先週3月1日、公開と同時に観てきました〜爆  笑

映画「シェイプ・オブ・ウォーター

 

口のきけない障がいを持ったしがない清掃係のおばさんとアマゾンの奥地で捕獲された半魚人とのラブ・ロマンスという、いわゆる旧来の”ハリウッド映画”のイメージからかけ離れたとんでもなく変な映画グラサン

なのに、先日のアカデミー賞で見事、作品賞をはじめ4部門受賞しましたね。

いやでもホント、その評価に違わぬいい映画でした照れ

私としては自分も常々考えていた、先回の投稿「女神の恋」で触れた、

”みにくいアヒルの子” ”美女と野獣”問題についての一つの答えを見せてもらえたのが、ホントよかったです爆  笑

 

ヒロインが美女ではなく障がいを持った掃除のおばさんでも、野獣が実は王子様ではなくてマジで野獣のままであっても、そこに愛は成立するのか?という疑問。

 

私はこの映画を観ていて、当初この主人公たち二人になかなか感情移入できなくて困惑していました。

何しろ、ヒロインは映画が始まっていきなり風呂場で自慰に耽り出すし、対する半魚人は飼い猫に頭からかぶり付いて喰ってしまう野性味溢れる人外だし滝汗

美男美女の特権みたいなラブ・ロマンスにはもうウンザリだ〜と思いながらも、ここまで設定があさっての方向にぶっ飛びすぎていると、それはそれで共感ポイントをどこに見出したらいいのかさっぱりです真顔

でもストーリーが進むにつれて、隣人の絵描きのゲイのおじさんや友人の同じ清掃係の黒人のおばさんと一緒になって二人の恋を応援したくなってる自分に気づいた時、私は完全にこの映画に引き込まれていました。

どうやら私は隣人のおじさんに共感して、そこを足がかりにこの作品世界に入っていけたようです。

誰もが「半魚人との恋愛?んなのあるわけねー!!」と一蹴してしまうだろう、この奇抜なファンタジー世界を成立させるのに、こうした脇役たちを巧みに配置した構成は本当に見事です。

 

なぜ映画やドラマやアニメや漫画の主人公たちはみんな美男美女なのか?

それは容姿の整った人の方が好感を抱きやすいからです。

好感を抱けば自然とこの人はどういう人だろうと興味が湧き、そこから感情移入へと繋がります。

一方見た目がブサイクで興味を持ってもらえないと、その人がめっちゃいい人であっても、その人となりを知ってもらうところまでなかなかたどり着けません。

フィクションはその作品世界にどれだけ人を没入させられるかが大事なので、まずは見た目から好感を抱きやすくするのも当然の流れなわけです。

 

しかし、現実はそんなに世の中イケメン、美女揃いであるはずはなく、大抵の人はフツメン以下、自分の容姿に何かしらコンプレックスを抱いているものです。

なのに映画やドラマの世界では多くの美男美女たちがキラキラとまぶしいステキな恋愛を謳歌している。

そんな”理想の世界”が巷に溢れ、それが社会の価値観として定着したとき、人々はその理想に憧れる一方で、自分はブサイクだから人から好かれないんだ、ステキな恋なんてできないんだと心を閉ざしてしまうことにもなる。

 

そうやって形成された”恋愛ヒエラルキー”の底辺に追いやられ、はじき出された人々。

「醜いもの」「貧しいもの」「弱いもの」を選別し、疎外する社会。

人々に希望を与える夢の世界へと連れて行くための”物語”が、その船に乗れずに落ちこぼれた人たちの絶望を生み出し続ける。

 

そんな”物語”に強烈なアンチテーゼのパンチを繰り出したのがギレルモ・デル・トロ監督でした。

既存の”恋愛ヒエラルキー”の構造をぶっ壊して、これまで疎外され、虐げられてきた人々を世界の中心に据えたとき、そこから浮き彫りにされる愛とはどんな”形”をしているだろうか。

それは私たちの間にどこまでも広がり、私たちを包み込み、心に沁み渡るものなんじゃないだろうか。

そんな新しい希望の世界を見せてくれる映画だったと感じました笑い泣き

 

この映画を観に行く前日、ちょっと人から仲間はずれにされるようなことがありまして(まぁ、結局は私自身が悪いんですけどね)、なんとも言えない寂しい気分に落ち込んでいたのですが、この映画を観た後は心の奥底をじんわりと手のひらで温められたような、穏やかな元気が湧いてきました。ありがとうデル・トロ!

 

 

 

 

あれ、あれ?

前置きがずいぶん長くなりすぎちゃいましたねてへぺろ

 

で、今回は半魚人つながりで安部公房の「第四間氷期」を取り上げようかとも思ったのですが、ここはやはり、先日冬季オリンピックが終わり、次はついに2020年東京オリンピックだっ!というわけで(どういうわけ?)

日本が世界に誇る現代文学の巨匠、安部公房の晩年の代表作、

 

「方舟さくら丸」

 

を取り上げますグラサン

 

 

 

方舟さくら丸』(はこぶねさくらまる)は、安部公房小説。1984年11月、新潮社より〈純文学書き下ろし特別作品〉として刊行された。

安部公房といえば「壁− S・カルマ氏の犯罪」「砂の女」「他人の顔」「燃えつきた地図」「箱男」などが有名ですが、この作品は文壇から距離をおき、演劇活動も休止して箱根の別荘に引きこもっていた晩年に書かれた長編作品。

日本の作家のほとんどが万年筆で原稿用紙に手書きをしていた時代に、初めてワードプロセッサーを使用して書かれた文学作品としても話題になりました。

(ちなみにNECのワープロ機『文豪』の開発に安部公房が関わっていたというのも有名な話)

彼は音楽家でもないのに日本でいち早くシンセサイザーを手に入れて使っていたとか、機械が大好きな根っからのガシェットオタク。他にも自動車マニアでカメラマニア。カメラは趣味が嵩じてプロ顔負けの腕前を持ち、この本のカバー写真も氏自身の手によるもの。さらに自分で道具を考えたり、作ったりするのも好きで、新しい方式のスノーチェーンの特許を持っていたりする始末。まだ”オタク”という言葉が無かった頃からのナチュラル・ボーン”オタク”を地でいく作家でしたニヤリ

そんな引きこもりのオタクが引きこもりのオタクを主人公にした、まさに、

”引きこもりの引きこもりによる引きこもりのための引きこもり文学”と言っても過言ではないのが、この「方舟さくら丸」ですグラサン

 

 

この小説には、安部公房が大好きなガシェットが様々に登場し、作品世界を構成しています。

その中で最も作品テーマを象徴しているのが「ユープケッチャ」という虫です。

この「ユープケッチャ」は主人公の<ぼく>がデパートの屋上で催されていたフリーマーケット的な即売会で偶然見つけた昆虫の標本です。

この昆虫を販売していた香具師の<昆虫屋>がいうには、

……体長1センチ5ミリ、鞘翅目に属し、ずんぐりとした黒い体に茶褐色の縦縞が走っている。ほかに特徴らしいものとはと言えば、肢が一本もないことくらいだろうか。肢が退化してしまったのは、自分の糞を餌にしているので、移動の必要がないためらしい。

……ユープケッチャは船底型にふくらんだ腹を支点に、長くて丈夫な触角をつかって体を左に回転させながら食べ、食べながら脱糞しつづける。糞はつねにきれいな半円をえがいている。夜明けとともに食べはじめ、日没とともに食べおわり、睡りにつく。頭をつねに太陽の方角にむけているので、時計としても役に立つ。

ずっと同じ場所でグルグルと回り続けて、どこへも行けない虫。

自分の排泄物を餌にして生きながらえる永久機関的な「完璧にちかい閉鎖生態系」。

自己完結する閉じた円環。

”個にして全、全にして個”の究極の世界。

 

「それにしてもぼくによく似た虫がいたものだ」

<ぼく>はうち捨てられて忘れられた、かつては採石場だった地下の巨大な洞窟に一人で暮らしていました。

そこは誰からも干渉を受けない、外界から隔絶された自分だけの世界。

そこで何をするというわけでもなく、好きな工作作業に熱中したり、立体航空写真を眺めて旅の夢想にふけったりしている。

そんな<ぼく>の暮らしぶりが「ユープケッチャ」の生態とぴったりと重なっているように思えたのでした。

 

ところでこの「ユープケッチャ」をどんな昆虫図鑑で調べても見つけることはできません。これは誰かが作り出した存在しない偽物の虫。見世物小屋の猿の下半身に魚を繋げた人魚のミイラやキメラみたいなもの。

その嘘を<ぼく>は当然見抜いていた。しかしわかっていながらその嘘をもひっくるめた「ユープケッチャ」という虚構の存在に共感し、魅了されていたのでした。

 

<ぼく>はこの「ユープケッチャ」を現在建造中の方舟(核シェルター)の旗印とし、乗船資格者の試金石として利用しようと考えます。

彼は全てをご破算にしてしまう来るべき世界の破滅に備えて、地下採石場に核シェルターを造ろうとしており、そのシェルターに入る仲間を探していたのでした。

 

本来ならば、この地下採石場を自分一人だけの世界にしておきたい。

他者は全ての災いの元凶となる。

すべての悩みは、対人関係の悩みである

しかし、実際問題として一人だけで生き延びるのは不可能だ。

どうしても生きていくには他者が必要となる。

ならば「ユープケッチャ」のように自分のテリトリーだけで自己完結し、他者のテリトリーまで侵食してこない者だけを集めて、「ユープケッチャ」の群れとして生きていけばいいんじゃないか。

 

こうして<ぼく>は方舟の出航へ向けて、「誰が生き残るべきか(誰が死ぬべきか)

乗船資格者の”選別”を始めようとするのですが………。

 

 

前回の投稿

「私たちは、必ずただ一つだけの生き方を選び取らなければならない。」

と書きました。

しかし何かを選択することは、誰かを選別することでもある。

私の選択した生き方が、誰かの人生に影響を与えることになるとしたら。

その究極として、自分が生きのびるために、誰かを殺さなければならないとしたら。

そんな選択(選別)は可能だろうか?

 

また、アドラーが言う「他者の課題の分離」を具体的にイメージするならば、もしかして「ユープケッチャ」の群れのようになるかもしれない。

<ぼく>が思い描いた理想の王国。

そんな世界は実現可能なのだろうか?

 

 

そんな疑問を頭によぎらせながら、私は地下採石場に張り巡らされた迷路のような坑道をさまよいはじめるのでした。

 

 

つづくキョロキョロ