集中するほどに学習課題は短時間で終わります。このONの時間が短いほど、OFFの時間が多く取れる。

この「ぽっかり空いたOFFの時間」。スキマ家具のように学習課題を詰め込みたくなるところを、ぐっと我慢する。ONとOFF。このメリハリをはっきりさせることで、ONの時間の内容。これがより充実してくる。OFFの時間の内容。これをより豊かにすることができる。このOFFの時間。この時間を十分に確保して、子どもの時期に学んでおくべき必要不可欠なさまざまな経験を、いまこの時期に、娘に体験しておいてほしい。そしてさらに、その体験の豊かさを次の世代にも伝えていって欲しい。そんな願いが僕の中にはあるんです。こういう経験を得るべき貴重な年頃を、中学受験一色で塗りつぶして欲しくないなあ、と。

一昨年はファーブル生誕から100年の節目になる年でした。なので昨年の入試ではチョウのスケッチなど、昆虫にちなんだ出題が増えました。チョウの体の仕組み。これをスケッチできるお子さん。確かに増えたことだろうと思います。悪いことではありませんよね。しかし、だからといって、チョウの写真やイラストを見て上手に模写できるようになることに、どんな意味があるのかなあ・・・そんな風に僕は考えてしまうんですね。チョウのスケッチが上手になることより、生きた昆虫とのふれあいを通してこそ、生き物や自然というようなものに対する理解が深まるように思うのです。「スルメを見てイカがわかるか」。養老孟司先生の言葉だと思いますが、まさにそういうことなんです。

僕が娘と同じ年頃だったころ。程近くには渓流があって、親父にくっついて、よく釣りに出かけたものです。そうすると、だんだん分かってくるわけです。何がといえば、例えばそれは「魚の気持ち」・・・だったりするんですね。水の落ち込みの両脇とか、流れの中の大岩をちょっと回り込んで水が澱んでいるところとか。こういうところでは魚がよく釣れる。どういうことかといえば、それはその魚の「お食事の時間」。楽をしてエサをたくさん食べたいわけです。そうすると当然、自分は楽に泳げて、なおかつエサとなるようなもの。そういうものが目の前をたくさん流れていくようなところ。そんなところに魚が集まってくるわけです。かといえば、水溜りみたいになっているところに魚が集まっていることがある。こういうところの魚はまずほとんど釣れない。彼らはお食事が終わってゆっくりする「休み時間」を取っているところなので、目の前にエサをたらしても、まず食いついてこない。ようするに魚には魚の生活があって、その生活史にしたがって生きている。そんなことがだんだんとわかってくるんです。
 


今の時代。我が家の近場にそんな豊かな自然はなかなか見つからない。そうではあっても、娘にはそういう自然との触れ合い。そういったものを今できるうちに体験しておいて欲しい。そういったものの豊かさのポテンシャルを実感しておいて欲しい。そう思うわけです。そんなわけでOFFの時間。娘を奥多摩の方にあるマス釣場なんかに連れ出したりするんですが、まあ仕掛けなんかはみようみまねで準備できても、魚は釣れないわけです。で、「ぱぱはどうしてそんなにお魚がつれるの?」とくるわけですね。僕はそんな機会を狙って、娘に魚の暮らしを説明しながら、「ほら、ここの大岩の周りを探るように釣り糸を流してやればいいんだよ」・・・なんて実例を見せてやろうとすると、僕がそのポイントに居ついていた魚を釣っちゃったりするわけで。その空いた縄張りに次の魚が居つくまでは、そのポイントでは魚が釣れない。だからやっぱり娘は魚が釣れない目にあったり(汗)。

娘が母親になる頃。その頃に自然というものがどのように変容しているのか、それはわかりません。わかりませんが、その変容した自然の中で、娘の今の経験が生きてくる。そんな機会もあるだろうと。そんなわけでOFFの時間。これをできるだけ充実したものにしてやりたい・・・そう思っています。

2009年1月12日記す