いや〜〜〜〜っ!
もう4月じゃないですか!!
気がつけば、なんともう1年の1/4が過ぎてしまったのだ
先月は結局ブログ、1回しか投稿できなかった〜〜〜
どんどん更新頻度が落ちてきてるなぁ…。
やる気はあるんだけどねぇ。なかなか筆が進まない。
3月は会社の定期異動があったり(私自身は異動なかったんですけどね)
職場の送別会だのなんだの、なんだかんだとバタバタしてたらあっという間に1ヶ月過ぎちゃってた
そんな空白の3月。
私にとっての一番のトピックスはというと、
3月21日「山田玲司のヤングサンデー公開生放送@名古屋」
『君は、シャア・アズナブルという男を知っているかね?〜待望の新企画☆山田玲司×機動戦士ガンダム、開幕の名古屋スペシャル!!』
観覧に行ってきました〜〜〜〜
これでヤンサンの観覧も3回目。
今回は、ついにヤンサンが名古屋にやってくる!
東海メンバーの私としては、これはなんとしてでも行かねばなるまい
実はこの日、バリバリ仕事の日だったのですが、しれっとお昼で早引けして”名古屋のオタク街”大須へ駆けつけた次第です 職場のみんなゴメンね…
開始時間ギリギリにたどり着いたのは大須のとあるパソコンショップの4階。
同じフロアにはメイド喫茶があって、着いた当初はこのメイド喫茶で生放送するのかと、今年のヤンサンはアグレッシブやな〜とビックリしたのですが、案内された会場はその隣にある奥まったスペースでした。
観覧のチケットは事前にSOLD OUT。
会場は人いっぱいで、東海地区にもヤンサンメンバーはこんなにいたんだなぁと感慨にふけりながら、放送開始までにグッズを購入。
目標ターゲットは以前から欲しかった「ヤンサン同人誌」。
しかし私に順番が回ってくる直前で「Vol.01」が売り切れ
「Vol.02」しか手に入れられずに涙…
でもまぁ、Dr.マクガイヤーのドラえもん本も入手できたから良しとするかー。(マクガイヤーのドラ解説は絶品です)
そんなこんなで放送開始。
今回はおっくん待望の『機動戦士ガンダム論』
これまでさんざん語り尽くされてきたガンダムを、これまで40年もの間ずっと避け続けてきた玲司先生がついにぶった斬る、という企画。
さすがにもう切り口が無いというくらいにあらゆる論者に斬られまくってきたガンダムなので玲司先生もかなり苦労したとのことですが、それでもやっぱりヤンサンならではの論考が聞けて楽しかったです。
何よりも、「”ジャブロー”は○○○○だった!」
には爆笑&目からウロコ その考えは無かったわ……
やっぱレイジ、アンタ最高だよ!!
そして私自身ちょうど、今こうして80年代コンテンツである「方舟さくら丸」を読み解こうとしている最中なので、なおさら玲司先生の考察は興味深く感じ、多くの気づきも得られて、本当に貴重で濃密な時間を過ごすことができました。
ありがとうレイジ! ありがとうヤンサン!!
放送終了後は玲司先生のサイン会がありました。
私はサインを頂きながら玲司先生に切実な質問をしました。
それは、玲司先生が漫画を描きながら、新しい新書の原稿も書いたり、さまざまな企画を進めている中で、こうして今回の放送のためにガンダムを観て、いろいろ調べて考えて分厚いレジュメまで作成している、
「どういう時間の使い方をすればそんなにいろんなことができるの?」
という疑問でした。
なにしろ私は会社勤めだけで精一杯で、ブログの更新すらまともにできないダメダメっ子なので。玲司先生のその超絶的なバイタリティのほんのかけらでも分けてもらえたら、という私の切実な願いなのでした。
それに対する玲司先生の答えは、
「好きだからできるんだよ。いろいろ考えるのが好きなんだよ。ずっと考えて、その都度メモをとって、常に考えを溜め込んでいる。あとヨガのおかげかな。ヨガをしてるとあんまり寝なくてもよくなった。睡眠時間3時間で大丈夫な体質になった」
おお!やっぱヨガなのか
それにしても3時間睡眠って、水木しげるばりにしっかり寝ないと調子出ない私にとってはとてつもない、異次元の世界だなぁ
またいろいろ考えるのは私も好きなんだけど、私はメモが絶望的に取れない。新入社員の頃も上司から「なんでオマエはメモを取らないんだ!」とひたすら怒られた経験があるくらいメモが苦手なんですよね…
いずれもなかなか私にとってはハードルの高い秘訣で途方にくれてしまう。
しかしそうやってやる前からできない理由ばかり考えるのがダメ人間の典型なのだ。
まずはなんでもやってみなけりゃ始まらない!
なので、まずはとにかくヨガを始めてみるかーと、翌日に早速ヨガマットを購入した私 結構、行動力あるじゃん。
…でも、あれ? それ以来、なんにもしないで10日も過ぎちゃってるぞ
なんだかなー やっぱダメダメじゃん。
とべない豚はただの豚。
しかしそんな怠惰な豚の私でも、なんとか書きあげた今回の投稿。
「方舟さくら丸 その2」のはじまり、はじまり〜〜。
シャチマンボウ、かっこかわいい
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《豚》もしくは《もぐら》がぼくの綽名あだなである。
身長一メートル七十、体重九十八キロ、撫で肩で手足は短めだ。
体形を目立たせまいとして、丈の長い黒のレインコートを試して見たこともある。
しかし新築の市庁舎の黒いガラスに反射したぼくの姿は
《道に迷った子鯨か、ゴミ捨て場で変色したラグビーのボールに見えた。》
このような自分の容姿に強いコンプレックスを抱いている主人公 <ぼく>は《豚》と呼ばれることを異常なほどに嫌い、どうせなら《もぐら》のほうがいいと言います。
豚よりはモグラの方が可愛いし、何より地下採石場の広大な洞窟を核シェルターに改造しながら一人で孤独に暮らしている自分は、陽の光を嫌って暗い地中に潜って生きるモグラそのものだと自覚しているからです。
そんなモグラは群れを作らず一匹単独で行動する、縄張り意識が非常に強い生き物です。
モグラは安全な土の中でのんびり暮らしている可愛い動物のように思われますが、実は結構攻撃的な性格で、自分のテリトリーを侵すものを徹底的に排除する、その縄張り争いはかなり壮絶なものだそうです。
モグラは一日に体重と同じだけのミミズを食べ続けなければ死んでしまうほどの大食漢なので、その場所に限られた量しかないミミズを他のモグラと分け合って暮らすということができない。
だから豊富な資源を有するテリトリーを確保することがまさに死活問題となる。モグラは他者を徹底的に排除せねばならない宿命にあるのでした。
このモグラ抗争が最も激化するのが繁殖期。
通常はそれぞれに縄張りを守ってオスもメスもバラバラに単独で離れて暮らしているのですが、繁殖期になるとオスたちが皆メスを求めて自分のテリトリーを越えて侵攻を開始します。
しかしそうやって各々がテリトリーを拡大していくと、当然オス同士が鉢合わせをする確率が高まるわけで、出くわしてしまったが最後、モグラ同士の血で血を洗う殺し合いとなります。
そしてこの壮絶な”モグラ・バトルロワイヤル”を勝ち抜いて見事メスの元までたどり着いたものだけが繁殖を許され、己の子孫を残すことができるのでした。
このように非常に排他的な習性を持つモグラ。
その排他性が大量のエネルギー(食料)を消費しなければ生きていけないという性質に由来している点がとても興味深い。
それは我々の現代における市場経済を拡大し続けることでしか存続し得ない資本主義社会、そのために限られたエネルギー資源を浪費し続けなければならない大量消費社会のアナロジーを思わせるからです。
”モグラの縄張り”はマクロな視点では「国境」そのものであり、一方ミクロに捉えるなら個人の「自意識」とも読み換えられるでしょう。
先の投稿「返信をください その2」で言及した”パーソナルスペース問題”は自意識の過剰消費が人間の持つ根源的な排他性を表出させるものとして、本能的に社会を持たないモグラの個人主義的排他性との相似関係を見ることができます。
個人から家族、地域、都市、国家へと広がるいずれのレベルにおいても、”モグラの排他性”が潜んでおり、極限状態に置かれればいつ凄惨な”モグラ・バトルロワイヤル”が勃発するやも知れない危うさが付きまとう。
だから<ぼく>は「ユープケッチャ」の夢をみる。
「ユープケッチャ」とは”自分の排泄物を餌にして生きながらえる永久機関的な「完璧にちかい閉鎖生態系」”
これはこの小説が書かれた80年代に深刻な社会問題として顕在化した大量消費社会がもたらした環境破壊の反省、サステナビリティ(持続可能性)の思想、循環型社会のアナロジーとも読み取れるかも知れない。
地中のミミズをひたすら食べて食べ尽くし、それでも生き延びるためにさらなるミミズを求めて掘り続けなければならない”死に急ぐ”モグラでは、いずれ次の瞬間にも破滅してしまうだろう。
「危機はすぐそこまで迫っているんだ」
この次の瞬間にも北朝鮮からミサイルが飛来するかもしれない。
ついに南海トラフ巨大地震が起こるかもしれない。
箱根山が破局的噴火を起こすかもしれない。
2011年3月11日、あんな悲惨な災害が起きるなんて誰が予想しただろう。
いや、日本で巨大地震が起きることは誰もが知っていたことだ。
ただいつどこで発生するかわからないだけで、日本は常に震災の危機に晒され続けて逃れられないことは疑いようもない。
しかしその震災の発生に始終怯えながら暮らすほど馬鹿げたこともないだろう。
それでも人は必ず死ぬ。死は必ず訪れます。
”メメント・モリ(死を想え)”
この言葉は死の影に怯えるのではなく、明日をも知れない限りある命であるからこそ生きている今この時を思う存分楽しみ味わえ、という訓戒です。
いつ死んでも悔いがないような豊かな人生を生きるためには、人生には必ず終わりがあるということを常に忘れてはならない。
2013年の流行語、林修の「今でしょ!」が何故流行ったかと言えば、それは3.11を経験した我々の時代の空気感、”メメント・モリ”の気分が日本全体を包んでいたからかも知れません。
同じ2013年に出版され、ベストセラーとなった「嫌われる勇気」もまた「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当て、”今”を真剣に生きよというメッセージを語り、多くの人々に受け入れられました。
そして「ユープケッチャ」が頭をつねに太陽の方角にむけて回り続けるのも、背後に死の影を色濃くさせながら、「いま、ここ」の強烈な光を見つめ続けるためなんじゃないかと考えたりもして、この”メメント・モリ”は普遍的なモチーフとして語られ、さまざまな危機に晒され続けている現代社会においても重要な意味を持つと言えるでしょう。
ただ”個人の死”と”来るべき危機”は同じようでいて、少し事情が違います。
個人の死は宿命的に不可避であるが、危機はそれを避けて生き延びられる可能性があります。
そしてその危機を常に意識して備えていた者ほど生き延びるチャンスが高まります。
”来るべき危機”を想うことは、どうしても”今”ではなく”未来”を志向してしまうものです。
だから、いつ起こるとも知れない核戦争に備えて本当に核シェルターを作ってしまう<ぼく>の行動は非常に中二病的な滑稽さをともないながらも、単純に鼻で笑って完全に否定しきれるものではありません。
それは冷戦がとっくの昔に終わってしまった現在であっても何も変わらない、私たちに永遠に付きまとい続ける問題なのです。
ところで”オタキング”岡田斗司夫の実家の地下には核シェルターがあったという話。島本和彦の漫画「アオイホノオ」でそのエピソードを読んだ時、真っ先に思い浮かんだのが「方舟さくら丸」でした(笑)80年代ってそういう時代だったんですね。
そんな《もぐら》に対して《豚》。
<ぼく>は《豚》という言葉に過敏に反応し、極端に嫌います。
豚はいけない。耳の中を虫が這い回る音。ぼくだって昔から豚だったわけではないのだ。
一般的に《豚》のイメージはあまり良いものではありません。
「貪欲」「怠惰」「愚鈍」「不潔」
本当の豚はとても賢く神経質な動物で、綺麗好きで走るスピードも速く引き締まった身体をしています。
なのに実際とは真逆のレッテルを貼られて豚さんがかわいそうですが、なぜか古今東西にわたってそのようなイメージで語られ侮蔑の言葉として用いられています。
そんな豚のイメージはいわゆる<オタク>にもなぞらえられたりします。
<オタク>は知識欲、物欲が旺盛で興味のある対象に執着して消費し尽くします。本や漫画、映画やアニメなどさまざまなコンテンツを漁って部屋に引きこもって運動をしないので肥満の人が多かったりします。また身なりに無頓着で風呂嫌いの人が多かったりします。
他にもアニメのキャラに愛着を示すのを「ブヒる」と表現したり、アニメオタクを「アニ豚」と蔑称したりと枚挙にいとまがないほど豚とオタクの関係は密接だったりします。
そのオタクの代表格、ジブリの宮崎駿監督は豚のモチーフに非常にこだわりを持っています。
「紅の豚」では主人公を豚の姿に変えられた中年男にして、「千と千尋の神隠し」では千尋の両親を豚に変えて、「風立ちぬ」の原作漫画では登場する男たちは皆豚の姿で描かれ、そもそも宮崎駿が描く自画像からして豚の姿をしています。
宮崎駿はオタクが嫌いでインタビューなどでいつもオタク批判をしています。が、そんな自身もオタクという言葉で一括りにされる気質を濃厚に抱えていることを自覚しています。
忌むべきオタク気質と単なるオタクではない自負とがせめぎあって混沌としている自分像。
オタクにはあらゆるコンテンツを貪欲に漁り怠惰に消費し尽くす醜悪さがありますが、それは裏を返せば旺盛な好奇心や強い探究心となってさまざまなものを生み出す創造力の源泉にもなりうる。
それがそのまま豚のイメージと繋がります。
宮崎駿が手がけた日テレのブランドマーク「なんだろう」も豚ですが、このマークに彼が込めた意味は、
「身のまわりにいる不思議で可愛い動物」でみんなの中に生きている「探究心」や「なにかを生みだす力」「未来への前進」を表現している。
”醜悪”な外見のうちに隠された聖なるもの。
神聖と卑俗がコインの裏表のように、それらを包括したものが豚であり、自分自身であり、人間とはそのような存在であるというのが、宮崎駿にとっての《豚》なのです。
そんな《豚》のイメージを宮崎駿は自身に認め引き受けますが、<ぼく>はどうしてもそれを認めることができません。
なぜなら<ぼく>は方舟の船長として神に「選ばれしもの」であり、かつ生き残るべきものを神のごとく「選ぶもの」である以上、豚のように「貪欲」「怠惰」「愚鈍」「不潔」な愚民であってはならないからです。
豚の醜悪さは「ユープケッチャ」の崇高な理想を貶める癌となる。
豚の大量消費社会は「ユープケッチャ」の循環型社会を破壊するものであるから。
だから<ぼく>は自分の中の《豚》を殺し、《もぐら》から「ユープケッチャ」へ変身しようとする。その変身装置が「方舟」だ。
しかし、ここで自己矛盾が生じていることに<ぼく>は気づいていない。
それはシェルターで自分たちだけが生き延びようとすること自体が人間にとっての最大の強欲であり、豚の醜悪さであるからだ。
シェルターに誰を収容するか、誰を生かして誰を殺すのか、その選別を始めた瞬間から、殺したはずの自分の中の豚が蘇り、船内を喰い荒らしはじめる。
そして船外からも飢えた豚どもが押し寄せて船底を喰い破りはじめる。
豚の存在を無視した自己欺瞞が生み出した滑稽な悲劇のはじまり。
このような《豚》と《もぐら》と《ユープケッチャ》と、三つのイメージが交錯してこの小説の舞台が形づくられます。
つまりこのシェルター/方舟は<ぼく>の自意識そのものでもあります。
自分ひとりでは完璧だと思われていた自意識が”他者”の存在に触れた時、その自意識はどのように変容していくのか。
「昆虫屋」「サクラの男女」「猪突」「ほうき隊」ら次々と現れて<ぼく>の方舟へ侵入してくる”他者”たち。
次回は彼ら”他者”たちを追っていくことにします。
つづく。
ところで、シャア=アズナブルのマスクとポルコ・ロッソの豚の姿は共に本当の自分を隠し持つモチーフとして対照的ですが、そこには富野監督と宮崎監督との”ダンディズム”の違いが如実に表れていて大変興味深いです