こんばんは、久ぶりの投稿になりました。


いつも庭先でチョコチョコと駆け回ったり、上昇しては下降して特徴的に飛びまわったりしているセグロセキレイ。白と黒の模様もかわいらしい日本固有種の鳥のひとつ。


あまり近づき過ぎると逃げてしまうので写真撮影には一苦労しました。地面を駆け回るのも小さな体の割りに早いんですあせる


セグロセキレイ1

セグロセキレイ(背黒鶺鴒)
 [学名]Motacilla grandis
 [科]セキレイ科
 [目]スズメ目


ハクセキレイの記事を投稿した時にも紹介しましたが、「ニハクナブリ(ニワクナブリ)」の名で、『日本書紀』 に登場する鳥です。


伊弉諾神(イザナギノカミ)と伊弉册神(イザナミノカミ)が國生みのときに、鶺鴒(ニハクナブリ)が頭と尻尾と振るさまを見て、男女の交合の方法を知られた…。


遂將合交而不知其術 時有鶺鴒飛來搖其首尾 二神見而學之 即得交道

【遂(つひ)に合交(みあは)せむとして其(そ)の術(みち)を知(し)らず。時(とき)に鶺鴒(にはくなぶり)有(あ)りて、飛(と)び來(き)たり其(そ)の首(かしら)尾(を)を搖(うごか)す。二神(ふたはしらのかみ)見(み)そなはして學(なら)ひて、即(すなは)ち交(とつぎ)の道(みち)を得(え)たり。】

~『日本書紀 卷第一 神代 上』 四段 一書第五~


セグロセキレイ2

長い尻尾を上下に動かす特徴をよく掴み、古代の人々の想像力が際立つ神話のひとつといえます。後姿もかわいらしいですね。


熊本県との境、かつては玖珠郡葦谷村(あしやむら)とよばれていた集落に菅原道眞(すがわらのみちざね)公ゆかりの川底温泉がある。


菅原道眞公が大宰府へ向かう途路、この地を訪れ湧出する温泉を発見したのだという。その温泉郷の奥まったところに菅原天満宮が鎮座する。


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菅原天満宮

[鎮座地]大分県玖珠郡九重町大字菅原(字本村)2300番地〔地図

[御祭神]菅原道眞命(すがわらのみちざねのみこと)


延喜元年(901年)、菅原道眞公は大宰府に向かわれる途中、山城國愛宕山での学友であった觀應(かんのう)が僧職を務める玖珠郡葦谷村の白雲山安全寺(菅原336番地)【現・淨明寺】をに訪ねた。降り積もる雪の旅路、進むこともままならず、およそ1ヶ月ほど滞在したそうだ。


この滞在の間、菅公は榧(カヤ)【イチイ科/Torreya nucifera】の一枝を採り、自刻像を彫刻すると觀應に形見として残したと伝わる。その数日後、菅原道眞公は大宰府に出発された。


延喜3年(903年)2月25日、菅原道眞公は大宰府で薨去された。これを知った觀應は形見の木造を安全寺の境内に祠を建て奉祀し、菅原道眞公の霊を慰めるべく供養をはじめた。菅原天満宮のはじまりである。


また、菅原道眞公が葦谷村を訪れた時、宝泉寺温泉郷の川底温泉を発見されたとも伝わる。薨去された菅原道眞公を偲び葦谷村から菅原村に改められたという。


菅原道眞公が安全寺を出発された日のことか?安全寺を訪れた日のことか?菅原道眞公が藤原氏の刺客に追われた時、老婆が竃の陰に隠し赤兵子を乾かすようにして助けたという。この故事に因んで「赤兵子天満宮」とも称す。


以後、觀應の子孫代々にわたって奉斎されてきたが、寛永10年(1633年)、正専が天台宗より浄土真宗に改宗、寺号を淨明寺と改めた時に、「他宗の神を祭らず」という宗義に従い、南東に約250mにある寺所有の山林(現在地)に一宇を設け遷座したと伝わる。


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菅原天満宮の杜と淨明寺を結ぶ田園のなかに、菅公が彫刻に利用したという榧(カヤ)がある。他の木々と溶け込むように立つ古木の姿は、菅公が、京から大宰府へと向かう途路に訪ねた学友へのメッセージツリーとして、菅原天満宮の御神木として立ち続けている。

大分県の西に位置する日田盆地に鎮座する大波羅八幡宮〔大原八幡宮〕。玖珠川流域の温泉郷、天ヶ瀬の岩松ヶ峯(いはまつがみね)に八幡大神が顕現したことに譚を発し、鎌倉時代の建久4年(1193年)には、「豊西総社(ほうさいそうしゃ)」【豊前・豊後國の西部の総社】として称えられた日田郡の総社。


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大波羅八幡宮〔大原八幡宮〕

[鎮座地]

 大分県日田市大字田島(字大原)184番地〔地図

[御祭神]

 八幡大神【譽田別命】

 比賣大神【田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命】

 息長帶比賣命【神功皇后】?

[境内社]

 松尾神社【大山咋神】

 日田神社【日田鬼藏太夫】

 住吉神社【表筒之男神、中筒之男神、底筒之男神】

 醫祖神社【大穴牟智神、少名毘古那神】


天武天皇の御宇9年【白鳳9年(680年)】、日田郡(ひたのこほり)靭編郷(ゆきあみのさと)馬原村(まばるむら)の岩松ヶ峯【標高285.7m】の深い霧のなかに「我、宇佐の鷹居(たかゐ)に坐す神なり」と、神輿に乗り従神を伴った八幡大神が顕現した。岩松ヶ峯には現在、鞍形尾(くらがとを)神社が鎮座する。


白鳳九年秋 有八幡大神降格之瑞 始祭岩松峯 後又移杉原 
【白鳳九年秋、八幡大神の降格る瑞あり。始め岩松峯に祭り、後に又、杉原に移しまつる。】
~『豐後國志』~


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鞍形尾神社

[鎮座地]

 大分県日田市天ヶ瀬町馬原500番地〔地図

[御祭神]

 八幡大神

 比賣大神【田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命】

 息長帶比賣命【神功皇后】?


さらに、慶雲元年(704年)、鞍形尾に鎮座する八幡大神は、求来里村杉原の杉のこずえにいた乙女に神懸かりして、「我、岩松ヶ峯に顕現れし八幡なり。この峯の路は険しく諸人の煩い多し。我、杉原の此の地に遷座せむと欲ふ。故、此れところに顕現れり。」と顕現した。杉原には現在、杉原元宮が鎮座する。


杉原元宮



杉原元宮神社

[鎮座地]大分県日田市大字求来里字元宮〔地図

[御祭神]

 八幡大神

 比賣大神【田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命】

 息長帶比賣命【神功皇后】


鞍形尾神社の鎮座は、嵯峨天皇の御宇、弘仁2年(810年)に宇佐郡小倉山の宇佐神宮の神を鬼蔵太夫が勧請し、奉祀したと伝えられる。これが大波羅八幡のはじまりとされる。


宇佐神宮の一之御殿【八幡大神】は神龜2年(725年)、二之御殿【比賣大神】は天平5年(733年)、三之御殿【息長帶姫命】は弘仁14年(823年)に鎮座した。弘仁2年(810年)、岩松ヶ峯に勧請当時の御祭神は八幡大神と比賣大神だった。


岩松ヶ峯に八幡大神が顕現した砌の「宇佐の鷹居」とは宇佐市の鷹居神社 の鎮座地である。


『八幡宇佐宮御託宣集』は次のように伝える。


豐前國宇佐郡内 大河流 今號宇佐河 西岸有勝地 東峯有松木 變形多瑞 化鷹顯瑞 渡瀨而遊比地 飛空而居彼松 是大御神之御心荒畏坐

(中略)

和銅三年不見其躰 只有靈音 夜來而言

靈神後 飛翔虚空 無棲息 其心荒多利

此是奉前顯之大御神也

自和銅三年庚戌 迄同五年壬子 奉祈鎭之 初立宮柱 奉齋敬之 勤神事 即鷹居瀨社是也

【豐前國宇佐郡の内に大河流るる。今、宇佐河と號く。西岸に勝地あり。東峯に松の木あり。形の變(かは)る多の瑞、鷹と化る瑞を顯はす。瀨を渡りて比の地に遊したまひき。空を飛びて彼の松に居ましき。これ大御神の御心荒び畏み坐す。

(中略)

和銅三年、その躰見えず、ただ、靈の音あり。夜に來りて言はく。

「我れ靈神成て後、虚空飛翔る。棲息無し。その心荒たり」

此れ是の顯し奉る前の大御神なり。

和銅三年庚戌より同五年壬子まで。祈み奉りこれを鎭め、初めて宮柱を立て、齋き敬ひ奉り、神事を勤む。即ち鷹居瀨社これなり。】

~『八幡宇佐宮御託宣集』 鷹居瀨社部~


これによれば、八幡大神は欽明天皇の御宇32年(571年)、宇佐の菱形池のほとりに『廣幡八幡麻呂(ひろはたのやはたのまろ)』として顕現したが、和銅5年(712年)に宇佐の鷹居社と瀬社に鎮座の時までどこにも八幡大神を祀る神社・祠などはなかったとみられる。日田の岩松ヶ峯や杉原の地も同じとみてよいのではないだろうか?


八幡大神は、宇佐郡の宇佐河【駅館川】の瀬の西岸【瀨社】から東岸【鷹居】を鷹の姿で飛び翔け、「我れ靈神成て後、虚空飛翔る。棲息(すむとことろ)無し。その心荒たり」とあり、八幡大神は鎮座地を求めて岩松ヶ峰に顕現したものと推察できる。白鳳9年(680年)に鷹居の八幡大神を勧請し祠を奉祀したという伝承があるが、これには疑問が残る。


また、宇佐の八幡大神は、鷹居瀬社に続いて、靈龜2年(716年)に小山田社(をやまだやしろ)に遷座している。慶雲元年(704年)に鞍形尾神社から杉原元宮への遷座とするのにも疑問が残る。


杉原元宮への遷座については、貞觀元年(859年)、日田郡求来里村の杉ヶ原の杉の梢に顕現し、「永(なが)く豊(とよくにの)前(みさき)の地(くに)を守(まも)らむ」と神託の後、杉の元に白幣が出現したとも伝えられる。この時に、そのところに神祠を建て、鞍形尾より遷座したとも伝えられる。この頃、宇佐神宮の橋本公則(はしもとのきみのり)氏を社司【宮司】として迎えている。


鞍形尾神社の鎮座と杉原元宮神社への遷座についてはっきりとした年代は不明である。鞍形尾神社の鎮座は弘仁2年(810年)だとして、元慶元年(877年)9月朔日、白馬に乗った八幡大神が再び岩松ヶ峯に顕現し昇天したと伝えられる。杉原元宮神社の鎮座はこの年だろうか?定かではない。


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延喜13年(924年)、日田郡司の大藏永弘(おほくらのながひろ)が社殿を新設し、杉原元宮の鎮座地より北に遷座された。これが現在の元大波羅神社。


元大波羅神社

[鎮座地]

 大分県日田市大字求来里字元宮〔地図

[御祭神]

 八幡大神

 比賣大神【田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命】

 息長帶比賣命【神功皇后】?


建久年間(1190年~1199年)、大友能直(おほとものよしなほ)【建久7年(1196年)より承元元年(1207年)頃までの鎮西奉行兼豊前・豊後守護】が大波羅八幡宮〔大原八幡宮〕を「豊西総社」と定め、宇佐八幡の拝礼形態から相模國の鶴岡八幡宮の拝礼形態に改めさせたらしい。


寛永元年(1624年)、豊後日田藩主〔日隈の永山城主〕の石川忠總(いしかわただふさ)が新社殿を寄進し、現在地の田島大原に遷座した。


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楼門は貞享4年(1687年)、拝殿・幣殿・本殿は寛政6年(1794年)に現在の建物が築造され、幾度かの修復を経て現在に至っている。


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拝殿の正面の額には、


鳶飛月窟地〔鳶は月窟の地を飛び〕
魚躍海中天〔魚は海中の天を躍る〕

と記されている。


日田総鎮守の宮として鎮座する大波羅八幡宮。起源は詳らかならずも、天瀬の高塚愛宕地蔵尊を開基した行基も鞍形尾と杉原の地を訪れたと伝えられる。鞍形尾と杉原の伝承は、これに因果関係があるのかもしれない。楼門には仁王立像が睨みを効かせ、境内の東側には現在も大原山神宮寺が存している。神仏混淆時代の名残り漂う境内がここにある。

東は四国の愛媛県を臨む、大分県の豊後水道、佐伯湾に大入島(おおにゅうじま)がある。その日向泊浦の石浜に「神ノ井」とよばれる泉がある。満潮時は海中に沈み、干潮時のみに姿を現すそうだ。


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神ノ井【日向泊神社】

[所在地] 大分県佐伯市大字日向泊浦〔地図

[御祭神] 現在、調査中です。神倭伊波禮毘古命?


神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)は、東征の途、米水津を御進発されて数日、御船に積まれた水も微少になってきた。そこで、水を求めて御船を大入島に寄航された。


しかし、島の村人は山裾にわずかに滴り落ちる水、岩石の窪みに溜まる雨水を集めて飲み水としていた。島全体に水を汲めるような谷や川も見つからなかった。確かに、現代の地図で見ても大入島には河川や池はないようだ。


命は日向泊浦の浜辺に下り立ち、御弓の先で干潮の浜辺を突かれて、水の湧出を祈願し、静かに御弓を抜き取られると、不思議なことに海水ではない清らかな真水が湧出した。命は、その水を汲み御船に積まれた。


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島の村人たちも水の湧出をよろこび、その水を汲んだと伝えられる。以来、御船が寄航した浦を「日向泊浦」、井戸を「神ノ井」と名付け、村人たちはこの水を飲み水などとして利用するようになった。


大きさは東西に三尺四寸(約102cm)・南北三尺二寸(約96cm)、深さは三尺(約90cm)だそうだ。

翌朝、御船の出航の時、村人は感謝と御船の無事を祈願する思いを込めて大きな焚き火で見送ったという。毎年一月の「とんど祭り」のはじまりと伝えられる。


神ノ井の傍に、御船を繋ぎとめたとする2基の大岩がある。海岸側の綱取石(つなとりいし)と、御神体として神ノ井傍の社殿に祀られている玉石(たまいし)である。


神ノ井に向かって左手、鳥居を潜り階段を上がると邇邇芸命【神倭伊波禮毘古命の祖父】を祀る天神社が鎮座する。そこからは、佐伯湾や四国を臨める。


大入島には、佐伯港(大分県佐伯市大字葛港18番地〔地図 〕)から出航する観光フェリーとマリンバスを利用することで渡ることができる。なお、神ノ井は昭和63年6月に「豊の国名水」に認定されているが、現在、生水では飲用不可となっているようだ。

全国妙見総本宮の御祖(みおや)神社。足立山妙見宮とも称す。

神護景雲4年(770年)、和氣清麿(わけのきよまろ)公が四男の磐梨爲綱(いはなしのためつな)【妙運】に命じて、足立山の山頂に「足立妙見宮」【現在の上宮】として造化神北辰尊星妙見を祀ったのがはじまりと伝えられる。

また、寶龜3年(772年)には、豊前守(ぶぜんのかみ)の大伴百世(おほとものももよ)の援助を受け葛原蜂ヶ坂の足立に足立妙見宮の下宮と足立山平癒寺が建立さた。

さらに、弘仁3年(812年)に、和氣清麿公の三男で参議の和氣眞綱(わけのまつな)卿が、宇佐に勅使として参詣した帰り、下宮に和氣清麻呂公と祖先の神霊が祀られました。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-足立御祖神社1

御祖神社(足立妙見宮)
[鎮座地]福岡県北九州市小倉北区妙見町17番1号
[御祭神]・天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
・高皇産霊神(たかみむすひのかみ)
・神皇産霊神(かむみむすひのかみ)
・鐸石別命(ぬてしわけのみこと)
・和氣清麿命(わけのきよまろのみこと)
[合祀]
・伊弉諾神(いざなぎのかみ)
・伊弉冉神(いざなみのかみ)
・綿都美神(わたつみのかみ)
・大山祇神(おほわたつみのかみ)
・高淤加美神(たかおかみのかみ)
・闇淤加美神(くらおかみのかみ)
・罔象女神(みつはのめのかみ)
・素戔鳴神(すさのをのかみ)
・大年神(おほとしのかみ)
・大國主神(おほくにぬしのかみ)
・事代主神(ことしろぬしのかみ)
・少彦名神(すくなひこなのかみ)
・猿田彦神(さるたびこのかみ)
・磐長姫神(いわながひめのかみ)
・神武天皇(かむやまといはれひこのすめらみこと)
・大彦命(おほひこのみこと)
・武渟川別命(たけぬなかはわけのみこと)
・吉備津彦命(きびつひこのみこと)
・丹波道主命(たんばのみちのうしのみこと)
・日本武尊(やまとたけるのみこと)
御朱印あり(御初穂料:300円)
/オリジナル御朱印帳、御朱印袋あり


稱德天皇の御宇、神護景雲3年(769年)、太宰府の太宰帥(だざいのそち)弓削淨人(ゆげのきよひと)と太宰主神(だざいのかんずかさ)習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)は、弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を皇位に立てれば天下泰平となり、宇佐神宮(八幡大神)の神意に適うとする虚偽の神託を奏上。

この皇位継承の神託を真偽を確かめるべく和氣清麿公は、天皇の勅命を受け、豊前國宇佐郡の宇佐神宮【現在の大分県宇佐市】へと向かわれた。

神護景雲3年8月、宇佐神宮に参詣された和氣清麿公が受けた神託は、

我國家開闢 以來君臣定矣 以臣爲君 未之有也 天之日嗣必立皇緒 無道之人 宜早掃除
【我が国家(くに)開闢(かいびゃく)より以来(このか)た、君と臣のわけ定(さだま)れり。臣を以(もち)て君と為(な)すは未だあらざるなり。天之日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃ひ除くべし】

~我が国家は始まって以来、君主と臣下の分別は決定している。臣下を君主としたことは、未だ嘗てないことである。天皇は必ず皇統をひく者をたてよ。その権利のない者(弓削道鏡)は、速やかに排除せよ。~

和氣清麿公は、この神託を京に持ち帰り上奏すると、弓削道鏡は激怒して、稱德天皇は和氣清麿公を大隅國【現在の鹿児島県】に流罪にした。

神護景雲3年10月3日、大隅國に向かう途中、和氣清麿公の御舟は豊前國宇佐郡楉田村(すわえだむら)【現在の大分県宇佐市大字和気の柁鼻神社・舟繋石の辺り】にたどり着いた。この時、弓削道鏡の追っ手に和氣清麿公は足の筋を切られたという。

突如、山中から現れた白鹿の背に乗せられ、左右を200頭あまりの猪に守護されて宇佐神宮へと導かれた和氣清麿公は、八幡大神の神前を拝すると、

「これより西方十七里の規矩郡竹和山の山麓に温泉あり。此所に浴せば必ず癒る」

と教示をうけた。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-足立妙見宮2豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-足立御祖神社3
足立妙見宮御祖神社下宮の狛猪


神護景雲3年10月5日、その神託に従い、和氣清麿公は、宇佐神宮の神馬を借りて、夕刻に豐前國規矩郡の竹和山【現在の足立山】の麓の石川村【現在の小倉南区湯川】の竹馬川に到着。そこに湧出する温泉【湯川水神社に湧出する泉。現在は冷泉となっている。】に浸かると、筋を切られた足がたちどころに治癒したと伝えられる。和氣清麿公の足が立ったことに因んで、「足立(あだち)」の地名譚となった。現在の「湯川」の地名は昔、温泉が湧出していた事の名残だという。

神護景雲3年10月8日、和氣清麿公は、足立山に登り、北辰尊星妙見【造化参神】に、天皇の御血統が安泰であり、反逆者がいなくなるよう七日七夜の間、祈られた。

神護景雲3年10月15日の未明に、造化参神があらわれ、「汝の願い、聴きいる」との神告があった。

翌年、稱德天皇が崩御。光仁天皇の御宇となった、寶龜元年(770年)10月、皇統は安泰し、弓削道鏡は失脚し下野國に流罪、和氣清麿公は從五位下に復位され、播磨國と豊前國の國司を歴任。その後は、美作國と備前國の國造(くにのみやつこ)に任じられた。

こうして、冒頭に記すとおり、神護景雲4年(770年)、造化参神降臨の地に、足立山妙見宮【上宮】を祀り、寶龜3年(772年)、葛原蜂ヶ坂の足立に足立妙見宮の下宮と足立山平癒寺が建立された。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-足立御祖神社4

慶長6年(1601年)、後の豊前國小倉藩主、細川忠興(ほそかわただおき)公の眼病平癒祈願成就を期に下宮を現在地に遷座し今日に至る。

およそ1240年前の昔、足立山の山頂に上宮が祀られ、和氣清麿公ゆかりの地として、現在に至るまで鎮座し続ける古社のひとつ。


祭神の造化参神は、古事記に、

天地初發之時 於高天原成神名 天御中主神 次 高御産巣日神 次 神産巣日神
【天(あめ)地(つち)初めて發(おこ)りし時に、高天原(たかあまのはら)に成(な)りませる神の名は、天之御中主神。次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かむむすひのかみ)。】
~古事記 上卷併序~

と記される、天地開闢【宇宙創成】のはじめに成られた(出現された)神。天の御祖たる神を祀る「御祖神社」とも称している。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-足立御祖神社5



神武天皇の即位から2673年、現在に至るまで続く一系統の皇位継承にまつわる神社のひとつでもある。
東は伊予灘、南は国東半島、西は周防灘、北は瀬戸内海を臨む姫島は、神代の昔、伊耶那岐命(いざなぎのみこと)と伊耶那美命(いざなみのみこと)が国生みの時に生んだと伝えられる『天一根(あめのひとつね)』・『女嶋(ひめしま)』とされる。

次生女嶋 亦名謂天一根
【次に女嶋を生みき。亦(また)の名(な)を天一根と謂(い)ふ。】
~『古事記 上卷并序』~

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-姫島
伊美港より望む姫島


この『女嶋』(姫島)の七不思議のひとつ「拍子水」から程近いところに比賣語曾社(ひめごそしゃ)が鎮座している。

比賣語曾社

[御祭神]比賣碁曾神(ひめごそのかみ)
【阿迦流比賣神(あかるひめのかみ)】
[所在地]大分県東国東郡姫島村両瀬5118番地 [地図]
御朱印不明

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-比賣語曾社1

御祭神の比賣語曾神【阿迦流比賣神】について『古事記』は、次のように伝える。


その昔、新羅(しらぎ)の阿具奴摩(アグヌマ)という沼のほとりに、ある賎民の娘が昼寝をしていた。

すると、そこに虹のように輝く日光が、その娘の女陰をさした。それ以来、娘は妊娠して、やがて赤い珠玉を生んだ。

その娘の様子を見て不思議に思い、ずっと様子を伺っていた賎民の男がいた。男は娘の傍に行き、その珠玉を譲り受け、いつも離さず腰につけていた。

ある日、男が谷間で田を営む耕作人たちの食料を一頭の牛に背負わせて運び入れようと、その谷間に入る途中、國主(こにきし)の子の天之日矛(あめのひほこ)【都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)】と偶然に出会った。

すると、天之日矛は男に、「なぜ、お前は食料を牛に背負わせて谷に入るのだ。きっとこの牛を殺して食べるのであろう」と話しかけてきて、すぐに男を捕らえて牢屋に入れようとした。

それで、男は「私は牛を殺そうとはしていません。ただ、耕作人に食料を届けるだけです」と答えたが、赦免されなかったため、腰につけていた珠玉を天之日矛に献上した。

すると、天之日矛は男を赦免し、珠玉を持ち帰り、床の端に置いた。珠玉は美しい姫に変わった。その後、天之日矛と結婚して正妻となった姫は、いつもさまざまなおいしい料理を用意して夫に食べさせた。ところが、天之日矛は心が傲慢になって妻を罵るようになった。それで姫は、天之日矛に「そもそも私は、あなたの妻となるべき女ではありません。私の先祖の国に帰ります」と告げ、ひそかに小船に逃げ乗って、難波に渡来して留まった。これは、難波の比賣碁曾社に鎮座する阿加流比賣神である。


又昔 有新羅國主之子 名謂天之日矛 是人參渡來也 所以參渡來者 新羅國有一沼 名謂阿具奴摩 自阿下四字以音 此沼之邊 一賎女晝寢 於是日耀如虹 指其陰上 亦一有賤夫 思異其状 恒伺其女人之行 故 是女人 自其晝寢時 姙身 生赤玉 爾其所伺賤夫 乞取其玉 恒裹着腰 此人營田於山谷之間 故 耕人等之飮食 負一牛而 入山谷之中 遇逢其國主之子 天之日矛 爾問其人曰 何汝飮食負牛入山谷 汝必殺食是牛 即捕其人 將入獄囚 其人答曰 吾非殺牛 唯送田人之食耳 然猶不赦 爾解其腰之玉 幣其國主之子 故 赦其賤夫 將來其玉 置於床邊 即化美麗孃子 仍婚爲嫡妻 爾其孃子 常設種種之珍味 恒食其夫 故 其國主之子心奢詈妻 其女人言 凡吾者 非應爲汝妻之女 將行吾祖之國 即竊乘小船 逃遁渡來 留于難波 此者坐難波之比賣碁曾社 謂阿加流比賣神者也

【また昔、新羅の國主の子(こ)ありき。名を天之日矛(あめのひぼこ)と謂(い)ふ。この人、參(まゐ)渡り來(き)ぬ。參渡り來ぬ所以(ゆゑ)は、新羅國に一(ひと)つの沼あり。名を阿具奴摩(アグヌマ)と謂ふ。此(こ)の沼の邊(へ)ある賎(いや)しき女(をみな)>晝寢(ひるい)したり。是<(ここ)に、日(ひ)の耀(かか)やき虹(にじ)の如く、其(そ)の陰上(ほと)を指(さ)しき。亦(また)、ある賤しき夫(をとこ)あり。其の状(かたち)を異(あや)しと思ひ、恒(つね)に其の女人(をみな)の行(わざ)を伺(うかか)ひき。故(かれ)、是の女人、其の晝寢せし時より姙身(はら)み、赤玉(あかだま)を生(う)みき。爾(しかし)て、其の伺(うかか)へる賤しき夫、其の玉を乞(こ)ひ取り、恒に裹(つつ)み腰(こし)に著(つ)けたり。此の人、田を山谷(たに)の間(ま)に營(つく)りき。故、耕人(たひと)等(ら)の飮食(をしもの)を一つの牛に負(おほ)せて、山谷の中に入(い)るに、其の國主の子、天之日矛に遇(たまさ)かに逢ひき。しかして、其の人に問ひ曰(い)ひしく、「何(な)ぞ。汝(な)が飮食を牛に負せ山谷に入る。汝れ必ず是の牛を殺し食ふにあらむ」といひて、即(すなは)ち其の人を捕(と)らへ、獄囚(ひとや)に入れむとす。其の人が答へ曰ひしく、「吾(あ)れ、牛を殺さむには非(あら)ず。唯(ただ)、田人(たひと)の食(をしもの)を送るのみ」

然(しか)れども、猶(なほ)赦(ゆる)さざりき。しかして、其の腰の玉を解き、其の國主の子に幣(まひ)しつ。故、其の賤しき夫を赦し、其の玉を將(も)ち來て、床の邊に置きしかば、美麗(うるは)しき孃子(をとめ)に化(な)りぬ。仍(よ)りて、婚(まぐはひ)して嫡妻(むかひめ)と爲(し)き。しかして、其の孃子、常に種種(くさぐさ)の珍味(ためつもの)を設(ま)けて、恒に其の夫に食(く)はしめき。故、其の國主の子、心奢(こころおご)りて妻(め)を詈(の)るに、其の女人の言ひししく、「凡(すべ)て、吾は汝の妻と應(な)るべきにあらず。吾が祖(おや)の國に行(ゆ)かむ」

即ち小船(をぶね)に竊(ひそか)に乘(の)り逃遁(にげ)渡り來て、難波(なには)に留(とどま)りき。此(こ)は難波の比賣碁曾社(ひめごそのやしろ)に坐(いま)す阿加流比賣神と謂ふ。】

~『古事記 中卷』~


その後、天之日矛【都怒我阿羅斯等】は、姫を追いかけて難波に到着しようとするも、海峡の神は天之日矛を遮って思うように船を進めることができなかった。それで、仕方なく但馬に戻り、そこでそのまま多遲摩之俣尾の娘の前津見と結婚し、子孫をもうけたとも伝えている。

また、『日本書紀』には、娘【比賣語曾神】は難波から「國前郡」【国東郡】に渡り比賣語曾社の神【阿迦流比賣神】となったと伝わる。これが、姫島に鎮座する比賣語曾社とされる。

所求童女者 詣于難波爲比賣語曾社神 且至豐國國前郡 復爲比賣語曾社神 並二處見祭焉
【求(ま)ぎし童女(をとめ)は、難波(なには)に詣(いた)り、比賣語曾社(ひめごそのやしろ)の神と爲(な)り、また、豐國(とよくに)の國前郡(くにさきのこほり)に至(いた)りて、復(また)、比賣語曾社の神と爲(な)りぬ。並(ならび)に二處(ふたところ)に祭(まつ)らるを見(み)む。】
~『日本書紀 卷第六』~

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-比賣語曾社2
比賣語曾社の神殿


比賣語曾社のすぐ近くに『姫島七不思議』のひとつ拍子水(ひょうしみず)がある。比賣語曾神【阿迦流比賣神】が口をすすごうとした時、そのための水がなかったため天に祈り手拍子を打つと、岩の間から湧き出したと伝わる冷泉で。比賣語曾神【阿迦流比賣神】がお歯黒の後に口をすすいだことから「おはぐろ水」ともいう。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-拍子水
拍子水


泉質は炭酸水素塩泉(ph6.2[弱酸性])で、泉温は24.9℃。併設の拍子水温泉センター(姫島村健康管理センター)の源泉として利用されています。湧出量は測定されていないそだが、かなりの量が湧き出ている。


姫島には、拍子水のほかに「かねつけ石」や「逆柳」など比賣語曾神にまつわる伝説が今も残っている。瀬戸内海国立公園に指定される姫島。神代の昔から現在に至るまで「伝説の島」、そして漁業の街としてあり続けている。

 白鳳時代に建立された、垂水廃寺。この白鳳寺院と養老年中に流行した疫病に端を発し、かつては、上毛郡【現・豊前市、上毛町、吉富町】と下毛郡【現・中津市】を中心に、近隣の参詣者でにぎわった瀧ノ宮牛頭天王(たきのみやごすてんのう)。現在は、八坂神社と改称され親しまれています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-瀧ノ宮牛頭天王(八坂神社)1  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-瀧ノ宮牛頭天王(八坂神社)2

[所在地]
 福岡県築上郡上毛町大字垂水字向648番地1 [地図


[御祭神]
○瀧ノ宮牛頭天王(八坂神社)
 素盞鳴尊(すさのをのみこと)
 五十猛尊(いそたけるのみこと)
 奇稲田媛命(くしいなだひめのみこと)
 足摩乳命(あしなづちのみこと)
 手摩乳命(てなづちのみこと)
 田心媛命(たこりびめのみこと)
 湍津媛命(たきつひめのみこと)
 市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
 天忍穗耳命(あめのおしほみみのみこと)
 天穗日命(あめのほひのみこと)
 天津彦根命(あまつひこねのみこと)
 活津彦根命(いくつひこねのみこと)
 熊野樟日命(くまのくすびのみこと)



豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-瀧ノ宮牛頭天王(八坂神社)3
(八坂神社の神殿)


[境内社]
○貴船宮【垂水字貴船畑より遷座。台風による倒壊に伴い八坂神社に合祀】
 高淤迦美神(たかおかみのかみ)
 闇淤迦美神(くらおかみのかみ)
 闇罔象神(くらみつはのかみ)

 八將神
  ・太歳神(たいさいじん)
  ・大將軍(たいしょうぐん)
  ・太陰神(たいおんじん)
  ・歳刑神(さいぎょうじん)
  ・歳破神(さいはじん)
  ・歳殺神(さいせつじん)
  ・黄幡神(おうばんじん)
  ・豹尾神(ひょうびじん)


○皇大神宮遙拜所【老朽化に伴い八坂神社に合祀】
 八重言代主神(やへことしろぬしのかみ)
 天兒屋神(あめのこやねのかみ)


○祓戸神祠

 瀬織津比賣神(せおりつひめのかみ)

 速秋津比賣神(はやあきつひめのかみ)

 氣吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)

 速佐須良比賣神(はやさすらひめのかみ)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-瀧ノ宮牛頭天王(八坂神社)11
(祓戸神祠の社殿)

○稻荷社【垂水字水田より遷座】
 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-瀧ノ宮牛頭天王(八坂神社) 西稲荷社  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-瀧ノ宮牛頭天王(八坂神社) 東稲荷社
(稲荷社の祠【左:西側(道路沿い)、右:東側(川沿い)】)


○蛭子社【垂水字屋敷より遷座】

 蛭子神(ひるこのかみ)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-瀧ノ宮牛頭天王(八坂神社) 蛭子社
(蛭子社の祠)


 瀧ノ宮牛頭天王は、日本根子高瑞淨足姫天皇(やまとねこたまみづきよたらしひめのすめらみこと)【元正天皇】の御宇、養老年中(717年~724年)、この地に疫病が流行した時、播磨國餝磨郡【兵庫県姫路市】の廣峯神社より疫病鎮守のため「垂水廃寺」の境内に勧請し祭祀したのが始まりと伝えられています。


 以来、「瀧ノ宮牛頭天王」として親しまれ、「垂水廃寺」の衰退にともない現在地に遷座されました。「垂水廃寺」は、上毛町役場・南吉富小学校付近にあったとされる白鳳寺院で、8世紀後半まで存続していたとされています。瀧ノ宮牛頭天王が、現在地に遷座されたのも8世紀後半以降とされています。


 慶應4年(1868年)3月の「神祇官の再興及び太政官布告による神仏判然令」にともない、「瀧ノ宮牛頭天王宮」と称していた社号は、現在の「八坂神社」に改められましたが、地元では現在でも「牛頭天王」、「ゴシテンノウ」、「ゴステンノウ」の通称で親しまれています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-瀧ノ宮牛頭天王(八坂神社)4


 毎年7月7日と7月8日【もと旧暦の6月7日と6月8日】には、「とべら祭り」が執行されます。昔は鶏鳴の早朝より多くの参詣者が訪れたといわれ、この祭事で里人が販売する「とべら」の枝を持ち帰り門戸に挿せば疫病の災禍を避けると伝わっています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-瀧ノ宮牛頭天王(八坂神社)6  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-瀧ノ宮牛頭天王(八坂神社)5
(境内に植えられたトベラ)

トベラ【扉・苦木】

 [科名]トベラ科

 [学名]Pittosporum tobira


 地方によっては、節分にトベラこの木の枝を扉にはさんで邪鬼を除ける風習があるらしく、そこから「とびらの木」と呼ばれていたのが訛化して「とべら」になったとされ、この八坂神社では「とべら祭り」の日にこの風習を倣っています。


 この神社に伝わる伝説に、「龍の目に五寸釘」があります。


昔、神殿の龍の彫刻が、夜な夜な抜け出して、山国川まで下りていくと、川の水を飲んでいました。そのため神社の丘から川に向かって蛇行した道があったそうです。それで里人は、「夜は、あすこん川には行きなはんなよ」と子どもたちにもいい聞かせていました。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-山国川と牛頭天王
(写真右側の丘に八坂神社が鎮座する。)

 しかし、ある時、「このままにしておいてはいけない」として、村の古老の善後策によって、昼夜を問わず抜け出せないように龍の目に五寸釘を打つことになりました。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-瀧ノ宮牛頭天王(八坂神社)10  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-瀧ノ宮牛頭天王(八坂神社)9
(八坂神社に残る龍の彫刻。合祀前まで皇大神宮遥拝社に使用されていたもの)


 早速、村人は彫刻の龍の目に五寸釘を打ってみました。すると、夜な夜な抜け出す龍の姿を見るものはいなくなり、蛇行した龍の通り道もなくなりましたとさ。


 また、境内の南には、牛頭天王公園が整備され、上毛町や中津市・豊前市・吉富町など近隣住民の憩いの場になっています。

昨日と今日は雨降り模様…雨


雨樋の水が注ぐ場所は水溜まり、浅い池のようになって、ラベンダーが水浸しですあせる


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-梅雨空の下の水溜り


そんな梅雨の空の下で、アジサイの花が庭に彩りを添えていますあじさいかたつむり


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-アジサイ(2)

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-アジサイ(1)

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-アジサイ(3)


ガクアジサイ【額紫陽花】

 [学名] Hydrangea macrophylla

 [科名] ユキノシタ科


同じ庭にあって、年毎に紫色や桃色の違った色の花を咲かせるアジサイ。大きな花びらのように見える、その真ん中の小さなのが花なんですね。たくさんの花が集まって、ひとつの花にみえるアジサイの季語は『夏』。梅雨の季節の風物詩ですよね。


『万葉集』にも2首が掲載されています本サーチ


事不問 木尚味狹藍 諸苐等之 練乃村戸二 所詐來

【こととはぬ きすらあぢさゐ もろとらが ねりのむらとに あざむかえけり】

【事問はぬ 木すら味狹藍 諸苐等が 練のむらとに 詐むかえけり】

~『万葉集 卷四』 (七七三) 大伴 家持(おほとものやかもち)~


(歌意)

言葉を交わさない木でさえも、アジサイの色のように移ろいやすくあるものです。わたしは、身近にいる諸弟たちの巧妙な言葉に欺かれてしまいました。


安治佐爲能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都々思努波牟
【あぢさゐの やへさくごとく やつよにを いませわがせこ みつつしのはむ】

【安冶佐爲の やへさくごとく やつよにを いませ我せこ みつつ思のはむ】

~『万葉集 卷二十』 (四四四八) 橘 諸兄(たちばなのもろえ)~


(歌意)

アジサイの花が、幾つも重なって咲きくように、末永くお元気でいてください。愛しい人よ。わたしはその立派さをみながらお慕いしましょう。

 宇佐市安心院町を流れる滝川にかかる東椎屋の滝(ひがししいやのたき)は、西椎屋の滝・福貴野の滝とともに「宇佐三瀑」のひとつで、「九州の華厳の滝」とも称えられる名瀑です。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-東椎屋の滝①


東椎屋の滝

[所在地]大分県宇佐市安心院町東椎屋(地図

[滝落差]85m


 耶馬溪(やばけい)といえば大分県中津市の耶馬溪が有名ですが、東椎屋の滝周辺は「椎屋耶馬渓(しいややばけい)」と呼ばれ、中津市の耶馬溪と同じく耶馬溪火山の溶岩噴出によって形成された地形なのだそうです。


 上部は新耶馬渓溶岩【約100万年前の耶馬渓火山の活動(旧耶馬渓溶岩時代)から数万年後の火山活動(新耶馬渓溶岩時代)の時に噴出した溶岩】、下部は成層集塊岩【角閃石安山岩質の火山砕屑物。火山礫、火山灰などが火口より放出されてそのまま水底に堆積してできた地層】で形成される縦節理の岩壁から真っ直ぐに滝壷に向かう姿は圧巻です。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-東椎屋の滝②


 滝の下部を見ると水の勢いの凄さがわかりますね。滝壷もかなり深そうです。駐車場から滝に向かう途中の下流の景色もさまざまな姿を見せてくれます。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-東椎屋の滝③


 滝の勢いある流れとは対照的に緩やかな流れがとても印象的です。耶馬溪火山溶岩の堆積から約100万年もの長い歳月を経て、形成された東椎屋の渓谷のこの景色も長い年月をかけて自然が作り出した情景。水の力って凄いですね。


 今からの季節は、紅葉狩りスポットとしてもよさそうです。う~んあせる今年はまだ少し中途半端な雰囲気ですが…。早朝は滝の水しぶきに虹を見ることができる日もあるそうですよニコニコ虹キラキラ

 大分県の佐賀関の南、「日本の渚百選」に選ばれる黒ヶ崎(くろがさき)のビシャゴ姉妹岩。この大岩は、早吸日女神社 の縁起にまつわるエピソードの伝わる御神域です。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-ビシャゴ姉妹岩
ビシャゴ姉妹岩


[所在地]

 大分県大分市佐賀関(大黒)[地図

[御祭神]

◎若御子神(わかみこのかみ)

 ・黑砂神(いさごのかみ)

 ・眞砂神(まさごのかみ)


速吸(はやすひ)の瀬戸、黒ヶ崎の景色に趣を添えるビシャゴ姉妹岩は、昔、ひとつの大きな岩でした。


 神代の昔、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)は、禊祓(みそぎはらひ)をするための場所を探して、「粟門(あはのみと)」と「速吸名門(はやすひなと)」を訪れました。


 しかしながら、潮流が急速であったため「竺紫日向之橘小門之阿波原(つくしのひむかのたちばなのをどのあはきはら)」で禊祓をされました。


故欲濯除其穢惡 乃往見粟門及速吸名門 然此二門 潮既太急 故還向於橘之小門而拂濯也

【故(かれ)、其(そ)の穢悪(けがらはしきもの)を濯(すす)ぎ除(はら)はむと欲(おもほ)して、乃(すなは)ち粟門(あはのみと)及(およ)び速吸名門(はやすひなと)に往(ゆ)きて見(みそなは)す。然(しか)るに、此(こ)の二(ふたつ)の門(みなと)、潮(しほ)(すで)に太(はなは)だ急(はや)し。故(かれ)、橘小門(たちばなのをど)に還向(かへ)りたまひて、拂(はら)ひ濯(すす)きたまふ。】

~『日本書紀 卷第一』~


 時は流れ、高千穗宮(たかちほのみや)を出発された神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)【神武天皇】の御船が、速吸名門の沖を通過しようとする時に、急に御船が進まなくなりました。


 神倭伊波禮毘古命が自ら海底をみそなわされると、かつて伊邪那岐神が海底に落とされたと伝えられていた御神剣を抱え持って守護しているオオダコを見つけられました。


 そこで、神倭伊波禮毘古命は、速吸名門の海女の祖、黑砂神と眞砂神の二柱の姉妹にオオダコから御神剣を受け取るように命じました。


 先に姉の黑砂神が速い潮流の海底に潜り、御神剣をオオダコから受け取りましたが、体力の限界を超えて潜ったためそのまま息絶えてしまいました。


 続けて、妹の眞砂神が海底に潜り、黑砂神の手から御神剣を受け取って、神倭伊波禮毘古命に渡すとそのまま息絶えてしまいました。


 その夜、神倭伊波禮毘古命の夢に姉妹が現れ、「ここを航海する船の安全は、私たちが守護します」と告げました。翌朝、激しい雷雨でこの大岩が裂け2つになりました。こうして、今も若御子神の姉妹は速吸名門【佐賀関の海域】の航海の安全を守護し続けています。


 神倭伊波禮毘古命は、この神剣を御神体とし、古宮の地に「祓戸神(はらへどのかみ)」【八十枉津日神、大直日神、底筒男神、中筒男神、表筒男神、大地海原諸神】を祀り、建国の大請願をたてられたと伝えられています。こうして現在の「早吸日女神社 」となりました。


 参考までに、禊祓の時、伊耶那岐神が身に着けていたものを『古事記』でみた場合、「御杖」・「御帶」・「「御嚢」・「御衣」・「御褌」・「御冠」・「左御手之手纒」・「右御手之手纒」があげられていて、『剣』がないことがわかります。「剣」がないのは、速吸名門で失くされた伊邪那岐神の神剣を大蛸が守護していたからなんですね。


 さて、「ビシャゴ」とは「ミサゴ」【鶚/雎鳩 [鳥綱] タカ目タカ科ミサゴ属 [学名] Pandion haliaetus】のことで、早吸門とは無関係ですが、『日本書紀』には次のように記されています。


至上總國 從海路渡淡水門 是時聞覺賀鳥之聲 欲見其鳥形 尋而出海中 仍得白蛤

【上総国(かみつふさのくに)に至(いた)り、海路(うみのみち)(よ)り淡水門(あはのすひなと)渡(わた)りたまふ。是(こ)の時に、覺賀鳥(みさご/かくかのとり)の聲(こえ)(きこ)ゆ。其(そ)の鳥の形を見さむと欲(おもほ)して、尋(たず)ねて海(うみ)の中(なか)に出ます。仍(よ)りて白蛤(うむき)を得たまふ。】

~『日本書紀 卷第七』~


 この「覺賀鳥」はミサゴで、「白蛤」はハマグリのことです。ミサゴは、水中に潜って魚や貝を捕るタカ目の鳥として古来より知られ、海女の姉妹である黑砂神(いさごのかみ)・眞砂神(まさごのかみ)の姿を連想することもできます。「ビシャゴ姉妹岩」という名称も「ミサゴ」と関係があるようにも思えますね。


 古来より潮の流れが速い「速吸門」に面し、海女による漁業や水産業が盛んだった佐賀関。現在は「関さば」・「関アジ」の産地として知られる漁業の街です。この地方の漁業と航海の安全を守護する神として信仰され、親しまれてきた場所のひとつです。