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■はじめに
以前、曲もブログも結局は自分の為に書いていると言った内容の記事を書いた事があります。
この記事はその『曲もブログも結局全ては自分の為』と言う記事をリブログして書いています。
■広がりつつある新しい考え方
『曲もブログも結局全ては自分の為』に書いた事は、今も、自分の中にある事で、考え方が180度変わったと言う訳ではない。
まずは自分の為に創作をして、その結果誰かの為になればいいと言う考えは、基本的には、今も自分の中にしっかりと居座っている。
でも、少し違った考え方が徐々に自分の中に広がりつつあるのだ。
それは、「まずは自分の為」と言う発想とは真逆で、「誰かの為に」と言う考え方である。
そしてその考え方は、新しく芽生えたと言うより元々自分の中に自分でも気付かぬうちに持っていたものが、どんどん大きくなってきたと言う方が正しいのかもしれない。
■「自分の為」なのか「誰かの為」なのかで大きく変わるもの
確かにこの二つの考え方が一人の中に同居しているのは、一見矛盾している様にも思えるが、この二つは表裏一体の考えで、あたかも一枚の布をオモテ・ウラひっくり返して使っている様なものなのだ。
実は、この二つは切っても切れないもので、二つで一つと言える。
ただ、使い方を逆にするだけで、その意味は少し違ってくる。
『まずは自分自身の為、その結果が誰かの為になればいい。』で書いた、「まずは自分の為」にから始めても、結果、他人の為になるのであればそれでいいと言うのは、先ほども述べたが今でもそう思っている。
それを「まずは誰かの為に、結果それが自分の為になる」と言うのでは、少し違う。
出発点が「自分の為」なのか「誰か他人の為」なのかで、自分の心理や創作する作品の内容や自分自身の行動そのものにも与える影響が違ってきて、その途中経過も最終結果もこの二つの違いで大きく変わる。
■聴く人の為のボイストレーニング
曲作りやブログや楽器演奏など、あらゆる所に目を向けると文章が散らかるので、話の焦点を一つに絞って進めたいと思う。
その一つに絞った焦点、例えば、歌う事について。
二十歳前後の頃は、「人から賞賛されたい」「注目を浴びたい」と言う気持ちで、ボイストレーニングに励んでいた。
二十代半ばには、とっくにそこを卒業して「お客さんの前で歌うのだから声を磨くのは当たり前」と言う感覚で、歌の練習に励んだ。
これは、お客さんの為でもあるが、出発点は「お客さんの前でみっともない真似は出来ない、失礼だ」と言う考え方で、どちらかと言えば、出発点は「自分の為」に寄っている。
ところが、明確な変化の瞬間と言うものはなく徐々にではあるが、ここ数年で、「せっかく自分の歌を聴いてくれるのだから、その人達には心地良い時間を過ごして欲しい」と言う思いが強くなって、今は自分の為ではなく、誰かの為に歌の練習に励み、聴く人の為に歌う様になった。
今のこの考え方は、完全に出発点が「誰かの為」である。
心地良い歌声を聴いている時間は、自分にとっても至福の時であり、とても大切な時間だ。
自分自身も歌い手としてそうありたいと思っている。
■誰かの為に歌うとどう変わるのか
僕自身の場合、「誰かの為に」と思って歌い始めてそれ程の年月が経過した訳ではないので、そう大した変化はまだないのかも知れない。
ただ、以前、「自分の為」を出発点にしていた時と、聴いてくれる全てのお客さんの為にと、去年の暮れに、ソロのシンガーソングライターとして久しぶりに人前で歌った時のお客さんの反応はかなり違う感じがしたのは事実だ。
観客にウケたとかウケなかったとかそんな話ではない。
出発点が「自分の為」であろうと「他人の為」であろうとウケる時はウケるし、スベる時はスベる。
ステージに立つと観客の反応は、本当に繊細に鮮明に演者に伝わる。
こればかりは、経験者にしか分からない事で、説明のしようがなくて申し訳ないのだが、そのまま、言葉通りに「そんなものなのか」と受け取って欲しい。
その伝わるものが同じウケたライブでも、出発点が違ったせいなのかどうかは分からないが、お客さんから伝わるものはまた違ったものであったと言う話である。
同じ「暖かい」でも色々な暖かみがあって、そう言った違いなのでこれも説明が難しい。
とにかく、今まで経験した事のないものであった事は間違いない。
■出発点が「自分の為」が、何故アリなのか
名前を出すと失礼なので名前は出さずに話を進めるが、昔から歌唱力が抜群な歌手の中には、「ドヤ顔」プラス「ドヤ顔」ならぬ「ドヤ声」で「どうだ!」と言わんばかりに歌い上げる歌手がいる。
僕は、この手の歌い手は苦手だ。
「どう?上手いでしょ!」「いい声でしょ」「聴いてて気持ちいいでしょ!」「感動するでしょ!」「聴かせてあげる」などと言う意識がやたら乗り過ぎている歌い手は、聴いていても、心地いいどころか、何だか鼻について嫌な気分にさせられるのだ。
今でも演歌の世界にその手の気になる歌手がお一人いらっしゃるが、世間では評判もいい。
だから、誰しもが僕の様な受け取り方をするとは限らない。
そう言う意味では、冒頭で話した様に、出発点が「自分の為」と言うのは間違いでもなく、一つの考え方としてアリなのかなと思っている。
■出発点が「誰かの為に」に変化したのは何故?
「ドヤ顔」+「ドヤ声」で歌い上げる歌手は、既に十代の頃から僕はあまり好きではない。
だから、それが理由で最近、出発点を「誰かの為」として歌う様になった訳ではない。
僕は、出発点が「自分の為」であった時も、「ドヤ顔」+「ドヤ声」で歌い上げる様な歌い手にはなりたくないと常に思ってきたので、そんな時期はなかった筈だ。
出発点の変化の理由は実は自分でもよく分かっていない。
「人の役に立ちたい」「人の為に生きてみたい」と言う思いが徐々に大きくなっての結果だ。
だから僕は、誰かが僕の歌を聴いてくれた時に、心地のいいひと時を過ごして貰えたら嬉しいと言う気持ちで、ボイストレーニングに励んでいる。
■終わりに
いざ、誰かの為にと言う思いを前面に出して行動しようとすると、社会との関わりがとても大事になってきます。
ライブをするのにも、僕の様に社会と断絶した状態では、ままなりません。
今の僕は、以前よりは少しマシですが、自ら、出来るだけ社会との関わりを断って、何年にも渡って生きて来た人間です。
そして、今でも、人間そのものが苦手です。
僕はよく他人から社交的な人間だと思われますが、実は、そうではなく、かなりの人見知りだったりします。
コロナ禍でもありますし、普通のミュージシャンでもライブを行う事は何かと難しい所があります。
そんな中で、只でさえライブを行うのが難しい僕と言う音楽アーティストが、他人の為に歌いたいと言う思いに目覚めた時、一人の音楽家として、どう生きていけばいいのでしょう。
別に質問している訳ではなく、自問自答の自問の部分のつもりです。
そして、愚痴でもありません。
よぉ〜く、考えたいと思います。
とにかく、僕の歌を聴いてくれる人の為に、自分の声を磨き続けようと思います。
☆*゚ ゜゚*☆*゚ ゜゚*
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