて、あちこち”旅”をしていきたいな、と思うのでした。
んなこと言って、ただたんに旅行が好きなだけだったりするんですけどね