秋風に乗って、どこからともなく漂う芳醇かつ甘く心地よい香り。


そのオレンジ色の花の花言葉は「誰にでも優しくなれる時」。


キンモクセイ(金木犀)が、今年も咲き始めました音譜


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-キンモクセイ


キンモクセイ(金木犀)

[科名] モクセイ科
[学名] Osmanthus fragrans

学名の"Osmanthus"は「香りのある花」を意味します。

白ワインに桂花(ケイファ)【キンモクセイ】を漬け込んで香りづけした桂花陳酒は、楊貴妃が愛飲したとも伝えられています。また、台湾産の烏龍茶には桂花で香りづけがされたもの「桂花烏龍」もあり、原産国の中国でも親しまれてきた香りのようです。日本には、江戸時代頃に中国から待ち込まれたといわれています。


遠くからでも風に乗って香るキンモクセイの花は、秋の風物詩。毎年、この花の香りが風に漂ってくると、どこか懐かしい優しさに包まれた気持ちになります。



もうひとつ…メモ


初夏の頃から晩秋に差し掛かる頃まで咲く花の花言葉は「懐かしい間柄、尊敬」。


秋風に吹かれて、しなやかに花を揺らす澄んだ青色が印象的ラブラブ


晩秋に向けてそろそろラストスパートのツユクサ(露草)の花です。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-ツユクサ



ツユクサ(露草)

[科名] ツユクサ科
[学名] Commelina communis


この花の青色の色素は、水に溶ける性質をもつことから、京都の友禅染めの下絵に使われていることもあってか、奈良時代に編纂された最古の和歌集の萬葉集の中では、「心変わり」、「移ろい」、「儚い」などの比喩に用いられています。


月草之 徙安久 念可母 我念人之 事毛告不來

【月草の 徙(うつろひ)(やす)く 念(おもへ)かも

(あが)(おもふ)人の 事も告(つ)げ來(こ)ぬ】
~大伴坂上家之大娘(おほとものさかのうへのいへのおほいらつめ)


[大意]

月草のようにあの人の心が変わりやすいからでしょう。

私が想っているあの人が、私に何も告げて来ないのは…。



月草尓 衣曽染流 君之爲 綵色衣 將摺跡念而

【月草に 衣ぞ染(そむ)る 君がため

綵色衣(まだらのころも) 摺跡(すらむと)(おもひ)て】
~詠み人知れず~


[大意]

月草で衣を染めています。あなたのために…。

綵色衣に模様を染めようと思って

鴨頭草丹 服色取 摺目伴 移變色登 稱之苦沙

【鴨頭草(つきくさ)に 衣(ころも)(いろ)とり 摺(すら)めども

移變(うつろふ)色と、稱(いふ)が苦(くるし)さ】

~詠み人知れず~


[大意]

鴨頭草で衣服の色彩の模様を染めても、

移り変わる色と、あたしの心も鴨頭草で染めた色のように悩んでいます。

(私は、あなたのお嫁さんになっていいものですか?)



月草尓 衣者将揩 朝露尓 所沾而後者 徙去友
【月草に 衣(ころも)は揩(す)らむ 朝露(あさつゆ)

(ぬ)れての後(のち)は 徙去(うつろひぬ)とも】

~詠み人知れず~


[大意]

月草で衣の模様を染めよう。

たとえ朝露に濡れて色があせてしまっても…。



朝露尓 咲酢左乾埀 鴨頭草之 日斜共 可消所念
【朝露(あさつゆ)に 咲(さき)すさびたる鴨頭草の

日くたつなへに 消(け)ぬべく念(おも)ほゆ】

~詠み人知れず~


[大意]

朝露をうけて咲き進む鴨頭草が、

日が暮れるにつれてしぼんでゆくように、思います。

(あなたを待っている私の心も消えてしまいそうです)


朝開 夕者消流 鴨頭草乃 可消戀毛 吾者爲鴨
【朝(あした)(さ)き 夕(ゆふべ)は消(け)ぬる 鴨頭草の

(け)ぬべき戀(こひ)も、我れはするかも】
~詠み人知れず~


[大意]
朝咲いて、夕方にはしぼんでしまう鴨頭草のような

(身も心も)消えてしまいそうな恋を、私はするのでしょう。


月草之 借有命 在人乎 何知而鹿 後毛將相云
【月草の 借(か)れる命(いのち)に ある人を

(いかに)知りてか 後(のち)も相(あ)はむと云(いふ)

~詠み人知れず~


[大意]

月草のように、この世の儚い命である人ながら、

どう思われて、後で逢いましょう、なんて言うのですか?

内日刺 宮庭有跡 鴨頭草之 移情 吾思名國

【内日刺(うちひさす)(みや)には有(あ)れど 鴨頭草(つきくさ)

(うつろふ)(こころ)(あが)(おもは)なくに】
~詠み人知れず~


[大意]

宮仕えの勤めにあっても、鴨頭草のように

変わりやすい心情など、私にはありません。



百尓千尓 人者雖言 月草之 移情 吾將持八方
【百(もも)に千(ち)に 人は言へとも 月草の

(うつろふ)(こころ)(あれ)(も)ためやも】

~詠み人知れず~


[大意]
いろいろと人は色々言うけれど、月草のように

移ろう心情を私は持つだろうか。いえ、持つことはない。

(私は一途にあなたのことを想っています。)



澄んだ青空の季節、青くすがすがしい大空の下で、空の青に色染まるかのように素直、そして大地を優しく包む風に揺れて咲くツユクサの花。万葉の昔は恋歌の比喩に使われていたようですね。月草、青花など多くの異名をもつこの花。それだけ古くから人々に親しまれてきた花なのでしょうねブーケ2

北西に花牟礼山【標高1170m】を望み、周囲を600m前後の山々に囲まれた山峡の平原「阿蘇野」。往古に柏峽大野(かしはをのおほの)と呼ばれていた地は遠くないのだろうか?


ここに鎮座する直入中臣神社は、日本書紀に、大足彦忍代別天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)【景行天皇】が土蜘蛛討伐の砌、祈祷されたと伝えられる「直入中臣神(なほりなかとみのかみ)」とされている。


この神社の草創は、詳らかではなくも神渟名川耳天皇(かむぬなかはみみのすめらみこと)【綏靖天皇】の御宇と伝える史書や説もあるようだ。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-直入中臣神社①


直入中臣神社

[所在地]

 大分県由布市庄内町阿蘇野(字中村)3784番地〔地図

[御祭神]

 直入中臣神(ナホリナカトミノカミ)

  ・武甕槌神(タケミカヅチノカミ)

  ・經津主神(フツヌシノカミ)

  ・許登能麻遅媛神(コトノマヂヒメノカミ)

  ・天之兒屋神(アメノコヤネノカミ)

  ・天美津玉照比賣神(アメノミツタマテルヒメノカミ)

  ・天押雲根神(アメノオシクモネノカミ)


直入中臣神社の境内に、天皇が「蹶石野(くゑいしの)」の訪れた時にあった、長さ六尺・広さ三尺・厚さ一尺五寸の「蹶石(ほふみいし)」と伝えられる石がある。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-直入中臣神社②
直入中臣神社にお祀りされている「蹶石」

大足彦忍代別天皇12年(西暦82年)冬10月、天皇は、土蜘蛛を討伐しようと、柏峽大野(かしはをのおほの)においでになられ、志我神(しがのかみ)、直入物部神(なほりもののべのかみ)、直入中臣神に、「土蜘蛛を滅ぼすことができるならば、この石を踏み蹴ると柏葉のようにあがれ」と、長さ六尺、広さ三尺、厚さ一尺五寸の大きな石を踏み蹴ることで神意を伺われた結果、その石は柏の葉のように虚空を舞ったと伝えられる。「蹶石」は、その石だ。


蹶石野 在柏原郷之中 同天皇 欲伐土蜘蛛之賊 幸於柏峡大野 野中有石 長六尺 廣三尺 厚壹尺五寸 天皇祈曰 朕將滅此賊 當蹶茲石 譬如柏葉而騰 即蹶之 騰如柏葉 因曰蹶石野

【蹶石野。柏原郷(かしはるのさと)の中(なか)に在(あ)り。同じ天皇(すめらみこと)。土蜘蛛(つちぐも)の賊(あた)を伐(う)たむと欲(おもほ)し、柏峡大野に幸(いで)ましき。野の中に石(いは)有(あ)り。長さ六尺(むさか)、廣(ひろ)さ三尺(みさか)、厚(あつ)さ壹尺五寸(ひとさかあまりいつき)、天皇、祈(うけ)ひ曰(まを)ししく。「朕(あ)、將(まさ)に此(こ)の賊を滅ぼさむに。茲(こ)の石を蹶(ふ)むに當(あた)り、譬(たと)へば柏葉(かしはば)の如くして騰(あ)がれ」。即(すなは)ち蹶(ふ)みたまへるに、柏葉の如く騰がりき。因(より)て蹶石野と曰(い)ふ。】

~『豐後國風土記』~


 『日本書紀 卷第七』にも同じような記述があり、このなかで登場する「直入中臣神」は、この直入中臣神社であるとされる。


天皇初將討賊 次于柏峽大野 其野有石 長六尺 廣三尺 厚一尺五寸 天皇祈之曰 朕得滅土蜘蛛者 將蹶茲石 如柏葉而擧焉 因蹶之 則如柏葉上於大虚 故號其石曰蹈石也 是時禱神 則志我神 直入物部神 直入中臣神 三神矣

【天皇、初めて賊を討たむと、次に柏峽大野にいたりたまひき。其(そ)の野に石(いは)有(あ)り。長さ六尺。廣さ三尺、厚さ一尺五寸(ひとさかあまりいつき)、天皇、祈(うけ)ひ曰(まを)ししく。「朕(あ)、土蜘蛛を滅すこと得(え)むは、將(まさ)に茲(こ)の石(いは)を蹶(くゑ)むに、柏葉(かしはば)の如くして擧(あ)がらむ」因(よ)りて蹶(ふ)みたまひき。則(すなは)ち柏葉の如く大虚(おほぞら)に上がりき。故(かれ)、其(そ)の石を號(なづ)けて蹈石(ほみし)と曰(い)ふなり。是(こ)の時に禱(の)みまをす神は、則ち志我神(しがのかみ)、直入物部神(なほりもののべのかみ)、直入中臣神の三神(みはしらのかみ)ぞ。】

~『日本書紀 卷第七』~


柏葉のように空中を舞ったと伝えられるこの石、とても踏んだだけでは空中を舞いそうにない大きさ。しかし、「長さ六尺。廣さ三尺、厚さ一尺五寸」と伝えられている限りこの石が「蹶石」なのだろう。



豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-直入中臣神社③


階段の途中には、ここが「直入中臣神」であることを伝える小さな石碑が立つ。碑文に刻まれている内容は以下のとおり。


直入中臣神土俗稱石上明神 景行天皇討土蜘蛛賊時而祷三神之一也

【直入中臣神は土(くにびと)の俗(よ)に石上明神と稱(い)ふ。景行天皇、土蜘蛛(つちぐも)の賊(あた)を討(う)たむ時にして祷(の)みまをす三神(みはしらのかみ)の一(ひと)つなり。】


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-直入中臣神社④
直入中臣神社の神籬

「石上明神」とは、直入中臣神社の俗称。奈良市の石上神宮とは無関係だ。「蹶石」に向かって右手に少しだけ盛り上がった丘のようになったところがある。元来はこれを神籬とする信仰だったのか?写真の右側に小さな祠が見える。


直入中臣神祠 在朽網郷中野村 祭石爲神 今稱石神明神

【直入中臣神祠(なほりなかとみのかみやしろ)。朽網郷(くたみのさと)中野村(なかのむら)に在り。石を祭り神と爲(な)す。今、石神明神と稱ふ。】

~『豐後國志』~


さらに、今はこの神社の境内となっている「蹶石」がある「蹶石野」という場所について、『豐後國志』は「不詳」と記したうえで、次のように伝えている。


直入中臣神 其祠 在朽網郷 祭石爲神 今稱石明神 其石大小稍相近之然則蹶石野 乃其地方野 而蹶石乃此石歟

【直入中臣神(なほりなかとみのかみ)。其(そ)の祠(やしろ)、朽網郷に在り。石を祭り神(かみ)と爲(な)す。今、石明神と稱ふ。其(そ)の石、大(おほ)き小(ちいさ)き、稍(やや)相(あ)ひ近し。然則(しかるべ)く蹶石野。乃(すなは)ち其(そ)の地方(ところ)の野にして、蹶石、乃ち此(こ)の石なるや。】

~『豐後國志』~


石を神として祀っていることから「石神明神」・「石上明神」・「石明神」とよばれ、現在は、この大小さまざまな石の前に、直入中臣神社の社殿が建っている。往古よりこの地に鎮座し、直入中臣氏の氏神さまとして、今もここにあり続けている古社だ。

 臼杵(うすき)の街並みを望む小高い丘陵に鎮座し、『臼杵の赤猫』の神社として有名な福良天満宮(ふくらてんまんぐう)。境内には富蔵赤猫社(ふくらあかねこしゃ)、・「赤猫石」があり、沢山の赤い猫たちが出迎えてくれます。



豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-福良天満宮①

福良天満宮

[所在地]
 大分県臼杵市大字福良字宮畠211番地(地図

[御祭神]
○本殿

 ・菅原道眞命(すがわらのみちざねのみこと)【天滿天神(あめみつあめのかみ)

○瑜伽神社【摂社】
 ・天手力男神(あめのたぢからをのかみ)
 ・白太夫神(しらだゆうのかみ)【渡會春彦命(わたらひのはるひこのみこと)

○愛宕神社【末社】
 ・火産霊大神(ほむすひのおほかみ)
 ・保食大神(うけもちのおほかみ)

○富蔵赤猫社

○赤猫のたまり井戸


 醍醐(だいご)天皇【源維城(みなもとのこれざね)/敦仁(あつひと)親王】の御宇、昌泰4年(901年)、右大臣兼右大将であった菅原道眞公は、大宰権帥(だざいごんのそち)として筑前國大宰府に左遷され、延喜3年(903年)2月25日、大宰府の南館(榎寺)で薨去されました。


 その後、菅原道眞公の御遺骸を牛車に乗せ進める途中、現在の太宰府天満宮まで来ると、牛が伏せて動かなくなったので、「これは、菅公の御心によるものであろう」と、その大宰府の聖地に御遺骸が葬られました。


 その後、菅原道眞公の子孫で、菅原の姓を大畠に改め、周防國大島郡大畠【現・山口県大島郡周防大島町大畠】を領した一族は代々、天神像【菅原道眞公の像】を守護していました。


 後陽成(ごようせい)天皇【和仁(かずひと)親王/周仁(かたひと)親王】の御宇、天正15年(1587年)3月、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命によって羽柴秀長(はしばひでなが)の軍勢が周防に入ってきた時、大畠氏は豐後國海部郡福良莊宮畠に逃れ、その後、鎮南山の山麓に社殿を建立して、長きにわたり守護してきた天神像を手厚くお祀りしたのが、福良天満宮のはじまりだそうです。


 慶長7年(1602年)、臼杵城主の稲葉典通(いなばのりみち)が鷹狩りに出かけた最中、鷹の行方を失った時、天神様に願を掛けたところ鷹が戻って来るという御神徳をいただいたため、現在地に社殿「呼鷹殿」を造営し遷座、以後豊後國臼杵藩主の崇敬社として手厚くお護りされました。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-福良天満宮② 豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-福良天満宮③
「赤猫のたまり井戸」


 この神社にお詣りすると沢山の赤い猫が…。常時、福良天満宮の縁の下「赤猫のたまり井戸」に置かれ、「赤猫石」と呼ばれる29個からなる石は、毎年ゴールデンウイークの「うすき赤猫まつり」開催のおり、市内の29か所に置かれるもので、「福招きの石(招福縁起石)」として「臼杵市の繁栄を見守り、訪れる人々に幸福を授ける」と信仰されています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-福良天満宮⑤
「冨蔵赤猫社」

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-福良天満宮④
「富蔵赤猫社」の赤い招き猫


「赤猫のたまり井戸」の隣には、「富蔵赤猫社」が鎮座しています。こちらには赤い招き猫が…。う~んあせる神社の祠の前に置かれている招き猫って、なんだか不思議です。神様のお傍で商業繁栄・家内安全・幸せを招いている。そんな姿が笑顔にしてくれているような…。そんな気もしてきます。


「赤猫」と呼ばれた臼杵商人の大塚幸兵衛の生まれ育ったところ平清水の氏神である福良天満宮…。境内には、大塚幸兵衛も当時は信仰を絶やさなかったという愛宕稲荷神社が鎮座していて、その崇敬心にあやかり「赤猫の置物」に籠もらせ、 「幸せ(福)を運ぶ赤猫」として、福良天満宮境内の一角で福を招き幸せを運ぶ社としてお祀りされているそうです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-福良天満宮⑥

福良天満宮にお詣りした時に、神社の授与品(御守)として白と赤の招き猫をいただきました。可愛らしい感じがお気に入りです。「福おいで」…。福招きの招き猫です(笑)

 先日、上毛町大字垂水【豐前國上毛郡】の牛頭天王公園(ごずてんのうこうえん)の川辺の駐車場をチョコチョコと歩いている白と黒の模様の鳥を見て、セグロセキレイ(背黒鶺鴒/Motacilla grandis)かと思い撮影して、その写真をよく見るとハクセキレイ(白鶺鴒)でしたあせるヒヨコ


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-Motacilla alba①


ハクセキレイ(白鶺鴒)
 [学名]Motacilla alba
 [目]スズメ目

 [科]セキレイ科


 ハクセキレイ(白鶺鴒)は、頭上に黒い過眼線があるのが特徴。調べてみると、この過眼線がないのは、「頬が白い白鶺鴒」が名前の由来のホオジロハクセキレイ(頬白白鶺鴒/Motacilla alba leucopsis)。過眼線があり胸部の黒色が嘴の下までつながっているタイワンハクセキレイ(台湾白鶺鴒/Motacilla alba ocularis)など沢山の仲間がいるようです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-Motacilla alba②


 今回、撮影した写真の鳥は過眼線があり、胸部の黒色が嘴の下までつながっていないのでハクセキレイ(白鶺鴒)ですね。


 もともとハクセキレイ(白鶺鴒)は、北日本の本州中部以南で越冬し繁殖する鳥らしいのですが、最近では繁殖地が南下傾向にあるらしく、ここ九州東部でも見かけることがあります。


 およそ15cmくらいのスズメ(雀)より少し大きめの21cmくらいの小さな鳥ですが、尻尾を振りながら地面を歩く姿がとてもかわいらしく思えます。


 『日本書紀』にも鶺鴒の記事があります。古くは「ニハクナブリ」と呼ばれていたようです。(この鶺鴒は、おそらく日本固有種のセグロセキレイかと思われますが、参考までに掲載させていただきます。)


陰神先唱曰 美哉 善少男 時以陰神先言故爲不祥 更復改巡 則陽神先唱曰 美哉 善少女 遂將合交而不知其術 時有鶺鴒飛來搖其首尾 二神見而學之 即得交道

【陰神(めがみ)(ま)づ唱(とな)へて曰(まを)ししく。

「美哉(あなにやし)、善少男(えをとこ)を」

(とき)に陰神(めがみ)(ま)づ言(い)へる故(ゆゑ)を以(も)ちて、不祥(さがなし)と爲(な)して、更(さら)に復(ま)た改(あらた)め巡(めぐ)りたまふ。則(すなは)ち陽神(をがみ)(ま)づ唱(とな)へて曰(まを)ししく。

「美哉(あなにやし)、善少女(えをとめ)を」

(つひ)に合交(みあは)せむとして其(そ)の術(みち)を知(し)らず。時(とき)に鶺鴒(にはくなぶり)(あ)りて、飛(と)び來(き)たり其(そ)の首(かしら)(を)を搖(うごか)す。二神(ふたはしらのかみ)(み)そなはして學(なら)ひて、即(すなは)ち交(とつぎ)の道(みち)を得(え)たり。】

~『日本書紀 卷第一 神代 上』 四段 一書第五~


 これは、陽神(をがみ)【伊弉諾神(いざなぎのかみ)】と陰神(めがみ)【伊弉册神(いざなみのかみ)】の國生みの条で、「二柱の神が交合の方法を知らずにいた時、鶺鴒ニハクナブリ)が飛んで来て、その頭と尻尾と振るのを見習われて、交合の方法を知られた」というお話です。


 伊弉諾神と伊弉册神がお祀りされている神社で、神紋が「鶺鴒」になっているのを時々、見かけます。これは、その鶺鴒の神話が基になっているのでしょうね。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-Motacilla alba③
福岡県直方市に鎮座する多賀神社の神紋

 今、セグロセキレイ(背黒鶺鴒)を撮影しようとデジカメを持ってアチラコチラを散策中。近づき過ぎると、すぐに逃げてしまうので撮影が大変です汗撮影ができたらまた掲載させていただきます。他の鳥たちも…カメラキラキラヒヨコ

 今回、新設のテーマ「散歩道の野鳥」では、『豐國』で見かける鳥たちを紹介させていただきます。被写体が鳥だけに撮影にひと苦労しそうですが…あせる今後ともよろしくお願いいたします。

「東北地方太平洋沖地震」に被災された皆様へ


 2011年(平成23年)3月11日に発生した「東北地方太平洋沖地震」および「東日本大震災」により、お亡くなりになった方々に深く哀悼の意をささげるとともに、被災された地域の皆様に対し、心よりお見舞い申し上げます。被災地の皆様におかれましては、一日も早い復興をお祈り申し上げます。


~豊の散歩道~


どこにでも生えていそうな、野草たち。よく見ると、小さくても意外に個性的で綺麗な花を咲かせています。


まだまだ少し肌寒い日が続いていますが、そっと静かに春の訪れを告げています。


街を歩いていて見つけた、春の野草たち。オオイヌノフグリ、ナズナ、ハコベです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-Veronica persica


オオイヌノフグリ

 【学名】 Veronica persica

 【科名】 ゴマノハグサ科

 【別名】 瑠璃唐草(ルリカラクサ)・天人唐草(テンジンカラクサ)・星の瞳(ホシノヒトミ)
 【花言葉】 「信頼」「神聖」「清らか」「忠実」
 

 学名の「Veronica(ヴェロニカ)」は、キリスト教の聖者の名で、クワガタ属のこと。「persica(ペルシカ)は、「ペルシャの」の意。


 ほんのり紫がかった青色(コバルトブルー)の小さな花を咲かせるオオイヌノフグリ。明治20年(1887年)頃に、ヨーロッパから日本に渡ってきた帰化植物だそうです。日本の在来種ではなかったんですね。あまりにも見慣れた野草だけに、少し驚きです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-Capsella bursa-pastoris



ナズナ(薺)

 【学名】 Capsella bursa-pastoris

 【科名】 アブラナ科

 【別名】 ペンペングサ(ぺんぺん草)、シャミセングサ(三味線草)

 【花言葉】 すべてを捧げます

 学名の「Capsella(カプセラ)は、ラテン語の「小箱」が語源で、ナズナ属のこと。「bursa-pastoris : 羊飼いの財布」。実の形が羊飼いの財布に似ていることに由来しているそうです。


 アブラナ科というだけに菜の花を小さくしたような姿です。白い小さな花も菜の花に似ていますね?「実の形が羊飼いの財布」に似ている…。その「羊飼いの財布」は三角のこんな形をしていたのでしょうか?「ペンペン」というのは三味線を弾く音で、実の形が三味線の撥に似ているからなのだそうです。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-Stellaria media


ハコベ(繁縷、蘩蔞)

【学名】 Stellaria media

【科名】 ナデシコ科

【花言葉】 愛らしい、あいびき、追想

 学名の「Stellaria(ステラリア)」は、ラテン語の「星」が語源。花の形が星形をしていることに由来。ハコベ属のこと。「media(メディア)」は、「中間の」を意味しています。


 個人的には、星形というよりハート形に似ている気がしますが、白いこの花の花言葉「愛らしい」というのはピッタリな感じがします(笑)

海部郡の佐加(さが)郷、佐賀関(さがのせき)に鎮座する早吸日女神社。


『延喜式』に「豊後國海部郡 一座小 早吸比咩神社」と記される式内社で、『古事記』や『日本書紀』に伝わる伊耶那岐神(イザナギノカミ)の禊祓の神話にも深い関係をもつ古社だ。


早吸日女神社

[鎮座地]

 大分県大分市佐賀関(関)3329番地〔地図

[御祭神]

・八十枉津日神(ヤソマガツヒノカミ)
・大直日神(オホナホヒノカミ)
・底筒男神(ソコツツノヲノカミ)
・中筒男神(ナカツツノヲノカミ)

・表筒男神(ウハツツノヲノカミ)
・大地海原諸神(オホトコウナハラモロモロノカミ)

[境内摂社]

◎若御子社

 ・黑砂神(イサゴノカミ)

 ・眞砂神(マサゴノカミ)
◎伊邪那岐社

 ・伊邪那岐神

◎歳神社

 ・大年神(オホトシノカミ)

 ・御年神(ミトシノカミ)

◎神明社

 ・天照大神(アマテラスオホミカミ)

◎厳島社

 ・市杵嶋姫神(イチキシマヒメノカミ)

◎天然社

 ・源維城敦仁親王(みなもとのこれざねあつひとのみこ)【醍醐天皇】


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-速吸日女神社①

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-速吸日女神社③   豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-速吸日女神社②
早吸日女神社 伊邪那岐社前の鳥居と神門

神代の昔、「禊祓(みそぎはらへ)」をする場所を探して「雅御子鼻(わかみこばな)【若御子鼻】の田刈穂浦(たがりほうら)」を訪れた伊弉諾神が、潮中に潜り、汚穢を灌ぎ、「高門岩」にのぼり、若御子神(わかみこのかみ)【黑砂神、眞砂神】の防護をうけ、林を伐採して「田刈穗浦」に『速吸神(はやすひのかみ)』を祀ったのが早吸日女神社のはじまりと伝えられる。


『豐後國誌』によると、若御子神【黑砂神(黑濱神)、眞砂神(白濱神)】を称えて速吸日女神(ハヤスヒメノカミ)と呼ぶとあり、この二神は現在の祭神のうち大地海原諸神に含まれるのだろう。


また、「速吸門(はやすひなと)」の名も速吸日女神の御名に因むものとされる。


『日本書紀』も伊弉諾神が禊祓(みそぎはらへ)をされる場所を探されて、粟門(あはのみと)」【愛媛県】と速吸名門(はやすひなと)を訪れ、潮の流れがとても速かったため「橘小門(たちばなのをど)」【宮崎県】に帰還されて「禊祓(みそぎはらへ)」をされたと伝える。


昔者伊弉册尊神浮潜潮中 以濯汚 昇于高門岩 稚御子兄弟二女神供奉防衞 伐林除地。鎭座于田刈穗浦 稱曰速吸比咩神 盖高門岩佐加東北海上里許 今名牛島 是也 稚御子白濱黑濱神 其所居之址 稚御子鼻田刈穗浦始鎭座地 今呼曰古宮村一 崇速吸神 故古呼此水門 稱速吸門

【昔、伊弉册尊、潮中(しほのなか)に潜(もぐ)り神浮(かむう)きたまひて汚(きたな)きを濯(すす)きたまひき。ここに高門岩に昇り、稚御子(わかみこ)兄(いろね)弟(いろも)の二(ふた)はしらの女神(めがみ)供(とも)に防衞(まもり)奉(まつ)りて。林を伐(き)り地を除(はら)ひ、ここに田刈穗浦に鎭座(しづまりま)しき。速吸比咩神(はやすひめのかみ)と稱(たた)へて曰(い)ふ。盖(けだ)し高門岩は佐加の東北(うしとら)の海の上(うへ)の里の許(もと)。今、牛島(うしじま)と名(なづ)く。これなり。稚御子は白濱(まさご)・黑濱(いさご)の神(かみ)。其(そ)の居(ゐ)ます所の址(あと)、稚御子鼻(わかみこばな)の田刈穗浦(たがりほうら)は始(はじ)めて鎭座(しづまりまし)し地(ところ)。今、古宮村と呼び曰ふ。速吸神を崇めたまふ。故(かれ)、古(いにしへ)に此(こ)れの水門(みなと)を呼(よ)びて、速吸門と稱(い)ふ。】
~『豐後國誌』~


『豐後國誌』に伊弉册尊(イザナミノミコト)とあるのは伊弉諾神の誤りだろう。

故欲濯除其穢惡 乃往見粟門及速吸名門 然此二門 潮既太急 故還向於橘之小門而拂濯也

【故(かれ)、其(そ)の穢悪(けがらはしきもの)を濯(すす)き除(はら)はむと欲(おもほ)して、乃(すなは)ち粟門(あはのみと)及(およ)び速吸名門(はやすひなと)に往(ゆ)きて見(みそなは)す。然(しか)るに、此(こ)の二(ふたつ)の門(みなと)、潮(しほ)既(すで)に太(はなは)だ急(はや)し。故(かれ)、橘小門(たちばなのをど)に還向(かへ)りたまひて、拂(はら)ひ濯きたまふぞ。】

~『日本書紀 卷第一 神代上』 第五段 一書 第五~


さらに、皇暦紀元前7年(紀元前667年ごろ)、神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)【神武天皇】御東遷の途路、速吸の瀬戸において、若御子神【黑砂神、眞砂神】が海底に住む大きな蛸(たこ)により長い間、守護してきた伊邪那岐神の神剣を取り上げて天皇に献上しました。天皇は、この神剣を御神体とし、古宮の地に祓戸神【八十枉津日神、大直日神、底筒男神、中筒男神、表筒男神、大地海原諸神】を祀り、建国の大請願をたてられたと伝えられる。こうして現在の「早吸日女神社」となった。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-早吸日女神社⑩

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-早吸日女神社⑨  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-早吸日女神社⑧
本殿の朱塗り、木々の緑、青空の構成が素晴らしく栄えています。


大寶元年(701年)、神託によって現在地の「佐加郷土浦(さかのさとつちうら)」の「曲浦(わたうら)の清地(そが)」に遷座されました。この曲浦を和多浦(わたのうら)と呼び、その清地を「素娥(そが)」と呼び、後に「洲賀(すが)」となり、これが「佐加(さか)」という郷称になった。「海部」の郡名は、若御子神【黑砂神、眞砂神】に漁の方法を教わり生活する人々に因むものだそうだ。


大寶元年 奉神宣神宮于曲浦清地 曲浦呼爲和多浦一 清地呼爲素娥 後作洲賀 盖佐加古稱 稚御子以漁師事敎民因以海部其國

【大寶元年、神宣を奉り、神宮(かみのみや)を曲浦(わたうら)の清地(すが)に移したまひき。曲浦を和多浦(わたうら)と呼び、清地(すが)を素娥(そが)と呼び、後に洲賀(すが)と作(な)す。盖し佐加と古に稱ふ。稚御子を以(もち)て漁師(あま)の事を民(たみ)に敎(をし)へたまふ。因(よ)りて海部(あまべ/うみべ)を以て、その國の名とす。】
~『豐後國誌』~


此郡百姓 竝海邊白水郎也 因曰海部郡

【此(こ)の郡(こほり)の百姓(おほみたから)は、竝(みな)、海邊(うみべ)の白水郎(あまべ)なり。因(よ)りて海部郡(うみべのこほり)と曰(い)ふ。】

~『豐後國風土記』~


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-早吸日女神社⑥  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-早吸日女神社⑦

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-早吸日女神社⑤  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-早吸日女神社④
御本殿(拝殿)の彫刻や瓦は「海」をイメージしたデザインになっています。

 今も昔も潮が速く、「関サバ」、「関アジ」の漁場として知られる「早吸門」・「佐賀関」の海の「早吸日女神」を祀る御神域。伊邪那岐神、神倭伊波禮毘古命【神武天皇】ゆかりの御神域。往古より漁師【海部】として生活してきた人々の産土神。心の「曲(まが)」を「直(なほ)」す事、「祓(はらへ)」の神を祀る御神域。早吸日女神社は、青く清らかな海と大地の「めぐみ」溢れる佐賀関の産土神として、往古より鎮座し続けている。

 豐前國と筑前國の境に位置する烏尾峠(からすをとうげ)日王山(ひのおうさん)。その東の田河郡神崎村(たかはのこほりこうざきむら)飯土井神社(いどゐじんじゃ)が鎮座しています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-飯土井神社①
飯土井神社の拝殿



豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-飯土井神社②
飯土井神社の参道と鳥居


飯土井神社

[所在地]福岡県田川郡福智町神崎905番(地図


[御祭神]

 仁德天皇(にんとくてんのう)【大雀命(おほさざきのみこと)

 天照大神(あまてらすおほみかみ)

 素佐鳴命(すさのをのみこと)

 高龗神(たかおかみのかみ)【貴船神社(境内社)】


 神代の昔、建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)の十擧劔(とつかつるぎ)を天照大御神(あまてらすおほみかみ)が噛み砕いて吹き出した息の霧に成った三女神【市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命】は、『葦原中國之宇佐嶋』【豐前國宇佐郡】に天降られ、『海北道中』【筑前國宗像郡】に鎮座されたと伝えられています。


天照大御神、先乞度建速須佐之男命所佩十擧劔 打折三段而 奴那登母母由良邇振滌天之眞名井而 佐賀美邇迦美而於吹棄氣吹之狹霧所成神御名 多紀理毘賣命 亦御名謂奧津嶋比賣命 次市寸嶋比賣命 亦御名謂狹依毘賣命 次 多岐都比賣命

【天照大御神(あまてらすおほみかみ)、先(ま)づ建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)の佩(は)かせる十擧劔(とつかつるぎ)(こ)ひ度(わた)して、三段(みきだ)に打(う)ち折(お)りて、ぬなとももゆらに天之眞名井(あめのまなゐ)に振(ふ)り滌(すす)きて、さがみにかみて吹(ふ)き棄(う)つる氣吹(いぶき)の狹霧(さぎり)に成(な)りませる神(かみ)の御名(みな)は、多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)。亦(また)の御名(みな)は、奧津嶋比賣命(おきつしまひめのみこと)と謂(い)ふ。次(つぎ)に市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)。亦の御名は狹依毘賣命(さよりびめのみこと)と謂いふ。次に多岐都比賣命(たきつひめのみこと)。】

~『古事記 上卷』~


即以日神所生三女神者 使隆居于葦原中國之宇佐嶋矣 今在海北道中
【即(すなは)ち日神(ひのかみ)の生(あ)れませる三女神(みはしらのめがみ)を以(もち)ては、葦原中國之宇佐嶋(あしはらなかつくにのうさしま)に使隆居(つかひくだりゐ)さしむ。今(いま)、海(うみ)の北(きた)の道(みち)の中(なか)に在(ゐま)す。】

~『日本書紀 卷第一神代上』~


 その途中、三女神が道に迷われていた時、烏に先導されて日王山に立ち寄られて、山頂の「方丈の瑞石」に「日神」【天照皇大神】を祀り、宗像までの行幸の平安を祈られたと伝えられています。


 それで、その峠を『烏尾峠』、その山を『日思山』とよばれるようになりました。また『日思山』は『日王山』(ひのうさん)とも記され、昔はこの山の一帯を、「日王縣」(ひのうのあがた)とよんでいたそうです。


 さらに、景行天皇(けいこうてんのう)【大帶日子淤斯呂和氣天皇(おほたらしひこおしろわけのすめらみこと)】の御宇(71~190年)、天皇がこの地を訪れた時【景行天皇12~18年(82~88年)の間?】、日王縣主(ひのうのあがたぬし)を齋主に定められ、日王山の頂に社殿を建立し、三女神と天照大御神を祀る「日王神社」となりました。


 仁明天皇(にんみょうてんのう)【日本根子天璽豐聰慧天皇(やまとねこあまつみしるしとよさとのすめらみこと)】の御宇には、勅僧の傳燈大師【道詮律師】と一如法師が『日思山嚴嶌大明神』に杖を留めて三七日間(21日)の経三昧を勤められたともいわれています。


 延文元年(1356年)【正平11年】、『日思山嚴嶌大明神』【三女神】は、神託によって「筑前國鹿毛馬村」【現在の飯塚市鹿毛馬】に遷座され、嚴嶋神社となりました。


 また、永正3年(1507年)2月に日王神社の『日尾大神宮』【天照皇大神】は、「豊前國神崎村」【現在の田川郡福智町神崎】」の若宮神社に遷座され神崎地区の産土神となり、現在に至っています。


 遷座の時、神職の香月氏が『同社の東北に清水(しみづ)涌き出(い)づる処(ところ)あり。井戸を掘り飲む者は飢(う)ゆる事なし。又、その掘る土も飯(いひ)とならむ』という天照大御神の神託を受け、里人は教えどおり神社の東北に井戸を掘ると清水が湧き出し、土が赤飯のようになったことから清水が涌く場所を『飯土井岡』、社号を『飯土井神社』と改称したそうです。


 後世、日王山の旧社地の社殿は野火によって焼失しましたが、山頂の「方丈の瑞石」と神社の礎石は今も現存しているそうです。


 御祭神の素佐鳴命は、寛永10年6月に悪疫が大流行した時、『豐前國仲津郡』の今井津須佐神社 を勧請したものだそうです。また、御祭神の高龗神(たかおかみのかみ)は、寛永17年(1640年)に牛馬の悪疫が大流行した時、奉斎されました。


 境内も比較的に広く、参詣した日は雨でしたが、天照大御神らしい太陽の氣が溢れる神社でした。宗像三女神、宇佐の比賣大神の思いを偲ぶこともできますね。


鹿毛馬の嚴嶋神社についてはこちら をどうぞ!

 「陽目の滝(ひなためのたき)」は、「白水(しらみず)の滝」とも称し、陽目渓谷(ひなためけいこく)【大分県竹田市荻町】に位置し、大野川(おおのがわ)の支流、牧戸川(まきのとがわ)に架かる滝です。


 現在の大分県竹田市【旧・豊後國(とよくにのみちのしりのくに)直入郡(なほりのこほり)柏原郷(かしわらのさと)】と大分県と熊本県阿蘇郡高森町【旧・肥後國(ひのくにのみちのしりのくに)阿蘇郡(あそのこほり)高森郷(たかもりのさと)】との境にあたる所に位置します。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-陽目の滝①
陽目の滝(白水の滝)


[所在地]大分県竹田市荻町陽目(地図


『豐後國誌』には次のように記されています。


陽目瀑 在柏原郷陽目村。乃肥之界也。兩岸碧嶂如屏。瀑高五六丈。濶三丈餘。當巨石正面。瀑灑散三面。其下怪石奇岩。磊砢無數。高低參差。皆蒙其水。其色潔白。宛如碎雪山。故俗名曰白水瀑。其兩崖石罅亦吐水許多處。皆云此瀑非。但飛流激之勢。石間悉涌出。(以下省略)
【陽目瀑(ひなためのたき)。柏原郷(かしわらのさと)陽目村(ひなためむら)に在(あ)り。すなはち肥(ひのくに)の界(さかひ)なり。両岸(ふたつのきし)碧嶂(あをやま)の屏(おほひ)のごとし。瀑(たき)の高(たか)さ五、六丈。濶(ひろ)さ三丈(みたけ)あまり。巨石(おほいし)の正面にあたり、瀑(たき)の三面に灑(そそ)ぎ散(ちら)す。その下の怪石・奇岩、磊砢は数(かず)にかぎりなし。高低は三差。皆、その水(みづ)の蒙(おほ)ふ。その色、潔白にして、雪山の砕け宛(あ)たるがごとし。故(かれ)、俗(よ)に名(な)を白水瀑(しらみづのたき)と曰(い)ふ。その両(ふたつ)の崖石(がけいし)の罅(ひび)にまた水(みづ)の吐(は)く許(もと)(ところ)(おほ)し。皆(みな)この瀑(たき)、ただ飛び流る激しき勢(いきほ)ひだけに非(あら)ずと云(い)ふ。石の間(ま)に悉(ことごと)く涌(わ)き出(いづ)る。】

~『豐後國誌』~


 これによると、「陽目の滝」の名称は、「豊後國直入郡柏原郷陽目村(ひなためむら)」の地名に由来し、現在の「白水の滝」の名称の由来には諸説があるようですが、『豐後國誌』には、滝水の「色は潔白で、雪山が砕けあたる(雪崩)ように」見えることによる「陽目の滝」の俗名だそうです。


 この滝の幾筋もの滝水は、阿蘇山系の伏流水が岩盤から湧き出したもので、滝の岩肌からも湧き出しているのだそうです。かつては幅約100mに及ぶ壮大な滝で日本一の飛泉ともいわれていたそうです。


 陽目の滝(白水の滝)の下流にも沢山の滝があります。駐車場から陽目の滝に行く途中の滝をいくつか紹介させていただきます。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-陽目の滝②
陽目の滝の少し下流の母滝


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-陽目の滝③
陽目の滝へ向かう遊歩道の右手に見える滝


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-陽目の滝⑤  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-陽目の滝④
陽目の滝へ向かう遊歩道のすぐ傍の滝

 滝というよりは、岩肌から湧き出している水が滝のように見えているというほうが正しいのでしょうか?なんだか不思議な情景です。陽目の滝(白水の滝)もこのような湧水で形成されているのでしょうね。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-陽目の滝⑥
御茶屋跡の滝


 この滝は、陽目の滝へ向かう遊歩道の右手にある滝で、この滝の前に、岡藩主の中川氏によって滝見物のための御茶屋が設けられていたそうです。


 陽目の滝へ向かう遊歩道を歩いていると、水の息吹をいっぱいに感じることができます。秋には綺麗な紅葉スポットでもあるようです。写真は夏のものなので紅葉は写っていませんが(笑)

 大分県の蒲江。日豊海岸の入津湾の江武戸鼻(えぶとはな)に江武戸神社(えぶとじんじゃ)が鎮座しています。


 その昔、神倭伊波禮毘古命(かむやまといはれびこのみこと)【神武天皇】が日向の高千穗宮【宮崎県高千穂町】より畝傍(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)【奈良県橿原市の畝傍山の麓】に遷られる途中、大嵐に遭遇し、一時的に御船を停泊された浜辺なのだそうです。


 その江武戸鼻の浜辺に咲くハマゴウハマユウの花が、花盛りを迎えています。


江武戸鼻

 [所在地]大分県佐伯市蒲江畑野浦2682(地図

 [経緯度]北緯:32度50分49秒/東経:131度57分37秒


ハマゴウ【浜拷】

 [科名]クマツヅラ科

 [学名]Vitex rotundifolia L.f.


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-江武戸鼻の浜拷②


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-江武戸鼻の浜拷①   豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-江武戸鼻の浜拷③

どこかローズマリーの花にも似た青紫色の小さな花を咲かせ海辺を飾るハマゴウの花。花のあとの小さな丸い種がはじけて、また来年この花を咲かせるそうです。


ハマユウ【浜木綿】

 [科名]ヒガンバナ科

 [学名]Crinum asiaticum


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-江武戸鼻の浜木綿②   豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-江武戸鼻の浜木綿①


 ハマユウは、ヒガンバナにも似た白い花びらに赤紫のシベが花様を引き立てています。葉だけ見るとユリのようなイメージもあります。ほのかに甘い香りをたてていました。


 ハマゴウハマユウの花は、毎年7~9月頃にこの浜辺で咲く風物詩のひとつ。およそ2670年前に、この浜辺を訪れた神倭伊波禮毘古命【神武天皇】もこの浜辺でハマユウハマゴウの花をご覧になられたのでしょうか?少しだけ古代のロマンが広がります。江武戸神社については、後日掲載予定。

 二十四節気の「白露」。旧暦では8月4日もみじ

 

 暦のうえでは「仲秋」の頃ですが、日中は、まだまだ暑い日が続いていますねヒマワリ


 さて、今日の日付が変わらないうちに、今日の空を少しだけ…。

 

 ずっと眺めているには眩しすぎる太陽光の近くに薄く伸びた雲。そこに太陽光が反射して、赤や青・緑に彩る雲が…。「彩雲」とよばれる自然現象のひとつ。そんなに珍しくない現象ですが、秋の澄みきった空は、きれいな彩雲を見る絶好の季節…。名付けて「彩雲日和」(笑)


 彩雲の空はとても明るいので、カメラの設定を暗くして写せば色もハッキリきれいに写ることは承知のうえで、空の青さもできるだけ残して写したい…虹くもり


 そんなわがままで写した1枚です(笑)

 でも、彩雲の赤・青・緑の彩りがわかりますよね?

 

 太陽を屋根の陰に隠して、電線は気にしないことにして…。無理やり撮影カメラキラキラ


 意外にきれいに写すことができましたアップ


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-彩雲の空 (2010年9月11日)①

  上の写真を少し暗めに編集してみましたパソコン

 

 これ以上暗めにすると空の青さがなくなってしまうので、止めておきます。

 私のわがままを許してくださいあせる


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-彩雲の空 (2010年9月11日)②



 それにしても電線…。気にしないことにしても気になります汗

 

 彩雲は吉兆の証とかもいわれているようで…。

 

 みなさんにとって佳きことがたくさんでありますように虹くもり