この本は、単行本(1980年初版)が書棚にあるのだが、先月、ヴェネツィア共和国に属していたベルガモやブレーシャを訪れたこともあるし、久しぶりに (あら、45年ぶり) に文庫で読み直してみた。単行本は上下巻なのに、文庫は細切れで6巻である。
第1話 ヴェネツィア誕生: ヴェネツィアは潟(ラグーナ)に建設された都市である。この本は「水の都」ではなく「海の都」と題されねばならず、その歴史は複雑で多様で、動きに満ちていた。ローマ帝国末期(452年)、アッティラの率いるフン族がイタリアに侵攻し、ヴェネト地方、アクイレイアを襲撃した。人々は神の啓示だとして司祭に率いられ、海に広がる干潟へと避難した。その24年後、476年、西ローマ帝国は滅亡した。当時の様子を知るには、ゴート族の王に仕えていたカッシオドルスの書いた文書がある: それによれば、ヴェネツィアの人々は物資の輸送と製塩を生業としていた。さらに567年、ランゴバルド族の侵入を受けたヴェネト地方の住民はより大量にヴェネツィアの潟へ逃げ込んだ。とはいえ、ペレストリーナやマラモッコなどの沼沢地帯であり、リアルト橋の辺りが中心になるのはさらに250年後のことであった。
697年、ヴェネツィアでは住民投票により初めて元首(ドージェ)が選出された。800年、フランク族の王シャルルマーニュが神聖ローマ皇帝として戴冠し、ヴェネツィアに恭順を要求してきたが、ヴェネツィアはその命令を拒絶した。当然フランク族は戦争を仕掛けたが、ヴェネツィア人は潟の水路を示す杭を抜き取り、敵を座礁させて焼き払った。その1年後、ヴェネツィアは西の皇帝のみならず、ビザンツ帝国の皇帝とも、領内での交易の自由を認める条約を調印した。
そして9世紀初頭、リアルト(深い水路の意味)地区を中心とする国づくりに着手し、国ぐるみで移住した。海に浮かぶ都、である。
聖マルコの聖遺物を828年、2人の商人が、イスラム支配下の同聖人の殉教地アレクサンドリアから、豚肉に隠してヴェネツィアに持ち去った。ヴェネツィアはこの一流の聖遺物を得たことに狂気し、自分たちの守護聖人とし、聖マルコ寺院を建設した(それ以前、ヴェネツィアには聖テオドーロの聖遺物しかなかった)。聖マルコの象徴である獅子を象った国旗もつくられた。
magistrato all'acqua (水の行政官)という官職と、生きている、つまり澱まないラグーナ Laguna viva の重要性について。運河には、幅の広いカナーレと、狭いリオがある。地盤(フォンダメンタ)造りの杭打ちについて。広場(カンポ)について: 初期は樹木が植えられ、家畜も放牧されていたので。小路(カッレ)。井戸について: 雨水を溜めて濾過する装置。教区(パロッキア)について。汚水は潟に垂れ流し。12世紀にはセスティエレ(六区政)が敷かれた: カナレッジヨ、カステッロ、サン・マルコ、サン・ポーロ、ドルソ・ドゥーロ、サンタクローチェ。聖マルコの鐘楼は灯台でもあった。ヴェネツィアは商業国、海洋国家として発展していく。この六区政はなおも現存している。運河に面した館にはコルテ(中庭)がある。フォンダメンタ・ヌオーヴォ(新河岸)の近くには造船所が集まった。今日のヴェネツィアは150以上の島と180ほどの運河、410以上の橋から成っている。
第2話 海へ!:海洋交易を生業としたヴェネツィアにとっての課題は海賊退治という国家事業であった。アドリア海の入江に潜む海賊はスラブ民族であった。ピエトロ・オルセオロという30歳の時に元首に選ばれた若者は、海賊に貢納金を払うのをやめた。そしてコンスタンティノープルへの寄港料金をジェノヴァらの商船の半額近くにする契約をとりつけた。ビザンツ帝国はヴェネツィアにアドリア海の警察の役割を担わせようとしたからである。この大義名分を得たヴェネツィアは海賊を完膚なきまでにたたきのめし、ビザンツ帝から「ダルマツィアの公爵」の称号を得た。ヴェネツィアはこれらの入江に多くの要塞や砦を建てた。以後、アドリア海は Golfo di Venezia と呼ばれるようになる。それはまるで「海の高速道路」であったと塩野さんは言う。その東側沿岸部は Riva degli Schiavoni と呼ばれ、ヴェネツィアの水夫にはこの地方の出身者が多かった。カナル・グランデ添いにはその名の河岸が今もある。12世紀、ヴェネツィアは公式に「海との結婚式」という祝祭を定めた(1173年のキリスト昇天祭=復活日後40日目の木曜日)。ブチントーロに乗った元首が指輪を海に投じるのである。[ヴェネツィアを男とみなすか女とみなすかについては、ラテン語の海が中性名詞なので、塩野さんの言うようにヴェネツィアが男、海が女、でよいかと思う。]
ヴェネツィアの交易商品は、初期は塩と塩漬けの魚、やがて奴隷(異端など)と木材となった。買い手は北アフリカのサラセン人で、得た金でコンスタンティノープルにて奢侈品を買い付けた。ヴェネツィアの造船技術は、16世紀までは圧倒的に優れていたが、船舶は売らなかった。船の種類: 逆風でも進める三角帆を持つ帆船、ガレー船。塩野さんは風の呼び名を説明する(トラモンターナ、グレコ、レヴァンテ、シロッコ、アウストロ、リベッチオ、マエストラーレなど)。ガレー船は長く、幅5m、長さ40m、4〜6ノットで進んだ。漕ぎ手には100人以上を要したが、風がある時は帆を利用し、いざという時の戦闘要員でもあったので、奴隷ではなかった。
中世に起きた教皇派と皇帝派の抗争に関して、ヴェネツィアは両者の調停役となった。
11世紀に南イタリアとシチリアを征服したノルマン人[ロベルト・イル・グイスカルドの方]はビザンツ帝国征服という野望を抱いており、コルフ島やケファロニア島などを征服した。この動きにヴェネツィア海軍は反応してドゥラッツォ沖で戦い、ビザンツからその代償として、コンスタンティノープルに商業基地をおく許可とビザンツ商人なみの待遇を得、金角湾沿いに居留地を置く許可を得た(1082年)。当時、ヴェネツィアの人口は10万ほどであったが、コンスタンティノープルには1万人が居住していた。現地の商人はこれを快くは思わなかった。
十字軍については、当初ヴェネツィアは静観していたのであるが、ヴェネツィアの既得権を更新しようとしないビザンツ帝に対し、ヴェネツィアは十字軍と銘打った艦隊を出動させ、第一次十字軍の海上補給を務めていたピサの艦隊を撃滅し、これに驚いたビザンツ帝はあわてて既得権を更新するのを確かめてから、十字軍の要請に応じ、その成果により、パレスティナ地方の各都市に商業基地を開設する許可を得た。だがその後20年間、ヴェネツィアはアドリア海東岸においてハンガリーとの攻防に手を焼き、パレスティナに目を向けるゆとりがなかった。
1123年のヴェネツィア十字軍: ヴェネツィア艦隊はヤッファに至ったが、既に包囲は解かれていたものの、元首は輸送船団を装ってエジプト艦隊の追跡を決行し、それにひっかかったエジプト艦隊にアスカロン沖で完璧な勝利をおさめた。ヴェネツィアの強大化にビザンツ帝は既得権の更新をしぶったのみならず、ヴェネツィア排撃運動も起こり、国交は断絶する。
第3話 第四次十字軍: 一般的に、この十字軍の悪者はヴェネツィア共和国と考えられている。教皇インノケンティウス3世から決起が促されたものの、各国王は反応しなかったが、馬上槍試合に集まった騎士たちが遠征を宣誓した。そしてその計画は、本拠地エジプトのカイロを叩くこととし、軍の運搬はヴェネツィア共和国に依頼することが決まった。ヴェネツィアはそれ(4500の騎士と20,000の歩兵、4500頭の馬、9000人の馬丁の輸送とそれらのための兵糧)を有償(85000マルク)で請け負う。ただし、元首が50隻のガレー船と6000人の戦闘員を率いて参戦するので、その征服地の半分を得ること条件とした。フランス騎士たちはこれを快諾したが、出航時になっても、次々に離反する者が多々あり、参加者が集まらず(1/3以下、1万ほど)、ヴェネツィアへ支払うべき金が足りない。その補填として、ハンガリーに扇動されて寝返ったザーラを攻略することに加担することになる。艦隊の総数を塩野さんは計200隻ほどとみている。その1ヶ月後、艦隊は5日でザラを陥落させた。カトリックのザーラを攻撃したことで、十字軍は教皇から破門を受けそうになり、あわてて釈明する。ヴェネツィアは冬の航海は危険だからとザーラでの越冬を告げる。そこへ、ビザンツの帝位を叔父に奪われた亡命皇子が帝位獲得への助力を求め、軍資金20万マルクとさまざまな好条件を提示してきた。こうして春を待ち、十字軍はコンスタンティノープルに向かい、帝位獲得に協力したが、ビザンツの国庫には金がなく、約束どおりに支払うことができなかった。しかも新帝は殺害され、帝位を簒奪した者も支払わなかったので、十字軍はコンスタンティノープルで破壊と暴行略奪の限りを尽くした。そこに十字軍はラテン帝国を成立させ、エジプトに向かうことはなかった。そもそも契約書のどこにもカイロという目的地は明記されていなかったのである。ヴェネツィア共和国は、「東ローマ帝国の3/8の主権者 Signore di un quarto e mezzo dell'impero romano di oriente」となり、自分たちのライヴァルであるジェノヴァなど他の海洋共和国を閉め出した。エーゲ海の島々、ミロス、パロス、ナクソス、ミコノス、ティノス、シフォス、スタンパリア、ゼア、アンドロスは、ヴェネツィアの有力家族に与えられ、本国はエウボイア島とクレタ島(テッサリアをモンフェッラート侯と交換して獲得)を直轄し、「海の高速道路」を完成させた。
これらを成し遂げたヴェネツィアの元首エンリーコ・ダンドロは彼の地で他界し、聖ソフィア寺院に葬られた。遺骨は、15世紀末期、マホメッド2世の肖像画を描いたジェンティーレ・ベッリーニによってヴェネツィアに持ち帰られた。
この書物は、1981年にサントリー学芸賞を受けている。今、読み返してもなかなか面白い。ヴェネツィアの活動範囲は広かったから、西欧のことがぜんぶわかる。