福岡県行橋市の元永山【標高76.3mの丘陵】の中腹に社殿を並立させ、拝殿・廻廊などの境内を共有して鎮座する大祖大神社(たいそだいじんじゃ)今井津須佐神社(いまゐづすさじんじゃ)は、城郭を連想させる建築構造が魅力的な神社です。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社② 豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社①
大祖大神社・今井津須佐神社の境内入口
豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社③
大祖大神社・今井津須佐神社の拝殿

[所在地] 福岡県行橋市大字元永字元永山1299 (地図 )  
[経緯度] 北緯:33度43分11秒/東経:131度0分36秒
[御祭神]
 ○大祖大神社(たいそだいじんじゃ) 南の社殿
   ・天之御中主之大神(あめのみなかぬしのかみ)
   ・高御産靈大神(たかみむすひのおほかみ)
   ・神御産靈大神(かむみむすひのおほかみ)

 ○今井津須佐神社(いまゐづすさじんじゃ) 北の社殿
   ・建速須佐之男大神(たけはやすさのをのおほかみ)
   ・奇稲田比売大神(くしなだひめのおほかみ)
   ・八王子大神(はちおうじおほかみ/やつはしらのみこのおほかみ)


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑲

鳥居の扁額「大祖大神社」と「須佐神社」


 大祖大神社の草創は、「太古この地に天地(あめつち)の神霊(みたま)を祀り」、のちの天暦6年(952年)に、「妙見神(造化三神)とす」とあります。「造化三神」とは、『古事記 上卷并序』の序第一段に…。


夫、混元既凝、氣象未效。無名無爲。誰知其形。然乾坤初分、參神作造化之首。

【それ、混元(こんげん)(すで)に凝(こ)りて、氣象未(いまだ)(あらは)れず。名(な)もなく爲(わざ)もなし。誰(たれ)かその形を知らむ。然(しか)れども乾坤(けんこん)初めて分かれて、參神造化の首(はじめ)と作(な)り。】

~『古事記 上卷并序』 序第一段~


とあり、天之御中主之大神高御産靈大神神御産靈大神の3柱をいいます。天と地のはじめの、その天と地が定まった時、高天原に成り出た神々です。さらに、『古事記 上卷并序』の本文の冒頭に…。


天地初發之時、於高天原、成神名、天之御中主神。訓高下天云阿麻。下效此。次、高御産巣日神。次、神産巣日神。
【天地(あめつち)(はじ)めて發(おこ)りし時(とき)に、高天原(たかあまのはら)に、成(な)りませる神(かみ)の名(な)は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。次に高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。次に神産巣日神(かむむすひのかみ)。】
~『古事記 上卷并序』~


さらに『古語拾遺』に…。


天地割判之初、天中所生之神、名曰天御中主神。次、高皇産靈神。古語、多賀美武須比、是、皇親神神留技命。次、神産靈神。是、皇親神留彌命。
【天地(あめつち)割判(わかれひら)くる初(はじめ)に、天(あめ)の中(なか)に生(あ)れます神(かみ)、名(な)は天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と曰(まを)す。次、高皇産靈神(たかみむすひのかみ)古語(ふること)に、多賀美武須比(タカミムスヒ)、これ皇親神神留技命(すめむつかむろぎのみこと)。次、神産靈神(かむむすひのかみ)これ皇親神留彌命(すめむつかむろみのみこと)。
~『古語拾遺』~


と記される天之御中主神高御産靈大神神御産靈大神。天と地のはじまりに高天原に成った神で、太古の宇宙のはじまり、そして、動植物をはじめとするすべての生命、すべての物や事のはじまり、その神霊を産み育む「めぐみ」とその力の神を祀り、元永・長井地区の氏神として草祀より元永山に鎮座しています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津大祖大神社②  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津大祖大神社①
大祖大神社の扁額と拝殿


 須佐神社は、建長6年(1254年)、祓川河口の今井津に疫病が大流行した時、地頭職らが京都の八坂神社より祇園社を豊前国の今井津【現在の行橋市今津金屋】に勧請し祀ったところ霊験があらたかだったので、翌年からその御礼として神事を執り行ったのが、(現在は例年7月15日~8月3日まで執り行われる)「今井祇園」がはじまったと伝えられています。以来、無病息災・厄除開運を祈願する多くの参詣者が訪れ、この神社より豊前、豊後、筑前、筑後など、北部九州に多くの分社(約200座)が勧請されたとされる「北部九州の祇園信仰の中心神社」です。天正年中(1573年~1593年)に現在地に遷座されたそうです。 旧社号は今井津祇園社(いまゐぎおんしゃ)。今でも「須佐神社」、「今井祇園」、「今井の祇園さん」、「今井の祇園さま」とよばれ親しまれています。また、昌泰元年(898年)に須佐神社を草祀したとする説もあります。


 さて、八王子大神とは、建速須佐之男大神の御子で、①多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)【亦の名は、奧津嶋比賣命(おきつしまひめ)】、②市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)【亦の名は、狹依毘賣命(さよりびめのみこと)】、③多岐都比賣命(たきつひめのみこと)、④正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)、⑤天之菩卑能命(あめのほひのみこと)、⑥天津日子根命(あまつひこねのみこと)、⑦活津日子根命(いくつひこのみこと)、⑧熊野久須毘命(くまのくしびのみこと)です。『古事記』には次のように記されています。


故爾各中置天安河而、宇氣布時、天照大御神、先乞度建速須佐之男命所佩十拳劔、打折三段而、奴那登母母由良邇此八字以音、下效此。振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而自佐下六字以音、下效此。於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、多紀理毘賣命。此神名以音亦御名謂奧津嶋比賣命。次、市寸嶋比賣命。亦御名謂狹依毘賣命。次、多岐都比賣命。三柱、此神名以音。
速須佐之男命、乞度天照大御神所纏左御美豆良八尺勾璁之五百津之美須麻流珠而、奴那登母母由良爾、振滌天之眞名井而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命。亦乞度所纏右御美豆良之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天之菩卑能命。自菩下三字以音。亦乞度所纏御鬘之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、天津日子根命。又乞度所纏左御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、活津日子根命。亦乞度所纏右御手之珠而、佐賀美邇迦美而、於吹棄氣吹之狹霧所成神御名、熊野久須毘命并五柱、自久下三字以音
【故爾(かれしか)して各(おのもおのも)天安河(あめのやすかは)を中(なか)に置(お)きて、うけふ時(とき)、天照大御神(あまてらすおほみかみ)、先(ま)づ建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)の佩(は)かせる十拳劔(とつかつるぎ)を乞(こ)ひ度(わた)して、三段(みきだ)に打(う)ち折(お)りて、ぬなとももゆらに天之眞名井(あめのまなゐ)に振(ふ)り滌(すす)きて、さがみにかみて吹(ふ)き棄(う)つる氣吹之狹霧(いふきのさぎり)に成(な)りませる神(かみ)の御名(みな)は、多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)。亦(また)の御名(みな)は奧津嶋比賣命(おきつしまひめのみこと)と謂(い)ふ。次(つぎ)に、市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)。亦(また)の御名(みな)は狹依毘賣命(さよりびめのみこと)と謂(い)ふ。次に、多岐都比賣命(たきつひめのみこと)三柱。
速須佐之男命(はやすさのをのみこと)、天照大御神(あまてらすおほみかみ)の左(ひだり)の御(み)みづらに纏(ま)かせる八尺勾璁之五百津之美須麻流珠(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)を乞(こ)ひ度(わた)して、ぬなとももゆらに天之眞名井(あめのまなゐ)に振(ふ)り滌(すす)きて、さがみにかみて吹(ふ)き棄(う)つる氣吹之狹霧(いふきのさぎり)に成(な)りませる神(かみ)の御名(みな)は、正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)。また右の御みづらに纏(ま)かせる珠(たま)を乞(こ)ひ度(わた)して、さがみにかみて吹(ふ)き棄(う)つる氣吹之狹霧(いふきのさぎり)に成(な)りませる神(かみ)の御名(みな)は、天之菩卑能命(あめほひのみこと)。また纏(ま)かせる御鬘之珠(みかづらのたま)を乞(こ)ひ度(わた)して、さがみにかみて吹(ふ)き棄(う)つる氣吹之狹霧(いふきのさぎり)に成(な)りませる神(かみ)の御名(みな)は、天津日子根命(あまつひこねのみこと)。また左(ひだり)に纏(ま)かせる御手之珠(みてのたま)を乞(こ)ひ度(わた)して、さがみにかみて吹(ふ)き棄(う)つる氣吹之狹霧(いふきのさぎり)に成(な)りませる神(かみ)の御名(みな)は、活津日子根命(いくつひこねのみこと)。また右に纏(ま)かせる御手之珠(みてのたま)を乞(こ)ひ度(わた)して、さがみにかみて吹(ふ)き棄(う)つる氣吹之狹霧(いふきのさぎり)に成(な)りませる神(かみ)の御名(みな)は、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)并五柱。】

~『古事記 上卷并序』~


 さらに、八俣遠呂智(やまたのをろち)退治の後、建速須佐之男命が、櫛名田比賣命(くしなだひめのみこと)と御成婚されて、お生まれになった⑨八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)。神大市比賣命(かむおほいちひめのみこと)と御成婚されて、お生まれになった⑩大年神(おほとしのかみ)、⑪宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)も須佐之男命の御子です。


故其櫛名田比賣以、久美度邇起而、所生神名、謂八嶋士奴美神。自士下三字以音。下效此。又娶大山津見神之女、名神大市比賣、生子、大年神、次、宇迦之御魂神。二柱、宇迦二字以音。

【かれ、その櫛名田比賣(くしなだひめ)を以(もち)て、くみどに起(おこ)して、生(う)みたまへる神(かみ)の名(な)は、八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)と謂(い)ふ。また大山津見神(おほやまつみのかみ)の女(むすめ)、名(な)は神大市比賣(かむおほいちひめ)を娶(めと)りて生(う)みたまへる子(こ)、大年神(おほとしのかみ)、次(つぎ)に宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)二柱。


 少し余談ですが、この後、八嶋士奴美神(やしまじぬみのかみ)が木花知流比賣命(このはなのちるひめのみこと)と御成婚されて、布波能母遲久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)。布波能母遲久奴須奴神が、日河比賣命(ひかはひめのみこと)と御成婚されて、深淵之水夜禮花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)。深淵之水夜禮花神が、天之都度閇知泥神(あめのつどへちねのかみ)と御成婚されて、淤美豆奴神(おみづぬのかみ)。淤美豆奴神が、布帝耳神(ふてみみのみこと)と御成婚されて天之冬衣神(あめのふゆきぬのみこと)。天之冬衣神が、刺國若比賣命(さしくにわかひめのみこと)と御成婚されて、大穴牟遲神(おほあなむぢのかみ)【のちの大國主神(おほくにのかみ)】と子孫の系譜が続きます。これを「須佐之男五代」といいます。


 話を元に戻します。またさらに、大穴牟遲神が須佐能男命(すさのをのみこと)いる「根の堅州國(ねのかたすくに)」を訪れた時には、須佐能男命の娘として⑫須勢理毘賣命(すせりびめのみこと)の名もでてきます。この御子をあわせると12柱になりますが、「八」は神聖な数で、「多数」の意味をあらわす数で、神話の中でもしばしば用いられています。つまり、「八王子大神」とは「(建速須佐之男命の)多数の御子の大神」という意味です。これが、神仏混淆の「牛頭天王(ごずてんのう)」の「八王子大神」ならば、生廣(しょうこう)、魔王(まおう)、倶摩羅(くまら)、達儞迦(たつにか)、蘭子(らんし)、德達(とくたつ)、神形(じんぎょう)、三頭(さんず)の八王子をさします。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑤  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社④
今井津須佐神社の扁額と拝殿

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑬

大祖大神社・今井津須佐神社の境内図

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑥  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑨
最初の鳥居を抜け境内に入ると、2番めの鳥居の先に西から東に続く階段が見えます。
階段を上りきると城郭のような石垣の上に築かれた廻廊が…。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑧  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑦
石垣と廻廊を右手に、写真の鳥居を後手に北へ進みます。

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑩  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑫
再び西から東へ。石垣と廻廊を抜ける階段を上ります。

拝殿には松・竹・梅と龍・雲・神紋の桜などの彫刻が施されています。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑭
拝殿の彫刻

拝殿中央の彫刻。小笠原家の家紋「三階菱」を松が囲み、その下に龍の彫刻があります。
豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑰  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑭

豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑮  豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社⑯
梅【左側】と竹【右側】の彫刻。梅と竹の下にも龍の彫刻があります。

 この神社を訪れた日、境内には桃色の梅もきれいに咲いていました。白い梅の花もいいですが、桃色の梅の花もまたいいですね。


豊の散歩道 ~豊国を歩く~ Toyo no Sanpo-michi-今井津須佐神社の梅
境内の梅の花


 須佐神社の神紋は「五瓜に唐花」、大祖大神社の神紋は「桜」です。境内には桜の木も植えられています。もう少し暖かくなれば、境内も桜の花で華やかになります。