大分県の西に位置する日田盆地に鎮座する大波羅八幡宮〔大原八幡宮〕。玖珠川流域の温泉郷、天ヶ瀬の岩松ヶ峯(いはまつがみね)に八幡大神が顕現したことに譚を発し、鎌倉時代の建久4年(1193年)には、「豊西総社(ほうさいそうしゃ)」【豊前・豊後國の西部の総社】として称えられた日田郡の総社。


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大波羅八幡宮〔大原八幡宮〕

[鎮座地]

 大分県日田市大字田島(字大原)184番地〔地図

[御祭神]

 八幡大神【譽田別命】

 比賣大神【田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命】

 息長帶比賣命【神功皇后】?

[境内社]

 松尾神社【大山咋神】

 日田神社【日田鬼藏太夫】

 住吉神社【表筒之男神、中筒之男神、底筒之男神】

 醫祖神社【大穴牟智神、少名毘古那神】


天武天皇の御宇9年【白鳳9年(680年)】、日田郡(ひたのこほり)靭編郷(ゆきあみのさと)馬原村(まばるむら)の岩松ヶ峯【標高285.7m】の深い霧のなかに「我、宇佐の鷹居(たかゐ)に坐す神なり」と、神輿に乗り従神を伴った八幡大神が顕現した。岩松ヶ峯には現在、鞍形尾(くらがとを)神社が鎮座する。


白鳳九年秋 有八幡大神降格之瑞 始祭岩松峯 後又移杉原 
【白鳳九年秋、八幡大神の降格る瑞あり。始め岩松峯に祭り、後に又、杉原に移しまつる。】
~『豐後國志』~


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鞍形尾神社

[鎮座地]

 大分県日田市天ヶ瀬町馬原500番地〔地図

[御祭神]

 八幡大神

 比賣大神【田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命】

 息長帶比賣命【神功皇后】?


さらに、慶雲元年(704年)、鞍形尾に鎮座する八幡大神は、求来里村杉原の杉のこずえにいた乙女に神懸かりして、「我、岩松ヶ峯に顕現れし八幡なり。この峯の路は険しく諸人の煩い多し。我、杉原の此の地に遷座せむと欲ふ。故、此れところに顕現れり。」と顕現した。杉原には現在、杉原元宮が鎮座する。


杉原元宮



杉原元宮神社

[鎮座地]大分県日田市大字求来里字元宮〔地図

[御祭神]

 八幡大神

 比賣大神【田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命】

 息長帶比賣命【神功皇后】


鞍形尾神社の鎮座は、嵯峨天皇の御宇、弘仁2年(810年)に宇佐郡小倉山の宇佐神宮の神を鬼蔵太夫が勧請し、奉祀したと伝えられる。これが大波羅八幡のはじまりとされる。


宇佐神宮の一之御殿【八幡大神】は神龜2年(725年)、二之御殿【比賣大神】は天平5年(733年)、三之御殿【息長帶姫命】は弘仁14年(823年)に鎮座した。弘仁2年(810年)、岩松ヶ峯に勧請当時の御祭神は八幡大神と比賣大神だった。


岩松ヶ峯に八幡大神が顕現した砌の「宇佐の鷹居」とは宇佐市の鷹居神社 の鎮座地である。


『八幡宇佐宮御託宣集』は次のように伝える。


豐前國宇佐郡内 大河流 今號宇佐河 西岸有勝地 東峯有松木 變形多瑞 化鷹顯瑞 渡瀨而遊比地 飛空而居彼松 是大御神之御心荒畏坐

(中略)

和銅三年不見其躰 只有靈音 夜來而言

靈神後 飛翔虚空 無棲息 其心荒多利

此是奉前顯之大御神也

自和銅三年庚戌 迄同五年壬子 奉祈鎭之 初立宮柱 奉齋敬之 勤神事 即鷹居瀨社是也

【豐前國宇佐郡の内に大河流るる。今、宇佐河と號く。西岸に勝地あり。東峯に松の木あり。形の變(かは)る多の瑞、鷹と化る瑞を顯はす。瀨を渡りて比の地に遊したまひき。空を飛びて彼の松に居ましき。これ大御神の御心荒び畏み坐す。

(中略)

和銅三年、その躰見えず、ただ、靈の音あり。夜に來りて言はく。

「我れ靈神成て後、虚空飛翔る。棲息無し。その心荒たり」

此れ是の顯し奉る前の大御神なり。

和銅三年庚戌より同五年壬子まで。祈み奉りこれを鎭め、初めて宮柱を立て、齋き敬ひ奉り、神事を勤む。即ち鷹居瀨社これなり。】

~『八幡宇佐宮御託宣集』 鷹居瀨社部~


これによれば、八幡大神は欽明天皇の御宇32年(571年)、宇佐の菱形池のほとりに『廣幡八幡麻呂(ひろはたのやはたのまろ)』として顕現したが、和銅5年(712年)に宇佐の鷹居社と瀬社に鎮座の時までどこにも八幡大神を祀る神社・祠などはなかったとみられる。日田の岩松ヶ峯や杉原の地も同じとみてよいのではないだろうか?


八幡大神は、宇佐郡の宇佐河【駅館川】の瀬の西岸【瀨社】から東岸【鷹居】を鷹の姿で飛び翔け、「我れ靈神成て後、虚空飛翔る。棲息(すむとことろ)無し。その心荒たり」とあり、八幡大神は鎮座地を求めて岩松ヶ峰に顕現したものと推察できる。白鳳9年(680年)に鷹居の八幡大神を勧請し祠を奉祀したという伝承があるが、これには疑問が残る。


また、宇佐の八幡大神は、鷹居瀬社に続いて、靈龜2年(716年)に小山田社(をやまだやしろ)に遷座している。慶雲元年(704年)に鞍形尾神社から杉原元宮への遷座とするのにも疑問が残る。


杉原元宮への遷座については、貞觀元年(859年)、日田郡求来里村の杉ヶ原の杉の梢に顕現し、「永(なが)く豊(とよくにの)前(みさき)の地(くに)を守(まも)らむ」と神託の後、杉の元に白幣が出現したとも伝えられる。この時に、そのところに神祠を建て、鞍形尾より遷座したとも伝えられる。この頃、宇佐神宮の橋本公則(はしもとのきみのり)氏を社司【宮司】として迎えている。


鞍形尾神社の鎮座と杉原元宮神社への遷座についてはっきりとした年代は不明である。鞍形尾神社の鎮座は弘仁2年(810年)だとして、元慶元年(877年)9月朔日、白馬に乗った八幡大神が再び岩松ヶ峯に顕現し昇天したと伝えられる。杉原元宮神社の鎮座はこの年だろうか?定かではない。


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延喜13年(924年)、日田郡司の大藏永弘(おほくらのながひろ)が社殿を新設し、杉原元宮の鎮座地より北に遷座された。これが現在の元大波羅神社。


元大波羅神社

[鎮座地]

 大分県日田市大字求来里字元宮〔地図

[御祭神]

 八幡大神

 比賣大神【田心姫命、湍津姫命、市杵嶋姫命】

 息長帶比賣命【神功皇后】?


建久年間(1190年~1199年)、大友能直(おほとものよしなほ)【建久7年(1196年)より承元元年(1207年)頃までの鎮西奉行兼豊前・豊後守護】が大波羅八幡宮〔大原八幡宮〕を「豊西総社」と定め、宇佐八幡の拝礼形態から相模國の鶴岡八幡宮の拝礼形態に改めさせたらしい。


寛永元年(1624年)、豊後日田藩主〔日隈の永山城主〕の石川忠總(いしかわただふさ)が新社殿を寄進し、現在地の田島大原に遷座した。


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楼門は貞享4年(1687年)、拝殿・幣殿・本殿は寛政6年(1794年)に現在の建物が築造され、幾度かの修復を経て現在に至っている。


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拝殿の正面の額には、


鳶飛月窟地〔鳶は月窟の地を飛び〕
魚躍海中天〔魚は海中の天を躍る〕

と記されている。


日田総鎮守の宮として鎮座する大波羅八幡宮。起源は詳らかならずも、天瀬の高塚愛宕地蔵尊を開基した行基も鞍形尾と杉原の地を訪れたと伝えられる。鞍形尾と杉原の伝承は、これに因果関係があるのかもしれない。楼門には仁王立像が睨みを効かせ、境内の東側には現在も大原山神宮寺が存している。神仏混淆時代の名残り漂う境内がここにある。