僕がまだ幼かった頃。ちょうど娘ぐらいの年ごろだったと思います。僕の住んでいたところは全くの田舎で、身近にいつも自然がありました。これは親父の影響だと思うのですが、根っからの釣り好きで。海に山に川に。朝は4時過ぎには起きだして友達と待ち合わせ、自転車を漕いで海岸の堤防の突端に釣りに出かける。そんな日々を過ごしたこともありました。いろんな魚を釣りました。海ではイシダイにアブラコに。アジやサバ、それにズズキ(これは夜釣りでしたね)。山ではイワナを。川ではヘラブナや鯉。本当になんでもこい、状態でありました。で、いちばん楽ちんだったのが、ハヤ(ザコ=ウグイ)釣り。こいつは川の中流にも下流にも、そして汽水域から海の中まで。どこにもいる魚で。仕掛けも「ご飯つぶ1つぶ」から魚粉をまるめた「吸い込み」という仕掛けまで、とにかくいろんな釣り方ができる魚でした。でもって、塩をふって丸焼きにする。これが「んマイ」んですね。しかし釣ってみてもあまり面白くない魚ではありました。はい。「アタリをとる」ということ。これがぜんぜん必要ない。仕掛けを放り込んで待つことしばし。勝手にかかってくるので、それを釣り上げるだけ。そんな魚でした。
のっけから話が飛んでしまいました。ここで言いたかったことは「アタリをとる」。その点です。アタリをとる・・・とは、仕掛けに魚が寄ってきて、仕掛けにかかろうとするその刹那。それを見極めて魚の口にグイっと針をかける。そのことです。ふつう、魚というもの。エサを見つけてもそのまま「パクリ」とは来ないんですね。チョンチョン・・・チョンチョン・・・。エサを確かめるように突っつき始める。この振動。この感触が釣り竿を伝わってくる。ここであわてて竿をあげても魚は釣れないんです。だからじいっと我慢をする。そのうち魚は安心して、エサを咥えて身を翻して行こうとする。このときの感触。クイっとくるタイミングで、竿をさっとばかりに引いて針を魚の口に食い込ませる。これを「アタリをとる」というんですね。この「魚との駆け引き」。これが何よりも難しくも面白いポイントでありまして。これの上手下手が釣り人としての技量を左右する。「アタリをとる」とはそういうことなのでした。
ふたたび話が飛んでしまいました。ここで言いたかったことは、例題を使って「考える算数」を身につける。そのための「例題の読み合わせ」。「読み合わせ」というからには、当然ながら勉強する本人とそれにつきあう大人(つまりは僕です)がいるわけです。使う仕掛け・・・じゃなかった、教材は、四谷大塚の予習シリーズ算数。この各単元の最初にある例題です。このテキスト。テキストの前書きに使い方がはっきりかいてあって、まずはその単元で学習する内容を確認したら、例題を「解き方を見ずに自分で解いてみる」。そういう使い方を念頭に設計された教材なんです。これを親子2人で向き合って取り組む。なぜ2人かといえば、娘が魚で僕が釣り人でエサが例題、という構図。それで娘がエサを、チョンチョン・・・チョンチョン・・・とつつき始める様子を、僕が向かいから「じいっ」と観察している。しばらくするうちに娘が解法の核心に近寄ってくる。でもまだ核心そのもののまわりをうろうろ、うろうろ、チョンチョン、チョンチョン・・・。僕はそれをじいっと我慢しながら観察しているわけです。待つことしばし。やがて娘が核心に触れることを口走る。その刹那。僕は「!そうだよっ!それそれっ!」と、アタリを取るわけですね。あとは娘が解答していく様子を見守るだけ。これで1匹あがり、と相成るわけで。
これを繰り返していくと、だんだんと問題の核心を見抜く力がついてくる。核心に至るまで、あるいは核心から解答に至るまでの「ものの考え方」。そういうものも身についてくる。僕はこれを娘が5年生だった1年間、ただただひたすら続けました。他に使った教材は、同じテキストの「基本問題」「練習問題」だけ。たったこれだけの取り組みで、娘は「考える算数」を身につけたのでした。ここまでくると、もう手助けはほとんど必要ない。「アタリをとる」必要もなく、仕掛けを放り込んで待つことしばし。勝手にかかってくるようになるんですね。要するにひとりで考え、問題を解く力がついてくるんです。まるで「ハヤ釣り」そのもので。ただそれとの違いは、娘そのものは煮ても焼いても「んマクない」・・・つまらないオチですみません。
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