熊本県との境、かつては玖珠郡葦谷村(あしやむら)とよばれていた集落に菅原道眞(すがわらのみちざね)公ゆかりの川底温泉がある。


菅原道眞公が大宰府へ向かう途路、この地を訪れ湧出する温泉を発見したのだという。その温泉郷の奥まったところに菅原天満宮が鎮座する。


sugawaratenman01

菅原天満宮

[鎮座地]大分県玖珠郡九重町大字菅原(字本村)2300番地〔地図

[御祭神]菅原道眞命(すがわらのみちざねのみこと)


延喜元年(901年)、菅原道眞公は大宰府に向かわれる途中、山城國愛宕山での学友であった觀應(かんのう)が僧職を務める玖珠郡葦谷村の白雲山安全寺(菅原336番地)【現・淨明寺】をに訪ねた。降り積もる雪の旅路、進むこともままならず、およそ1ヶ月ほど滞在したそうだ。


この滞在の間、菅公は榧(カヤ)【イチイ科/Torreya nucifera】の一枝を採り、自刻像を彫刻すると觀應に形見として残したと伝わる。その数日後、菅原道眞公は大宰府に出発された。


延喜3年(903年)2月25日、菅原道眞公は大宰府で薨去された。これを知った觀應は形見の木造を安全寺の境内に祠を建て奉祀し、菅原道眞公の霊を慰めるべく供養をはじめた。菅原天満宮のはじまりである。


また、菅原道眞公が葦谷村を訪れた時、宝泉寺温泉郷の川底温泉を発見されたとも伝わる。薨去された菅原道眞公を偲び葦谷村から菅原村に改められたという。


菅原道眞公が安全寺を出発された日のことか?安全寺を訪れた日のことか?菅原道眞公が藤原氏の刺客に追われた時、老婆が竃の陰に隠し赤兵子を乾かすようにして助けたという。この故事に因んで「赤兵子天満宮」とも称す。


以後、觀應の子孫代々にわたって奉斎されてきたが、寛永10年(1633年)、正専が天台宗より浄土真宗に改宗、寺号を淨明寺と改めた時に、「他宗の神を祭らず」という宗義に従い、南東に約250mにある寺所有の山林(現在地)に一宇を設け遷座したと伝わる。


sugawaratenman02

菅原天満宮の杜と淨明寺を結ぶ田園のなかに、菅公が彫刻に利用したという榧(カヤ)がある。他の木々と溶け込むように立つ古木の姿は、菅公が、京から大宰府へと向かう途路に訪ねた学友へのメッセージツリーとして、菅原天満宮の御神木として立ち続けている。