久々に観たなー。

 

 

デイミアン・チャゼル監督

「セッション」

 

なに?この超絶パワハラ映画。

始終胃がキリキリと痛む緊張感が延々と続く。

容赦ない罵倒と暴力の連続。

私なんか新入社員時代に上司から強烈なパワハラを受けて精神病みかけた経験があるから、その頃の記憶が蘇ってくるんだよ。

マヂ無理、モウ無理、と思いながら、それでもやめられない止まらない。

やっぱこれ、ホラー映画だよね。

「きゃー怖いー!」って両手で目を塞ぎながら、指の間からずっと覗き見続けちゃうあの心理。

ジャズ映画だと思って観たらサイコホラー映画だったという。

そりゃ評価も二分するわなぁ。

 

 

その二分した評価で有名なのが

『菊地成孔vs町山智浩』セッション論争

https://matome.naver.jp/odai/2143011442130302501

(ここに詳細なまとめ記事があります。相当長い記事ですが、興味のある方は是非)

 

この論争、どっちが正しいとか間違ってるとかではなく、映画を観るスタンスの違いでこうも違って見えるもんなんだな、という違い自体が面白く、特に菊地氏のここまで毛嫌いせんでもというくらいの拒絶反応を示している、凄まじい嫌悪感を氏から引き出した、そのことだけでこの映画がいかに優れているかの証と言えなくもないだろう、大変興味深い論争でした。

 

私もね、ジャズを愛する者の端くれとして、菊地氏がこの映画に(というかチャゼル監督が映画で描く、類型的で薄っぺらくみえるドグマティック(教条主義的)なジャズ観に)頭来ちゃうのもわからなくはないです。

なんか昭和の時代の”ジャズ喫茶”なる魔窟にはいっぱいいたらしい「ジャズはブルーノート1500番台までしか認めねー!」みたいなウンチクをのたまう頑固ジャズオヤジ的なことを登場人物に言わせながら、実際そこにかかる音楽はジャズとしてビミョーという…。

まぁ、ビミョーという評価になっちゃうのはチャゼル自らがハードルを上げちゃってるからで、そんなハードルを取り払って聴いてみれば全然”上出来”だよね。(で、フレッチャー先生がこの”上出来 Good Job"という「最も危険な言葉」にまた怒髪天を衝いて怒り狂うんだよねw 髪ないけどw

 

やっぱり問題なのは「ブルーノート1500番台が至上!」みたいな”〜〜至上主義”にとらわれてしまうことの薄っぺらさ。

ブルーノート1500番台が名盤揃いなのはジャズファン万人が認めるところではあるけれど、でもそれだけじゃねーだろジャズの面白さは。

 

しかし”至上主義者”にとっては、その至上の音楽が「経典」となり、善し悪しをはかる「ものさし」となる。そしてそこから外れたものは下等、カクテルピアノと蔑んで、あぁ、今やジャズはバーのBGM、ムード音楽に成り下がってしまった。

あぁ、「ジャズは死んだ」と嘆きはじめる。

いやいやいやいや、自分の画一的な価値観の中にジャズを押し込めて腐らせて、そうやってオメーが殺してるだけなんだろーがっ!

 

ずっと長い間そういう連中と必死の思いで戦い続けてジャズをやってきた菊地さんにしてみれば、ようやっとそんな奴らも殲滅できたと思われたこの21世紀に、30歳かそこらの若造がまたこうしてスクリーン上にゾンビよろしく蘇らせてきたもんだから、それだけで

「ゴルァ゛ーーッ!ちょっと表出ろやーーー!!」

って気分になったんだろうなぁ。

で、そうなったらもうこの映画の全てが薄っぺらで、嘘っぱちで、中身空っぽにしか見えず、ただハラスメントの恐怖の刺激だけで観客の興味をひきつけているだけの

駄菓子の味がする<危険ドラッグ>映画だ!という酷評となってしまったのでしょう…。

 

 

対する町山氏の反論は、そうした露悪的なハラスメントの恐怖感やキャラクターの薄っぺらさ、空っぽさは作劇上の必要から意図されたもので、それはラストの<キャラバン>の演奏によって全て回収され、昇華されるものだ。とします。

フレッチャー先生の猟奇的なパワハラのせいで何もかも失ってしまったアンドリューがその苦しみ、怒りを爆発させて捨て身の反撃のドラムソロで先生をブン殴っていくさまはそれまで観客にも蓄積されてきたストレスが一気に解放される痛快な時間となる。そしてさらに、ただ悪役を負かすだけでなくその戦いは最高のグルーヴを生み出し、その音楽によって二人は通じ合い一つとなる奇跡の瞬間にまで到達する。

先生が笑顔で指揮したフィニッシュがビシっと決まった瞬間、僕は思わずガッツポーズをした。
 他の席からは「イエス(やった!みたいな意味)!」という声も上がりました。

このラストのカタルシスは、実際にそこで流れる音楽の出来不出来など問題とはせず、そこに感じられる興奮と感動は紛れもなく本物であり、これこそが”映画の力”なんだよ! というものでした。

 

さすがは町山さん。見事な映画評で、これまた納得せざるを得ないですよね。

私もこのラストの<キャラバン>にはめちゃ感動しました。

そして4年ぶりに観返した今回もまた感動しました。

やっぱ、いいものはいい。

この実際に流れる音楽を最高のものにして、さらに映画のキャラクター達だけでなく観客までもひっくるめて音楽で一つになるラストにしたのが、クイーンの映画『ボヘミアンラプソディー』なんですよね。そりゃ大感動するし、大ヒットするわ。

 

ただ、この見事な町山解説の感動と、私が感じた感動はちょっとだけ違うところがあります。

解説では「フィニッシュで二人が音楽によって和解し通じ合う瞬間を生み出した」としています。

その通り確かに二人が互いに通じ合う瞬間が感動的なのですが、その通じ合い方が尋常ではないというか、二人が微笑んで見つめ合うその瞳の奥には全く相手の顔が映っていないというか、視線はもっと遠くの方に向かっているように私には感じられるのでした。

そしてそこに降りてきているのは「グルーヴの神」の祝福などではなく、「グルーヴの悪魔」の誘惑。

二人は同じその悪魔に魅了されて、さらなる狂気の彼方へと突き進んでいく。

その戦慄のラストに「イエス!」と叫ぶようなカタルシスどころか、思わず無限に続く深淵を覗き込んでしまったような畏怖の念にとらわれて身を震わせたのでした。

 

 

この宇多丸氏の批評とほぼほぼ同じ感想ですね〜。「悪魔に魂を売った」感の戦慄のラストに私もやられました。

 

 

なんで私がそんな感じ方をしたかというと、それは初めっから二人は同じものを求めてすでに通じ合っている、同志だと思ってこの映画を観ていたから。

二人は同じ ”至上主義者”でした。

 

町山氏は、アンドリューを

「ただ叩くのが早ければいい」と思い込んでいるだけの少年で、グルーヴもつかめていない、ジャズを人生の成功のための武器としか考えていない、つまりジャズがわかってない、というか、音楽がわかってない

と評していますが、確かにその言葉通りなのですが、ニュアンスが違うというか、もっとそれは純粋な動機なのではないだろうか。

彼が望む”人生の成功”とは名誉欲というのももちろんありますが、それよりもなによりもその成功の中心にあるのは、自分が心底憧れるジャズの巨人たちに並び称される「偉人」に自分もなりたい、という実に若者らしい純粋な野望なのではないだろうか。

 

でなければ、”音楽のために、やさしい彼女を捨ててしまう”愚行の説明にはならない。唐突に彼女に別れを告げる彼の心境は修行僧のそれで、「女なんぞにうつつを抜かしているからオレはジャズの真髄が掴めないんだ!」と思いつめた結果の行動と考えた方がしっくりくる。

 

そして”ジャズがわかっていない”というのも正確には、

 「ジャズの”本質”がわからない」

と言うべきだろう。

 

アンドリューはバディリッチのドラミングが最高だと思っている。

自分もあんな風にドラムを叩きたいと思っている。

だができない。

それは自分に技術がないから。

確かにそうだろう。

だがどんなに、手の皮がずるむけになるまで練習してもバディリッチのようになれない。

 

 

頭の中ではあの最高のリズム、サウンドが鳴り響いているのに、そうならない。

自分はあの”至上の音楽”をこうして”知っている”にもかかわらず、だ。

「ただ叩くのが早ければいい」なんて思っちゃいない。

ただあのバディリッチの超絶技巧に一歩でも近づき、あのグルーヴ感を生み出すにはひたすら練習するしかない。

ただ速く正確に叩けるだけじゃダメなのだ。

バディリッチのサウンドの向こう側にある、”グルーヴ”のその核心真髄本質が掴めなくては、決して”至上の音楽”は生まれない。

そしてそれはどんな教則本にも載っていない。

だから、ただただひたすら叩き続けるしかないのだ。

 

それはフレッチャー先生も同じで、彼の頭の中にも”至上の音楽”が常に渦巻いている。

だが彼の耳から入ってくる音楽はそれとは程遠いものばかり。

彼の中にある”至上の音楽”とこの音楽は一体何が違うのか?

明らかに”違う”ということだけはわかる。

だが、この耳から入ってくる愚にもつかない雑音を、”至上の音楽”へと近づけるにはどうすればいいのか?

「わからない」

”至上の音楽”の一体何がそれを”至上”たらしめているのか。

その核心とは?その本質とは?

 

わからない

 

それは言葉ではうまく説明できない、言語化できない、という意味に近い。

 

ジャズの巨人の一人であるマルチリード奏者、エリック・ドルフィーのアルバム『ラストデイト』に彼の肉声で収録されている、次のような名言があります。

 

When you hear music,
after it's over,
it's gone in the air.

You can never capture it again.

「音楽を聴き、終った後、それは空中に消えてしまい、二度と捕まえることはできない」

これは音楽が時間芸術で、時間の経過と同じく不可逆的なものである、という意味だけではない。

音楽が鳴り響いていた時間のその連続した瞬間に、確かに存在していたあの”グルーヴ”は、もう二度と再現することはできない。

それはあの”グルーヴ”の正体が一体何なのかなどいくら言葉を尽くそうとしても、その本質は次の瞬間には別のものとして消えていってしまい、それを正確に説明することなどできない、我々には決して「わからない」認識を超えたものである、という実感が込められた言葉でもあります。(差延

 

そのような原理的に「わからない」ものを、どうやって我がものにして”至上の音楽”にまで高められるのか。それも自分ではなく複数の他人の身体を使って、自分の理想である”至上の音楽”を現実の形にするにはどうすればいいのか。

やはりひたすら試行錯誤して練習するしかない。

プレイヤーたち全員が一糸乱れることなく完全に自分の思いどおりになるまで、徹底的に特訓する。罵倒し、暴力を振るい、肉体的にも精神的にも追い込み、追い詰めていく。そうやって彼らを自分のコントロール下におき、その上でさらに各個人の能力を限界まで引き出し、その限界を超えさせる。

フレッチャー先生の考えは次のようなものだろう。

「”至上”とは凡庸な人間の限界を超えた先にしかありえない。

あまねく常人を超えた者でしか、”神の領域”に至ることはできないのだ。」

 

 

たかがジャズになにを大層なこと言ってるんだ?馬鹿馬鹿しい。

菊地氏が批判文で「できの悪いスポ根マンガ」と揶揄したように、多くの人々にはこんなの理解しがたい、頭のおかしい人の思想にしか思えないでしょうね。

でもまさに”スポーツ”の世界ではこうした思想が究極的に支配していることを否定することはできない。

世のスポーツマン、アスリートたちが究極的に目指すものは世界一、世界新です。

それは従来の人間の限界、記録、能力を超えようとする挑戦です。

その”至上”の地点を目指して日々、己の肉体と精神を痛めつけ鍛え上げ続ける。

彼らは時に身体を壊し、命を危険に晒し、いろんなものを犠牲にして人生の全てをかけてまで”至上”を追い求める。

そんな彼らを「馬鹿馬鹿しい」と一蹴する人はいない。スポーツが嫌いな人はそう言うだろうが、そんなのは極々少数派だ。

世間は彼らのそんな”至上”を求めて鍛錬に励むストイックな姿に感動し、賞賛し、尊敬の念を与える。

一方、ジャズの”至上”を求める奴は馬鹿扱い。

同じ”至上”を求めても、この扱いの差が天地なのは何でなんでしょうね?

 

まぁ、その差の理由は非常にシンプルなものです。

それは、スポーツの”至上”は点数や速さや高さや遠さといった数値で表すことができる、明確な”基準”が存在するが、ジャズの”至上”にそんなものは存在しない。

ジャズの”至上”なんて前述したように、頑固ジャズオヤジたちが口々に勝手に言ってるだけで万人が共有できる明確な”基準”なんてないし、それのなにをもって”至上”とするのか、その本質は誰にも「わからない」。

 

そんな非常に曖昧で恣意的な”至上”なんて存在しないに等しいし、そんな存在しないもののために命をかけて人生の全てを捧げるなんてあまりにも馬鹿げた、愚かしい行為にしか見えないだろう。

そんな彼らの姿は、”まるで風車に立ち向かっていくドンキホーテのような”愚者か狂人にしか、世間の目には映らないのも仕方がないことかもしれない。

 

だが、このことはジャズだけに限った話ではなく、あらゆる芸術、芸能、創作に携わる「クリエイター」たち全てに関わる問題でもある。

 

あらゆる”創作物”はそれが人の目に触れた瞬間から批評にさらされる。

「良い/悪い」「面白い/つまらない」「きれい/汚い」「気持ちいい/不快」……。

様々な価値基準があり、その感じ方は人によって千差万別。またそれは歴史的、時代的、社会的背景にも左右され、容易に価値の逆転が起こる、どこまでいっても曖昧で恣意的なものである。

 

このように多様性に満ち、あらゆる価値観から自由であるからこそ、”創作”という行為は素晴らしく尊いのだ。

ということもできるが、しかしそうは言ってもこの世には「名作」と「駄作」の区別が厳然として存在しており、そうした評価によってクリエイターたちの人生が大きく左右されてしまうのも事実だろう。

あなたがクリエイターだとして、ファン・ゴッホみたいに絵がほとんど売れずに失意のうちに自殺してしまったり、フランツ・カフカみたいに死後は遺稿を全て焼き捨ててくれと友人に頼むような不遇の作家人生を送ったとしても、それで満足できるだろうか。

一回きりの取り替えの効かない人生の多くのものを捧げて生み出した作品を、恣意的で矛盾に満ちた不当なやり方で評価され、それが作家の人生そのものをも大きく変えてしまうのだから、そんな”多様性”などといった便利な言葉でなだめられたところで容易に納得できるものではない。

やはりなんらかの明確な”基準”、「名作」を名作たらしめているもの、その本質が示されなければ評価される作品も、作家自身もうかばれない。

 

 

「名作」を名作たらしめているものとは何か?

どうやら「名作」を生み出すためのメソッド(方法論)は存在するようだ。美術学校はそのメソッドを研究し学ぶところだし、音楽家たちはそのメソッドをひたすら練習する。

だがそのメソッドをいくら厳格に守ったとしてもそれは「名作」にはならない。

チャーリーパーカーの「コンファメーション」をたとえ完コピできたとしても、それは「名演」ではなくただの曲芸だ。

だが、その完コピがなんらかの新たな物語性を伴う場面で演じられたなら、あるいは「名演」と呼ばれるものとなるかもしれない。

 

いや、むしろ「名作」「名演」の”本質”とはそのようなものかもしれない。

「あらゆる”創作物”は現実のコピーとしてしかありえず、そのオリジナルである現実の在り様(本質)を捉えようとするなら、それはイデア論的な”本質”へと直接アクセスできるようなものではなく、あくまでもコピーとして規定することでしかできない。」

とするシミュラークルの概念は、ウォーホルがキャンベルスープ缶によって端的に示してみせたように、近代以降固く信じられてきた「名作」という名の”権威”の虚像性を暴露し、『「名作」を名作たらしめているものとは何か?』という問い自体を無効化してしまった。

 

以降、現代のクリエイターたちは「名作」というものの”本質”などは存在しない、という前提から創作を始めなくてはならなくなり、創作とはメソッドがメソッドを生み、自己増殖し、自己循環しつづける、その差異の円環の中での戯れとなってしまった。

にもかかわらず、一方では依然として「名作」という幻想の”権威”だけは存在し続け、ノーベル文学賞やらアカデミー賞、グラミー賞などが代表するような作品の価値を競わせるコンペティションが毎日のように世界のどこかで開かれ、そこを勝ち上がっていかないとクリエイターとして食っていけない現実が存在している。

ウォーホルが予見した「将来には誰でも15分間有名になれる」という名言が現実のものとなった”人類総クリエイター時代”の現代社会においてはなおさら、有象無象の中から頭一つでも抜きん出た”才能”を権威付けして、その特別性を担保しなければ、クリエイターという職業は飯の種とはならなくなってしまった。

 

かつては創作の指針として存在した”至上”なるものが、抑圧的に社会を硬直化させる”権威主義”であるとして、ポストモダニズムという対抗手段でもって批判してその幻想を徹底的に瓦解させたのが他でもない菊地氏や町山氏の世代なんだけど、彼らの価値体系の破壊活動の末の”焼け野原”以後に生まれたチャゼル監督の世代に対して、それぞれの新たな”権威”を守るべく「ジャズ警察」vs「映画警察」として論争を繰り広げるなんて皮肉な話だなーなんて思いながら、当時は野次馬よろしく楽しくこの論争を読んでましたが、こうして改めて考察してみると、やっぱり”焼け野原”以後のクリエイターってキツいよなーって思う。

まるでゴールの存在しないマラソン大会をやらされているような感じ。

ゴールがないからどこへ向かって走ればいいのか誰にもわからないし、走ることの意義もよくわからないが、とにかく走り続けなくちゃいけない。

そうやってみんなバタバタ倒れていって、それでもなんとか走り続けられたものだけがクリエイターとして生き残るみたいな。

振り返ればその道は死屍累々のありさまで、そんなデスロードをゴール(目的)もなく走りつづけるなんて、やっぱ、正気の沙汰ではない。

 

アンドリューとフレッチャーの狂気は、そんなクリエイターの狂気そのものだ。

そしてラストのドラムソロでの異様な高揚感は、作家が多大な辛苦の末に作品を物した時に感じる高揚感そのものであり、あの快感こそが創作に対するあらゆる目的の虚飾を剥ぎ取った後に残る、究極の源だと言えるだろう。

この快感を知ってしまったら、もはやこのデスロードを引き返すことはできない。

あとはぶっ倒れて自分も死屍累々の一部になるまで走り続けるしかない。

そうやってどれだけの犠牲を払おうともオレはオレの映画を撮り続ける、というチャゼル監督の強烈な覚悟と決意の表明であったのではないだろうか。

 

 

 

そんなチャゼル監督が「ラ・ラ・ランド」の大ヒットを経て世に送り出したのが、今回取り上げる、

 

「ファースト・マン 」

実際には「ラ・ラ・ランド」よりも先にこちらの企画が動いていたらしいですけどね。

 

 

人類で初めて月に降り立った男、ニール・アームストロングの物語。

 

数々の失敗と苦難を乗り越えて月に辿り着くまでの過程を、圧倒的な臨場感と映像美で再現してみせたものすごい映画です。

もうホント、ただただ圧倒されるばかりでした。

 

私は宇宙開発についての知識があんまりないのでよくわからないんですが、実際かなり細部に至るまでこだわってリアルに作られているらしいです。

そこら辺の詳細についてはこの「岡田斗司夫ゼミ」で非常にわかりやすく解説されていますので、ぜひ見るべきだと思います。

 

 

なにしろ、映画内ではホントになんの説明もなくどんどん話が進んでいくので、目の前で一体何が起こっているのかひじょ〜〜〜に分かりづらい。

この岡田斗司夫ゼミの解説をみて、あーーあの場面ってそういうことだったのか!と理解できたことがいくつもありました。(あの冒頭のX-15の試験飛行シーンで大気圏に跳ね返されてるとか、知識なかったら分かるわけねーよ)

 

でもまぁそんなこまけーことは抜きにしても、あの映像体験にただひたすら身を投じているだけで私はサイコーに”満足”できましたけどね。

とはいえ、ただ「あーすごかった」って感想だけで終わらせてしまうのももったいない気がしたので、自分なりにこの映画のストーリーについて、ニール・アームストロングという男について思いを馳せてみたら、出てきたのは、

 

「ファースト・マン」は現代の「ファウスト」だ。

 

というものでした。

いや、「ファースト」と「ファウスト」をかけたダジャレじゃないですよ。

作品のテーマに共通点があるんじゃないかなと思ったのです。

 

この「ファースト・マン」という映画が全編を通して絶えず観客に投げかけてくるのは、

なぜ月へ行くのか?

という問いかけです。

 

何度も何度も死ぬような目に遭って、実際同僚が何人も死に、はっきり言って無謀としか思えないようなミッションに巨額の国家予算を投じて、実際に多くの人々から批判の声を浴びせられて、

…それでも月に行くのは”何のため”なのか?

 

「国家の威信のため」?

…それはアメリカの問題で、ニール個人の問題ではない。

「偉業を成し遂げ賞賛を得たい」?

…それはあるかもしれないが、ニールはどうみてもそんな野心家ではなさそうだし、実際”ファーストマン ”となるのを進んで勝ち取ったわけではなくいろんな偶然が重なって選ばれただけだった。

 

その答えは、結構最初の方でニール自身が答えています。

NASAの面接での場面。彼は非常にシンプルでエクセレントな回答をします。

 

「人類に新たな視点をもたらすため」

 

人類は未知の領域を開拓することで視野が広がり、そこから得られる発見によって発展を遂げてきた。だから地上から遠く離れたより高い視点を獲得することは人類に大いなる進歩をもたらすに違いない。

まさに”人類にとっての大いなる飛躍”がそこにはある、とニールは答えるのです。

 

”新たな視点の獲得”がもたらす新発見、新発明によって歴史が塗り替えられ、世界はここまで発展してきた。

月面着陸もまた新たな発見、発明をもたらし、人類のさらなる発展を促すことだろう。

だが、ニールは本当にそんな人類規模の大きな”使命感”をもって1/4の確率で死ぬような危険なミッションをこなしていたのだろうか?

ニールは寡黙で感情を表に出さない人物なので、彼の言動を見ていてもそのあたりの心情がよくわからない。

ただ粛々とミッションにあたり、次々と襲いかかってくるトラブルにも冷静に淡々と対処していくだけだ。そして何とか生き残ったかと思えば、またすぐにせっかく助かった命を危険に晒す次のミッションへと向かう。

 

「何のために?」

 

実際のところ、ニール自身もよくわかってなかったのではないか?

だから、月へ旅立つ前日、黙々と準備をしているだけで妻や子どもたちに何も話そうともしない。もう二度と会えなくなるかもしれないのに、だ。

そんな彼にしびれを切らした妻がニールを無理やり子どもたちの前に座らせて、何で月へ行くのか説明してあげて!と迫ったが、結局、ニールは子どもたちに大したことも何も言えなかった。

NASAの面接の時みたいに言ってあげればよかったのに。

「お父さんは、人類の進歩をもたらす偉大な使命を果たすために月へ行くんだよ」と。

 

だが、言えなかった。

子どもたちには嘘をつきたくなかったから。

自分の本心だけを話したかったから。

だが、その話すべき本心がどこにあるのか自分でもよくわからなかった。

だから何も言えなかった…。

 

 

月とは”死”の象徴であると同時に、”狂気”の象徴でもある。(ルナティックとは「狂気の」という意味)

ずっとテストパイロットとして自分の命を危険に晒し続けて生きてきたニール。

彼の愛娘は3歳にも満たない幼さでこの世を去った。

まだ人生が始まる、その前に彼女の人生は終わってしまった。

だが、そんな娘の死を嘆き悲しんでいる自分は、そんなかけがえのない命をないがしろにするかのような人生を生きている。

「何のために?」

その理由を問うこともなく、ただテストパイロットとしての使命を果たし続けている。

これはまさに”狂気”に他ならない。

 

彼が月を目指した理由。

それは、彼の中でずっとうごめき続けている、この静かなる”狂気”の正体が知りたかったからではないだろうか。

危険なテストパイロットを辞めて、それよりもはるかに危険な宇宙飛行士になろうとするなんて、どう考えても”狂っている”としか思えない。

一方で、単なるテストパイロットより、宇宙飛行士の方が地位も高く、何より”人類の進歩”のためという大義名分が与えられる。

”狂気”に大いなる意味を与えてくれる宇宙飛行士という身分。だが、その宇宙飛行士のやっていることは他に比べようもないくらい”狂気”に満ちている。

このとてつもない矛盾。

だが、この矛盾を突き抜けた先にこそ、自分が知りたかった謎の正体、自分が生きているこの人生の本質、すなわち”真理”がそこにあるのではないか。

ニールはそんな予感に突き動かされたのではないかと、私にはそう思えてならないのでした。

 

”狂気”の本質を知るために、と同時にそんな人生の”真理”を知るために、さらなる”狂気”へと身を投じるニール。

この彼の行為が、世界の”真理”を求めて悪魔に魂を売ったファウスト博士を連想させたのでした。

 

 

 

ゲーテが60年もの歳月をかけて書き上げた戯曲「ファウスト

https://ja.wikipedia.org/wiki/ファウスト

 

私がこの作品を知ったのは手塚治虫の漫画からでした。

 

ファウスト ファウスト
 
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手塚治虫はゲーテの「ファウスト」を題材に三度も作品を描いています。

一度目は1950年の初期時代に「ファウスト」

二度目は舞台を日本に移して翻案した「百物語」

そして最後は絶筆となってしまった「ネオ・ファウスト」

 

私は高校生の頃、初期版の「ファウスト」を読んで、そのディズニーちっくな丸っこい絵で異様な世界を描いているその不思議な魅力にハマってしまいまして、そこからゲーテの「ファウスト」も手に取るようになり、さらにその魅力に取り憑かれて、あげくは自分でも高校の文化祭でファウストを題材にした劇の台本を書いてしまったりしてしまったのですが(恥)、そんな私にとって「ファウスト」は手塚治虫と切っても切れないものになっています。

 

 

手塚治虫はファウストのモチーフに生涯こだわり続けました。

それは漫画家としての手塚自身がファウスト博士に近しいものを感じていたからではないでしょうか。

 

手塚治虫は漫画界の”ファースト・マン”でした。

彼が今の「漫画」に初めて到達した人物でした。

彼によって新しい「漫画」の手法が発明され、「漫画」の可能性が発見され、「漫画」の歴史が塗り替えられ、「漫画」を飛躍的に発展させました。

だが、彼が生み出した「漫画」ではあっても、後から続く新しい作家たちが漫画のさらなる新しい表現を生み出し、漫画表現の未開の地を開拓し、新たな”ファースト・マン”が続々と現れてくる。

彼は「一番病」と水木しげるに風刺漫画を描かれるほど、”ファースト・マン”であることにこだわった。次々に現れる若い才能に嫉妬し、敵意をむき出しにしたのは有名な話だ。

そうやって自分を奮い立たせ、飽くなきまでの創作意欲で持って、人生の全てを注ぎ込んで漫画を描きつづけ、誰にも真似のできない膨大な作品群を残した。

しかしどれだけ描いても描いても全然飽き足りない。満足できない。

そんな彼は心のどこかで思っていたかもしれない。

「もうこれ以上のない”至上”の一作が描けるなら、この命など悪魔にくれてやってもいい」と。

 

学問に生涯を捧げてあらゆる学問を究め尽くした末に、この世に我々が知りうる”真理”など無いことを知って絶望したファウスト博士が望んだのは、人間が知り得ない世界の”真理”にふれること。

「時よ止まれ。おまえは美しい!」

この一言の”至上”の満足が得られたならば、地獄に落ちたって構わない。

こうしたファウスト博士の”狂気”に、手塚治虫は自身の創作に対する”狂気”を重ね合わせていたのではないだろうか。

 

何がそこまで自分を創作に駆り立てるのか?

その正体とは何か?

そうやって自分を突き動かし続ける”狂気”の向こう側に潜むものこそが、生涯をかけて追い求めてやまない”真理”の”秘鑰(秘密を解き明かす鍵)”となるのではないだろうか?

そうした問いかけが、絶筆となってしまった「ネオ・ファウスト」につながっていると私には思われるのでした。

 

 

 

 

そんな様々なものを犠牲にしてまでも、人を突き動かしてやまない”狂気”。

ニールはその”狂気”に突き動かされながら、その”狂気”の正体を求めて月までたどり着いた。

娘の死、同僚たちの死を乗り越え、愛する妻や子どもたちを置き去りにして、莫大な国家予算を費やして、人類の期待と使命を一身に背負って。

 

そうやって月に降り立った彼の目の前に広がっていたのは、一切の生物の生存を拒む「死の世界」。

そしてどこまでも暗く底の見えない「漆黒の闇」。

ニールは吸い寄せられるようにクレーターへと近づいてゆき、その無限に続く深淵を覗き込む。

娘の遺品を手に、しばし闇を見つめる。

そのニールの目から涙が零れる。

 

娘の死から始まった旅は、こんなところまで遥々と誰よりも遠い所まで連れてきた。

そんなニールの瞳には何が映り、何を思ったのか。

彼はその闇の中に何かを見つけられたのだろうか。

 

 

それはニール以外の誰にもわからない。

 

ただ、ニールの目を通して観客の私たちが見たもの。

それが私たちにとっての、誰にもわからない、それぞれの”真理”なのかもしれない。

 

 

そしてニールは地球へ帰還する。

 

偉業を成し遂げたニールはすぐさま、未知のウイルスなどの安全が確認できるまで隔離される。

このシーンは彼の孤独を見事に表現しています。

これは人間の宿命的な孤独と言ってもいいでしょう。

”狂気”の果てにみたもの、その”真理”は誰とも分かち合うことはできない。

 

だが、そんな外界から隔絶するガラス越しではあっても、妻ジャネットが彼を出迎えてくれる。

見つめ合う二人。

 

そしてニールはガラス越しに妻へキスを送り、この映画は終わる。

 

 

 

 

私はこの妻ジャネットが、地獄へ引きずり込まれるファウストの魂をメフィストから救ったグレートヒェンのように見えたのですが、みなさんはどう感じられたでしょうか?

 

この映画がすごいと思ったのは、こうしたテーマをストーリーだけでなく、”体感”でもって語っているところです。

観客である我々はニール・アームストロングが体験したであろうことを、この映画で”疑似体験”することができます。

棺桶みたいなロケットで宇宙に放り出される感覚や、月に降り立って一気に視界が澄み渡って広がる感覚など、もちろんそれは”疑似”であって偽物なのですが、でも圧倒的にリアルに見せることで私たちが感じるその感覚、”体感”自体は私たちそれぞれが持つ紛れもない”本物”です。

 

映画が誕生したばかりの頃、こっちに向かってくる列車を観客はみんな必死に避けようとしたという、そんな”体感”を生み出す映画本来の力を、もう一度現代のテクノロジーで蘇らせようとする試み。

そしてその力を単なるアトラクション的なもので終わらせるのではなく、”物語”的な感動へと昇華させようとする挑戦は見事に成功していると私は感じました。

 

 

 

”至上”も”本質”も”真理”も、全て「幻想」だと暴かれてしまった現代

 

そんな”焼け野原”では、もうただ踊り狂うことしかできないのかもしれない

 

ならば、どこまでもとことん踊りあかしてやろうじゃないか

 

その”狂気”の向こうがわにあるものを見つめつづける勇気だけは失わないように…